9.天狗の居ぬ間の……
本日三話更新予定の二本目です
金髪の鬼はふんぞり返るとわたしの方に手を延ばしてきた。
屋敷を囲む結界があるのだから、大丈夫。……と思っても怖いのは変わりない。
畳の上をじりじり下がって、振り子時計のかかってる大黒柱に背をつける。
でも、そんなわたしの気持ちを見透かすように、鬼の手は易々と結界をすり抜けてしまった。
「嘘っ」
屋敷から出なければ大丈夫だと思っていたのに。
どうしてこの鬼には結界が効かないの?
どうして屋敷に入れるの?
縁側の窓を引き開けて、鬼が入ってくる。
低い鴨居をくぐって、ずしんと畳に乗せられた素足の爪が鋭く伸びているのが見える。手も、両手の爪が長く伸びて。
手の一振りでわたしなんかざっくり切り刻まれてしまいそう。
恐怖はどんどん登ってくる。
思うように動かない体をなんとか動かして、鬼のゆったりとした動きから逃げる。
……ううん、鬼がトロいんじゃない。遊ばれてるんだってはっきりわかる。
まるで、猫がネズミを転がして玩具にするみたいに。
『さて、どこまで耐えるかな』
「陽平っ、天狐様っ、八日坊様っ!」
窓の外に向かって叫ぶしかできることがない。わたしは見えるし聞こえるけど、対抗する力はないのだもの。
『ほれほれ、逃げなくてよいのか?』
屋敷の奥へ、廊下から仏間へ、そしてまた表へ。古民家はふすまですべての部屋がつながっている。そのおかげで、追いつめられることはない。
けれど。
屋敷の中を逃げるだけではいずれつかまる。
……外へ。
ううん、だめ。この屋敷から出てしまっては、他の妖たちに見つかる。
守巫女に就任してからはずいぶん減ったけれど、襲撃がゼロになったわけじゃない。だから、河童……鬼が落ちてきた時にはみんな反応したわけだし。
ああ、きっと八日坊様は、鬼だって気が付いていたんだ。だから、風で吹き飛ばした。
こんなでかくて強そうな鬼に、どうやったら勝てるのだろう。
桜輝なら勝てる?
桜輝、と思った途端にふわりと屋敷の中に桜の花びらが流れてきた。
鬼の動きが一瞬止まる。
もしかして、陽平が戻ってきているの? 見えていないだけで、近くにいるのかもしれない。
それなら、あれを試してみよう。
わたしは足を止め、ゆっくりと金髪の鬼に対峙する。じりじりと間合いを取りながら、乱れた息を整えて。
『ほう、もう諦めたか』
それには答えず、半眼で口を開くと手を体の前にかざした。
「そは我が力なり。戻れ、桜輝よ」
『それはっ』
窓から桜の花びらが風に乗って渦を巻く。部屋の中を埋め尽くすほどの桜色の渦に鬼が後退るのが見えた。
桜の花びらはわたしの目の前に集まると、かざしたままの手の中に一振りの刀を残して霧散した。
『そなた、顕現もできるのか……』
鬼が、わたしの手にある刀を凝視している。
「顕現なんて知らない」
『知らぬ、だと? 知らずにそのようなこと、できるはずが――』
そう。……わたしは先代から何の導きもされてない。何の口伝もされなかった。
だって予定外の守巫女なんだもの。
母は知っていたのかもしれない。……もしかしたら父も。
母が亡くなってから父は、山野辺家にもこの島にも、わたしたちを近寄らせようとしなかったもの。
だから、一つ一つ学んでいる最中だ。そういう意味でも、わたしは先代の祖母とは違う。
いわば見習いのようなもの。
八日坊様に、天狐様に、毎日導かれて叱られて、一つ一つ積み重ねている段階なんだもの。
資格はあると天狐様は言ってくれたけど、まだまだ半人前だって自覚してる。
現に鬼に侵入されちゃってるし。
桜輝がここにある以上、弟からの助力は期待できない。
わたしはゆっくり鞘から刀を抜くと、横凪ぎに一閃する。
何かが切れた手応えはあった。
目の前の光景から、薄黄色の薄衣がぺらりと剥がれていく。
途端に音が戻ってきた。
「ねーちゃん!」
『祐希!』
にゃーご、と猫たちの多重奏の合間に聞こえてくる、弟と天狐様の声。
誰もいなかった庭には、三人の人影と動き回る猫の姿が見えて。
さっきまで対峙していた鬼がいたはずの場所には誰もおらず。
抜き身の桜輝を手にしたまま、わたしはその場にへたり込む。
『祐希』
ふわりと何かに包まれた。と思ったら、紺色の作務衣をまとった腕が背後から現れた。
見慣れた赤ら顔、高い鼻。いつもの……新緑の芽を摘んだ時みたいな緑色の匂い。
「おそいよ……」
『すまぬ、陽平たちの相手をしていたおかげで出遅れた。大事ないか』
「うん、多分?」
『多分、とな』
不安げな八日坊様の声音を無視して、体を預ける。手から桜輝が離れて、桜色の花びらが舞った。
「あの、鬼は?」
『ああ……逃げられたようだ』
「そう……」
猛烈に眠い。そういえば、忘れてた。桜輝はわたしの力だけれど、わたしのものじゃない。わたしが振るうとごっそり持って行かれるんだよね……。
でも、眠るわけにはいかない。二人にも顛末を聞かなきゃだし、こっちの話もしないと……ああでも眠い……な……。
必死で開けている目を、手で塞がれた。
『よい、眠れ』
「でも、あとのことは……」
『任せておけ。遅れた罪滅ぼしだ』
「そう……じゃあ」
お願い。
それだけ呟くとわたしは眠りに引きずり込まれた。
次回更新は15時です