第一章 死の山
八王子の奥地。広大な山林地帯のその一角に、戦後から三代続く氷室邸がある。しかし、今となってはその存在を知る土地の人間はおらず、完全に忘れられた屋敷だった。深夜、胸を締め付けられんばかりの野犬たちの遠吠えが一帯を支配する中、氷室邸前の庭先にワンボックスカーが止まり、まず井口と村山の二人が降りた。そんな二人に、出迎えた屋敷の当主である氷室が、恐る恐る話しかける。
「お、お疲れ様です。今日は、どんな状態なんですか?」
二人は氷室の問いかけを無視し、漆黒の闇から響き渡る不快極まる無数の野犬の遠吠えに耳を傾ける。
「今日はやけに多いな」
「この耳を切り裂く叫び声みてぇなのが胸糞悪ぃったりゃありゃしねぇ」
もともと、氷室の祖父にあたる初代当主は愛犬家と評判で、多い時には二十頭もの犬を飼育していた。しかし実際のところ、事業がうまくいかないとその祖父は、犬たちへ殴る蹴るの暴行を働き、中には猟銃で撃ち殺すなどで鬱憤を晴らし、毎年半数を虐殺していた。交配は家族間だったので、犬たちは死に絶えることなく生まれては殺され、殺されては生まれ、その歴史は少なくとも五十年繰り返された。死んだ犬は祖父の機嫌によって埋葬されたり、放置したまま他の犬たちに食べさせていた。そんな惨たらしい光景を幼い頃から見て育った、二代目にあたる氷室の父が祖父の死後、代替わりの際に犬たちを山に放った。その犬たちが山に住みつき、野犬化し、現在まで交配を繰り返している。父によれば、犬たちのほとんどは躊躇することなく山奥へ消えていったが、僅かながらに寂しそうにこちらを見つめつつ、走り去った犬もいたという。だが、ほとんどの犬たちは氷室家…つまり人間から虐待された恐怖と肉親の屍肉を喰わされ、生かされ続けた恨みを抱きながら死に、子孫たちがその血を受け継いでいることは容易に想像ができた。
「まぁでも、こいつらがいなけりゃウチのシノギもままならねぇからな。お犬様さまだよ」
「確かにな…。なるべく雨が降る前に片付けちまおうぜ」
氷室が恐る恐る、もう一度話しかける。
「あ、あのう…それでどんな状況でしょうか?」
井口一人が答える。
「とりあえず、道具持ってこい」
「拳銃だけでいいですか?」
すると村山が唐突に、氷室のでっぷりとした腹へ膝蹴り、蹲る寸前に頬へひじ打ちを喰らわす。
「いい加減覚えろよ。〝とりあえず〟って言われたらチャカとヤッパ、両方だろうが」
ヤクザにとって債務者は大切な顧客。生かさず殺さず飴と鞭を使い分け最後の一滴まで搾り取るのが基本だが、殊に氷室に対しては、相続した遺産を欲望の赴くまま使い果たし、さらに策略によって借金を背負わされたとは言え、両親を見殺しにしてまで生き残ろうとするろくでなしっぷりが組員たちにとっては極道精神に反するようで、激しく嫌われていた。
「ず…ずみまぜん」
氷室も氷室で、両親を見殺しにし、さらには自ら遺体を山に埋め、現在までのうのうと生きているろくでなしなだけあり、理不尽に暴行を加えられ地面に倒れ込もうとも、その都度、唐木組の面々をいつか皆殺しにしてやるという怨念を込めながら立ち上がっていた。
「ただいまお持ちいたします!」
氷室が屋敷へ向かうと、井口と村山が運転席の吉田へ指示し、バックドアを開けた。拉致先の鶯谷で、鈍器によって後頭部を殴られ意識を失い、毛布で包まれた男は、結局約二時間半の移動中、一度として目覚めることはなかった。
「たまにいるんだよ。丁度いいところに当たってそのまま死んでるの」
「それだと楽なんだけど…」
そんな二人の慣れた雰囲気とは対照的に、子分にあたる吉田は緊張を隠せなかった。十代の粋がった少年だ。無理はなかった。だが、そんな吉田へ、邪念でいっぱいの笑みを浮かべた井口が唆すように言う。
「正社員の採用試験、やるか?」
「えっ…」
ここでさらに、面白がった村山が参戦する。
「まぁ戦争のドンパチみてぇに大義名分のねぇただの殺しだけどな、相手抵抗しねぇからラクだし、その上で正社員登用だからな」
「マジッすか…いやぁ…でも…その…心の準備っていうか…」
「あと忘れてた、社長から感謝されるぞ」
「か、唐木社長からですか? マジッすか?」
「マジマジ」
「どうすんだ?」
「や、やります。やらせてください!」
日暮里からここへ来るまでに、幼気な少女とも取れる女の顔面を躊躇なく殴りつけた上で、体力と精力の尽くす限り強姦し、膣内射精を繰り返した鬼畜な兄貴分二人の言うことをなんの疑いもなく、まだ純粋な吉田は間に受けてしまうのだった。案の定、吉田が自分に言い聞かせている様子を、井口と村山は意地悪そうに見て笑う。そこへ、氷室が布製のトートバッグを肩から下げて戻ってきた。トートバッグを村山がとりあげ、中身を確認する。銃身の短いスナブノーズリボルバー一挺と、ドス一振り、そして懐中電灯。やがて、吉田と氷室に、毛布に包まれた男性を担がせると、一行は屋敷裏手の山奥に向かった。
