19
易国間は湯呑の茶を淹れ直し、一口含む。それから言葉をつづけた。
「まずは、そうだな。大先生が殺された方法からいこうか」
「本当に『殺された』と断定していいんだね」
「自殺や事故ではない、その二つの可能性を潰してみようか。
大先生が亡くなった当時、主に接触していたのはメアリィさんと真田さんだね。他の職員と入居者は食堂にいた。あ、江藤さんは洗濯だったね。それから、自室で休んでる人もいたな、君島さんだっけ。それで、メアリィさんが点滴の処置を終えた十三時一分までは生きていて眠っていた。十三時五十分頃に真田さんが亡くなっていたのを発見した。その約五十分以内に凶行が起き命が奪われた、証言を組み合わせるとこうなるね。大先生の死因は体内から見つかった界面活性剤。施設内ならそこら中に置いてある消毒液にも含まれているから、消毒液を体内に注入するのが一番手っ取り早い。
もしも大先生が自ら消毒液を体内に注入して自殺を計ろうとするなら、その直前に怪しい行動をとらなければならないし、何らかの器具を使用した形跡が見られるだろう。真田さんやメアリィさんが部屋に出入りしているんだから、コソコソ自傷行為をすることはできない。怪しい行動が見つかれば、真田さんかメアリィさんが止めている。そもそも、眠っていたら自傷行為はできない。大先生は昼食を摂ったあと、点滴処置を受けている最中は眠っていたのだから、自傷行為に移ることはできないと考えられる。
真田さん、もしくはメアリィさん、またはその両方がグルになって大先生の自傷行為を助けた可能性、そのために嘘の証言をした可能性、これらも考えられない。メアリィさんは、点滴処置を終えた後は一度も大先生と接触していない。談話室の掃除、君島さんの後始末、食堂の清掃に終われていたね。また、メアリィさんの後で生きている大先生に接触した人間がいなくなると、当然自分が疑われる。メアリィさんの立場からすれば、偶発的に発した自分の点滴処置の際に大先生の死に加担する行動を取っていれば、真田さんが途中でチェックしたり点滴を終えた時や敏明先生の往診の際で死が発覚する。当然メアリィさんが疑われることになる。
真田さんは十二時五十二分に森野さんのもとに呼ばれ、十三時十二分に戻ってきて手直しをした。十三時一分からの約五十分以内のうちに大先生に接触したのは、森野さんのもとから戻ってきて点滴を手直しした時、その後十三時五十分頃に点滴の様子を見に行ったときは、すでに亡くなっていた。じゃあ真田さんは点滴を手直ししたときに大先生の自傷行為をサポートしたか、でなければ眠っている大先生に消毒液を注入しただろうか。仮にその十三時十二分の段階で、真田さんは大先生の消毒液自殺を幇助、あるいは消毒液を用いて殺害を図ったとする。手直しをして、メアリィを叱責した。そのことこそ、真田さんが大先生の死に加担する意思を持ってはいなかった証拠といえる」
「どういうこと?」
「そもそも、本当に真田さんが大先生の死を望んでいるならば、十二分の段階で戻ってきた際に手直しなんかせず、点滴処置が誤っていても見て見ぬふりをして、こっそりと大先生を死へ誘う幇助または行動を行えばいいだけだ。その時、メアリィは談話室と君島さんに構っていた。わざわざ話しかけて、呼びつけ、メアリィの注意を大先生に引き戻させてしまった。もし大先生の死に加担していたなら、メアリィに『自分が手直しした』と注意する必要は全くない。それは自分で自分の首を絞める言動になるよね。黙っておけばよかったんだ。そうすれば、最後に接触した人物、つまりメアリィさんにすべての責任をおっかぶせることができる。だからメアリィへの注意こそ、真田さんが死に加担する意思を持っていない証拠といえるんだ。大体、真田さんが死に加担しようとするなら、大先生の容体に気づく時間を遅らせて引き延ばすなりなんなりでもっと工作を図るだろう」
「だったら真田さんが点滴の手直しをした十三時十分以降に亡くなったのだから、その実質四十分間に部屋に入った人が犯人……?」
「その前に、事故の可能性ね。点滴輸液は厳重に管理されていたし、消毒液が混入する可能性も低い。製造工程で異物が混入した、という話も聞かない。室内にも消毒液はなかった。誤って混入することはないといっていい。
……ところで、真田さんが点滴の手直しを終えた十三時十二分以降に亡くなった、その仮定は正しくないよ」
「えっ、なんで?」
易国間の指摘に風浦は目を丸くした。
「真田さんは点滴の手直しをしただけだ。生死の確認をしたとはいっていない。もしその時に、息があるかないかだけでも確認していたら、その後の結果は違っていたかもね……。
