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オベロン・ミッドサマー。
現グッドフェロー公爵のお孫さんで、公爵閣下がお持ちだった爵位の一つを頂いて今はパック子爵である。
彼のお父様が次期公爵でいらっしゃるので直系の長男だけど、自分が継いだとしても先の話だと騎士団に入られている。それも縁故でなく実力で。
そんな方にガツーンとやられてニコラス様は大丈夫だったのだろうか。
本人が大丈夫と言うからそれ以上は言えないけど、やっぱり心配だわ。嫌われてるとか言ってたし。
金色の髪に凍った青の瞳、美術館レベルの美形、なのに男前オーラ。
そんな容姿であんな家柄なのですでに売約済みかと思いきや、どうやら婚約者もいないらしい。これは、一人に決めるのもったいないよねーの精神をした女好きとみた。手慣れてたし!
だとしても私には関係ない。厳密には。
我が領地で一番の自慢である宝石の細工技術で加工された品々は、貴族の方々に大変人気がある。これの希少な宝石を買い付けている先がグッドフェロー公爵領の鉱山だった。
いくつもお持ちの飛び地の一つにとっても良質な宝石が産出されるのだ。
これの初めての買い付けに、お父様みずから所有する商団と出向いたのが十年くらい前。当時男の子にも負けない悪ガキ、んん、少々お転婆だった私はこれにくっついていった。
商売の邪魔はしないようにとそれだけは約束して、それでも領地以外に出掛けられるとあって完全に旅行気分だった。
そこで私、ミッドサマー卿に会っているらしいのよね。まったく憶えてないけど。
先日のガーデンパーティーから帰ってお父様に聞いたから確かなんだけど、本当に記憶にないわ。
あんな美形を一度でも見て忘れられるかしら。たとえば顔を覚えてなくても何かすごいのに会った!って印象に残りそうなものだけど。
まあ憶えていないのものは仕方ない。きっとこの間みたいに、私みたいな平凡な子は完全スルーだったんだわ。小さい頃は山猿みたいな、いえいえ、少年のようだったし。
だから関係は、ない。
なのにお父様に確認までしてしまったのは、先日の一件以来、ニコラス様が大変過保護になってしまったからだ。
ニコラス様が我が家を訪れる頻度に比べると格段に少ないけれど、彼が卒業してから、私だってモウス伯爵邸を訪問したことはある。近い未来のお嫁さんですという主張と挨拶だ。
だけど自分が行くから家にいてと言われる。
ウェイド家のお父様もお母様もとっても良くして下さるので、もっとお会いしたいとお願いしてみたけど、結婚したら毎日会うよともっともな言葉を返された。
お買い物に行きましょうと誘うと自分が買ってくると言い、邸に来てもらえば済むと片付けられた。
お気に入りクッキーで誤魔化されたりしな、してます。お菓子に罪はない。
今度好きな劇団が新作を上演すると聞いた、とそこまで口にしただけなのにこれはバシッと却下された。最後まで言わせてくださいな。
結婚前のご挨拶パーティーめぐりも、必須である家のものは終えたからと参加不可。そんなに好きではないけど、それでニコラス様の印象が悪くなったりしないかしら。
つまり、私はとっても暇だった。
もちろんニコラス様は足繁く訪れてくださるけど、そうじゃない日は一日ぼーっとしていたり庭を散歩したり読書したり、そういう事しかしていない。
昔の私だったら少しくらい、と街に飛び出していったかも。
だけどしないのは、彼の過保護が本当に心配からきていると理解しているから。
そんなにミッドサマー卿に嫌われているのかしら。
いえ違うのよ、ニコラス様人気によるご令嬢の嫌がらせ事件(私はちっとも気にしていないけど)の話をしたからだってわかっている。自分のせいだと気に病んでらっしゃる。
だからそんなに心配しないでと思いながら、それで彼の気がすむのなら結婚までだしねと受け入れている。
「お嬢様は愛されてますねえ。不安になって婚約破棄されちゃうかも?!なんて夢をみるくらいには、結婚を楽しみにされてるってことじゃないですか」
アニーが嬉しそうに言う。私だってそう思う。
優しくしてくれるのをどうしてと考えるより、彼に同じだけお返しするべきだ。
指先に触れるのをためらうより、私に合わせてくれて待っていてくれてありがとうと言葉にするべきだ。
あなたが怖いわけじゃないのよ、と。
こわい。
わけじゃない。……本当に?
