10.加護とは……
遅くなりました。
「加護を打ち消す……?」
『狐の』
『何じゃ、教えてはならんことでもあるまい?』
桜狐様と八日坊様が睨み合うのを横目に、わたしは今聞いた言葉を繰り返した。
花杜の加護。
それは、あの家にかかっている結界のこと。……だと思ってきたのだけれど。
ええと、もしかして考え違いしてる?
花杜はここ。
……妖の世界と繋がった穴を隔離するためのもの。
この結界を維持するために、花杜の守巫女がいるんだよね?
で、それは、あの家……山野辺の家も同じで。
結界があるから妖は家に入れない。
結界を張らずに飛び出した時のことを思い出す。
一瞬で妖達が飛びかかってきていた、のだろう。……覚えてないけど、陽平や天狐様たちがいなければどうなっていたかわからない。
加護を失うということは、何にも守られていない状態で、あの庭に立つのと同じこと。
そして。
……さっき、八日坊様の方が早く飲み干していた。
でも、何か変わった様子はなかった気がする。
わたしが飲み干した時。……八日坊様の気配が変わった。
あれは、八日坊様が変わったんじゃない。
……わたしの守りがなくなったからだ。
家から出ているのに、あの結界が維持されていた?
ああそうだ、庭に出る時は、誰かと一緒に出るよう言われていた。
つまり、陽平、八日坊様、天狐様には結界と同じものを張ることができたってこと。
八日坊様に視線を向ける。今や八日坊様は体ごと桜狐様の方を向いて蹇々諤々やっていて、こちらには気付いていない。
あの水を飲むことで、八日坊様が張ってくれていたわたしの結界が打ち消されたのだとしたら。
……同じように、八日坊様があの水を飲むことで、自身の周りに内側に向けて張っていた結界が打ち消されたのだとしたら。
わたしは何の守りもない状態で、八日坊様の力にさらされていたことになる。
「なるほど」
そりゃー怖いわ。
前に本気の八日坊様と対峙した……つもりだったけれど、あれすらも加護のおかげでわたしには届いてなかったってことになる。
そりゃー怖くないわけだわ。ちょっとはピリピリした気がしてたけど、その程度で済んだ。
うん、今日の八日坊様は、本気で殺しに来てたわけじゃない。ただそこにいただけ。
それで……あれだけの威圧と恐怖だもの。
あの時の本気を出されていたら、わたしだってどうなっていたかわからない。
外に漏れ出た威圧で郵便配達の人がぶっ倒れちゃったけど……相当怖かったに違いない。うあー、申し訳ないことしちゃったなあ。トラウマになってなきゃいいけど。
『祐希』
ということは、あの時、中から湧き出してきたのがわたしの結界の力、ってことだね。
八日坊様が怖くなくなったのはそのおかげに違いない。
あれで潰れてしまっていたら、結界を張ることなどできなくて、きっと守巫女失格になったのだろう。
何かをした気はなかった。うん。ただ、決意を新たにしたっていうか、引きずり出されたっていうか。
八日坊様という存在が放つ何かを、恐怖と感じた。
……いや、違うな。何だろう。何かを放っていたわけじゃない。そこにあっただけだもの。
天狗という存在自体が、人間は怖いんだ。
人間が怖がるもの。恐れるもの。畏れるもの。
きっとあれが八日坊様じゃなく、桜狐様でも同じぐらい怖かったに違いない。
人は神を畏れ、魔を恐れる。
それは、そのものが力であるから。
普通の人間なら、あの郵便配達の人みたいに気絶するに違いない、圧倒的な力。
ほんのちっぽけな自分を消し去ってしまえる力に、恐怖しないはずがない。
こんな大きな存在が、わたしのようなちっぽけな存在を受け入れるはずがない。
そう思って拒絶すれば……きっと儀式は失敗していた。
あの時、八日坊様は確かにわたしの一部を取り込んだ。
取り込んで、飲み込んで、溶け込んで。
わたしを暴くことも、内側から食い荒らすことも、まるごと飲み込むこともできた。
なのに、わたしを待ってくれた。
受け入れてくれた。
……そうだよね?
