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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

桃太郎が帰ってこない

作者: 銀城
掲載日:2026/03/09


 桃太郎が鬼ヶ島へ渡ってから、季節がひとつ巡った。


 川沿いのあしは伸び、刈られ、また短くなった。

 田は濁り、水を張り、稲を実らせ、いまは冷えた土を見せている。

 村は前と同じように朝になれば煙を上げ、日が暮れれば戸を閉めたが、その家だけは、ときどき時の流れから取り残されたような顔をした。


 風が戸板を鳴らすたび、爺さまは顔を上げた。

 道に影が差すたび、婆さまは針仕事の手を止めた。

 だが、やって来るのは隣村の子や、用足しの若い衆や、借りていたくわを返しに来る者ばかりだった。


 桃から生まれた子、などという話は、村ではもう驚きとしては残っていなかった。


 あの子は強い。

 いずれ戻る。


 そういう形で、ずっと片づけられていた。


 村人たちは、はじめのうちは気休めめいたことを言った。

 海が荒れているのだとか、鬼の財を運んでいるのだとか、あれだけの男なら少し遅れたところで不思議はないとか。

 だが、そういう言葉は口の中で乾きやすい。

 秋が深くなる頃には、誰も家の前でその名を出さなくなっていた。


 古い村には、口にしないことで形を保つものがある。

 帰らぬ者の話は、その一つだった。


 ある朝、爺さまが土間で山刀さんとうを研ぎ始めた。


 もともと細い男ではない。

 若い頃に山へ入り、木を伐り、石を動かし、水を運んできた肩と背が、歳を食ってなお崩れずに残っていた。

 背は少し丸くなったが、腕には乾いたつるのような筋が浮いている。

 力が若いまま残っているのではなく、長く使い込まれた道具みたいに、必要なところだけが硬くなっていた。


 婆さまは止めなかった。


 止めてもやめないと知っていたし、それ以前に、帰らぬ者を迎えに行くのに、行くなとは言えない場面がある。

 夫婦というのは、そういう諦めと見分けの上に長く続くものでもある。


 ただ、団子を包んだ布を渡し、

 「あまり気張りすぎるでないよ」

 とだけ言った。


 爺さまは鼻を鳴らし、重いかいを肩にかけた。

 舟を操るためのものだが、木の芯が詰まっていて、ひとを殴れば骨くらいは折れる重さがある。

 その背を見送る婆さまの顔には、泣きそうな気配も、達観した気配もなかった。

 朝の仕事をひとつ送り出す時と同じように、ただ少し目を細めただけだった。




 *




 鬼ヶ島は、遠目からでもわかった。


 海の向こうに黒い岩山が突き出し、崖のあちこちに火が灯っている。

 近づくにつれ、潮の匂いに混じって、獣の脂じみた臭いが強くなった。


 島そのものが何かを食い続けているような、湿って重い気配があった。


 門前に立つ鬼は、人の倍どころではなかった。

 三メートルを超す体が、岩壁の一部のように門を塞いでいる。

 肌はすすけた赤や青黒い色。

 肩から腕にかけて盛り上がる筋肉は、鍛えたというより最初からそういう形に生まれついたものに見えた。

 角は太く、鼻息は白く、目だけが妙に人間じみていた。

 その目が人を見下ろしているのが、かえっていやな感じを残した。


 爺さまは躊躇なく、音もなく飛びかかった。


 一撃目は膝裏を打った。

 若木なら根元から折るほどのかいが、鈍い音を立てる。

 鬼の脚がわずかに沈み、巨体が揺れた。

 そこへ返す手ですねを払い、低く潜って山刀を足首の腱へ叩き込む。

 断ち切るには至らなくとも、刃は皮膚を裂き、黒い血を飛ばした。


 鬼が唸り、棍棒が唸る。

 爺さまは転がるようにその下を抜け、背へ回り、かいが折れるまで振り抜いた。


 太い木が鬼の腰で砕け、鬼はようやく片膝をついた。

 巨体がわずかに傾くだけで、石畳が軋む。


 人間なら、それで倒れていた。


 だが鬼は、人間ではなかった。


 次の瞬きには、爺さまの体が門前の石を転がっていた。

 腹に入った拳が息を抜き、背を打った地面が骨を鳴らす。


 「――くっ」


 櫂は折れ、山刀は遠くへ飛び、視界の端で鬼の足がゆっくり近づいてくる。


 爺さまは立とうとした。

 腕が震え、脚が言うことをきかなかった。

 それでも前へ出ようとしたのは、あの子を迎えに来たのだという一点が、まだ体のどこかで折れていなかったからだった。


 鬼は笑った。

 ひとの笑い声に似ているのに、山鳴りみたいな響きがあった。


 その日のうちに殺されなかったのは、慈悲ではない。

 骨ばった老人は役に立たないが、筋の残る男なら石くらいは運べる。

 そういう見立てが働いただけだった。


 島の奥には、鉄格子も鎖も思ったほど多くなかった。

 逃げる者が少ないのだと、すぐにわかった。

