戒め
文中では敬称略、とさせていただきました。
2022年4月16日。ヒゲ脱毛を終えてすぐに、憧れの人の個展に出かけた。
もともと気になっていた人だった。漫画家であり、絵描きであり、自身を「本質翻訳家」と名乗る男──山田玲司。いまでは自身の名を冠した「山田玲司のヤングサンデー」という動画配信を、ニコニコ動画、YouTubeで展開していて、表現活動をひたすら開拓し続けている。
1995年生まれのぼくは、申し訳ないけどその名前を最近まで(具体的には、2021年ぐらいまでは)知らなかった。しかし、どこかで観たCMで『ゼブラーマン』を知っていた。そのコミカライズを担当した人、というのが正直な第一印象である。
過去に岡田斗司夫氏の動画に出演しているのも、自身の動画配信を毎週土曜日にニコ生で、水曜日にYouTubeで公開しているのも、なんとなく知っていた。
そしてそのところどころで漫画やアニメ、映画や楽曲、社会問題から哲学・思想までを自在に語って、その本質を翻訳していることについては、恥ずかしながら最近知った。
創作活動を含め、この人の活動がめちゃくちゃ面白いというのを知ったきっかけは、たぶん『輪るピングドラム』の解説をしていたのを見かけたことだと思う。それ以前にもチラチラと知ってたし、『モテない女は罪である』や『Bバージン』などの作品を先に読んでいたから、自分の認識はキチンと漫画家の人だというのは声を大にして書いておく。
ところが、その人が解題した『ピングドラム』が実に見事というか、凄かったのだ。
詳しくはYouTubeで検索するなりして観てほしい。
要するにぼくが言いたかったのは、ぼくにとって山田玲司は恩人だということだ。自分が好きで気に入っていながら、きちんと言語化できずに埋もれるしかなかった作品を、ふたたび愛する勇気をくれた人なのだ。
『輪るピングドラム』は、その作品の凄さを広める人が多い一方で、その魅力を自分に落とし込める人は意外に少ない。だから人によっては放送期間も長くセンスをぶっちぎった『少女革命ウテナ』を良しとする人も少なくない(もちろんどっちも凄い作品だ)。
けれどもぼくは個人的には『輪るピングドラム』の方が自分にとっての何かだったような気がしたし(それはたぶん、自分が1995年生まれだからかもしれない)、より身近で真剣なものだった。それを遠回しに否定された気がして、共有できなくなった時、自分の〝好き〟を否定してしまったのだ。
言語化することを恐れ、そっと胸の奥に仕舞って、まるでそれを語ることが自らを異端であると宣言するかのように、口に出すことを恐れ、話題に出さず、思い出の中に鍵を掛けたのだった。
それが大学生の時──あれからすでに八年近く経っている。
時を置いて「山田玲司のヤングサンデー」を観た時、かつて感じた感動と胸の奥にうずいたものが甦った気がした。そしてそれは、(方々に失礼かもしれないが)山田玲司本人が語ったからこそ開かれたようにも思った。「1995年について何で語らないんだ」と解説する口調は、かつて自身が格闘した何かに向かって放たれた、本人の血生臭い体験の匂いがした。それが漠然とした不安と、ぼくが創作活動に打ち込む無自覚な動機にも直結しているような気がしたのである。
少し、自分語りをする。
かつて大学生の頃に書いた小説に『東京文明沙漠(旧題:東京沙漠)』という作品がある。ここ、「小説家になろう」で投稿した12万字ほどの長篇小説で、ジャンルは「純文学」。設定はSFっぽい。遠未来、〈戦争〉によって文明が崩壊し、その再興と過去の文明の模倣に勤しむ世界を舞台に、テロ行為に走る宗教組織に翻弄される人々の群像劇だ。
これは、公開時期からして分かる通り某中東のテロリスト国家をモチーフにしている。
しかし悲しいことに当時のぼくは何も知らなかったし、わかってなかった。現実世界の混沌と、現実社会の混乱に振り回されながら、なんとなく他人事じゃないと思っていた想いだけをありったけ叩きつけて、如何ともし難い飢えと渇きだけが残る始末だった。
