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老人がゆっくりと慎重に廊下を歩いている。右手で壁の手すりにつかまりながら、左手は介助者の手を握りながら、一歩一歩を確実に踏みしめて歩みを進めていた。
左手を握るのは易国間だった。その二人の様子を、風浦は後ろをついていきながら見守っていた。
やがて食堂に入っていき、老人と易国間はテレビの前に設置されたソファへ向かう。老人が座面の前で腰を落とそうとすると、易国間は正面に立ち、老人の両手をしっかりと握る。老人もしっかりとその手に力を込め、易国間の手を離さないようにする。慎重に腰を落とし、座面に尻がついたことを確認した老人は握った手から力を抜くと、易国間に礼を言った。
「おう、すまねかったな新人さん、忙しいとこだばって」
「いえ。……それでは」
その場を後にした易国間は風浦のもとへと戻った。
「どうだった?」
「うん、初めてにしては上手だったよ、しっかり手を握ってあげてたし。何かにつかまってないと怖がるし、そのせいでバランス崩して転んじゃうことも多いから。ただ、もう少し声をかけながら介助したほうがよかったかな。そういえばさっきの人の名前は?」
「あっ、訊くの忘れてた」
「そう、ちゃんと名前で呼べるようにしておかなきゃ。今のは山中さんだよ。足腰はだいぶ弱ってるけど、向上心があって車椅子は使いたがらないんだ」
「へぇ、珍しいな」
「そうだね。身体が弱ってくると、どうしても自分で動くのを億劫がるようになっちゃうからね。山中さんみたいに、自分からきちんと歩いたり歯を磨こうとするのはすごいことなんだよ」
「今、洗面所で歯磨いただろ、終わったら毎回ああやってチェックするのか?」
「そうだね。自分で磨ける方でも、歯垢が残ってないか職員がチェックすることになってるんだ。もちろん、自分で磨けない場合は職員がするし、三食とも食後は毎回ね」
「結構しんどいなぁ、一日三回は。口の中見る方も見せる方も」
「大先生がよくおっしゃってたんだよ、口腔ケアは丁寧に行うようにって。入れ歯の方も少なくないし、全員の口の中見るわけじゃないから。
……それでだ、昼食後にはバイタルチェックをしなきゃならないんだ。今テーブルでやってるんだけど」
風浦が指さした先では、イヴが老婦の左手首に何かを巻きつけた。それを見た易国間は風浦に訊ねる。
「あのでっかい腕時計で測るのか?」
「そう。あれが血圧計なんだよ。手首に巻きつけるだけでいいんだ」
「便利なもんだね」
老婦は黙って左腕をテーブルの腕に投げ出している。イヴは隣に座り、何かを書きとめていた。
「吉岡サン、腕ヲ胸ニ持ッテキテ……ソウデス」
イヴは老婦の手首を胸の前に持ってこさせた。測定が終わると、イヴは血圧計の文字盤を覗きこみ、再び何かを書きとめた。易国間は風浦に質問する。
「あれって測定した数値を書いてるのか?」
「そうだよ。これも記録に残さなくちゃいけないから。……さて、僕もやんなくちゃな」
風浦はイヴのもとへ行き、テーブルの上にいくつか転がっていた血圧計をとると、ソファで休んでいた老人たちの血圧測定を始める。どこからか、数値を記入するための用紙を取り出しながら易国間に言った。
「易国間君、血圧の測定もコツがいるから、まずは僕の後ろについて見ててくれ」
「はい先輩、わかりました」
ソファの傍でしゃがんで仕事をする風浦の後ろで、易国間は立って見学する。テーブルでは、イヴが別の老婦から体温計を預かろうとしていた。
「森野サン、終ワリマシタヨ。体温計ヲコチラニ」
「はいどうぞ。……それよりねぇ、イヴちゃん。背中が痛ぇのさ、背中、気持ち悪ぃくて。またジュクジュクしてるようなヒリヒリしてるようなさぁ、薬塗ってけねが」
「Oh……! ソレハ大変デス。スグ白川サンヲ呼ンデキマス」
イヴは預かった体温計をテーブルに置くと、食堂を出ていった。
