Chapter.1-4:初陣前
朝7時半。まだホームルームすら始まっていない時間に、僕は部室のドアをそっと開けた。
「おはようございます、竹田さん!」
すでに天吹さんは部室にいて、いつも以上にきびきびとした動きで準備をしていた。壁のホワイトボードには、昨日まとめたデータに加えて今朝の株価ニュースの見出しが書き足されている。
「早いですね……」
「そっちこそ。もう来てくれてるなんて安心しました!」
彼女の笑顔に、少し緊張がほぐれた。けれど、それでも胃の奥にはずっしりとした重さが残っている。
今日は、名桜学園 投資部の運命を決める日。
勝てば、部は存続。
負ければ、廃部。
しかもその相手は、校長先生――教育者でありながら、部活動の再編を行い、投資部の廃部を主導的に進めている男。
「落ち着いていこう。昨日の模擬投資では結果が出たんだから、大丈夫」
自分にそう言い聞かせて、僕は机に向かいノートパソコンの電源を入れた。
すると、少し遅れて阿部先生が部室に入ってくる。
「おはよう。あら、もう集まってたのね」
「おはようございます!」
「いよいよね……あまりプレッシャーをかけたくはないけど、相手は手加減しないと思っておいてちょうだい」
「はい……覚悟はできています」
阿部先生がそっと一枚の紙を机に置いた。今日の取引ルールが記された紙だった。
【対戦ルール】
・投資対象:日本国内の個別株式(リアルタイム株価使用)
・初期資金:100万円(仮想)
・取引市場:日本の株式市場のみ
・取引時間:9時〜15時半までの6時間
※ただし、9時~12時、13時~16時までは授業時間とする。
・勝利条件:終了時点でより多くの利益額を出した者を勝者とする
「あれ?これ市場が開いているほぼすべての時間は授業になってませんか。」
「そうなのよ。これが、このバトルの困ったところなのよねえ。」
阿部先生は苦笑いを浮かべながら、僕の机に紙コップの温かい紅茶をそっと置いた。
「今回のルール、校長先生が提示してきたの。どうやら“学生らしさ”を保つために授業時間は優先するべきだっていう理由らしいけど……本音は、操作できる時間を減らして勝つ確率を上げたかったんでしょうね。」
「なるほど……つまり、実質使えるのは、朝の取引前と昼休みだけ」
「そういうこと。徹底的な準備と少ないチャンスでどれだけ的確に判断できるか――その集中力が問われるわね」
つまりこれは文字通り“一発勝負”の戦いだ。
頻繁な売買や試行錯誤は難しく、いち売買の精度が何よりも重要になる。
「まだ1時間目の授業が始まるまで時間はあるわ。その間に、最終調整をしましょうか。」
午前8時30分。市場が開くまで、あと30分。
僕は天吹さんが用意してくれたホワイトボードの前に立ち、書き込まれた銘柄ごとの今朝の気配値を見つめていた。
「今日の注目銘柄はやっぱりこのあたりですね。リスクはありますが、半導体関連とエネルギー関連。それから、昨日急落した銘柄の“リバウンド狙い”も候補に入るかもしれません」
「ありがたい。助かるよ...。この2つでいこう、一本ずつ仕込んでおこう。」
チャートを見る目も、昨夜までとは少し変わった気がする。ろうそく足の形、出来高の変化、ちょっとした動きの裏にある“市場の感情”が、なんとなく読めるような気がするから不思議だ。
だが、時間は限られている。
市場開始までの操作時間は、ほんの数十分。短い。
この時間で仕込んだ銘柄が、昼にどこまで動くか。
いや、どこまで“読めるか”。
そのとき。
「失礼するよ」
低く落ち着いた声とともに、部室の扉が開いた。振り返ると、スーツ姿の校長先生が静かに入ってくる。
「おはようございます、校長先生」
「ふむ、準備は順調そうだな。慌ただしさはあるが、落ち着きのあるいい顔だ。」
皮肉とも、褒め言葉ともとれる言い方だが、不快感は無かった。
「校長先生、僕は昨日と違います。勝負に来た以上、腹は括りました。」
「それでこそだ。――では、私も株を購入するための準備をしよう。」
校長はノートパソコンを広げ、取引口座にログインする。タイピング音が静かな部室に響き、無言の火花が散った気がした。
校長はゆっくりと自分のパソコンへ目を戻し、金融関連の株を中心に4銘柄ほどだろうか、注文していく。
「分散型……慎重ですね」
「勝つというのは、なにも利益を出すことがすべてではない。」
僕はその言葉の意味を噛みしめる間もなく、朝のHRのチャイムが鳴った。
「頑張りましょうね。竹田さん。」
「2人ともHRの時間よ。」
「行きましょう!」
「ああ……!」
惜しむように画面を閉じ、机を離れる。
すでに寄り付きの注文は終えた。これから何が起こるかは誰にもわからない。この後、下落するかもしれないし、昼には市場全体のトレンドが変わっているかもしれない。
ここで下した決断が、昼には笑い話か、武勇伝か。
「次の判断は、昼休みだな……」
そう呟きながら、僕はHRの教室へと向かった。
勝負の前半戦が、静かに動き始めていた――。
【注文確定(投資部)】
・信越化学工業:100株(指値:4852円:485,200円)
・トヨタ自動車:200株(指値:2363円:472,600円)
※合計:957,800円
【注文確定(校長先生)】
・大和証券:200株(指値:1002円:200,400円)
・岡三証券:300株(指値:678円:203,400円)
・三菱UFJ銀行:100株(指値:1980円:198,000円)
・三井住友FG:100株(指値:3607円:360,700円)
※合計:962,500円
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次回は、7/15(火)までの更新を予定しております。よければ、次回もぜひ見てください!
【補足】
・寄り付き:その日の最初の取引
・指値:指定した金額での売買を行うこと(※金額を指定せずに購入することを「成り行き」という)