 逃げる前に、たいていは折れるのだろう。


 洞のような作業場で、爺さまは桃太郎を見つけた。


 最初はわからなかった。


 裸足の足首に鉄をつけられ、岩塩の袋を運ぶ若者など、どこにでもいる。

 だが、袋を担ぎ上げる肩の形と、血の気を失っても消えない頬骨の線に、囲炉裏端いろりばたで見てきた顔の名残があった。


 桃太郎は生きていた。


 生きてはいたが、帰ってくる者の顔ではなかった。

 皮膚は裂け、縄擦れが腕に食い込み、目の奥は長く夜を見続けた者の色になっていた。

 爺さまを見たとき、その目に一瞬だけ灯が差し、すぐに消えた。


 「⋯⋯来てしもうたか」


 ひどく乾いた声だった。

 怒っているのでも、泣いているのでもない。

 そう言うほかないだけの声だった。


 犬も、猿も、雉も見当たらなかった。

 羽根ひとつ、毛一本、見つからないことが、かえってよくない想像を呼ぶ。

 煮炊き場の大鍋から上がる湯気は、海霧かいむより重く見えた。


 その夜、爺さまは鎖を引きずったまま桃太郎のそばへにじり寄った。


 親子ではない。

 血もつながっていない。


 だが、長い時間、同じ屋根の下で火を囲んできたものには、血筋とは別の重さが生まれる。

 土間の匂い、飯を食う音、寝息の間、冬の朝の咳。

 その積み重ねが、いま目の前の傷だらけの若者を、ただの若者としては見せなかった。


 「帰るぞ」


 桃太郎は笑わなかった。

 ほんの少し目を伏せた。

 その小さな動きが返事のように見えた。


 それから爺さまは動いた。


 鎖の留め具を石で叩き、作業場の隅に落ちていたくさびを拾い、夜ごと少しずつ金具を歪めた。


 火花を出せば見つかる。

 音を立てれば終わる。


 だから手つきはひどく遅く、だが迷いが少なかった。

 年を取った手は若いようには動かないかわりに、余計な力がない。


 二晩かけて金具が緩み、三晩目に桃太郎の足枷の片側が外れた。

 四晩目には、見張りの癖を覚えた。


 背の高い青鬼は酒に弱く、夜半を過ぎると鼻息が深くなる。

 片目の赤鬼は巡回のたび海側を長く見る。

 その隙に爺さまは運搬用の縄を盗んだ。


 五晩目には塩俵を崩し、道へ撒いた。


 鬼の足は重い。

 乾いた床ならただ響くだけだが、塩の粒は裏で細かく鳴る。

 その音を頼りに、通路の枝分かれや袋小路の位置を覚えた。


 そうして、逃げる夜を決めた。


 潮が満ち、風が陸へ吹く夜だった。

 匂いも音も海へ逃げにくい。

 見つかれば、それで終わる。


 爺さまは桃太郎の鎖を外し、自分の肩を差し入れた。


 「立てるか」


 桃太郎は黙って立とうとし、膝が折れた。

 爺さまは受け止め、歯を食いしばって体を引き上げた。


 若い男は、傷と疲れと痩せだけになっていても重い。

 だが爺さまは、その重さを引きずるのではなく歩かせるように運んだ。


 一歩ごとに桃太郎の足を前へ出させ、自分もその分だけ前へ出る。

 遅いが、確実な進み方だった。


 通路の角で、見張りに見つかった。


 小柄な鬼だったが、それでも人の二倍はある。

 棍棒が上がるより早く、爺さまは盗んでいた縄を足へ絡めた。

 体重を預け、さらに引く。

 鬼の足がもつれ、上体が揺れる。

 そこへ桃太郎が壁に手をついたまま、残った力を寄せて頭突きを入れた。


 鈍い音。


 鬼はよろめいたが、倒れはしない。

 それでも、その一瞬でふたりは角を曲がった。


 桃太郎の息は荒く、肩が大きく上下していた。

 裂けていた傷がまた開き、歩くたび足元へ血が落ちる。

 それでも、さっきより足が出ていた。

 体のどこかが、自分がどう動くべきだったかを思い出し始めているようだった。


 「――まだ行ける」


 桃太郎の言葉に爺さまはうなずいた。

 言葉にする余裕はなかった。


 崖下の舟着き場まで出られれば、小舟がある。

 昼の荷運びの時に見ていた。

 櫂も一本、壁に立てかけてあった。

 そこまで行ければ、あとは海だ。


 だが途中の作業場で、別の鬼どもに見つかった。


 今度は二体だった。

 灯の下で影が膨らみ、通路が急に行き止まりに変わる。

 爺さまは桃太郎を後ろへ押し、床に転がっていた鉄の楔を拾った。

 みじめな武器だったが、素手よりはましだった。


 先頭の鬼が笑う。


 爺さまは、その口に飛び込んだ。

 喉ではなく目を狙う。

 楔は目の縁へ刺さり、鬼が吼える。


 その脇をすり抜けて腹へ体当たりを入れ、足を払う。

 倒しはしない。

 ただ、詰まらせる。

 狭い場所では、それだけでも一瞬が稼げる。


 横から来た棍棒を避けきれず、爺さまの肩が潰れたように鳴った。

 それでも離れず、一体目の足にしがみつき、全身を使って転がした。

 巨体が壁にぶつかり、通路が揺れる。


 桃太郎が、その隙に動いた。

 