すぐにイヴが戻ってくる。その後ろには、白衣の上からエプロンを着た、五十代後半くらいに見える女性がついてきていた。疲れているような呆れているような表情だった。
「森野さん、それじゃね、一回お部屋戻りましょ」
「いやぁ、白川さん来てけたんだば、助かったでゃ~」
白川は慣れた手つきで森野を立ち上がらせ、手を引いて食堂を後にする。森野は安堵した様子だった。その光景をボーっと眺めていた易国間は、風浦に注意される。
「易国間君、ちゃんとやり方見てる?」
「あ、ああ、ごめん」
「そうだ、測定は僕がやるから、君はそれを用紙に記入してってくれ。……うん、そうしよう」
風浦は、易国間を自分の隣にしゃがませると、紙とペンを渡す。血圧計の数値を風浦は読み上げて、それを易国間は記入していった。そうして、一通りバイタルチェックが終わった頃に、白川に手を引かれた森野が食堂に戻ってきた。
「いやぁ、だいぶ楽になった。いつも申し訳ねぇな、白川さん」
「いえ、大丈夫ですよ。……イヴ、ちょっといい?」
「ナンデショウカ……?」
白川はイヴを一瞥すると、名前を呼んで一緒に食堂を出ていった。
「よし、これで終わり。僕たちもお昼にしよう」
風浦は、易国間の記入した用紙を全て確認し終えて、そこで仕事を切り上げた。
二人が事務室へ戻ると、誰かを叱りつける女性の声が響いていた。入居者がいるエリアではないため、事務室では存分に冷房を効かせていた。だが、それを必要としないほど室内の空気は冷え切っていた。
「イヴ、あんたね、覚えてくれなきゃ困るの、こっちは忙しいんだから。いちいち呼びつけないでくれる?」
「デスガ……トテモ痛ガッテイマシタノデ……」
「森野さんの背中くらいみたことあるでしょ? もう治ってるでしょうに」
「ケド……オ薬ハ……?」
「塗ってない。塗らなくていいんだもの。なだめて落ち着かせるだけじゃない、そんなの介護職の仕事でしょ? ……ああ、風浦君、あなたにも言っておくわ、森野さんいるでしょ?」
「はい、さっき痛がってたみたいでしたね、床ずれなんでしたっけ」
「そうなんだけど、もう治ってるし傷もふさがってるから。本人すごく痛がることもあるけど、あれ、思い込みが酷いだけなの。なだめて落ち着かせるだけでいいし、なんなら適当に軟膏でも塗っとけば大丈夫」
「そうだったんですか、てっきりまだ痛んでるのかと思ってました」
白川の言葉に、風浦は目を丸くした。
「だから、介護職の仕事の範囲で充分対応できるからね。聞く耳持たないならオロナインでも塗っとけばいいよ、褥瘡の措置にはあたらないから。
……えーと、隣の子が新人なんだっけ」
「はい、易国間です。よろしくお願いします」
「看護部長の白川です。何かあったら、円君や風浦君が頼りになるから。……じゃ、私はお昼に」
「あの、ひとつ訊いてもいいですか」
「え、何?」
矢継ぎ早に要件を言い終え、歩き出そうとした白川を易国間が呼び止めると、看護部長は露骨に不機嫌な表情を見せた。
「先月の五日、大先生が亡くなった日は何をされてました?」
「はぁ? 何それ。……私、お昼いただくから」
白川は易国間の質問には答えずに事務室を去った。たった今まで白川が立っていた場所で、イヴは落ち込んだように俯いていた。
「だから、そんなこと訊くなよ! どうしても知りたいなら円さんに頼めって! 大体、白川部長はマズイんだから!」
風浦は易国間に詰め寄ったが、厚かましい新入職員はケロッとしていた。
「円さんには後で頼むけど、どっちにしろ当日出勤してた人には訊いて回らなきゃないんだから。先に聞けそうな人には聞いた方が早いよ」
「そもそもそんなこと聞くなよ……大体、部長は当日休みだったんだから」
「なんだ、そうなのか。というか、部長がマズイってどういうこと?」
「気難しいところがあって怖いよ、仕事はできるけど。あっちは看護師だから、こっちは下に見られてるし。この世界はそういう上下関係ハッキリしてるから」
「へぇ、看護師もいるのか、介護施設って。部長ってことは看護師で一番偉いのか?」
