悪趣で笑む
なんちゃって古文です。
佛教は殆ど理解していません。
間違いがあった場合は指摘してください。
沸舎大門潜るし歩みを止み門見返りて、彼胸に手を置き頭垂れ無言の礼、頭上げ歩む心後悔不知、門の内彼望みし苑不在、荒涼たる苑在るのみ、志在りし日今は何処、彼望みし沸道の心、悟りの意、されど僧房に在りし門徒八正道遠く五戒近し、故に涅槃不見、門徒の意違ひ彼悟りに近づかんとす、門徒彼を見阿呆と罵り笑うのみ、彼流類無く四面楚歌この事なり、彼瞑想を友とし、唯静心とせんとす、されど瞑想不晴、教え乞う大師無し、無為に入りし幾代過ぎしかな、時しも、彼托鉢行いし時、民と言ふ交はし勤修の知れぬ心知る、民は己を知り自然を知る、彼愛しきと心に染む、彼ややむなり、精進し賤の汚れ不交、清水如き心以て、佛陀の如く解脱し輪廻の苦を終ふ、悟りと知るべし、彼僧房の色貧を知り、驕りを知り、僧房に思ひ叶ふ事無し、門外に出ず事思ひ立つ、彼行脚真の行と信を成す、今彼此処に在り。
彼行く方無くとも安けく脚軽し、民と語ひ心知れば、彼心震えんを感ず、晴れ知れば雨を知り、雨感ずれば晴れを感ず、自然の流るるがまま、吾身心の流るるがまま、自然の如く瞑想心入り易し、然りければ涅槃容易しと彼思ふなり、されど彼の思量驕り他ならず、彼の行ひ僧房の驕りを知るに似、彼其れ思ひ及ぶも無く、唯驕りに溺れるのみ、人同じなり、人の悪行知り、我が悪行不知、彼解脱を語りし時、佛陀の言に不似、佛陀の心不知、虚在るのみ、されど民有難き言葉と彼に報謝し、寄進多き終わる事無し、彼の笑み終わる事も無し、今は彼賤しむ門徒と変わる処無し、誰笑えず吾身と知るらむ。
雨降りし日の事、彼宿し古き寺に寄りし時、篤しかる者に逢ふ、病者曰く、”我死を不望、生きるを望む”、されど病者命尽きる事人皆知るが如し、病者の手取り彼曰く、”我貴君の健やかなり事よもすがら神佛を祈らんとす”、病者彼の言葉知り笑みて彼も又笑むなり、彼の祈り虚しかり、病者命の炎散りが如く苦しぶ、驕りなる祈りに力無し、此れ自明の理、時に下卑な笑い聞きし、彼聲の主を見付くも何処にも不居、奇しき事然り、声更に響かん、眼凝せれば幻を見るらん、其処に居ずるは鬼なり、彼鬼を睨鬼彼を睨む、然して鬼曰く、”汝の御魂我に近し、汝今生終わりしまで我が共行かん、汝手を捧げ”、彼曰く、”鬼御主下愚也、我悟り知る者也、我鬼の道行かず”、鬼曰く、”笑止、汝驕りを覚え悟り不至、病者が為祈祷心無き言葉、此れ御魂穢れし証、汝我が共行かん”、彼怒りて手にし石鬼に投ぐ、鬼打ち笑ふ事痴れ者如き、鬼曰く、”汝其の行ひまさに御魂穢れし証なり”、彼無言と為りて身を震ふのみ、鬼笑みつつ曰く、”直ちに病者死す、汝死を使ふに不至、其汝の限りなり、我三度問ふ、汝我が共行かん”、彼唯首を振るのみ、鬼笑ひて影薄く曰く、”汝我を呼びし時、我汝の許に行かん”、やがて鬼消えなむ、彼跪きて身不動、病者鬼心付かず息の下曰く、”我死を知り死待つのみ、御坊に問ふ、我が魂奈落に行かん涅槃に行かん、我知る事欲す”、彼曰く、”貴君の御魂涅槃に行くのみ”、されど彼病者の御魂行く方不知、病者彼の虚言聞きて安堵を以て死す、彼の経鬼の心在りて、頓て彼の心鬼と等しくなるらむ。
此れも又自然と言ふ。
了