氷室の祖父の時代からすでにあった登山道を歩く途中で、それまでの小雨が本降りになった。毛布に包まれた男性を担ぐ吉田と氷室は、雨に濡れながらそのまま進み、井口と村山は傘を広げる。人間たちの気配を察知したのか、野犬たちの遠吠えは既に聞こえなくなった。やがて登山道の外側、草木が生茂る未舗装の地面に、衣類の切れ端や靴、眼鏡、ライター、携帯電話など、人間の痕跡がチラホラと現れ始める。むろん、これまで唐木組が請け負う闇ビジネスによって、悲運にも殺され遺棄された人々の遺留品だった。
氷室邸もこの山も、地元民から完全に忘れられている。余程、山火事や他方からの事件で疑いがかけられない限り、まず警察の捜査が及ぶことはなかった。そういった事情を把握していたので、遺留品類を特に片付けることもなく、堂々とやりっぱなし。そんな闇ビジネスに好都合な場所に対し、裏社会で付いた通り名が〝死の山〟。当然〝死の山〟が八王子のこの場所に存在していることは、組内でも直接ビジネスに関わる者にしか伝えられておらず、口外禁止事項だった。
一行が登山道を外れ、未舗装の樹海に入っていくと、それまでの闇とは明らかに異なる、禍々しい空気が一帯を包む。余裕の笑みを浮かべながら懐中電灯で先導していた井口と村山も、その懐中電灯が消えたり着いたりの繰り返しをするものだから、苦笑いするしかなく、スマホの電波も、ここへきて途絶えた。
「やっぱりこうなるのか…」
兄貴分としてメンツをギリギリ保ちながら苦笑いする二人に対し、毛布に包まる男性を担ぐ吉田、氷室に至っては、完全に怯えていた。無理もない。既に、これまで殺された数多くの人々が遺棄されたエリアに入っていたからだ。ここで、氷室が足を滑らせて地面に転げ落ちた。同時に、毛布に包まった男性も転落、吉田も体勢を崩した。地面に転がった氷室の視界に、遺棄され、野犬たちに喰い荒らされた挙句散らばった、様々な部位の人骨が入った。
「ヒィィィ…!」
鬼畜な井口と村山も、流石にこの場所は何度訪れても慣れず嫌いだったので、乱暴だが、錯乱状態の氷室を起こし、落ち着くよう平手打ち。再度、毛布に包まれた男性を運ぶよう指図した。
「仕事、早く済ませるぞ」
「は…はい!」
毛布に包まった男性は、結局今の今まで一度として意識を取り戻すことはなく、遺棄場所の地面へ無造作に叩き落とされた。この頃になると、雨は土砂降り。雷も酷くなっていた。雷光と直後の爆弾のような雷鳴。その反射で照らされる、男性を見下ろす四人の表情にあるのは、冷静さのみ。井口が無言で、すでに腹を括ったのか、少々気が違った表情の吉田へスナブノーズリボルバーを渡す。
「まずは頭に、二発撃ち込め」
「片手じゃねぇ。両手で握れ」
井口と村山が、相次いで指示をした。
「はい」
言われた通り、吉田が両手で握りつつトリガーをゆっくり絞るとハンマーが起き上がり、シリンダーも同じ速度で回転。キリッ…と鋭い金属音。トリガーを絞り切った瞬間、乾いた発射音と、肩を持っていかれるほどの反動。弾は狙った頭部へと着弾し、同時に、血液と衣類と人体の一部が飛散。村山が吉田へ気合を入れる。
「もう一発!」
「押忍!」
二発目は、ハンマーを起こした上でのシングルアクションで発砲。初弾付近、しっかりと人体に着弾した。
「終わりました…」
「まだだ」
井口がそう言いながら、吉田の持つスナブノーズとドスを交換した。
「念のための保険だよ。腹の辺り、滅多刺しにしろ」
「マ…マジっスか…」
間接的な射殺に対し、直接人体に触れる刃物での殺害は、肉や骨を抉る感覚や、暖かい返り血、相手側の死に物狂いの抵抗と憎悪の眼差しといった、こちら側への肉体的、そして精神的な返り討ちが、一生引きずるほどのトラウマとなる。つまり、感情が絡んだ動機ならまだしも、別に恨んでもいない相手を仕事の為に刃物で殺すとなると、眼前の男性のような無抵抗な人間相手でも、死ぬまで一生この稼業で生きていく覚悟を決める、相応の判断材料が必要だった。
そんな吉田へ、井口と村山が畳みかける。
「正社員になりてぇんだろ?」
「唐木社長から褒められるぞ」
「そうなると、幹部への道もあるだろうな…」
「幹部…ですか…幹部への道…」
それは地獄への道だった。
次の瞬間吉田が、鞘を抜いて跪き、毛布に包まれた男性の中間あたりを、狂った雄叫びをあげながら滅多刺し。この雄たけびに反応したのか、それまで静かだった一帯から、ふたたび野犬たちが遠吠えを始めた。これにギョッとする三人。一方、吉田によるめった刺しで飛散した血飛沫が彼の顔面と、井口と村山、氷室それぞれのズボンに付着。氷室は見ている途中、後ろを向いて嘔吐した。雷と雨の勢いは、とどまることを知らなかった。