「そういうこと。特養とか、他の施設でも最低一人は看護師をおくことになってるんだ。今は部長が出てくれてるけど、看護師も交代しながら一人は常駐するようにしてる」
「じゃあ、大先生が亡くなった時に出勤してた看護師は? 休職してたんだっけ?」
易国間が問うと風浦は一瞬、口を噤んだ。
「……もう辞めたよ」
「え、辞めたの?」
「伊介と入れ替わるような形で、先月末にね。真田さんっていうんだけど。心労が激しすぎて、立ち直れなかったみたいだ」
「大先生が亡くなった当時、本人に接してたんだっけ?」
「そうなんだ。だからといって犯人と決めつけるのは……」
「違イマス! 殺シタノハ真田デス!」
それまで黙り込んでいたイヴが二人の会話に割り込んできた。風浦と易国間は勢いに気圧されてしまう。
「ちょっとイヴ、落ち着いて……」
「風浦サン、アナタマデメアリィヲ疑ウ!? ワタシ許サナイ。イクラアナタデモ」
イヴは怒りに燃える瞳で風浦を睨みつけていた。
「あのう、イヴさんでしたっけ。その日のメアリィさんのこと、ご存知でしたら詳しく教えていただけませんか?」
「ちょっと伊介、だからしゃしゃり出てくるなよ」
風浦を無視して易国間は喋り続けた。
「僕は今日入ったばかりの新人ですから、その日のことは何も知りません。だからこそ、新しい発見ができるはずです。その発見がメアリィさんのためになるかもしれませんよ?」
口を挟んできた易国間に戸惑いながらも、イヴは言葉をつづけた。
「ソウイウコトナラ……。メアリィハ、ソノ日ノオ昼ハ、食堂ヤ居室デ食事ノ介助ヲシテイタソウデス、イツモドオリニ。デスガ、久我山サンガ大変ナ状態ニナリマシタ。ソレガ十二時半スギのコトダソウデス」
「そうなんですってね。他の方もおっしゃっていました。ちなみに大先生は昼食は何を召し上がったんですか?」
「オ粥トオ茶デス。調理室カラ持ッテキテ介助ヲシマシタ。キレイニ完食サレタソウデス。食事ノ前後デ変ワッタ様子ハアリマセンデシタ」
「そうですか。続きをお願いします」
「ハイ……。ソレデ、久我山サンハ、天谷サン達ガ対応サレテイタソウデス。メアリィハ他ノ方ヲ、ゴ自分ノオ部屋ニ〝避難〟サセテイタソウデス。大便ガ食堂ノアチラコチラニ飛ビ散ッテシマッテイタノデ、ヤムナクソウシタソウデス。
西棟ト食堂ヲ往復シテイタ時ニ、メアリィハ真田カラニ呼ビ止メラレマシタ……『大先生ノ点滴ヲオ願イシタイ』ト言ワレタンデス」
「真田さんがメアリィに点滴を頼んだ? 大先生に打つ分を? 自分でやらずに?」
「ソウナンデス。真田ハ菅野サンカラ呼バレタノデ、ソチラニ向カワナケレバナラナカッタソウデス」
「菅野さんが真田さんを呼んだ……看護師でなければいけなかった事情があったんですね。じゃあ元々、菅野さんにその事情を相談したのは誰ですか?」
「森野サンデス」
「そうだったのか、天谷さんが久我山さんの介助をしていた裏で、森野さんが菅野さんに背中の痛みを訴えていたのか。そりゃ真田さん呼ばなくちゃいけないよなぁ、うん」
風浦は納得したように、ひとりごちた。
「え、でもおかしくないか? 白川部長は、さっき床ずれは治ってるって言ってたろ」
「森野さんは二ヶ月くらい前に入居されたばかりなんだよ。別の特養にいたらしいんだけど、そこで酷い扱いを受けていたらしくてね。床ずれもそこでできたものらしいんだ。移ってきたばかりだし、痛々しい傷跡が残っていて本人がまだ痛みを訴えるんなら、若先生や白川部長だってすぐには断定できないのかもしれない。
正直、介護職も本当の性格を掴みかねてるところがあるんだ。たぶん、森野さんは寂しがり屋なんだよ。痛みを訴えれば、みんな構ってくれるから。もしかしたら背中は治っていても、頭の中でだけ『背中が痛い』って信号が出ているのかもね」
「頭の中でだけ信号、ってそれは認知症なのか?」
「僕からはなんともいえないかな、診断を下すのは医師だから。
