後編
読んでいただいてありがとうございます。
エメリーンは、いつものように大図書館に来ていた。
来るのは今日で最後だ。
三日後にはジョーヤ国に移り、そのまま帰ってくることはないだろう。
最後にクレイルに会うかどうか迷ったが、会わなければ後悔しそうだったので、自分の中で今日が最後と決めて大図書館に来たのだ。
「クレイル様」
「これはエメリーン嬢、本日はどのような本をお探しですか?」
いつものようににこにこと対応してくれる彼の雰囲気に、ほっこりした気分になる。
「今日は、本を返しに来ただけなんです。三日後に父のもとに行くので、その前に借りていた本を返そうと思いまして」
「あぁ、そうなのですね。ですが、エメリーン嬢はいつもきちんと返してくださるので、お戻りになってからでもよかったのですよ」
「……忘れない内にお返ししたかったんです」
だって、もう二度とここに来ることはないのだから。
この場所が好きだった。
古い本の匂いや、微かに人が行き交う気配が、エメリーンを安心させた。
監禁されていたパトリックの屋敷とは正反対の場所だ。
あそこは、血の匂いと悲鳴、そして多くの人間の禍々しい欲望だけが満ちていた。
「エメリーン嬢、何かあったのですか?」
気が付くとクレイルが心配そうな顔で覗き込んでいた。
「いいえ、何でもありません。少し昔を思い出していただけです」
「昔ですか?それは、エメリーン嬢にとって良い思い出でしょうか?」
クレイルに良い思い出と言われて、エメリーンはくすくすと笑った。
あれは絶対に良い思い出なんかじゃない。
そのことをクレイルは知らないから聞いてきただけで、他意はない。
「ふふ、どうでしょう」
知らない人間にわざわざ言う必要もないことだ。だから、エメリーンは曖昧に笑ってやり過ごした。
「ところで、クレイル様は何をなさっているのですか?」
「先日の雨の日に本を返しに来られた方がいたのですが、少々濡れてしまっていたので乾かしていたんです。それで今は、こうしてページがちゃんとめくれるかどうかの確認をしています」
クレイルは、丁寧な手つきでページをめくった。
「持ち出し可能な本はそれほど重要な本ではないとはいえ、丁寧に扱っていただきたいものです。雨の日に持って来る時は、濡れないように気を付けていただきたいです」
「クレイル様は、雨の日はお嫌いですか?」
「えぇ、そうですね。こうして本も濡れてしまいますし、湿気もすごいですから。雨の日は出来るだけ外に出ることなく、部屋の中で過ごしたいですね。エメリーン嬢はいかがですか?」
「私ですか?……好きですよ」
経験からいえば嫌いになっていてもおかしくはないのだが、エメリーンは雨の日が好きだった。
あの屋敷で人為的に起こされた数々の事態の中で、唯一、天候だけが自然が起こしたものだったからかも知れない。
それに雨音は、こうした小さな会話を全て消してくれる。
「クレイル様がお好きなものは何ですか?」
「好きなもの、ですか。そうですねぇ、大図書館の、この外と隔離された感じが好きです」
「ふふ、クレイル様らしいですね。……ではクレイル様、私はこれで失礼いたします」
「ジョーヤ国に行かれる準備でお忙しいのに、先に返していただいて感謝いたします」
「とんでもございません。最近はおかしな天候になることも多いので、どうかお身体にお気を付けてお過ごしください」
「はい、ありがとうございます。三日後の出発ですと、しばらくこちらには来られないですよね。エメリーン嬢、気を付けて行ってらっしゃい」
クレイルがそう言って優しく微笑んでくれたので、エメリーンはちょっと驚いた。
父も母も、誰もエメリーンに言ってくれたことのない言葉。
おそらくこの国で聞く、最初で最後の言葉。
物語の中で、この言葉をかけてくれる家族がいるのが羨ましいと思った。
「ありがとうございます、クレイル様。行って来ます」
物語と違って、「ただいま」という言葉を使うことはないけれど、エメリーンは今までで一番良い笑顔でクレイルに別れを告げた。
エメリーンがジョーヤ国に旅に出てから一ヶ月ほど経った頃、リュシアンがクレイルのもとを訪ねた。
「リュシアン殿、何かお探しですか?」
「はい。フレストール王国について書かれた本は、どちらにありますか?」
「でしたら、あちらの棚ですね。一画全てがそうですので、お好きな本をお探しください」