「ティターニア」
今日は赤いバラを一輪だけ。
とっても綺麗だったのでお茶のテーブルにそのまま飾ってもらった。
「となりにいってもいいかな?」
私が肩を揺らして驚いたのを、彼も見たはずだ。一瞬、悲しそうに眉を寄せていたから。
テーブルを挟んで向かい合う距離。外出着や正装でなくても手袋をしてくれているニコラス様。女性はドレスだから一人掛け椅子には腰掛けない、だから二人並んでも大丈夫だけど。
うん、そう、大丈夫だわ。
優しくて、丁寧で、紳士なニコラス様にころーんと転がったのは私の方じゃないの。
だから大丈夫。ドレスをさばいてちょっと肘掛けに寄って見せた私に「ありがとう」って言ってくれるニコラス様はやっぱり優しい。
でも、なんというか、実際おとなりに腰掛けられると。甘いの方が優勢だわ…すっごく見つめられるのはいつものことでも、その距離が近いわ…
「ティターニア。できれば手を」
そっ、そうきますよね。そりゃあそうですね。
距離が近いドキドキなのか手に触れる緊張なのかわからず、ちょっと固まっていた私を見たニコラス様は微笑んだ。
さっきみたいな悲しそうな残念という感じではなくて、好きだよと言ってくれる時みたいに。
彼は笑った。
「僕が怖い?」
どうしてそんなことを聞くのか、どうして手袋を取るのか、わからなくて否定もできずにいる私の頬に彼の指先が触れた。
それに驚いた私が逃げるように上体をそらすと、思いがけない力で肩をつかまれた。
「僕から逃げたい?」
「いっ、た……」
「でも駄目だよ逃さない。怖くないよ。だから僕のものになってティターニア」
名前を呼ばれたから、彼は私だってわかっている。他の誰かと何かと混同していないはずだ。
だったら、どうして彼の手が私の首にあるのかしら。
両手で触れてもらったのは初めてだわ。強くて苦しくて息なんかできないわ。
怖い。痛い。苦しい。なんでどうして。
「大好きだよ」
どうして彼はこんな時まで優しいことを言うの。
どうにもできないだろうけど、どうにかしようと思ってニコラス様の手首に引っ掛けていた私の手が。ぽとりと落ちたタイミングで力が緩んだ。
何度も咳き込んだけど頭がぼーっとしてちゃんと考えることができない。
「違うんだ、ごめん、そうじゃなくて。ティターニアがどこかに行ってしまったり、誰かに傷つけられたりするのが嫌なだけなんだ。僕だけを見て欲しいんだ。ああ、跡になってしまったね。首でなくて、手は、抱きしめてもらえなくなるから駄目だ。そうだ足、足にしよう。どこへも行けないように。移動の時は僕が抱き上げてあげるから、そうしよう」
彼が何を言っているのか半分も理解できない。
ただゾッとした。
果物を切るような薄い刃のナイフだったとしても、男の人の力で振るわれたら私の皮膚なんか足の腱なんか切れてしまうだろう。
「ニコラス、さま」
「ちょっと痛いけど我慢してね」
もはや靴を脱がされてるとか足に触れられてるとかで動揺している場合ではない。逃げなきゃ。でも怖い。まだ苦しくて指を動かすのだってだるいのにどうやって。
いいえ、どうしたって逃げるのよ。
押し倒されていたソファから、身をよじるようにしてごろりと転がり落ちた。だけどそれまで。もぞもぞ床でもがいていた私はさっさと捕まってしまった。
婚約者といえど二人きり、扉は少し開いている、叫べば誰か来てくれるだろうけどさっきので声がまともに出ない。息をするだけで苦しい。
「つかまえた」
さっき肩をつかまれた勢いはなく、背中から優しく抱きしめられた。気がした。
今までで一番、背中を悪寒が這い上がった。
怖い。男性だからじゃなくて。
ニコラス様が、怖い。
「ぃ…や……」
「逃げないで。君とずっと一緒にいたいだけなんだ。だからほら、先に足を切ってしまおう?」
そんなこと優しく言われたって怖いわよ!ドレスをめくられて脚を撫でられたって色気のひとつもないわ!