作品の出来に後悔はない。ぼくはこの作品で「いま、ここに生きている自分とその社会」を描きたかった。それが成功しているかどうかは、わからない。ただ熱意だけは本物だった。『小説家になろう』向けの作風でもなかったが、読んでくれた人からの反響はそこそこあった。読者からの評価総計は、現時点で506ポイント。数字が全てではないにせよ、異世界転生や洒脱なライト文芸以外で三桁の評価をもらえるのは奇跡と言っていい場所では、かなり善戦した。
ただ、書き切ったあとに残る「自分が答えを出しきれなかった」という感じは、尾を引いた。何よりこの作品には自分が乗り切ってない。この文体もそうだが、自分はそんなにカチコチした人格ではない。そういうところを見抜かれたのか、いまとなっては別の作品が表看板になってしまって、いまさらこの作品を前に出すのがためらわれたのだ。
もちろん、この作品には欠点もある。それは多かれ少なかれ自覚している。いまは二度としないようなエゴで描いたことも、技術的に至らない点も、多く反省する。
ただ、あえてこの作品を埋もれさせたことによって、自分の中の何かを殺したのは間違いなかった。それがなんなのかを理解するのはつい最近の話で、そのきっかけが漫画の『ゼブラーマン』を読んだ時だった。
「君の人生は…それでいいのかい?」
この一言から始まるヒーロー漫画は、哀川翔主演の映画とは全くの別物の問いをはらんでいた。どっちがどうという話ではない。ただ、山田玲司の描いた『ゼブラーマン』は、かつて自分が最高にクールでハードだと思った特撮ヒーロー物の、急上昇一位に殴り込んできたのである。
その中で語られるのは、単なるヒーローショーではない。現実逃避をして趣味に潜ったせいで、家庭の危機にも、社会の危機にも、世界の危機にも見向きもしなかった大人が、その罪を少しずつ自覚し、苦しみ、悔いて、戦うというカッコいい背中だった。ただし、あまりにもしんどいから、シマウマの仮面を被るカッコ悪さを装わないと、ジョーダンにもならないような、そんな真剣な話だった。
ぼくはそこでかつて答えられなかった難問の多くを再発見した。
そして自分がそうだと思い込んでいた多くの答えが、偽物の、借り物であることも思い知らされてしまった。かつて自分が書いた小説の世界のように、昔の文明を模倣して、カラカラに渇いた大地を彷徨しているのだと。
こういう自分の価値観がひっくり返って、世の中を見る目がより真剣になるようなお話を、山田玲司本人はヤングサンデーの中で「覚醒コンテンツ」と呼んでいる。たしかにそうなのだ。自分はこの話の中で悪夢から覚めたのだ。どんな悪夢かといえば、鉤括弧付きの、いわゆるの〝大人〟という悪夢に。
そしてそれがなぜ起きたのか、どうしてそうなったのかについても、その漫画は逃げずに答えを出していた。
それが正解かどうかという話ではなく、真剣に向き合って、こうじゃないのかと問いかける姿勢も込みで、誠実さを感じた。「白黒ハッキリ付けるぜ!」と言っていた話は、しかし白でも黒でもない空の色によって締め括られることによって、本当の答えを見た。
そうか。表現とは。そうなのか。
ぼくの中で何かが腑に落ちた。それはピングドラムを解説した時に、ほとんど自分語りと化していた当人の根っこから湧き上がるものとリンクしている。ように思えた。
だから、今回の絵画の個展『宗教改革』も、観るべきだと思ったのだ。そして、あわよくば本人に会ってみたい、とも。
結果から言うと、散々だった。
なにせ入った瞬間、目の前にご本人がいたのである。
あれだけ動画越しに見ていながら、実際に会うと自分が話しかけるに値するだろうかと緊張してしまった。かつてないほどに緊張したのだ。なにせ、自分の価値観に深く疼痛のように突き刺さった言葉を、表現を編み出したのだから、何から話せばいいかなんて、それこそ自分語りをするしかなくなる。
けれども、それって、大人げないじゃないですか。されたら迷惑だし。なにせ初対面ですよ?
