8題目.足跡
着物の前を直しつつ、沙那江は離れの風呂に向かった。そのまま脱衣場へ……と思われたが、そこへは入らず、沙那江は下駄を突っ掛けた足をふと止める。
首をちょいと傾げて立つ白い着物姿の女。その視線の先には、乾きかけたぬかるみ、下生えの草が泥に塗れた山の地面、そこについたへこみが。下駄によるものではない、平たい足跡だった。視線で辿り追うと、それが庵から遠ざかっていったことが容易に知れる。
沙那江は艶然と微笑んだ。焦りなど微塵も感じられないその笑みは、足跡を偶然見つけたというよりも確かめに来たのだということを、ありありと示していた。
「随分とせっかちですのね、花代さんは。まだ、新しいお着物を繕って差し上げている最中だというのに」
さく、さく、と軽い音をたてて、白い着物姿の女は山道を行く。夜の闇などものともしない。足跡を辿って辿って。そして沙那江はその先に、崖の際に仰向けに転がる女の姿を見留めた。
その元に歩み寄り、目の閉じられた顔を見やる。屈んで顔の前に手をやれば、空気の流れをそこに感じる。すぅ、すぅ、と聞こえてくる小さな音。かすかに上下する胸元。
沙那江はそのまま視線を脇にやった。すぐ傍に転がるは、空の小さなガラス瓶。
「ここに辿り着くような人は、みんなそうだから……」
沙那江は静かに呟く。そして着物の懐に手を差し込むと懐紙を取り出した。中に何か包まれている。沙那江はそれを崖下、ザァーと音の轟いてくる川の方に投げ捨てた。懐紙の中から白い粒が飛び出したのが一瞬見えたかと思った矢先、闇の中に飲まれ消えていく。
「花代さんが飲まれた分で適量ですから。朝には気持ち良く目覚められましょう。どうぞ、ごゆっくり……」
そして沙那江は眠る花代を抱きかかえると、庵の方へと静かに戻っていった。