「いやあああああ!!」
渾身の叫びだった。叫んだ直後めちゃくちゃむせた。
ゴホゴホ咳き込む私の背中を優しくさすってくれる彼の精神構造がどうなってるのか、もはやまったく理解できない。大丈夫?って聞いてくれる声の調子がいつも通り甘くて、いっそそれに吐き気がした。
もう一回は声出ないわ。これで誰か気づいてと思ったら、想像を上回る音がした。
どやどやと大人数の重苦しい足音だ。
え?と思っている間にそれは近づき、わずかに開いていた扉がどかーんと蹴り開けられた。
え?え??と思っていると、扉を蹴り開けた金髪の美丈夫は今度はニコラス様を蹴り飛ばしていた。
「貴様は!!」
そして怒り心頭の様子で自分が蹴り飛ばしたニコラス様をつかみ上げて、今度は拳で顔面を殴っていた。二発お見舞いしたところで他の人たちに止められて(他の人たちって、誰?!)悔しそうに床に放り投げていた。
ニコラス様、今度は鼻の骨どころか歯も折れたでしょうね。
「——無事か?」
回らない頭を必死で動かして、ああ騎士様だわと思い当たった、彼以外に何人もいるのはどうしてかわからないけれどとりあえず私は無事だ。色々痛いし苦しいしお水欲しいし脚撫でられたけど、ちゃんと生きてるわ。
こくこく頷くと、美術館に展示されるレベルの彫刻のような美形がその美貌を歪ませた。
いえ語弊があるわね。美形は歪めても美形だったわ。
「間に合った……!」
その言葉については、もうちょっと早く来て欲しかったわと思ったけれど。思わずといった勢いで正面から抱きしめられてしまったから、口にはできなかった。
ああ、彼に抱きしめられるのは、…怖くない。
その後、泣きそうなお父様が帰るまでの間に本当に泣いていたお母様とアニーにお医者様を呼んでもらい、私は自分の寝室に放り込まれた。
寄宿学校から飛んで帰ってきた、最近生意気盛りの弟まで目に涙を浮かべていたのは貴重だった。
騎士様たちはニコラス様を捕えて連行していった。ご令嬢に聞かせる話ではないとお父様にしか説明をしてくれず、私当事者なのに!と訴えたらなんと後日、動く彫刻が我が家にやってきた。
オベロン・ミッドサマー卿は今日もキラキラと麗しいご様子で。
騎士服でなく私服でいらっしゃった。
ええ、こんな美形と出会って忘れるかしら小さい頃の私。と改めて首を捻っていると、なぜだか悲痛な面持ちの彫刻、ミッドサマー卿がお見舞いだと花束をくれた。
私服でお仕事モードでないからか、こんな美形に花をもらったからか、先日の女ったらしぷりを見ているにも関わらず私はぽんと赤くなってしまった。後ろから「姉上!」と怒られた。
寄宿学校はまだ冬季休暇には早いのだけど、あんなことで帰宅してしまった弟はまだ家にいる。大事をとってベッドの上でごろごろしているしかなかった私に、数時間おきにやってきては「暇でしょう?」とかまってくれた。いい子だ。
お父様には騎士団から経緯を説明済みなので、自分が同席する!と弟が張り切ってくれた。いい子だ。
「まず、本当にご令嬢に聞かせるような話ではないのだが、ピースブロッサム伯爵令嬢はアレの婚約者でもあったので事実を伝える。それについて容赦願いたい」
アレ、ってニコラス様のことよね。ひどい言われようだわ、ひどいことされたけど。
渋々承知した弟の向かいで、ミッドサマー卿はとても居心地悪そうにされていた。私が説明を求めたから、聞かせるべきでない話をする役目を嫌々押し付けられたかしら。
悪いとは思うけれど、関係ないとは言えないので。