ぼくは誰かと楽しそうに会話していた山田玲司を遠巻きにチラ見しながら、フワフワと絵を観ていた。絵そのものについての感想は後に述べるが、その時は本人に話しかけたくて仕方なかった。話しかけてどうというものでもないし、何を話せばいいかもわからなかったが、とにかく言葉を交わしてみたかった。ジリジリと自分の中に突き刺さった表現が、どこから湧き出たのかを確かめずにはいられなかったのだ。
そして、ついに話しかけた。話の切れ目を狙って、投身自殺でも図るみたいな投げやりさで、「あのっ」と言った。
「小説家志望なんです」
なんてことだろう。
自分語りがカッコ悪いと言いながら、最初に言うことがこれなのか。
最初の一言はもうちょっと違ったかもしれないが、とにかく名乗りに使った文言がこれなのだ。
言った後にウワーッ! と頭を抱えて叫びたくなっていた。いちおう、動画や漫画からすごく心に響くものをもらった旨を伝え、それからご本人から「ヤンサンからですか?」とゆるっと質問を頂き、「いえ、漫画も読みました」と答える。そして、『ゼブラーマン』の感動を伝えると、「ああ、ゼブラーマンは自信作ですねえ」と返ってくる。
さて、それからが、第二の失敗。
先ほど、ぼくが『輪るピングドラム』の解説で山田玲司をより深く知ろうとした、と書いた。そしてそれが、好きなものをより愛する勇気に変えてくれたと書いた。
それを丸ごと話して、ただがむしゃらに感謝の意を伝えたのである。
なんてことだろう。作家の前で第三者の作品の話をしてどうするんだ!
テンパってるのを見透かされていたかどうかはわからない。しかし、当人は自然に受け流していろいろお話してくださった。ただ受け答えが柔らかくて、嬉しかった。
けれどもぼくはこのことで致命的な過ちを犯していた。
ぼくは自分を分野こそ違えど、〝クリエイター志望〟だと言ったのである。それでいながら、振る舞いは〝ただのファン〟だったのだ。
これは、後になって気づいた。ただのファンであることは、ほんとうは恥ずべきではないのかもしれない。
しかしその人の作品によって覚醒したと思っていた自分が、イザとなって向き合って堂々とできなかったのは、なぜなのか。それが個人的には悔しくもあった。
思えばぼくは一生懸命話しかけてはいたが、山田玲司の目を見ることができなかったり気がする。それはたぶん怖かったからだ。きちんと向き合った時、そこには或る問いがあると思った。その問いに対する〝答え〟をまだ持ってない気がしたのである。
つまり、「おまえはどうなんだ?」てことについて──
もっと言えば、「わたしはこうである」の回答について。
馬鹿野郎。何を知ったつもりでいたんだ。と自分を引っ叩く。作品から得た感動は、ただちに自分の哲学になるわけではない。それを思い知ったし、反省した。そして、変な話だが、悔しくも思った。自分自身の詰めの甘さに、である。
自分が尊敬し、交友関係にある小説家の人が、かつてぼくに直接こう言ったことがある。「自分を偽るな」と。
ぼくは自分の気持ちや熱意に対して嘘を吐いたつもりはなかった。しかし偽りがなかったのかと問いただされると、自覚がないだけでたくさんの偽りがあったのだろうといまなら思う。それは尊敬する人に対等にみられたいという〝見栄〟だったり、自分の無知と無力を認めたくないという〝意地〟だったり、好きな人に失望されたくないという〝焦り〟だったり、悪く評価されるぐらいなら最初から何もしないという〝無気力〟だったりする。
もっと言えば、広告や誰かのツイートを見て「あっ、この商品欲しい」と反応する自分や、仕事の資料をコピーアンドペーストで体裁整えている自分にも、同じことが言える。つまり、「果たしてそのメッセージは自分のどこから出てきたんですか?」という問い。うっかり「はい、自分のアイディアです」と答えたくなってしまう無自覚で都合の良い記憶喪失。
ほんとうは誰かから、無数のフィルターを通して他人から受け取ったメッセージを、伝言ゲーム的に、ちょっと言い間違えただけで、オリジナリティを獲得したと勘違いして発信してしまう愚の骨頂を、自分は犯した。それは、日常生活ではほんとうにどこにでもあることで、どうだっていいことでもある。しかしそれは表現を志すものにとって──特に、問いを投げかけることを是とするある種の求道的な表現者にとっては致命的な欠陥となりうる。
結局、ぼくは上滑りした会話をして、フワッと流されるように別の人と入れ替わった。時間にしてわずか五分あったか、なかったかで、おそらく当人もそこまで意識はなかったかもわからない。しかし受け取ったものはあまりにも大きかった。それだけのものを言外に持っていたし、戦ってきた人の重みを(少なくともぼくは勝手に)受け取った。
そして、もう一度絵を観る。別物だった。
