第三章 予選
誰かが呼んでいた。とても心地よい声。頭を撫でてくる温かさ。きっと、母親がいたならこんな風だ。アルタは思った。艶やかな髪の一房が自分の頬を撫でる。くすぐったさに目を細めれば、柔らかい笑みが視界も優しく包む。誰なのかは分からない。でもこれがしっくりくるだろうと、アルタは穏やかな声で、母さん。と呼んだ。
「ご主人!」
アルタは腹の重みに唸り、デジャヴを感じながら圧し掛かるリエイを押して起き上がった。清潔な室内は、滅多にお世話になったことがない保健室の個室。見渡すと薬品の臭いが鼻を突きぬけ、さきほどのこともまた明確な夢であったことを悟った。ふと視界を移せば、いつから居たのかも分からないが舟をこいでいたルーペルトが居る。ハッと目を覚ましてアルタを見つめた。
「マクベイン!」
ルーペルトは思わずアルタの肩を掴んで、アルタが無事であるかを確認する。力の強さに痛みを訴えれば、ルーペルトはすぐに手を離した。
「す、すまない…。君が気絶した為、私も動揺してしまった…酷なことを言った…申し訳なかった」
「いえ…」
少し静寂があって、アルタは新しい包帯を巻かれた右手を見遣った。一体何が起こったのか分からない。ウルリアには自分に対する不満があったのだろうか。一度に色んなことがあったおかげか、もうアルタの頭は冷静さを取り戻してこのことを整理しようとしていた。
ルーペルトはアルタに釣られて右手を見つめた。
「少し消えかかっていたが…紋章の端にイニシャルがあったな…知っていたか?」
アルタはややきまりが悪そうにリエイを一瞥し、頷く。リエイは肩をすくめたようにため息を漏らしてうずくまった。
「これは…呪いとは関連していないみたいだが、強い力を感じた…用心しなさい」
「あの、俺、どうなっちゃうんですか?」
ルーペルトは途端目を逸らして今度はこちらがきまりが悪いと言わんばかりに眉を下げる。
「…死に…到るだろうな」
予測していた答えと合致し、アルタは深くため息を吐いた。これでは誰に狙われているのか既にどうでもいいとすら思える。どの道にも色濃く死が待っているという運命に、アルタはうんざりとした。命がいくつあっても足りないというのは正にこの事に違いない。
「用心する間もないですね。」
「しかし希望がないというわけでもない。呪いは打ち消す方法があるんだ」
「そうなんですか?」
「ここは魔術学園だからな。エキスパートが揃っている。呪術に、コルネリアという教師がいるんだが…彼女は少し変わっていてな…」
ルーペルトはそのコルネリアという人物を思い浮かべているのか、苦笑してみせる。ますますどんな女性なのかきになる反応だったが、彼は彼女の人柄については一切触れなかった。
「呪術の授業は君の専攻ではないから、会う機会もないだろう。元々彼女は雇われでね、月に数度しか訪れない」
「えっ、じゃあ聞けないじゃないですか!」
「しかし、今度の実施試験には、彼女も出るそうだ。安心していい。腕は確かだからな」
ルーペルトは立ち上がり、個室に備え付けられている電話の側へ寄ってメモ用紙を取り出した。そこに自分のサインと、アルクが彼女の教室に立ち入れるように許可するような文を一言添えてアルタに渡した。
「明日学園に戻るそうだ。訪れなさい。場所は第五魔術訓練ホールから階段を上がった先だ」
「分かりました」
アルタはベッドから起き上がってリエイを見下ろした。気絶した際、ルーペルトがつけたのだろう首輪が彼の首にしっかり巻かれている。巻いてからは見えないのか、ルーペルトは一度も床を見下ろさなかった。
アルタはルーペルトに礼を述べて、個室を出る。
誰もいなくなった個室で、ルーペルトは深く項垂れ、自分の非力さを恨んだ。そして教え子であるウルリアが咎堕ちしてしまったのを悔やんだ。
「咎堕ちするほど…一体何がお前を…」
あの右手の黒々とした様子は、リエイと会ったとき異常の戦慄が背中に走った。憎悪で包まれたあの茨たちに刻まれた文字を読み取っていたルーペルトは、本人に告げることが出来ず、
たった一人になってようやくかみ締めるようにつぶやいた。
「神を許さない…暁の刃に復讐を……。暁の…」
思い出したのは燃えるような真紅の毛。全てが焼け付くような紅蓮の姿。
ルーペルトは少し考え込んで眉根を寄せた。
「ベルフェゴールの、狗…」