どうして彼が優しかったのか知りたかったので。
お願いしますと頭を下げると、金髪の美丈夫は淡々と説明してくれた。
王城勤めのモウス伯爵、ニコラス様のお父様が一週間ほど出仕しなくなったのが始まりだった。
真面目な伯爵がどうしたとお勤め先も連絡を取ろうとしたらしいのだが、病で伏せっていると言われ使者は追い返されてしまったらしい。王城からの使いに伯爵家の家令が断れるはずないので、そう説明したのはきっとニコラス様だ。
どうにもおかしいと再度使いをやると今度は旅行に出掛けたと言われた。
あの方が、許可もなく、仕事を放って?それはおかしいだろうと騎士団が邸に踏み込んだのがあの日、貴族の犯罪行為は騎士団の管轄で、王城への出仕をしないとはつまり王命に背く行為と理由をつけてモウス邸に行った。
そうして発見されたのは怯える使用人たちと、細切れにされていた伯爵と夫人。
その場にいなかったニコラス様の行方を尋ねると私の家、パーシー家だと知って騎士様たちは急ぎ来てくれたのだそう。
細切れ、のあたりで顔をしかめた弟に、大部分は鍋で煮込まれていたと教えてくれた。それ必要な情報かしら…
パーシー家に踏み込んだ時点ではまだ容疑者だったが、私が襲われていた現行犯でニコラス様は連行。牢であっさり親殺しを認めたらしい。
『だって、ティターニアが心配だからこの家に住まわせたいと言ったら、結婚まですぐだから待てと言うんだ。待てるわけないのにねえ』
ここでまさかの私だった。
感覚が麻痺しているのか「そ、そうですか…」としか言えなかった私には、さすがにお気の毒そうな視線をいただいた。いやもうごちゃごちゃすぎて。
教えてくれたのはただ事実で、それでニコラス様の何を知れたかというと、わからずじまいだった。
彼は確かに優しくて。私を好きだと言ってくれて。でもたぶん、私はずっと怖かった。
結婚が不安だからじゃなくて、彼が怖かった。
「夢をみるんです」
ぽつりとこぼれた言葉に、弟もミッドサマー卿も不思議そうに瞬いた。
「おそらくニコラス様と婚約した時か、お会いした時から、悲しい夢をみるようになりました」
それは彼に不貞を疑われて婚約破棄までされる。
結婚式の当日に捨てられる。
そんな感じだと言うと、「そんなに嫌だったならどうして言わないんだ!」とまた弟に怒られた。嫌だったというか、不安だからだと思ってたのよ。
そのやり取りを聞いていた卿は、動く彫刻のくせにじっと動かず何か考えているようだった。
「申し訳ないが、ご令嬢と、二人で話ができないだろうか」
弟は反対した。あんなことがあった後で男性と二人にできないと言った。
ものすごく正論なんだけど、彼は騎士だし、この間も助けてくれたし、怖くないし。大丈夫よ扉は開けておくからと私が了承した。
それでどんな目にあったか自覚しろと怒られたけど、心配してくれるのがわかって、何だかくすぐったくなってしまった。
15歳にもなった弟はまだ後三年も寄宿学校にいる。淋しいわ。ありがとうと額にキスすると、目を丸くした弟はちょっと涙目になりながら部屋を出ていった。
勢いよく閉められてしまった扉は、ややしてから、気のきく使用人の誰かがそっと少しだけ開けてくれた。
「ティターニア嬢」
不意に名前を呼ばれてびっくりした。今までちゃんと、伯爵令嬢と呼んでくださってたから。
は、はいと上ずった返事をした私を見て、ご自分の手元を見て、窓の外を見てから、もう一度私を見つめたミッドサマー卿は言った。
「君も憶えているのか?」
と。