「……そういえば、聞きましたか?」
「はい?何をでしょうか?」
「ナセル将軍のご息女のエメリーン嬢が、ジョーヤ国のレナード殿下とご結婚なさるそうですよ?」
「……え……」
白々しいリュシアンの声音に気付かず、クレイルは動揺を隠せなかった。
そんなクレイルの様子を冷めた目で見ながら、リュシアンは知らないふりをして続けた。
「何でも、レナード殿下がエメリーン嬢に一目惚れしたとか。両国の友好の証として陛下も許可を出されましたので、このまま結婚して帰って来ないそうですよ」
「……ほ、本当、ですか……?」
「こんなことで嘘は言いませんよ。レナード殿下は三十歳、エメリーン嬢は十七歳ですので、少々年齢差はありますが、とてもお似合いのお二人だとあちらでは大人気だとか。皇妃様が自らお祝いの品を選ぶとのことで、商人たちが色々な品物を持って城を訪れていますよ」
「皇妃様が自ら……ははは、そう、そうですか」
あからさまに動揺しているのだが、クレイルはリュシアンの前で必死に平静に見せようとしていた。
そんなことをしてもバレバレなのにな、と思ったが、クレイルがあくまで何事もないかのように振る舞いたいというのなら、リュシアンはそれに付き合ってやろうと決めた。
「父君のナセル将軍がレナード殿下に練習で相手をしてほしいと申し込んだそうで、当日は見ている者たちが大変ハラハラしたそうです。しかし、エメリーン嬢の好みは父君みたいな方だったのですね。てっきり、もっと違う雰囲気の方が好みなのかと思っていました。こちらにいる時も、あまり父君の部下と交流なさっている姿は見かけませんでしたし」
「そ、そうなのですね。エメリーン嬢とは、ここでしかお会いしたことがなかったので……」
「あぁ、クレイル殿は、あまり外の世界に興味をお持ちではないですものね」
告げられる言葉の一つ一つが、毒のようにクレイルの頭の中に染みこんでくる。
自分の心臓がどくどくと波打っている音が聞こえる。
以前、リュシアンが言っていた、「手に入れられる時に手に入れておかないと、するりと逃げていきますよ」、という言葉がじわじわと頭の中に響いてきた。
愚かな自分は、この気持ちに気付かぬようにして、どこかで楽しんでいたのだ。
エメリーンがわざわざ大図書館に来て自分と会話をしていくのは、彼女が自分を特別に想ってくれているからだ。想いを持っているのは、彼女の方。だから、その想いにいつ応えるかは、こちらが決めること。そう自分勝手に思っていた。
……いつまでも、エメリーンがクレイルだけを想ってくれているとは限らなかったのに。
知らぬ振りをして会話を楽しんでいたクレイルより、その手を取り愛の言葉を囁く人の方がいいに決まっている。彼女が向ける想いにただ浸って何もしなかった自分より、想いを返してくれる人の方が何倍もいいに決まっている。
「クレイル殿?どうかしましたか?」
平然と問いかけてくるリュシアンに、思わず憎悪を向けそうになった。
リュシアンは、忠告してくれたというのに。
クレイルの脳裏に浮かぶのは、見たこともない純白のドレスを着た彼女。
だが、その目はこちらを一切見ておらず、クレイルはエメリーンを横から見ているだけだ。
今までクレイルに向けていた笑顔を、クレイルの知らない誰かに向けている。
手を伸ばして声を出そうとしても、クレイルの身体は動かず、声も出せない。
そんな想像が嫌で、振り払うように頭を横に振った。
「……いいえ、何でもありません。仕事がありますので、これで失礼します」
悟られないように一生懸命平静を保ちながら、クレイルは奥へと小走りで消えて行った。
その姿を見送りながら、リュシアンは静かに独り言を呟いた。
「……たとえ、伯爵家の生まれでも、あなたはここに引きこもって、外のことを何も知ろうとなさらなかった。自分だけが穏やかに生きていける世界に閉じこもっているあなたと、傷ついても何かを学んで外の世界に出て行こうとしていたエメリーン嬢とでは、そもそも釣り合わなかったんですよ。あなたは、エメリーン嬢に相応しくなかったんです」
そう言うと、リュシアンは踵を返して大図書館の出口へと向かった。
「……僕とも対照的ですね……」
エメリーンが結婚すると聞いて大図書館の奥へとさらに引っ込んで行ったクレイルと、愛する女性を手に入れる為に故国を捨てたリュシアン。
「陛下が重用なさらないわけだ」