 二体目は爺さまに気を取られている。


 最初の一歩はよろけた。

 二歩目で踏みとどまり、三歩目で鬼の脇へ入る。

 かつて鬼退治へ向かった若者の動きには、ほど遠い。

 だが、消えかけた火に風が入るように、どこかが少しずつ戻り始めていた。


 落ちていた木槌きづちを拾い、鬼の膝へ打ちつける。

 もう一度。

 さらにもう一度。

 腕が震え、息が切れ、視界が揺れてもやめなかった。


 鬼の膝が折れ、巨体が沈む。


 桃太郎は肩で息をしながら、それでも爺さまの前へ出た。

 爺さまはその背を見て、少しだけ笑いそうになった。

 まだ終わっていない背中だった。


 「――行くぞ」


 今度は爺さまの言葉に桃太郎がうなずいた。


 二人は走った。

 走るというより、崩れかけた体を前へ投げ続けた。


 崖へ出た途端、夜風が顔を打つ。

 下には黒い海。

 舟着き場までは、岩肌に刻まれた階段を降りるしかない。


 階段を守るように、門番の大鬼がいた。


 最初に爺さまを叩き伏せたのと同じ鬼だった。

 三メートルを超す体が、月明かりの中でひときわ大きく見える。

 膝裏には、爺さまがつけた古い傷がまだ残っていた。

 そのせいか、鬼の顔つきには鈍い苛立ちがあった。


 棍棒は岩に立てかけられている。

 素手のままで十分だと見ているらしかった。


 爺さまは山刀を拾った。

 門前で飛ばされたものを、誰かが作業道具と一緒に持ち帰っていたのだろう。

 刃こぼれはしていたが、まだ折れてはいない。


 桃太郎も階段脇の杭を引き抜いた。

 木の棒にすぎない。

 それでも、何も持たないよりはましだった。


 鬼が来る。


 爺さまは真正面から行かなかった。

 左へ回り、傷のある脚を狙う。

 鬼がそれを読んで足を上げた瞬間、さらに低く潜って踏み込み、山刀をふくらはぎへ深く差しこんだ。


 黒い血が吹く。


 鬼が吼え、腕を振るう。

 爺さまの体が弾き飛ばされ、岩壁へ叩きつけられた。

 息が止まり、視界が白くなる。

 それでも頑張って足首にしがみついた。


 「っ――今だ!」


 掠れた声が出た。


 桃太郎が動く。


 杭を両手で握り、渾身で鬼の喉へ突き込んだ。

 杭は皮を浅く割っただけで止まる。


 ならばと、さらに押す。

 体全体で押す。

 鬼の顔が歪み、桃太郎の腕が震え、傷口から血が落ちる。


 鬼の手が桃太郎の頭をつかんだ。


 そのまま岩へ叩きつけられ、若い体が地に転がる。

 杭も飛ぶ。

 桃太郎はすぐには起き上がれなかった。


 爺さまはまだ足にぶら下がっていた。

 蹴られ、踏まれ、指が剥がれそうになっても離さなかった。

 鬼が苛立ち、棍棒へ手を伸ばす。


 それを見て、桃太郎がまた立った。


 ふらつきながらだった。

 膝は笑い、片目は腫れ、口の端から血が垂れていた。

 それでも立った。

 何も武器がないまま、鬼へ向かって走った。


 そこにあったのは、昔話の中で飾られるような勇ましさではなかった。

 傷だらけで、息も絶え絶えで、今にも崩れそうな若者が、それでも足だけは止めずに前へ出る。

 見苦しいほどの執拗さだった。


 鬼の腹へぶつかり、腰に腕を回し、押す。

 びくともしない。

 それでも押す。

 爺さまも下から引く。


 鬼は二人まとめて振り払おうとし、棍棒をつかんだ。


 その影が上がる。


 もうだめだとわかる影だった。