絵は、Twitterに掲載した写真を見れば分かる通り、青と黒を基調とした、印象派のような形而上アートのような、幻想的な作風が多く並んでおり、官能的だが美しく絡み合う男女や、翼の生えた人のモチーフが目立つ。
タイトルも、「歓喜天」や「人生論」と言った宗教的・哲学的なモチーフを持ってきており、漫画家というよりは、画家としての表現が強烈だ。
絵について、ぼくは絵を描かない。描くのが下手だというのもあるが、文字を使うことに慣れたせいで、表現の手段としての絵を意図的に外している。むしろ、文字によって絵画を取り込むという、無茶をしている。
そんなぼくから見て、絵の技法そのものをうんぬんすることはできない。が、絵を写真ではなく実物を見ることについての体験の意味を、語ることは可能だ。
つまり、キャンパスに近づけば近づくほど、全体の輪郭としての〝絵〟は消えて、絵の具の荒々しい筆致と、画家が題材とどう格闘したのかの軌跡が見える。このことについて、ぼくは見れば見るほど、ひとつとして同じ絵はなく、そのどのモチーフに対しても画家が真剣なのだと想像する。
絵の具が尾を引く力強さと儚さから、悩みに悩んで力を込めて筆を押し付けたり、指に絵の具を付けてなぞったりした痕跡を見る。それは考古学者が化石と地層から恐竜時代を思い描くように、絵の具の流れと太さの移ろいから、作者の思考の筋書きや気持ちの強弱を再現しようとする行いに似ている。
パウル・クレーは、「芸術とは目に見えるものを再現することではない」と言っている。この意味についていろいろ思うところはあるだろうが、ぼくは松岡正剛が解釈する「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである」という意味に取りたい。
つまり、『宗教改革』の絵画の数々は、山田玲司の中にある想念を再現したものでは、断じてない。再現なんていうほどの写実なんかでは、全くない。想念を取り出す格闘行為そのものを、「見えるようにした」──その軌跡の数々なのである。
これは、なぜ個展のタイトルが『宗教改革』であり、それが何を意味するのか、表現しうるのかということを体現する。
宗教改革とは、16世紀ドイツにおいて発生したルターによるカトリック批判とそこからの分派──その流れを指している。新しい宗派の誕生。資本主義に向かう祈りの発生。歴史的には、そう理解される。
では実際にそれはなんだったのか。ルターは何を問いただしたのか。
ルターは聖書に帰れ、と言った。それは無数の解釈と注釈に凝り固まったカトリックに対するアンチテーゼであり、つづめていえば「原点回帰」の思想である。権威が大衆に向かった説いたわかりやすい言葉ではなく、実物に向かって、自分達の言語で触れろと説いたのが、ルターの行動だったのだ。
つまり、個展『宗教改革』には「自分自身に帰れ」というメッセージと、そこに向かうためにどうすればいいのかのアンサーも、そこにある。そう、ぼくは解釈した。
言い換えれば、〝見栄〟とか〝意地〟とか〝焦り〟とか〝無気力〟とか、あるいは広告とかキャッチコピーや誰かの詩文やコピーアンドペーストを、取り払って、自分の憧れや無意識に浮かべてしまうモチーフに向かって格闘できるのか、と問う。その姿勢だ。
また彼自身、天使の降臨や水族館的な深い海への潜水、ペルム紀や三畳紀のように酸素が多くて生物が信じられない力を持っていた時代のモチーフを濫用する。これは過去や内面の深さに対する憧憬でもあり、イノセンスに対する格闘でもある。もちろんそれをそのまま取り出すなんてことはできない。野生の思考は、それとよく似た記号を取り出す。言ってみれば、聖書を解読するための自分言語のようなものであり、それが画家にとってはモチーフであるというだけのこと。
ぼくらはそれを言語化できないかもしれない。しかしぼくらは、あえてそれを言語化しないことによって、野生の思考を働かせる。それは決して野蛮なことではない。むしろ、格闘行為を、自らのうちに再演し、自分自身の体験としてもう一度甦らせることで、獲得する。芸術とはおそらくそういう、血と肉を交わすコミュニケーションなのだ。
ぼくは、しかし絵を描かない。だからあえて言葉にする。
これは解説ではない。ぼく自身がぼく自身の体験として、山田玲司の『宗教改革』に向き合って格闘した、その軌跡である。
・『宗教改革』(2022/4/17で終了)
https://jinnan.house/blogs/event-exhibition/yamada-reiji-2022
・『東京文明沙漠』
https://ncode.syosetu.com/n6718cd/
・松岡正剛の千夜千冊「第1035夜 パウル・クレー『造形思考』」
https://1000ya.isis.ne.jp/1035.html