ユージーンはクレイルのことを、記憶力は良いがそれだけの男だと評していた。
だから、何も変わらない大図書館に放り込んだのだと。
確かにその通りだ。
あれだけ逃げる男も珍しい。
伯爵家で何があったのか知らないし、もとよりそういう性格なのかも知れないが、貴族社会では生きていけないような人物だ。
エメリーンは、あの男の穏やかな雰囲気が好きだと言っていたそうだが、あれは、酸いも甘いも噛み分けた上で穏やかな雰囲気を醸し出している男ではなく、何も知らないからこその無垢の穏やかさだ。
「そうか。だから逆に惹かれたのかな」
エメリーンの過去を教えられていたリュシアンは、彼女が人の恐ろしさを実の母から学んだことを知っている。
「エメリーン嬢、彼を選ばなくて良かったと思いますよ」
リュシアンは、きっとしばらくの間、大図書館の奥から出てこないであろう男に、同情など微塵も感じなかった。
「雨か……」
外を見ると、先ほどまで降っていなかった雨が降り出していた。
リュシアンは大図書館の奥の方をちらりと見ると、何事もなかったかのように外へと向かって歩いて行った。
「エメリーン、怖くはないか?」
エメリーンを心配しているのは、婚約者となったレナードだった。
婚約者といっても、準備が出来次第すぐに結婚する予定なので、婚約期間は短いだろう。
「いいえ、大丈夫ですよ。レナード様、私のわがままを叶えてくださって、ありがとうございます」
エメリーンとレナードがいるのは、パトリックの屋敷跡だった。
ここに来たのは、エメリーンがお願いしたからだった。
あの場所に、花を捧げたい。
屋敷跡というだけあって、もはや建物は跡形もないし、地下洞窟へと続く道は塞いであるそうだ。
木々が成長するには五年という月日は短いようで、屋敷のあった場所は草や背がまだ低い木が生えている広場となっていた。手入れされることもないので、いずれこの場所は森に飲み込まれるだろう。
そうなったら、本当に何も分からなくなる。
その前に、ここを見てみたかった。
「もっと天気の良い日に来られれば良かったのだが……」
レナードの言う通り、空にはどんよりとした雲がかかっていて、今にも雨が降り出しそうだ。
「すまないな、俺の手がなかなか空かなくて」
「いいえ、レナード様。お忙しいのに私のわがままに付き合ってくださってありがとうございます」
「わがままか。だとしたら、可愛いものだ。もっと宝石とかドレスとかをおねだりしてくれてもいいんだぞ」
「ふふ、それはいつかおねだりいたします」
「楽しみにしている」
手紙でやり取りしていた分、お互いの性格は何となく知っていた。それに婚約してからレナードは、時間が許す限りエメリーンのもとを訪れていたので、最近は軽口もたたける仲になった。
「レナード様、私、あの日のことはあまり覚えていないのですが、助け出された時のことは少し覚えています」
「俺が連れ出した時?」
「はい。真っ暗な闇の中にいたんですが、不意に身体が温かいものに包まれた気がしたんです。その温もりの正体を知りたくて、一生懸命、目を開けたのですよ」
「そうだったな。だが、君はすぐに気を失った」
「えぇ、安心したんです。目を開けたら、レナード様の流した涙が私にぽつりとかかって、生きてるんだなって思ったんです。この方の温もりに包まれていたら安全だと思ったら、ほっとしてもう一度意識を失いました」
一筋の涙を流しながら「すまない」と謝っていたレナードを見て、綺麗だと思った。
泣いている姿を綺麗だと思ったのは、初めてだった。
それを覚えていたから、レナードとの話が持ち上がった時に反対しなかったのだ。
「レナード様は、結婚相手が私でよかったのですか?私の身体の傷は、多少は薄くなりましたが、それでも消えることはありません」
今までは二人っきりになれる状況があまりなかったので聞けなかったのだが、婚約だけの今なら、レナードの気持ち次第で、婚約解消をしてもいいと思っている。
エメリーンはレナードのことを好意的に思ってはいるが、それが恋かといわれると自信はない。
同情だけで結婚しても、上手くいくとは思えなかった。
「エメリーン、俺は君がいい。傷のことなんて、気にしなくていいんだ。初めは確かに弟のやらかしたことの責任を取らなければと思って……あ、いや、白状しよう。あの時、助けた君がうっすらと目を開けた時、この子はまだ生きている、よかったと思ったんだ。そしたら、君は俺に向かって安心したようにふにゃりと笑ったんだよ。あんな風に無防備に笑われたのは生まれて初めてで……気になって、療養中の君をそっと見に行ったら、あの時とは全く違う顔をした君がいて……その時は、純粋にこの子を守ってあげたいと思ったんだ」