だから、あくまで十三時一分から、十三時五十分の間に殺されたと仮定すべきだ。次に犯行の方法だ。寝ている老人の体内に消毒液を入れて殺害するうえで、最も手っ取り早く、手軽で簡単、低リスクかつ少量で即効性がある方法は?」
「……注射?」
「そう。消毒液を経口摂取させて殺すのは非現実的だ。せいぜい嘔吐させるのが精一杯。目や鼻粘膜も難しい。直腸に突っ込むとしたらパンツを脱がす手間もあるし、せっかく入れても肛門から流れ出てしまえば意味がない。血管に注入するのが一番だ。人体の血液循環は体内を一周するのに約一分しかかからない、これは中学の理科でも習うことだね。即効性も申し分ない。だけどそれには注射器や同等の機能を持つ器具が要る。『犯人は、十三時一分から約五十分以内の間に、消毒液を大先生の身体に注射によって注入した』。まず、このことがいえる」
「注射、血管に注入できるような器具……やっぱり点滴かなぁ……それらを扱えるような人といえば……医者か看護師……? えっ、じゃあ、まさか……」
風浦は犯人と思しき人物の顔を思い浮かべたのか、サッと顔から血の気が引いていった。
「一旦、点滴から離れようか。よくあるタイプの注射器であれば扱えるのは医者か看護師に限るわけじゃない。須田さんだって自分自身に注射してるんだ。まぁ、インスリンは皮下注射だから血管には入れてないんだけど」
「だけど注射器を入手するといったら、クリニックに行くしかないだろ、施設内に医療器具は置いていないんだし」
「クリニックに黙って空き巣でもするか、それとも適当な口実を用意していくか。高リスク過ぎるね。クリニックでは薬品も医療器具も在庫の個数などを点検しているし、使わないときは施錠するなどキッチリ管理している。隣から拝借するより、個人的に入手して持ち歩く方が現実的だ」
「は? 何言ってんのさ、ありえないよ」
風浦は、いかにもバカバカしいといった口ぶりだった。
「個人的に入手? そりゃ工業用とか実験用ならネットでも簡単に買えるよ。でも、医療用となると、医療関係者じゃないと買えないんじゃなかったっけ。個人が入手するなら、医師が出した処方箋とかそれなりの正式な書類が必要なはずだよ」
「いやいや、それ以外でも医療用のルートはあるよ。ネット通販でもキチンと探せば、処方箋や書類なしで買えるさ。店頭で買えるところもあるけど、ここいらのような田舎にはそういう店は無いな。ネットを使わないとすれば、薬物の売人だね。どこから流れてくるのやら、クスリとセットで買うこともできる、ツテさえあればね。
……いやぁ、本当に怖いものだよね。オレたちの身近にも薬物の魔の手は忍び寄っている、決して他人事じゃないんだね。純朴な田舎の若者など格好のターゲットだろう、気をつけなければいけないね、オレたちも。
ダメ、ゼッタイ。薬物打たずにホームラ……」
「いや、どうしたんだよ急に。こんな田舎でも薬物が流通してるの?」
芝居がかった調子で薄っぺらい文句を述べ始めた易国間に風浦は訊ねた。
「邑間が言ったんじゃないか。施設で研修あったんだろ?」
「え……。言ったけどさぁ、それが大先生と関係あるの?」
「大アリじゃないか、注射器を用いて大先生を殺害した犯人は薬物中毒者なんだから」
「はぁ!?」
風浦の両眼球が飛び出しそうになった。易国間は平然とレーンからプリンを取り、さっそく手を付けながら言葉を続ける。
「そもそも、血管を狙って注入するなんて相当の技術が必要だろう。皮膚の上から適当にブスッと刺したって狙い通りの効き目がシッカリ現れるかどうかわからない。確実に仕留めるなら、静脈の流れに乗せないと。施設全体があんなバタバタ騒がしかったのに、誰にも見られずに大先生を殺そうとするんなら、一~二分で手早く済ませる必要があるだろう。静脈注射技術に長けた手練れの犯行さ」
「注射技術に長けているなら、なおのこと医療従事者でしょ……」
「注射は医師や看護師だけの専売特許じゃないさ。プロの看護師にだって不器用で注射が下手クソな奴はゴロゴロいるだろ? アマチュアのヤク中にだって上手に血管を探り当ててキッチリ針を差し込むプロレベルの技術の持ち主はゴロゴロいるさ。それに、貴重なクスリは一回一回を慎重に、集中して打つだろ? 技術向上の伸び率はそこらの看護師の卵よりヤク中の方が優れていたって不思議はないさ」
「そんなことあるのかなぁ……」
易国間の論を聞いている風浦は半信半疑、疑がやや強く、三信七疑といった様子だった。
「大体、施設に薬物中毒なんているわけないだろ?