ただ、例えば認知症の方は足を骨折してても痛みを感じないのか、構わず歩きまわることだってあるんだ。身体の症状と頭の中で出る信号がチグハグになってるっていうかさ。その最たる例は久我山さんだよ。普段は車椅子を使わないと移動できないのに、何かのきっかけで、突然ものすごいスピードで走ったりするから」
「恐ろしいもんだな、耄碌した頭ってのは。……それで、イヴさん。真田さんが森野さんの部屋へ行かなければいけなかったので、メアリィさんに点滴を任せたってことですね。
……でもおかしくないですか? 森野さんの部屋から戻って来てから点滴をすればよかったんじゃなかったんですか? メアリィさんが断っていればあなた方に疑いはかかりませんでしたよね?」
だが、易国間の問いを引き取ったのは風浦だった。
「まぁ、森野さんを落ち着かせるのに時間がかかるかもしれないって考えたらなぁ。高齢者の点滴は時間がかかるし、始める時間も終わる時間も若先生からきっちり指示があったはず。もしも時間がズレたり遅れたりしたら困ることになるなって真田さんも思ったんじゃないかな。特に、その日の午後に若先生が来ることになってたから、指示された時間どおりに点滴を始めて、時間どおりに終わらせるためにはメアリィにお願いした方がよかったと判断したんだろう。
そもそも点滴なんて介護職がやっていい仕事じゃないよ。今更こんなことを言ってもしょうがないけど、メアリィは拒否すればよかったんじゃ……」
「……私タチハ母国デ看護師ヲシテイマシタカラ。点滴クライハ任セテモヨイト真田ハ判断シタノデショウ。ソウ思ワレテイタ、ト考エレバ拒否デキナカッタデショウ。モシモ、私ガメアリィノ立場ナラ同ジコトヲシテイタト思イマス」
「点滴ってそんな時間かかるかなぁ。オレが昔やったときは三十分もかからなかったと思うんだけど」
「そりゃ子供や若い人ならすぐ終わるけどね。高齢者は点滴一回で三時間が目安、なんていわれたりもするんだよ」
「え、そんなにかかるの?」
風浦の言葉に易国間は目を剥いた。
「体が弱ってるんだから、慎重に、ゆっくり行わなくちゃいけないんだ。特に、大先生は前日に体調を崩されてたんだし、そのくらいはかかるだろうね。それに、パックの残量や液の落ちる速度を見れば、この点滴は何時に始めたか、どれくらいの進捗度か、なんてことはすぐにわかるはずだよ。もし若先生が来診された時、若先生が思ってるよりも点滴液の残量が減ってなかったり、落ち方が速すぎたり、みたいに不自然な点があったら、間違いなく真田さんの怠慢だってことで厳しく追及や叱責もされるだろうし。若先生は他人のミスには厳しい人だから。
大先生の点滴を、始める時間を遅らせて自分でやるよりも、近くに看護師がいるんだったら時間通りに始められるように、メアリィに頼んで引き継いだ方がいい、って真田さんがその場で判断することは充分ありえると僕は思う」
「なるほどね。それで真田さんはメアリィさんに点滴を託した……。あれ? イヴさん、さっき私たちは看護師をしてました、って言いました?」
「エエ、ソウデス。インドネシアデ看護師ヲシテイマシタ。私ト、メアリィ、クリス、三人共デス。デスガ、日本トハ様々ナ面デ違イハアルノデ、母国ノ技術ガソノママ通ジルワケデハアリマセン。メアリィハ必死ニ点滴ノ処置ヲシマシタ。
点滴ヲ終エ、部屋ノ外ニ出ルト、談話室ノ入口ガ大便デ汚レテイテ、パンツガ落チテイマシタ。ナノデ、メアリィハ、ソコヲ片ヅケテ掃除ヲシナクテハイケマセンデシタ」
「はぁ!? 談話室って西棟の真ん中にある部屋だよね。そこもウンコで汚れてたの? この時、食堂もウンコだらけで、廊下を渡ると西棟にもウンコ。クソまみれじゃないか、この施設は!」
茶化す易国間を風浦とイヴは黙殺した。
「君島さんだったよね、確か。談話室の隣の自室から、トイレに行こうとして失敗したようだったけど、本人は否定してたんでしょ?」
「ソウデス。メアリィニハ君島サンガ失敗シタヨウニ思エタノデ、ソウ記録ヲツケタソウデス。君島サンノ部屋ノ前モ汚レテイマシタガ、ナゼカ、ズボンハ汚レテイナカッタノデ、自分デ着替エタンダロウト言ッテイマシタ」
