4.深夜の訪問者は……
花杜。
それは、人の世と妖の世を分ける、桜の園。
この島の中央にある山の天辺には、妖の世に通じる門があるのだそうな。
昔々、神代の頃はこの地に人はおらず、妖にとっては天国だったらしい。
ところがある時。瀬戸内海一帯を統べる水軍の一族が現れた。
誰も住んでいないこの島にやってきた彼らを、妖たちは追い返そうと頑張った。
でも、人間の方も退くに退かれぬ理由があって。
たまたま一族の中にそういう力を持つ者がいて。
妖たちを押し返し、山の中腹から下へは決して降りられないように結界を張った。
二つの世を隔て、年中狂い咲く桜の園は、いつしか花杜と呼ばれるようになって、今に至っている。
島の名前も、『妖怪島』がいつのまにか『八日島』になったのだとか。
ちなみにその一族は島の長となった。それがこの家……山野辺家。
時折現れる先祖返りが、代々花杜の維持と、妖たちとの折衝役を担ってきたのだと、八日坊様が教えてくれた。
その力ある存在が、花杜の守巫女、守り人。コンクリートの橋がかかった今も、それは続いている。
本来ならば、わたしたちには全く関係のない話だった。
山野辺家は母方の家で、十年前に母が死んでからは、完全に縁が切れていたのだもの。
なのに。
……どうしてこうなっちゃったのかねぇ……。
それ以上弟も何も言わず、わたしは立ち上がった。
とにかく今は課題を片付けなきゃ。
「コーヒー入れてくるけど、なんか飲む?」
「麦茶」
『妾には井戸水をたもれ』
「はいはい」
今日は徹夜を覚悟して、台所に向かう。
庭に面した廊下を歩いていると、庭で何かが動いた気がした。近くの猫たちがうちの庭でよく集会してるんだよね。時々手土産を持って混ぜてもらったりする。
今日は満月だし、来てるんならちょっとだけ顔を出そうかな。
お湯が沸くのを待つ間に冷蔵庫を漁る。昨日買ったばかりのしらすなら、文句言われないかな。
お皿に盛って玄関を引き開けると……目の前に何かが立っていた。
「え」
視界をすっかり覆うほどの大きな影から醸された圧倒的な威圧感に身が竦む。
逆光で黒い影にしか見えないそれの、真っ赤な口元からギザギザの牙が見えて。
だらしなくもはみ出した舌からはよだれが滴って。
喉の奥からはひゅーひゅーと荒い息遣いが聞こえて。
その向こう側、月光に照らされた庭では、猫たちがこっちに向けて威嚇しまくっているのが見えて。
『……よくも、飛ばしてくれたな……』
低く低く、怒りに押し殺された声と、猫たちの唸り声が二重奏になって。
伸びてくる手に息を飲んだ。……刹那。
すぐ右を銀色の何かがすり抜け、目の前の影が搔き消える。
黒い影がわたしを追い越していき、桜色の軌跡が目に焼き付いて。
「ねーちゃん! 大丈夫かっ!」
次の瞬間には弟の背中と、天狐様の膨らんだしっぽが視界を埋め尽くしていた。
威圧が消えて体の力を抜くと、その場にへたり込んだ。まだ心臓がバクバクいってる。
すりりと寄ってきてくれたのは猫たちで、手に持っていたしらすのことをようやく思い出した。
「ごめんね」
お皿を少し離れたところに置くと、猫たちは短く鳴きながらそっちに集まっていく。
『無事かえ、祐希』
「なんとか」
わたしの前にやってきた天狐様に、へらりと笑う。
「ありがとね、天狐様。陽平。助かった」
『ほほ、感謝するがよいぞ』
「うん、ほんと、ありがと……」
気が抜けたせいか、今頃になって震えが来る。
花杜の守巫女になる前は、さんざん妖たちに狙われて、逃げ回っていた。
守巫女になってからは狙われることもなくなっていたのに。
あのまま囚われてたら、どうなってただろう。
「ねーちゃん、こいつどうする?」
天狐様の後ろから弟が顔を出した。その手にぷらんとぶら下げているのは、子供くらいの緑色の物体。頭に乗ってるのは……皿?
『こらぁっ、離せえっ。俺は、強いんだぞっ』
「……カッパ……?」
確かこの島には川はなかったはず。海ガッパ……っているのかな。
「どこが強いんだよ、俺に一蹴されたくせに」
抜かずに握ったままの桜輝が月光の下で美しく光っている。
『海に放り込まれたせいで力が出ないんだよっ! そ、その刀、こっちに向けないでくれよぉっ!』
「逃げないと約束するか?」
『あんたたちに用があるから来たのに、逃げねえよっ! ていうか、ここは俺たちの話を聞いてくれるところじゃなかったのかよっ』
「それは……」
『なのに、着いた途端に斬られそうになるわ、風で飛ばされて海に落ちるわ、やっと辿り着いたと思ったら、天狐に食われそうになるって、なんなんだよっ!』
「ご、ごめんなさい……」
わたしは床に座り込んだままで頭を下げた。