ロンメルとモントゴメリー、独英二人の将軍が乗った、エルアラメインで戦った97式中戦車改造自走砲の覚書
念のために書きますが。
これは架空戦記です。
英国のボービントン博物館には、こんな戦車(?)はありません。
(なお、ボービントン博物館は実在します)
ここ、英国内にあるボービントン戦車博物館は、それこそ第一次世界大戦以降の様々な各国の戦車が展示、保管されていることで著名な博物館である。
そうした保管戦車の中でも、著名な戦車がある一方で、無名に近い戦車があるのは当然だが。
戦車自体はあまり著名でないにも関わらず、エピソードから知られている戦車と言うのもある。
そうしたエピソードから知られている戦車の中で、世界中の戦車ファンや専門家から注目されることが多いのが、97式中戦車改造自走砲である。
97式中戦車改造自走砲と言われると、それこそ第二次世界大戦において、いわゆる太平洋戦線で戦った戦車という先入観を持たれる方が多いと思う。
だが、この戦車は英軍に鹵獲され、紆余曲折の末にボービントン戦車博物館で展示、保管されることになった戦車なのは間違いないのだが、その鹵獲された場所と言うのは、それこそ、日本から遠く離れた場所、第二次世界大戦の北アフリカ戦線における戦局の転換点とされるエルアラメインなのだ。
そして、独軍のロンメル将軍と英軍のモントゴメリー将軍が、勿論、別の機会にではあるが、共に乗車したというエピソードのある戦車として著名であり、そうしたことから、様々な努力により、稼働可能状態でボービントン博物館にて未だに展示、保管されている。
何故に、このようなことが起こったのか。
以下、私の知る限りのことを覚書という形で書きたいと思う。
そもそも論になるが、第二次世界大戦勃発前のイタリアでは、燃料不足解消の手段等と言った理由から、戦車のディーゼルエンジン搭載を進めていた。
そして、日本の方が、戦車のディーゼルエンジン搭載が先行していたこと(もっとも、冷却方式が、日本では空冷で進んでいたのに対し、イタリアでは水冷だったが)から、日本の戦車数両を購入し、自国の戦車開発において、参考にしようとしたのだ。
(もっとも、これについては異説があり、いわゆるイ式重爆を日本が購入する際のバーター取引の一環として、日本から戦車が引き渡されたという説も、かなり有力視されている)
そして、日本からは、ディーゼルエンジンを搭載した97式中戦車4両が、1938年にイタリアに輸出されたのだが。
この戦車4両は、様々な試験が行われた後は、もう完全に役目を終えたとして、それこそ置物のように、イタリア陸軍の試験場の片隅で半ば放置された。
更に、そのまま朽ちていく運命を97式中戦車は辿ってもおかしくなかったのだが、そこに起こったのが第二次世界大戦であり、イタリアも1940年には参戦することになった。
そして、このことが、イタリアに輸出された97式中戦車の運命を激変させることになった。
1940年に行われたイタリア軍のエジプト侵攻作戦発動とそれに伴う英軍の反攻。
英軍の反攻により、大量の戦車を失ったイタリア軍は、それこそ置物扱いだった97式中戦車までも、北アフリカに送ることにしたのだ。
とはいえ、97式中戦車の主砲は57ミリ短砲身であり、対戦車戦闘に投入するのには心もとない代物なのは否定できない話だった。
それに北アフリカで活躍している英軍の歩兵戦車は、第二次世界大戦初期レベルの話にはなるが、あの重装甲で知られているマチルダなのだ。
そうしたことから。
イタリア軍は、砲塔を取っ払い、イタリア軍の誇る90ミリ高射砲を搭載した対戦車自走砲に、97式中戦車を改造した上で、北アフリカ戦線に投入することにした。
