Chapter.1-5:苦戦
昼休み。時計の針が12時を回り、僕は弁当を片手に部室へと戻ってきた。
午前の授業中も、心ここにあらずだった。寄り付きで買った銘柄がどうなっているかが気になり、黒板の文字がほとんど頭に入ってこなかった。
部室のドアを開けると、すでに天吹さんがノートパソコンの前でチャートを確認していた。
「竹田さん、戻ってきたんですね……」
その表情には、少し疲れと焦りがにじんでいた。
「どう? 午前の値動き……」
「正直、かなりきついです。信越化学、前場で152円...3%ほど下がりました。トヨタは若干のプラスだったのですが両社の株価を合わせても10600円のマイナスです!」
「そ、そっか」
モニターには、真っ赤な値を下げたチャート。信越化学は寄り付き直後からじりじりと値を下げ、トヨタは寄り付き直後に反発したものの、その後は伸び悩む形となった。午前中の地合いが悪く、全面的な下げムードが漂っていた。
「逆に、校長先生の保有株……金融系は値動きが小さく、それどころか大和や岡三証券は上がってて利益にしたら5300円ほど……今のところ、差をつけられてます」
「約16000円、1.6%の差か...。」
1.6%の差というものがどれほどの差なのか、投資初心者の僕にとってはあまりピンとこないものであったが、天吹さんの様子を見るによくない状況であることはすぐに理解できた。
「とりあえず、いい情報が無いか探そうか」
「ええ...そうですね。」
空気が重い。
3時間後には部活動が無くなってしまうかもしれない。
それが現実味を帯びた瞬間、部室の空気が一段と重くなった。
「……とりあえず、午後で動きそうな銘柄を探しましょう。可能性があるなら、どこにでも手を伸ばしたいです。」
天吹さんが、自分に言い聞かせるように言った。僕も頷き、ノートパソコンを開いて気配値と値上がりランキングに目を通す。
「私は今朝の経済ニュースから当たり直してみます。関税とか、政策発表とか……何か手がかりがあるかも。」
「じゃあ僕はチャートを見てみるよ。値上がり率の上位に、面白い動きのやつがあるかも。」
ふたりで手分けし、わずかな糸口を探し始めた。
だが、時間だけが過ぎていく。
チャートは無作為な動きを演じ、値動きも精彩を欠いていた。値上がりランキングも仕手株(意図的に株価を操作して短期間で急騰・急落させることを目的に売買する銘柄)のような動きばかりで、読みが立たない。
「……だめだ、どこも決め手に欠ける……」
僕は思わずつぶやいていた。何度スクロールしても、響くものがない。
たまに仕手株でない動きをする銘柄を見つけるも他との再現性が感じられない。
天吹さんも、こめかみに手を当てたまま、難しい顔をしている。
「情報はある。ヒントもある。でも、どれも“確信”に届かない……まるでパズルの最後のピースだけが、見つからないみたいで……」
沈黙が、圧力のように部室を支配する。
“あと3時間”。
たったそれだけで、すべてが失われるかもしれない。
ふと、手元のチャートに視線を戻したときだった。
「……ん?」
目に留まったのは、ひとつのテクニカル指標。
3本の移動平均線が、下から上へ突き抜ける株価の動きと交差していた。
「これ……?」
短期の移動平均線が、長期の移動平均線を下から上に突き抜けようとしている。
「この銘柄……もしかして、他の銘柄でも同じ動きがあるのでは?」
そのとき、部室の扉が静かに開いた。
「失礼するよ」
あの低く落ち着いた声。スーツ姿の校長先生が、ゆっくりと姿を現した。
「昼休みも返上で、熱心だな」
「……ええ、まあ」
思わず口調が硬くなる。
「その様子だと、途中経過はあまりよくないのかな。」
校長先生は、部室のホワイトボードに目をやりながら、ふっと笑う。
「今日、君との投資バトルは短期投資だ。短期投資は知識や努力だけではどうにもならないことが多い。超ハイリスクの投資……恐ろしいものだよ。経験の浅い投資家ほど短期投資をするが、その多くは結果が伴わない。だからこそ君たちは利益を出す努力ではなく、リスクを減らす努力をするべきだった。」
言葉こそ柔らかいが、その中身は明確な圧力だった。
「ま、お互い最後まで全力でやろうじゃないか。……結果は、どうあれね」
そう言い残して、校長先生は部室を後にした。
「……わざわざ、プレッシャーをかけに来たようなもんですね」
天吹さんが小さく息をついた。
僕も、掌にじっとりと汗を感じていた。だが、不思議と恐怖ではなかった。
――むしろ、静かな闘志だった。
入れ替わるように、今度は阿部先生が部室に入ってきた。
「遅れてごめんなさい……ふたりとも、調子はどうかしら?」
「いえ、午前の成果はイマイチで...今、竹田さんと午後の対応を考えているところです。」
「そう……焦らず、でも確実に行きましょう。お昼の間にまだ時間はあるから...。」
阿部先生はそう言って、ふたりの背中をそっと押すように頷いてくれる。
僕はうなずきながら、再び目の前のチャートに集中する。
さっき見かけた、あの“移動平均線”の交差。それが気になっていた。
「……先生、ちょっと見てください」
僕はある銘柄のチャートをホワイトボードに映し出した。
「これ、3本の移動平均線がほぼ同じ位置で重なっていて、しかも直近で短期線が長期線を上抜けようとしてるんです。それから、他にも似たような動きをしてる銘柄があって……何か共通する法則ってあるんでしょうか?」
「これは...ゴールデンクロス!」
天吹さんが声を上げた。阿部先生もそのチャートをじっと見つめ、頷く。
「これは確かに……直近で大きく下げたあと、横ばいが続いていて、今まさに転換点が来ようとしている。」
「しかも、これと似たチャートパターンが他にもあって……たとえばこの銘柄も、5分足で見ると、ちょうど3本の移動平均線が重なっているんです。」
「つまり、この銘柄であれば“株価が上昇する兆候”が出始めてると……?」
「はい。逆に今逃したら、また一から銘柄を探すことになっちゃう。より厳しいバトルになってしまいます。」
「……それが、反撃の“きっかけ”になるかもしれないってことね」
天吹さんの瞳に、少し光が戻る。
「うまくいけば、この銘柄を買って一気にプラスへ持っていけるかも」
「でも、あくまで予想の域は出ない。だからこそ注文を分散して“可能性の芽”を複数に賭けた方がいい」
「ええ……少しでもリスクを抑えて、勝率を上げる。そのための戦略を、これから30分で立てましょう!」
部室の空気が変わった。
たしかに、相場は読めない。午前中の下落も、計算どおりではなかった。
でも今この瞬間だけは、僕たちが選ぶことができる。
勝つために、負けないために、未来を変える一手を。
――負けない。ここからが本当の勝負だ。
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次回は、7/19(土)までの更新を予定しております。よければ、次回もぜひ見てください!
【補足】
・移動平均線:一定期間の株価の終値を平均し、グラフ化したもの
・ゴールデンクロス:短期の移動平均線が長期の移動平均線を下から上に突き抜ける現象