「君島さんは一人で食事もできるしお風呂も入れる方だから、汚れたら自分で着替えるだろうね。でも、トイレ失敗するなんて珍しいなぁ。汚れたパンツだって放置しそうにないんだけど、普通は。高齢者が失敗したときって、そのことをすごく恥ずかしがるから、汚れたパンツをどこかに隠すことが多いんだよ」
「談話室前ヲ掃除シテイルト、真田ガ戻ッテキテイテ、点滴ノツケ方ヲ怒ラレタソウデス。真田ガ点滴ノ処置ヲ手直シシタソウデス。スルト円サンガ、食堂ノ掃除ヲ手伝ッテホシイト言ッテキタノデ、食堂ニ行キマシタ。ソノ後二時前頃ニ、大先生ガ亡クナッテイタノデ、警察ヲ呼ブコトニナッタソウデス」
「なるほど。大体の流れはわかりました。確認ですけど、点滴つけたときは当然、まだ生きていたんですよね?」
「ソウデス。半分眠ッテイルヨウニ、目ヲトジテグッタリシテイタソウデス。ゴ自分カラ、起キ上ガッタリ声ヲ出スコトハ無ク、横ニナッタママジットシテイタソウデス。間違イナク呼吸ハアリマシタ」
「その後、メアリィさんは大先生の部屋に戻ってはいないんですね?」
「ソウデス」
「……確かに、点滴に異物が入っていたと考えるのが自然だなぁ。ねぇ邑間、点滴液の袋に異物を入れたら、どこかしらに不自然な穴くらいは開くよね?」
「僕に聞かれてもなぁ。それこそ、白川部長に聞いた方が早いけど、そんなこと答えてくれるわけないだろうなぁ。僕たちが部長を犯人扱いしてるみたいに思われるし、部長からの心象悪くなるのは嫌だなぁ。そもそも、点滴の袋に細工してたら警察が見つけてるよ。……こっそり聞いたけどさ、点滴に使った物は全部、くまなく調べたけど怪しいことは何も無かったんだって、当然だけど。そんなの見つかってたら犯人も捕まってるっての」
風浦の嘆きに、イヴも頷いて同意を示した。
「イヴさん、その時間帯に西棟にいた職員はメアリィさんと真田さんだけですか?」
「ハイ……。イヤ、江藤サンガ洗濯ヲシテイタノデ、洗濯室ト物干ヲ往復シテイタ、ト言ッテイマシタ。タダ、円サンヤ菅野サンモ西棟ニ来タリ、アチコチヲバタバタ走リ回ッテイタハズデス」
「まぁ非常事態が重なってしまえばなぁ。人の出入りは激しくなるよね。伊介は点滴を設置した後に大先生の部屋に入った人間が犯人、とか考えてるんだろ、どうせ」
「うん、まぁね。それもあるよ」
「でも特定はかなり難しいと思うよ。大先生の部屋の前に見張りをつけてたわけじゃないから、実質誰でも出入りできるような状態だし。極端な話、外からの部外者だって入ろうと思えば入れるし。突発的に仕事が重なって、職員みんなが忙しさに終われてたら、侵入者がいてもスルーされちゃうね、間違いなく」
「弱い年寄りばかりなのに、防犯体制は案外、杜撰だよね」
「耳が痛いね」
「……ヤッパリ、真田ガ点滴ニ何カ仕掛ケタンデス、他ノ人ニデキルワケナイ」
イヴは一人納得するように呟く。
「まぁ看護師だったら点滴の扱いも充分心得てるだろうしね。警察を欺くくらいの細工だって思いついたって不思議はない。なぁ邑間はどう……」
「あんた達何を喋ってんの? 探偵のつもり?」
事務室の出入り口付近には眉を顰めた白衣姿があった。それを認めた風浦は、苦虫を噛み潰した顔で呟く。
「げ、白川部長……。……いつからそこに?」
「今食べ終わって戻ってきたんだけど。
……風浦君と、えーと……易国間君だっけ、一応忠告しておくけど、そのフィリピン人の言うこと信じたらダメよ。言わせてもらうけど、真田さんに点滴に細工なんてできるわけないし、する理由も無い。理由があるのは施設長、それか施設長と通じてるフィリピンの三人」
白川は冷酷に言い切った。
「施設長の指示で、メアリィが点滴に何か混ぜたに決まってる」
「えっ!! 嘘!?」
思わず風浦は声を上げた。イヴは母国語で白川を激しく罵った。易国間は声を出さずにニヤリとする。