少し顔を赤らめて語るレナードを、エメリーンはまじまじと見つめた。
「だから、君とのことを兄上に頼んだんだ。それで将来、君と結婚することを前提に手紙のやり取りが始まって、手紙が届くのが楽しみになって……実は、用事で帝国に行った時に密かに君を見に行っていたんだよ。直接会うのは禁止されていたが、どうしても気になってな。年々美しくなっていく君を誰かに盗られないかと内心、焦っていたよ」
「レナード様……」
それは、ずっと想ってくれていたということで、いいのだろうか。
「レナード様、雨はお好きですか?」
突然、エメリーンが雨の話をしたので、レナードはきょとんとなった。
「雨?あぁ、好きだよ。降りすぎると困るが、天からの贈り物だからな。エメリーンは?」
「好きです。以前は、雨と一緒に嫌な思い出も流れていけばいいのにと思っていましたが、私、雨を呼び寄せる体質なんでしょうか、嫌な思い出の日も良い思い出の日も雨が多いんです。ですから、逆に好きになろうと思いまして……そしたら、自然と楽しくなりました。雨が降ると、今日は何があるのかな?って思って」
「実際、今日も雨が降りそうだな」
「はい。ですから、今日も好きです」
今朝、起きた時にまずは空を確認した。
雨が降りそうな天気だったから、ほっとしたくらいだ。
これで晴天だったら、逆に怖い。
「この分だと、結婚式の日も雨になりそうだな」
「すみません。その可能性は高いです」
「いや、いい。初めから雨だと分かっていれば、対処しやすい。当日にいきなり雨が降るよりは、断然いいさ。それにこれからは雨の日に一緒に出かけるのも、案外、人が少なくて楽しいかもしれないしな」
優しいレナードの言葉に、エメリーンはクレイルとは違うのだと比較してしまった。
雨の日でも共に行こうと言ってくれるレナードと、雨は嫌いだからと部屋に引きこもるクレイル。
エメリーンが心惹かれるのは、レナードの方だった。
だって、エメリーンには雨が付いて回る。雨を否定されたら、エメリーンと一緒にはいられない。
それに、こうしてレナードと共にいると、クレイルに対して思っていた気持ちが、異性として好きというよりは家族へのそれだと気が付いた。
エメリーンは、クレイルの穏やかな雰囲気に、物語の中の家族の雰囲気を重ね合わせていたのだ。
滅多に会えなかった父、娘を見ることがなかった母。たまに会えば、お互いを冷ややかな目で見ていた夫婦。優しい言葉一つ、娘にかけることさえなかった両親。
幼い頃からそんな環境にいたエメリーンにとって、理想の家族は物語の中にしかなかった。
優しい家族、穏やかな家族、そんな言葉に憧れを抱いた。
エメリーンは、きっとそれをクレイルに求めてしまっていたのだ。
愛情を知らずに育った心が、エメリーンに向けられた穏やかな優しさを理想の家族に重ね合わせて、惹かれて憧れたのだ。
エメリーンはレナードとの秘密の約束があったこともあり、クレイルとは会話をするだけで一定の距離を置いていたつもりだったが、クレイルが何も言わない人でよかったと思ってほっとした。
特に隠してはいなかったので、エメリーンがクレイルの持つ雰囲気が好きだということは、誰もが知っていた。
きっとクレイルは知っていても、それがただの家族への憧れだと分かっていたのだ。
だから、何も言わなかった。大図書館で司書として会って、和やかな会話をするだけの関係でいてくれたのだ。
……クレイル様には、改めて感謝の手紙を送りましょう。
今のエメリーンは、クレイルに対して感謝の心しか持っていなかった。
「エメリーン」
「はい」
「これから、二人で色々な思い出を作っていこう。雨の日も、晴れの日も」
「……はい。きっと私が死ぬ日は、雨だと思います。最期の瞬間、雨の日でも楽しかったと思えるような思い出がほしいです」
「あぁ、いいな、それは。楽しい思い出は、一つでなくてもいいだろう。君が、どれが一番楽しい思い出だろうと悩むくらいたくさん作ろう」
「はい。二人で一緒に作って行きましょう」
ぽつりと降り出した雨の中で、二人は生涯に渡る約束をしたのだった。