 爺さまの指は裂け、桃太郎の膝は今にも折れそうで、棍棒が落ちれば、どちらが先に潰れるかの違いしか残らない。

 海鳴りは遠く、夜風は冷たく、月だけが妙に澄んでいた。


 「桃太郎や⋯⋯すまない⋯⋯」


 掠れた声が風に乗る。


 諦めたくはないが、力が抜けていく。


 そのときだった。


 何かが、夜気を裂いた。


 音が届くより先に、風だけが来た。

 遠くから一直線に飛んできた影が、月明かりの下をひとすじ黒く走る。


 瞬間、乾いた音がした。


 骨の折れる音にも似ていたが、もっと芯のある、よく締まった薪を真二つにしたような音だった。


 棍棒を振り上げた鬼の首が、真横へ折れた。


 巨体が横殴りに弾き飛ばされる。

 鬼の胴が宙で半ばねじれ、棍棒が手を離れ、岩肌を削りながら崖際まで吹き飛んだ。


 爺さまと桃太郎も、すぐそばにいた分、その余波をまともに受けた。

 二人まとめて横へ持っていかれる。

 だが鬼の巨体そのものが盾になったおかげで、押し潰されるまではいかない。

 爺さまは地を滑り、桃太郎はその肩口にぶつかって転がり、荒い息のまま岩肌へ叩きつけられた。


 遅れて、鬼の体が地を打つ。


 そこでようやく、何が飛んできたのかが見えた。


 鬼の首筋へ深くめり込んでいた小さな影が、ひらりと地へ降りる。


 腰の曲がった小柄な婆さまだった。


 裾をたくし上げ、白髪を後ろで乱暴に結い、いつもの野良着のまま、背だけが昔からの癖のように丸い。


 だが、その曲がり方に弱さはなかった。


 手は後ろで軽く組まれている。

 まるで、飛んできたのではなく、最初からそこに立っていたみたいな顔をしている。


 畑の畦を見回りに来た老人の姿にしか見えないのに、首の折れた鬼と、吹き飛ばされた巨体だけが、その見立てを壊していた。


 「やっぱり男どもには任せられないねえ」


 息も乱れていなかった。


 見張りの鬼たちが唸り声を上げる。

 三メートルの影がいくつも動き、崖の上の光が消える。

 牙がむき出しになり、棍棒が唸り、地面が震える。


 その中心へ、婆さまは杖もつかずに歩いていった。

 腰は曲がったまま、手は後ろで組んだまま。


 まるで夕方の庭を見に出たみたいな足取りだった。


 最初の鬼が棍棒を振り下ろす。

 婆さまは身をほんの少し傾けただけで、その風圧の下から抜けた。

 遅れたように見えて、もうそこにはいない。

 次の瞬間には鬼の懐へ入り込んでいる。


 細い脚だけが、するりと鞭のようにしなりながら持ち上がる。


 膝に一撃が入った。


 固い木を静かに割るような、乾いた短い音だった。

 鬼の膝が逆向きに折れ、巨体が崩れる。

 婆さまはその沈む頭を、後ろ手のまま見下ろし、軸足をわずかにずらして、もう片方の足を落とした。

 踵がこめかみに入る。

 岩の欠けるような音がして、鬼の頭が地へめり込んだ。


 二体目が横から腕を伸ばす。

 婆さまは振り向きもしない。

 組んだ手をほどかないまま、差し出された前腕へ片足をちょんと乗せ、そのまま階段を上がるみたいに踏み、鬼の肩へ移る。

 曲がった腰が、そのときだけわずかにほどけた。


 首筋へ、膝が入る。


 大仰おおぎょうな蹴りではない。

 短く、狭く、必要な分だけ動いた脚が、必要なところだけを打つ。

 鬼の目がひとつ遅れて見開かれ、巨体が横倒しになった。

 その倒れる先を見越していたように、婆さまはすでに地へ降りている。


 三体目は用心した。

 唸りながら間合いを取る。