まさか、大先生を恨んでいたヤク中があの日のドタバタに紛れて侵入したとか……?」
「はぁー……」
易国間は大きくため息を吐きながら、プリンのカップを脇に寄せた。
「なんでわからないんだ? いるじゃないか身近に」
「いや、誰だよ!? ……まさか、栄養剤として打っている入居者がいるのか?」
不安げになった風浦を見て、易国間は悟ったように続けた。
「……そうか、見慣れてしまって逆に気づかないのかもしれないね。入ったばかりのオレはすぐに気づいたよ、一目で怪しいと感じた。だけど、他の職員には見過ごされていたのかな、そこにいることが当たり前になると。あまりの激務で、自分たちの身の回りを見つめ直すことすらままならないのかな」
「だから誰なんだよ!? わかんないよ!!」
しびれを切らした風浦が声を荒らげた。
「邑間、不思議だよ。本当に気づいてなさそうで。
……江藤さんだよ。彼が大先生と円さんを殺害した」
* * *
風浦はポッカリと口を開けて呆然となった。言葉が出ない様子だった。
「……全国に蔓延しつつある最近流行りの安価なドラッグ、いくら研修で習っていたところで当の職員が手を出してるんじゃ全くの無意味だね。普段からそのクスリと注射器を携帯して、コソコソ常用していたんだろう。彼は、元気で活発に仕事をするときもあれば、ひどくボーっとして注意力を欠いたりすることもあるんだったね。それはクスリの作用と副作用によるものだ。マジメそうに見えるが本来の彼の性質はおとなしく、介護の仕事はおおよそ不向き。クスリの力を借りて無理やり仕事に自分をアジャストさせていたんだ。
そして何より、夏場の重労働で汗だくにも関わらず、止めようとしない長袖シャツ。円さんや邑間を始め、半袖シャツを着用している職員ばかりだというのに、彼だけは頑なに長袖を着続けていた。どう考えても腕を出せない理由があるとしか思えない。袖をめくってみればわかること、グロテスクな注射痕が現れるはずさ。またヤク中は、じっとりとした玉のような汗をかく。普通の汗とは異質なものだ。夏場に長袖を着続けることで、多少はカムフラージュの効果もあった。そんな小手先の工夫でだましだまし仕事を続けていたんだ。それでも、クスリの力を借りていては本当のスキルは身につかない。仕事をしていくうえで、乗り越えるべき障壁はいくつも出てくる。彼はその障壁を正当に乗り越えるのではなく、邪心をもって取り壊すという暴挙に『打って』出た。その暴挙の結果、二つの尊い命が奪われた。
……信じられないといった顔だね」
風浦はゆっくりと頷いた。その能面のような無表情は、易国間の話を聞き流しているようにも、ジックリ受け止めているようにも思われた。
「当時の江藤さんの動き方を振り返ってみようか。まず彼は洗濯のために、西棟廊下を行ったり来たりしていたね。入居者は二十人にも及ぶから、結構な量だし重労働だ。懐に注射器を隠して洗濯室を物干を行き来しながら大先生に近づく機会を窺っていた。殺害を実行するなら、その日ほどベストなタイミングもなかなかない。点滴によって死んだと思わせられる、ひいては真田さんに罪をおっかぶせることができるからね」
「……待ってくれ、その日真田さんが点滴をすることなんて、必ずしも江藤君に知らされているわけじゃないはずだよ。それは看護師で綿密にやりとりはするけど、介護職にわざわざ連絡することでもないから。突然、目の前で点滴が始まり、そこで機転を利かせたの?」
「いいや、江藤さんはその日の朝に知っていたよ、昼食後に大先生が点滴されることを。事務室のキャビネットに引継用メモを挟むバインダーがあるじゃないか、誰でも簡単に読めるようになっているんだから、それを見れば大先生が何時にどんな処置をされるのかなんて一目瞭然だ。誰かから聞くことだってあったろうし。いずれにせよ、午前中のうちには点滴があることを知っていたんだ。その時間になるまで、注射器の中身を消毒液に換えて機会を待っていればいい。
そして、真田さんが点滴の処置に入る時間となる。一番簡単なのは、真田さんがすべての処置を終えて退出した直後に部屋に入る。大先生の左腕肘関節には点滴器具がつながっているね。その器具のやや上あたりにでも狙いを定めてブスリと刺せば万事終了だ。普通の採血やワクチンを打つ時だって何度か針を刺し直すことはある。円さんが大先生の亡骸に触れた際、左腕の注射痕が痛々しいなんて言っていたんだけど、その中の一つは江藤さん持込注射針によるものだ。さらに運よく眠ってくれていたから〝仕事〟は楽に済んだことだろう。」
「もしも『運よく』起きていたら……? 大先生はすぐに怪しいと気づかれるぞ、江藤君が注射器を握っていたら」
「その時は無理にでも眠らせておけばいいさ。昼食で摂るべき水分量の計算を間違えてしまったのでこちらをお召し上がりください、とか口実を作って一服盛ったお茶でも出せばいい」
「え、一服盛るってお茶に消毒液混ぜるの? それは効かないって……」
「いやいや、お茶に混ぜるのは精神安定剤や睡眠薬のような心を落ち着かせる薬だね。それで眠らせた後に、血管に注入すればいい。そういった想定で江藤さんは動いていたはずだ」
「そんな……睡眠薬なんてどっから出てきたのさ?」
「江藤さんの懐からさ」
「はぁ?」
風浦は再び、ポカンと口を開けて戸惑った。
「睡眠薬も持っていた? なんでそんなことわかるんだよ。というか、なんでそんなの持っていたのさ、卑怯だよ」
「円さんの時には実際に薬を盛ったからね。後で詳しく話すけど、円さんのものであるように見せかけたうえで。
……そもそも、だ。ちょっと話が脱線するけど、君は薬物の売人だとする。目の前にいるオレに薬物を売りつけたい。さぁ、どうやって売りつけようか、セールストークをかけてみよう」
「今度は何言いだすんだ? 次から次にわけのわからない話を……」
風浦は混乱し、頭を抱えた。
「まぁまぁ、まずやってみてよ。ほら、オレにドラッグを売りつけて」
「えー……? じゃあ……。
……ねーお兄さん、ドラッグやってみないかい、元気出るよー」
顔を紅潮させた風浦は棒読みでセールスを始めた。
「え、ドラッグ? 嫌だよ、怪しいし。ドラッグなんて危険なもの、オレはやらない、さよなら!