この97式中戦車改造自走砲4両は、それこそリベット打ちの装甲板を張り巡らせたオープントップの対戦車自走砲であり、弾片防御にさえ一抹どころではない不安を抱える代物ではあったが、この97式中戦車改造自走砲は、イタリア軍最強の対戦車能力を持つ車両として、1941年6月に北アフリカ戦線の前線に姿を現して、バトルアクス作戦以降、英軍の戦車相手に奮戦することになる。
その勇戦振りは、我々の祖国イタリアを守らんとするサムライの化身だ、とさえ共に戦ったイタリア兵に称えられるものであり、戦後の英軍の損害と付き合わせた結果、最終的には確実とされる戦果だけで4両を併せると100両を超えており、未確認戦果を含めると300両を超える戦果を挙げたと謳われている。
だが、その代償は大きかった。
相次ぐ損耗により、1942年のエルアラメインの戦いまでに3両が失われ、残された1両がエルアラメインの戦いに参加することになったのだ。
1942年6月30日、第一次エルアラメインの戦いが始まる直前、ロンメル将軍がイタリア軍の視察に訪れた際のエピソードとして伝わっている話だが。
「日本とイタリアが合作した対戦車自走砲に乗ってみたい」
とロンメル将軍が言い、残された1両に乗ったとされる。
そして、
「この車両の1年余りの勇戦とその戦果にあやかってでも、エルアラメインを突破したいものだ」
とこの車両から降りた際に言い置いたという。
そして、この一言は周囲に強い印象を残し、数々の回想録等で取り上げられることになった。
そして、第三次エルアラメインの戦いにおいて、残された僅か1両の97式中戦車改造自走砲は懸命に殿を務め、イタリア軍の撤退を援護したが、所詮は多勢に無勢であり、更にオープントップの哀しさで、英空軍の戦闘機の機銃掃射により、97式中戦車改造自走砲の乗員が戦死したことから、エルアラメインの戦場に遺棄されることになった。
更に戦闘が一段落した後、遺棄された97式中戦車改造自走砲は、現地で英軍の調査を受けた。
その際、たまたまモントゴメリー将軍が来合わせた。
「何だ、この対戦車自走砲は」
興味を覚えたモントゴメリー将軍は、97式中戦車改造自走砲に近づいて、調査班に尋ねた。
「一体、どこの対戦車自走砲なのだ」
「イタリア軍のマークが入っていますが、車体がイタリア軍のモノではありませんね。おそらく、日本軍の97式中戦車の車体です」
「何でそんな対戦車自走砲があるのだ。まだ、動くのか」
「ええ。動きますよ」
「ちょっと乗せてくれ」
モントゴメリー将軍は、興味の余り、97式中戦車改造自走砲に乗ってみた。
そして、97式中戦車改造自走砲から降りた後、
「中々、興味深い車両だ。英本土に送るように」
そう調査班に、モントゴメリー将軍は命じたことから、97式中戦車改造自走砲は英本土に送られ、更に紆余曲折の末に、ボービントン戦車博物館に97式中戦車改造自走砲は保管されることになったのである。
このロンメル将軍とモントゴメリー将軍、それぞれの97式中戦車改造自走砲にまつわるエピソードに、どこまでの真実が含まれているのか。
それは21世紀の現在では、微妙に闇に入る話かもしれない。
だが、世界中の戦車ファン等にしてみれば、極めて興味深いエピソードなのは間違いない。
何しろ、ロンメル将軍とモントゴメリー将軍、独英それぞれにおいて名将とされる二人の将軍が共に乗ったことがある確実な戦車(?)は、独の戦車でも英の戦車でもなく、日伊混血の戦車だったのだ。
(対戦車自走砲が戦車に入るかどうかは、戦車に詳しい人等から叩かれかねない話題ではあるが)
こうしたことから、ボービントン戦車博物館において、97式中戦車改造自走砲は大事に保管されることになり、21世紀に入っても稼働可能な状態に置かれることになったのである。
本当に数奇な運命をたどった戦車(?)といえるだろう。
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