 大きすぎる相手が、はじめて小さなものを恐れているとわかる動きだった。


 婆さまは追わない。

 背を丸めたまま、手を後ろに組み、ただそこに立っていた。

 風に白髪が揺れ、裾がかすかに鳴る。

 攻めるというより、相手が崩れる場所を待っているように見えた。


 鬼が耐えきれず踏み込んだ。


 棍棒が横薙ぎに走る。

 婆さまはその下をくぐらない。

 上を越えない。

 ただ半歩ずれる。

 それだけで巨木みたいな一撃が空を切り、鬼の胴がわずかに流れる。


 そこへ、足が入った。


 脇腹。

 肋の隙。

 喉。


 どれも小さな動きだった。

 老人が裾を払うような、ほとんど無造作に見える脚の運びだったが、当たるたび鬼の巨体が動く。

 動く角度が次第に大きく積み重なり、最後の一撃で首が不自然に傾いた。

 鬼は自分が倒れると理解するより早く、地面へ伏していた。


 婆さまの蹴りは、その余白へ針を差し込むみたいに正確だった。


 爺さまは地面に手をついたまま見ていた。

 自分も強いと思ってきた。

 桃太郎も、たしかに強かった。

 目の前の婆さまは、そのどちらとも違うところで出来上がっていた。


 力任せではない。

 速さだけでもない。

 相手がどの角度で崩れるか、どこへ重さが逃げるか、それを最初から知っているような蹴りだった。


 しかも本人は、畑仕事の途中みたいに腰を曲げ、手を後ろに組んだままでいる。

 その姿が、かえって底の知れなさを深くした。


 鬼の一体が後ずさる。


 その顔に、爺さまは初めて恐れを見る。

 喰う側のものが見せる、古い記憶に触れた獣の顔だった。


 「うちの子らを返してもらうよ」


 それからは早かった。


 崖上の見張りが落ち、門番が沈み、作業場の鎖が砕かれていく。

 桃太郎はしばらく立てずにいたが、爺さまに肩を貸され、やがて自分の足で歩いた。


 洞の奥では、犬が片耳を裂かれながらも生きていた。

 猿は痩せて目だけぎらつかせ、雉は羽を何枚も失っていたが、籠の中でまだ喉を鳴らした。

 食われたのではなかった。

 食うには惜しい程度に、使われていただけだった。


 「さぁ、帰ろうかね」


 島を出る小舟は、帰りにはひどく狭かった。


 爺さまが櫂を持ち、桃太郎が水をかき出し、犬はぐったり伏せ、猿は荷を抱え、雉は舟べりで海を見ていた。

 婆さまは船首に座っていた。


 夕暮れが海を赤く染め、鬼ヶ島はその向こうで黒く沈んでいく。


 桃太郎は一度だけ、婆さまの横顔を見た。

 何か言いたそうにして、結局言わなかった。

 婆さまも何も語らず、吹く風に乱れた髪を耳へかけただけだった。


 そのとき、沈む陽の縁で、白髪の根元に小さな角が二つ、たしかに見えた。


 爺さまは見て、見なかったふりをした。

 桃太郎も、おそらく見た。

 犬も猿も雉も、たぶん気づいていた。


 それでも誰も何も言わなかった。


 村へ帰れば、桃を割った日の話はまた語られるだろう。

 鬼ヶ島へ渡った若者のことも、迎えに行った爺さまのことも、おそらく話になる。

 だが、最後に誰が鬼を倒したのかは、あまり大きな声では語られない。


 そういうことは、世の中にときどきある。


 舟は小さく、海は広かった。

 その狭い舟の中で、ようやく帰る者たちの息だけが、少しずつ同じ速さに揃っていった。




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