……はい、終了。全然ダメ」
「いや、だから何だよコレは!?」
恥ずかしさをごまかすためか、風浦は声を張り上げた。
「だから、売人の気持ちを感じてもらうためだよ。今のやり取りでわかったね、唐突にドラッグを買わないか、と持ち掛けても怪しまれて断られるのが当然だ。そのまま通報されたっておかしくない。それでのってくる奴はすでに立派な中毒者だ。借金してまで薬物を求め、警察にもマークされている可能性だってある、実入りは少ないのに高リスクな相手だ。せっかく商売をするならば、薬物未経験の新規顧客を見つけて中毒者に仕立て上げ、骨までしゃぶりつくしてドブに沈めた方がいい。どんな商売でも一緒だね。セールスマンの宿命、新規開拓だ。こんな真っ黒な商売だって、新規顧客を増やしていかなければ、事業は立ち行かなくなっていく」
「だから、なんなんだよ? 売人の気持ちなんてどうだっていいよ!」
「まぁまぁ、それでだ。邑間がやったように、ただ○○を買え、何々を買えと押し売りされたって誰も買いたくはならないことがわかったと思う。それじゃあ、今度は立場を入れ替えてみようか、オレが売人をするから、邑間はそこらへんの若者の役をやってくれ。薬物などに興味は無い、清純で純朴な青年の役だ」
「……別に設定はどうでもいいよ。とっとと終わらせてくれよ」
「それじゃ、さっそくいくよ。……よーい、アクション!」
易国間は、映画の撮影現場でカチンコを鳴らすように手を叩いてから演技に入った。
「……やぁ、お兄さん、こんにちは。どうだい、調子は……? おや、目にクマがあるよ、だいぶお疲れのようだね」
「はぁ? う、うん、まぁ……」
「それに頬もこけてるなぁ、うん。ひどくお疲れのようだ、仕事かい?」
「まぁ、そうだね……」
易国間は胡散臭い調子で語りかけ、風浦は戸惑いながら返事をする。
「都会の方じゃ、大企業の新入社員が過労死しちまった、なんてニュースで言ってるよね、毎晩のように真夜中まで残業してたっていうし。どんな業界も大変だ、うん。お兄さんも真夜中まで残業?」
「真夜中までっていうか、夜勤の時は夜通しかな……」
「あら、夜勤か! そうか、夜勤は大変だよねぇ。お兄さんは看護師さんかい? でなきゃ、この辺なら工業団地の方かな」
「いや、僕は介護だよ」
「介護か! そりゃ骨が折れるだろう。ただ、お年寄りの生活を支える立派な仕事だ。この国じゃ高齢化が叫ばれて久しいけど、介護の担い手はまだまだ少ない。君のように有望な若者が頑張ってくれるのはこの国の未来にもつながっていく。本当に素晴らしい仕事だ、頭が下がるよ」
「いやぁ、そうかなぁ……?」
風浦は照れるように微笑みを見せた。易国間はそれを見逃さず畳みかける。
「ただ、それも健康な身体があってこそだよね。お年寄りを立たせたり、寝かせたりとかなりの重労働であるうえ、日勤や夜勤など出勤の時間は不規則だ。せっかくの休みでも、きちんと身体を休めることは難しいと聞くよ。身体を休めるには睡眠をキッチリ摂らなくちゃならないよね。生活リズムが不安定な中だけど、君は毎日シッカリ眠れてる?」
「うーん、どうだろう……。四~五時間かなぁ」
風浦の返答に、易国間はわざとらしく深刻そうな表情をした。
「うわぁ、そりゃ少なすぎるよぉ!? よく身体がもってるなぁ、大したもんだ。……だけど、このままじゃいけないよ。今のうちはよくても、身体に疲労はたまり続けていくんだ。身体に違和感を覚え始めたらもう遅い、取り返しがつかない事態になっている。それに身体だけじゃない。睡眠不足は精神にも悪影響を及ぼすんだ」
「えっ、どういうこと?」
「眠りたいのに眠れない、どうしても朝早く目が覚めてしまうなど、睡眠不足は代表的なうつ病の兆候だ。君もよく知っているだろう、近年うつ病は高齢者にも広がっていて、まさに国民病といっていい。それから、ある統計では、自殺者の平均睡眠時間が割り出されているんだけど、何時間くらいだと思う?」
「え……三時間とか?」
「実は、五時間なんだ。まさに君の睡眠時間と一緒じゃないか! 君は君が自覚している以上に、実は身体も精神もボロボロだということがわかるね。そんな状態では質の高い仕事はできないし、君が壊れてしまう可能性が高い。仕事で接するお年寄りにも、何より君自身にも悲しい結果となってしまう。なんとか少しだけでも睡眠を増やすべきだよね」
「えー……? でも、もっと寝ろなんて言われてもなぁ」
「そのとおりだ。いきなり睡眠時間を増やせ、なんて言われたところで勤務の体系や時間は変えられない。とどのつまり、どうするべきか……? それは睡眠の質を高めるほかないんだ」
「睡眠の質?」
「そう。睡眠にはレム睡眠、いわゆる浅い眠りとノンレム睡眠、いわゆる深い眠りがあることはよく知られているね。深い眠りをシッカリとらないと身体や精神の健康は保てないんだ。短い中でも、深い眠りの割合を増やすことが睡眠の質を高める、ということだね」
「深い眠りを増やすなんてなぁ……」