「大先生の遺産目当てでしょ、どうせ。それを施設長と山分けするって魂胆で、こっそり手を組んで。
紀子先生も、そろそろあんな小娘には我慢しきれなくなってる。それで戸湊家から離縁される前に大先生を殺したんでしょ、敏明先生に遺産が入るように。入ってしまえば色仕掛けでいくらでも引き出せる」
「No!! 大先生ニハ感謝シテイル、恵理耶ニ言ワレタッテソンナコトはシナイ!」
「ほら、ボロ出てる。施設長って呼ばなきゃ怪しいから。そうでしょ、二人共」
白川は突然、風浦と易国間に同意を求めた。風浦は返事もできずに固まってしまった。看護部長は低血圧であるかのような冷淡な話し方をするのだった。その上でオブラートに包まず、直接的に断定する語り口には独特の怖さがあった。
「あのー紀子先生とか小娘ってどういうことですか? それで、それらと施設長はどういう関係なんですか?」
易国間は全く物怖じせずに、右手を挙げて白川に率直な質問をぶつけた。思わず風浦は大きく目を見開き、声を出さずに口の形だけで「バカヤロウ!!」と易国間を叱りつけようとする。
白川は額に手をあててハァ、と呆れたように息を吐いた。
「……なんでそんなこと説明しなきゃないんだろ。まぁいいや、イヴに言われっぱなしも癪だし。
……紀子先生は大先生の奥様。昔は市立病院の副院長も務められてたお医者様なの。それで、今の施設長は誰だかわかるでしょ? あの二十歳そこそこの小娘」
「ああ、もしかしてあの人か? 面接の時、やたらケバケバしい女の面接官がいたっけな、ずーっとスマホいじってて」
「面接の様子は知らないけど、たぶんそれ。それが恵理耶で、ここの施設長。敏明先生の奥様ね」
「ああ!! そうだったのか、だからあの場にいたのか」
「伊介、やめてくれよ……。なんか話がこじれてくる」
易国間は一人納得した様子だったが、風浦はため息を吐いた。
「若先生の嫁だから、ここの施設長やってるのね、そうかそうか。……あれ? なぁ邑間、あんな若い娘に介護施設の責任者が務まるのか? 大丈夫か、ここの施設!?」
「大丈夫なわけないでしょう!? 代替わりしてからムチャクチャよ、なにもかも。大先生が築いたものが、全部台無し。本当嫌になる」
風浦の代わりに返答した白川は、心底呆れかえった様子で愚痴をこぼす。
「大体、若先生って本当ダメ。大先生と違ってこっちの施設のこと、というか専門外のことは全部人に丸投げで責任もとろうとしないし。大先生も大先生よ、介護施設引き継がせるなんて無茶だったのに。本当、息子の教育以外は完璧だったんだけどなぁ。
……代替わりしてから、施設の評判も落ちてきて経営も傾いてきてるし。人件費安いし看護師だからって、なんで好んでフィリピン人なんか雇うかなぁ!! 大先生は殺されて、真田さんみたいに優秀な人は辞めてくし。……ほんっと、いい迷惑! この国から出てけばいいのに!!」
イヴは白川に、捨て台詞のように罵声を浴びせると、力いっぱい引き戸を開閉して事務室を飛び出していった。詳しい内容は理解できなかったが、Fワードが含まれていることは易国間と風浦にも聞き取れた。
「はぁ~、疲れる。……二人も思わない? 看護や介護って、ミスが許されない繊細な仕事でしょ、技術の面でも心の面でも。そこにね、文化や考え方が全く違う外国人絡ませると現場が混乱するだけ、たまったもんじゃない。国とか県の政策で、東南アジア辺りから看護と介護の人材受け入れたりしてるけど、本当困るのよ。他の施設でも東南アジアからの出稼ぎ受け入れてたけど、そこの場合、絶対早出も残業もしないし利用者と揉めたりしてすぐ辞めちゃったって。出稼ぎなんてスナックだけにしてほしいわ」
「は、はぁ……そうですね……」
風浦は一応同意を示した。
「イヴさん達は若先生が直接採用決めたんですか? だったら誰かが若先生とイヴさん達を引き合わせたってことですか?」
「さぁ、知らない、そんなこと。敏明先生だって言わないだろうし」
易国間の質問には取り合おうとせず、白川は事務室を後にした。




