月夜の霧雨亭のアルカトーラ
「魔術街を出たのは久々ですわね」
翌日、ベインとリトリスは魔術街を出て”月夜の霧雨亭”へと向かっていた。
王城を中心にした貴族たちの住む場所が”貴族区”と呼ばれるのに対して、それ以外の場所は”凡民区”と呼ばれている。
”月夜の霧雨亭”はその凡民区にあった。
「でも、魔術師がほとんど住んでいない凡民区に魔術杖を持っている人がおりますの?」
「……俺はオースレンじいさんと会って魔術学会に所属させてもらうまで、当たり前だが凡民区に住んでいたんだ。そのときから俺は魔術に興味を持って研究をしていたんだが、魔術が使えもしないのに研究なんてできないだろ?」
「それもそうですわね」
そう、魔術が使えないベインが魔術の研究をしたところで大した成果は出せなかっただろう。
そういう意味では、これからベインたちが会いに行く人はベインの恩人と言って良い。
「これから会いに行く人は……魔術師なんだ」
「凡民区に魔術師が住んでますの……?」
この国では魔術師は例外なく特権階級である。
魔術が使えればそれだけで国から優遇される。
だから、一般に魔術師は例外なく貴族として認識されている。
しかし、珍しいことだが魔術師の中にもそういった特権と無縁なものが居る。
例えば、凡民の親を持つ魔術師は、魔術が使えることを隠して凡民区で生活する場合がある。
この場合は魔術師であることを隠していることが多いので必然的に特権などあるはずもない。
他にも、稀な話ではあるがベインと同じような境遇で魔術師が追放される場合があり、行く宛を失った魔術師が凡民区を拠点とすることがあった。
「そいつは魔術師なんだが、その、人格に問題ありっていうか……変わったヤツだから、覚悟しといてくれよ」
「ワタクシは魔術師の中では寛大な方だと自負しておりますわ。ベインのような無礼な輩ですら受け入れているのですから、いまさら誰が来ても平気ですわよ」
二人は”月夜の霧雨亭”を目指して歩いていく。
「ここだな」
「……? どこですの?」
人気のない通りにある、さらに人気のない裏路地……
ベインが指差したのはそこであった。
「道がありませんけれど」
「いや、この路地裏に月夜の霧雨亭があるんだ」
「ここを通りますの!?」
その路地裏は人が一人通れる分くらいしかスペースはない。
それでも、ベインは慣れたように路地裏に入っていった。
「……険しい道のりですわね」
リトリスもまた覚悟を決めて狭い路地裏を進んでいく。
少し進んだところでベインが止まって、扉を指した。
「ここだ」
扉は薄汚れており、よく見れば確かに扉に”月夜の霧雨亭”と書かれているように見えるが、路地裏の薄暗さも相まってそれはほとんど見えない。
こんな場所に店を構えたところで、客など一人も来ないと断言できるほどだ。
「本当にここですの? 人が住んでいるようにすら見えませんけれど」
「本当にここだ」
ベインが扉を押し開けて店の中に入っていく。
「アルカトーラ、俺だ。居るか?」
リトリスがベインの後ろをつくように入っていくと、そこで見たのは乱雑な店内だった。
狭い店内にはたくさんの棚が置かれていて、そこには見たこともないようなものが陳列されている。
瓶に入った怪しい粉末、色あせた紙の束、乾燥した植物の根っこや魔物の素材がはみ出している小さな箱など、何に使うのかわからないものばかりだ。
一部の棚はホコリを被ってしまっており、もはや店に客が来ていないことは明白だった。
「ウッヒャッヒャ、ベインか! ベイン、待っておったぞ!」
棚の奥……カウンターのようになっている場所のさらに奥から現れたのは一人の老婆であった。
ベインの呼んだ通り、名をアルカトーラという。
「ん、なんじゃ。珍しく二人か? しかも、女じゃないか。デートか!? デートなんじゃな!?」
「いや、説明すると少し長くなるんだが……実は魔術学会を追放されてな」
「なにィ!? 魔術学会を追放されたじゃと!?」
驚いたかのようなリアクションを取ったアルカトーラだったが、すぐに……
「ブワーハッハ! いいザマじゃの! 魔術学会なんて所詮貴族が利権を守るためだけに作った組織じゃからな! こうなることは目に見えておったわい」
アルカトーラがベインを指差して笑い始めた。
リトリスはその失礼さにちょっとムッとしたが、ベインはいつものことなので慣れた様子で対応している。
「それで、結局そいつは誰なんじゃ?」
「ワタクシはリトリス・マギ・コーデリア。先程から無礼ですわよ」
「コーデリアぁ? まさか、あの大公家か?」
「そのとおりですわ」
リトリスが髪をファサッと手で揺らした。
しかし、アルカトーラはそれを見て露骨に嫌な顔で返す。
「ベイン、わしが偉そうな魔術師を嫌っていることは知っているじゃろう! それが大公家ならなおさらじゃ。なんでこんなやつ連れてきたんじゃ! 嫌がらせか!」
「それがな、リトリスはつい最近まで魔術が使えなくてな……俺が教育係になって新魔術理論を教えている相手なんだ」
「なんと!」
アルカトーラがリトリスの顔をじっくりと見る。
「ベインには感謝しておりますわ。ワタクシ一人では魔術が使えないままだったことは認めなくてはなりませんもの」
リトリスの発言を受けて、急にアルカトーラが口角を上げ、しわしわの顔にさらにしわが増えた。
「そうか……よく見てみればきれいな顔立ちをしているじゃないか。無能な貴族どもの中では見る目のある人物のようじゃな。何を隠そう、このベインはわしが育てたと言っても過言ではないのじゃからな」
「それは言いすぎだろ」
アルカトーラは機嫌よく続ける。
「そんなことはない。ベインが魔術に興味を持ったのは誰のおかげじゃ? ベインが魔術の研究をできたのは誰のおかげじゃ? ベインが研究に必要な道具を揃えられたのは誰のおかげじゃ?」
「それに関しては感謝してるよ。だが、きっちりお金を取ってただろ?」
「お金を取るのは当たり前じゃ。金がなきゃ生きていけんからな」
悪びれた様子もないアルカトーラを見て、ベインはため息を一つつくと、リトリスに向き直った。
「アルカトーラはこういう人なんだ。リトリスが一緒に来るのを俺が渋ってたのはそういう理由だ。とはいえ、俺が新魔術理論を構築できたのは、アルカトーラのおかげというのも間違ってない」
「……まぁ、個性的な人ってことは分かりましたわ」