「そうだよね。眠りを自在にコントロールすることはとても難しい。特に、夜勤明けで帰ってきて次の出勤は早番で出る、なんて時は、眠れたとしても実は浅い眠りしかとれていないことが多いんだ。そんなときに、深い眠りに落ちやすくなる方法があったら、元気で仕事は続けられて、健康も損なわないよね?」
「そうだね。だけどそんな簡単にいくわけが……」
「……実は今、そんな君にピッタリなものがあってね。なんと、寝る前に飲むだけで、気持ちを落ち着かせて睡眠の質を高めてくれる。そんなスゴイ栄養素が入ったサプリなんだ。試しに一度使ってみない?」
「うーん、そういうのはちょっとなぁ……」
「ヴィタミンやミネラルの錠剤や粉末がよくあるだろう、ああいうのと似たようなものだよ。もちろん癖になるような心配もない。例えば、明日は早番出勤、しかも残業まである。なのにもう夜十二時、どうしても寝つけない。そんな時にあるととても役立つよ。
健康を損なわないためのお守り代わりとしてでも、一回分家に置いておくだけでも安心できるだろう。さぁ、試しに一回分だけ、遠慮せずに持っていきなよ」
「うーん、だけど……高いんじゃないの? こういうのって」
「はい、カット! ……ここからのクロージングは簡単だ。まんまと買わされてしまったね、邑間」
うっすら笑みを浮かべながら、易国間は再びカチンコ代わりに手を叩いた。
「え、なんなのこれ……。しかも長いし」
「まぁね、上手い奴はもっと短くまとめあげるだろう。なんだか健康食品の通販みたいになってしまったけど、まぁいいか。商談成立といっていいだろう。
まずは相手の情報を引き出すことだ。今オレは、君の仕事には夜勤があること、介護の仕事であること、君の睡眠時間を引き出したね」
「そうだけど、それがどうしたの?」
「その引き出した情報こそ重要なんじゃないか。その情報に合わせて、つまり君の現状の悩みや不安に合わせてトークを組み立てたんだから。オレは得た情報をもとに、健康に対する不安を煽って睡眠の重要性を説いた。顧客の真の悩みや不安を引き出して、その解決のためと称して本来は不要な商品やサービスを売りつけるのがセールスだ。そしてまんまと君に睡眠薬を売りつけた」
「え、睡眠薬? サプリでしょ?」
「あちゃー……」
易国間は額に手を当て、顔をしかめた。
「危険な薬物を扱う売人が、『これはドラッグです』なんて言うわけがないだろ? 危険な薬物の名称をアイス、チョコ、スピードと隠語で言い換えるのは買わせる時に抵抗感を和らげるためでもあるんだから。今、僕は『サプリ』と表現したけど、これなら抵抗感なく服用できるだろ?」
「確かに。スーパーやコンビニで簡単に買えそうだ」
風浦はハッとした表情になった。
「実態は睡眠薬だとしても簡単に持たせることができる。このようにして江藤さんは睡眠薬を入手した」
「え、腕に注射するドラッグじゃなくて?」
「おそらく入手したのは睡眠薬の方が先だ。確かによく効くんだろう、円さんにもシッカリ効いていたからね。精神安定剤のような効果もあり、ほどよく依存性もあるのだろう。……さて、売ってもらった薬を飲むと効果は抜群、毎日スッキリ、身体も調子がいい。江藤さんはこの売人に対してどんな印象を抱くだろう?」
「……いい人に見えるね」
「そのとおり。この売人の言うことを信じるようになってしまい、クスリを買うことに抵抗がなくなる。そうなればしめたもの、どうやら調子がよくなったみたいだね良かった良かった、今度はコレを試してみようか、お次はコチラ、とトントン拍子に売りつけていく。そして、強力で危険な薬物もホイホイと繰り返し買うようになり、気づけば立派なヤク中のできあがり。最初の精神安定剤・睡眠薬は、いわばゲートウェイドラッグとして本当に売りつけたい商品の前段階として売人たちに用いられる。江藤さんはまんまと売人の戦略に引っかかってヤク中と化した。わかってくれたかい、脱線が長くなってしまったけど」
「……なるほどね」
風浦は小さく頷いた。
「さて、本線に戻ろう。大先生を殺害するために江藤さんが練った計画を説明したね。真田さんが点滴処置後に入室して、ブスリ、慣れていれば二分もかからない。それで実際に起こった出来事だが、当然計画通りにいかなかった。
その日の昼頃、偶発的に発生した出来事は久我山さんの弄便とそれに伴うパニック、森野さんの痛みの訴え。江藤さんの計画に関わるのはこの二点かな。洗濯のやり直しは考慮外でも問題ない、仮に無くても何らかの理由をつけて西棟をウロチョロし、点滴の様子を探っていればいい。
洗濯室と物干を行ったり来たりしながら真田さんの点滴の様子を探っていると、久我山さんの弄便の騒ぎが始まる。その音は西棟にいる江藤さんの耳にも入ってきているはずだが、それはひとまず気にせずに、真田さんの観察を続ける。やがてメアリィさんが西棟入居者を自室へ連れ戻す。それと並行して、菅野さんが真田さんを呼びに来る。真田さんはメアリィの姿が目に留まり、点滴処置を依頼。メアリィは大先生の部屋へ入室し、点滴処置。真田さんは菅野さんと共に森野さんのもとへ向かう。ここまでで十二時五十二分。