『祐希』
八日坊様の声に顔を上げれば、赤ら顔の天狗様はいつの間にか言い合いをやめてわたしの方を見ていた。後ろの桜狐様もだ。
『お前が受け入れてくれた結果だ』
「え」
『お前が我らを受け入れてくれたからこそ、お前の力を取りこめた。礼を言う』
そう言うと、深々とわたしに向かってこうべを垂れる。
むしろ逆でしょう?
そう言いたいのに言葉が出ない。
『そも人が我らを受け入れぬからこその花杜なのだがの』
桜狐様の言葉に、わたしは苦笑する。
確かにその通り、なのだけれど。
そもそも捕食者と非捕食者が一緒に暮らせるかって言ったら無理だよね?
もちろん、妖のすべてが人間を食らうわけじゃないとしても。
これほどの力の塊を目の前にして、怖気づかない人間はほとんどいないだろう。
存在そのものが違うのだもの。
『それを何とかするのが守巫女の役目ではないか』
何とかって言っても……どうにかなるんだろうか。
目の前の二人をじっと見る。
確かに、今のわたしは二人を怖いとは思わない。それは、わたしの力を受け入れてくれたから。
でも、それってどういうことだろう。
島の地下水を飲んで加護が消し飛ぶまで、八日坊様を怖いとは思わなかった。
それはなんでだろう。
『さての、ようく考えるがよい。……そなたの紡ぐ花杜を楽しみにしようぞ』
ふわりと風が舞い、桜の花びらを散らす。小さく渦を巻いた風たちが寄り集まってぶわりと膨らんで、わたしの周りを舞い始める。視界が桜色に染め上げられていく。
『祐希!』
呼ばれてとっさに声の方に伸ばした手をつかまれて。
ぐいと引っ張られた途端、桜の渦が消えた。
顔を上げれば、変わらぬ桜の風景が続いていて。
緋毛氈の上にいたはずの、狐面の巫女姿は消えていた。
「あれ、桜狐様は?」
『帰ったようだな』
「そっか」
一応お役目は果たした、ってことになるのかな。
次代として認めてもらったし。
……なんだかいろいろ宿題をもらったような気がするけど。
目を閉じてふーっと長い息を吐くと、体の力が抜けた。
思ったよりも緊張してたみたい。布越しに伝わってくるぬくもりが心地よい。
『祐希』
「ん」
『……疲れたか』
「まあね……思ったより」
あー、このままぬくぬくして寝たい。
昨夜さんざん悩んだり朝早く起きてお弁当作ったりしたおかげで寝不足なんだよね。
『このまましばらく眠るか?』
うわー、すっごい心揺れる提案。
でも、そういう訳にはいかないよね。
帰ってご飯しなきゃ。
あ、その前にお弁当食べよう。
せっかく作ったし。
ぱっちり目を開けると、至近距離に八日坊様の赤ら顔があった。
えっと、いつの間にこんな近くっ?
というか、なんかわたし、抱っこされてるぅっ!?
慌てて起き上がろうとしたけれど、程よく体の力が抜けてて動けない。なんでぇ?
「な、なっ」
『初めてであれだけの力を一気に放出したのだ。体にも影響は出よう……慌てなくともよい。これを飲めば回復する』
そんなこと聞いてないんですけどっ。最初に言っておいてよぉ。
声にならなくて心の中でさんざん詰っておく。うん、聞こえてない、よね?
八日坊様が差し出してくれたのは、小さな竹筒。時代劇とかで忍者が持ってそうなあれだ。
受け取ろうとしたけれど、手に力が入らなくて、結局八日坊様に飲ませてもらってしまった。……なんかちっちゃな子供みたいで恥ずかしいんですけどっ。
でも、そのお水の霊験あらたかで、あっという間に体の隅々まで力がいきわたるのが分かった。ゲームなんかでよくある回復ポーションみたい。
ようやく起き上がって、八日坊様の膝の上から解放される。……あったかいお布団だと思ってたのが八日坊様の体だったとか、めっちゃ恥ずかしいんですけどっ。痴女かわたしはっ!
もしかしてあのまま寝る選択をしてたら、八日坊様の腕の中で寝ることになってたの?
いーやーっ!