江藤さんは、西棟を歩き回りながら考えた。真田さんであれば、処置が終われば即座に退出するだろう。しかし、メアリィが大先生の処置をするとなると話が変わってくる。点滴処置後、一旦は食堂に戻るが、また大先生の部屋に戻らないとも限らない。大先生の部屋から出たら、しばらくの間は再入室させないようにしたい、どうすべきか……。
江藤さんは西棟を歩き回りながら考えた。食堂の方まで歩いたに違いない。すると幸運にも、あるものが目に入った」
「あるものって?」
「まさに『幸ウン』だった。久我山さんの脱ぎ捨てられたパンツだ」
風浦の目が大きく見開かれた。
「それって、もしかして記録に残っていなかった……!?」
「そうだ。江藤さんは漏れた便の入ったパンツを持ち去り、中身を談話室前にぶちまけた。パンツを居室の前に捨てて、その部屋の住人である君島さんの失敗に見せかけた。江藤さんは西棟南側、物干か正面玄関付近にでも待機して、メアリィが出てくるのを待つ。
ちょうどこの頃、円さんが起きてきて食堂の異変に気づくが、事務室から直接食堂に向かった。そのために、西棟廊下の惨状には気づかない。結果、大先生の居室を出たメアリィが談話室と君島さんの部屋の前の汚れに気づいて、そちらの処理に取りかかる。ここで十三時一分。この隙に江藤さんは大先生の部屋に侵入し、針をブスリ。二分もかからなかっただろうか。まぁ、遅くとも十三時五分までには部屋を出て、何事もなく洗濯に戻ることができるね」
「じゃあ、真田さんが戻ってきたときにはすでに……」
「もう息絶えていたか、昏睡状態か、だね。点滴処置の乱れを直すことにしか目がいかなかったのは真田さんの怠慢ではない。さっきも眠っていたんだ、変わらずに目を閉じて横になっていたら眠り続けているとしか見えない。真田さんが責めを負うようなことは何もないんだ。
それで、メアリィさんの方では談話室前を清掃し、君島さんの着替えをさせようとした。当然、メアリィさんはそのことだって記録に残している。久我山さんの便がついたパンツの記録だって紛失してはいない」
「久我山のパンツの記録は、君島さんのものとして記録されていたのか……」
「そして、点滴を直した真田さんはメアリィさんに注意をする。その後に円さんが、メアリィと江藤さんを食堂の清掃に呼ぶ。その後は、真田さんや円さんの言ったとおりだ。結果として江藤さんは、まんまと自分の罪を人になすりつけることに成功し、事件そのものもうやむやになった。しかも、自分はほとんどリスクを負っていない。凶器となった注射器を持ち歩くのは危険だ。他のゴミとまとめてレジ袋にでも突っ込んだら、そばのコンビニのゴミ箱にでも捨てればいいさ。入口に設置されてる大きなゴミ箱の中身なんて、いちいち開けて確かめる店員などいないからね」
「……」
風浦は言葉を発することができなかった。声すらも出なかった。
「次に円さんの殺害方法について。こちらも話は簡単だ。円さんの飲物のペットボトルに、ゲートウェイとして入手した睡眠薬を混ぜる。江藤さんは昨日、日勤だったからミーティングが終われば帰宅時間、フリーに動けるね。他に出勤していた人たちや夜勤担当の邑間は仕事に取り掛かっているし、誰も江藤さんの動きに注目するようなことはない。介護の現場には使い捨ての手袋は必須だ、二枚ほど拝借すれば指紋などつかないから存分に円さんの飲物に触ることができる。全体ミーティング終了後の各リーダーとの話し合いの際、でなきゃ何かしら口実を作って円さんの机に近づくなど、円さんのペットボトルに薬を混ぜることは容易だ。円さんはそれを持って宿直室へ。一口飲んでから横になったか、ベッドで寝ながら口に含むか、どちらにせよいつもの仮眠より、ずっと深い眠りについた。江藤さんはそれを確かめてから眠る円さんに近づき、腕にブスリ。後は帰路につくだけだ。今回も、凶器はコンビニのゴミ箱にでも捨ててしまえばいい。どちらのケースでも、最も自由に動くことができ、かつ被害者に近づくチャンスがあったのは江藤さんだということがわかるだろう」
風浦はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「……伊介の言うことは確かにスジが通っている、と思う。だけど、そう簡単に犯人といっていいのかな……」
「実は、この二人が被害者となったことで、その動機もより明確なものとなっている」
「……どういうこと?」
風浦の問いに、易国間はすぐには答えなかった。
今度は易国間が少し間をとってから、ゆっくりと口を開いた。
「……江藤さんについて、邑間はどう思っているんだっけ?」
「自信なさげではあるけど、おとなしくてマジメだとは思うよ」
易国間は、悔しさを噛みしめるように目を閉じた。
「……それは非常に残念だ。邑間が思っている以上に彼は身勝手で、卑劣で、残忍で、幼稚だった。そして最も唾棄すべき点が、彼はそのことに無自覚である、ということだ。
そもそも、なぜ彼は売人につけこまれてヤク中と化したのか。彼は解消したい不安や悩みを持っていたからこそ、つけこまれた。どんな人間でも、自身が持つ不安や悩みを解消せずにはいられないからね。ではどのようにして、彼の不安や悩みは発生したのか。
……この仕事だね。ドラッグを打って、偽りの活力をこさえてまで仕事に励んでいたんだから。ドーピングしてまでタイムを縮めたいスポーツ選手のような気持ちだったろうか、あるいはまさに、心療内科に通いつめ、精神薬を処方してもらいながら勤務を続けるビジネスマンのような心境かな。マジメさといえなくもないが、方向は誤っているとオレは思うね」
「百歩譲って、そこまでして仕事を続けていて、なんで大先生と円さんを……」
「求められる仕事の質も量も江藤さんのキャパシティをはるかに超えていた。クスリに頼ったところで小手先のごまかしにもならないよ。ミスをする、叱責される、怒られまいと彼なりに取り組む、それが誤っている、叱責される、怒られまいとミスを隠蔽することもあったろう、発覚して叱責される、何かをする、叱責される、怯えて何もできない、叱責あるいは罵倒、放擲、嘲弄……。周りから見ていると、ちょっとしたきっかけで変われそうに思えること。だが本人にとっては、永遠に抜け出せない無限の苦しみのスパイラルだ。一人で思いつめ、追いつめられる。その結果は、本人にとっては当然の帰結でも、周りからしたらとんでもない無謀な愚策であることが多い。
些細なケアレスミスも一大事につながりかねない、気配りや細やかさが求められるよね、この仕事は。合わない人間にはどうやっても合わないものだ。常に完璧な仕事を求められ、どんな相手にも丁寧に接遇しなければならないが、特に大先生にはひときわ念を入れなければならなかったろう、どんな細かい点にも気づかれる、ものすごい人だ。それも江藤さんの成長を願ってのことだったし、小宮さんや円さんもその意図を理解して指導されていた。だがドラッグに手を出してまで我慢し続けていた江藤さんは、ついに追いつめられとんでもない愚策に出た。それが大先生の殺害だ」
「江藤さんの心情はそれでいいとしても、だからなんで大先生を」
「大先生が死ねば、自分が叱責されることはなくなる。そう考えた」
易国間が断言すると、風浦は目を剥いたまま固まった。少し間があいて、ようやく声を出した。
「ウソ……」
「自分の言動をミスと捉える人間がいなければ、それはミスでなくなると考える。自分の欠点を修正するのではなく、解釈を歪めて他に責任を押しつけたんだ。それはフラストレーションを感じると起こる思考の一つではある。
だけど、命を奪うに至るなんて、あまりにも身勝手で幼稚としかいえない。円さんを殺害した理由も同様だ。仕事で何度も注意されたことで、腹を立てた、落ち込んだ、もう失敗したくない、繰り返したくない、そんな気持ちが誤った方向に向かってしまったんだ。決してパワハラとはいえない、業務上必要な範囲での叱責で、だ。こんなくだらないことで命が奪われるなんて、とんでもない、あってはならないよ」
易国間は一人憤慨する。
「じゃあ、小宮さんは……」
「彼女は問題ないよ。前々から仕事を辞めたいということは職員間に知れ渡っていたのだから、手を下さなくても勝手にこの施設を去ってくれる。息子さんが特待生になったことを江藤さんは内心喜んでいただろう、そのうち顔を見なくて済むようになるな、と。むしろ、危ないのは邑間だ。昨日も言ったように」
「僕は関係ないだろう。そりゃ職員に殺人犯がいるのは怖いけど、僕が狙われる理由なんて……」
「理由ならハッキリしているじゃないか。邑間は大先生にも円さんにも認められていたんだ、いわばこの施設にとっては次世代のエースだろう」
「いやぁエースだなんて、そんな」
風浦は顔を赤らめかけたが、易国間の顔つきは真剣そのものだった。
「褒めたわけじゃない、よく考えろ。円さんも言っていたろう、オレの指導役に邑間をつけたときだって『君には後輩を指導・育成するスキルを身につけてもらわなければ』と」
「だから、それがどうしたのさ」
「円さんも小宮さんもいない、そうなれば当然、異動なりなんなりでチーム構成や統制も変化させる必要がある。邑間は数少ない正職員で現場の経験も豊富、貴重な男手だ。『風浦君を西棟の担当にして、江藤君の直属の指導役・お目付け役にさせる』、このことを紀子先生や天谷さんが考えないと思うか?」
「え……」
赤く染まりつつあった風浦の表情は、一瞬にして青ざめた。
「円さんが亡くなっていなかったとしても同様だ。オレにしたのと同じように、江藤さんの直上に邑間をつけるという発想は円さんにも当然あったはずだ。仮にその体制がとられていたら、邑間は先輩として江藤さんに厳しいことも言わなければならなくなる。仕事ができない、その改善もできない、そんな江藤さんはどうするか?
……当然、邑間に打つだろう、その幼稚な無自覚の悪意を。繰り返すよ、彼は。自分が他責的だと気づいていないから。すでに二人も亡くなっているんだ、三人目も必ず出る」
易国間がそう言いきると、二人の間に沈黙が流れた。
店内は賑わいのピークを迎えていた。家族連れやカップル、さまざまなグループでごった返し、騒がしかったが、易国間と風浦のボックス席だけは重苦しい沈黙が流れ続けていた。
「……僕はどうしたらいい」
しばらく経ってから風浦が口を開いた。易国間は冷めた茶を飲み干してから答える。
「帰ったらさっさと眠ることだね。いろいろありすぎて混乱しているだろう」
「そうじゃなくてさ……。次、仕事に出るとき」
「次の出勤日、明日だっけ明後日だっけ」
「明後日。僕は早番」
「まず江藤さんを見つけたら長袖をまくってみればいい。肘関節を中心にひどいミミズ腫れがあるはずだ。確認したら通報、それだけだ」
「それもだけど……ちょっと違うな……、なんだろう……。
そうじゃない、なんというか……江藤君について、かな。……できれば、大先生に手をかける前に……どうにかならなかったかな、って」
風浦は慎重に言葉を選びながら、たどたどしく紡いだ。
「ならんね」
風浦のかすかな望みを、易国間は即座に撥ねつけた。
「周りがどうこう言ってもどうにもならない、本人の問題さ。現に、円さんも小宮さんも、何度注意したって改善はされなかったんだから。無理にクスリを打ちながら、ギスギスしながらやっていくぐらいなら、とっとと江藤さんが辞めていたた方が互いのため、いや、入居者にとっても誰にとっても最善だろう」
「……せっかく縁あって入職できたのに?」
「縁もなにもないさ。彼やオレのような人間は引きこもって証券取引でもやっていればいいのさ」
「だけど、頑張っていれば……」
「頑張る、努力する、苦手を克服する、社会人として。そもそもさ、なんでそんなことしなくちゃいけないんだろうか」
易国間は新しい茶を淹れて一口飲む。
「オレにはずっと疑問だったよ。外に出て、社会に出て、誰とも親しく交流を深め、笑顔を作って一生懸命、ミスせずたゆまず怠らず、気配り忖度忘れずに、毎日毎日仕事に励む。そうしなければ大人でない、人でない。年を取ったらそれが当然、社会人にならなくては。立場、肩書、厄介な人間関係、必死に偽りの自分を演じ続ける。当たり前のようにみんなやってて、社会に自分を合わせていく、それもいとも簡単に。オレにはできそうもないな、って昔から思ってたんだ。生きていくのに、本当に必要なのかな、って思ってたんだ。本当に息苦しいんだよ、オレはこの社会が。邑間も少しは思うだろ?」
「そりゃ辛いことはあるよ。だけど頑張らなきゃ、生活だってあるんだし」
「そのとおり、生活はある。だからオレはネットで証券取引を始めたんだ。スキルも経験も成長も必要ない、金だけでオレは充分だ。一日三時間も取引すれば充分に毎月やっていけるようになったよ、それなりにコツを掴んだからね。家賃食費にその他の固定費、税金年金おまけに貯蓄。支払いは滞ったことは一度もないし、貯蓄だって同世代の平均貯蓄額以上に積み上げている。充分すぎるくらいだ。オレの錬金術には余計な人間関係や社会との関わりなんて不要だ、むしろそんなもの錬成の邪魔なんだよ。仮にオレが外に働きに出ていたら、江藤さん以上に悲惨な結果になっていただろう。殺人は犯さないにしても、どこに行ったってトラブルばかりで仕事も人間関係もメチャクチャさ。オレや江藤さんのように、社会に出ない方がいい人間だっているんだよ」
「そうかなぁ……。っていうか、伊介はもう働きに出てるじゃないか」
「まぁまぁ、細かいことはいいじゃないか。……そろそろ帰ろうか、混んできたし夜勤明けには辛いだろう。もう食べる気だって起きないだろうし」
「うん……」
易国間がお会計のボタンを押すと、すぐに店員が皿を数えにやってきて勘定書を置いていった。易国間はそれを取るとまっすぐレジへ向かい会計を済ませた。
風浦は思いつめた表情のまま易国間の後を追い、一緒に店を立ち去った。
* * *
週明け月曜朝八時過ぎ、快晴だった。有料老人ホーム花千流里の正面玄関から出てきたのは易国間だった。振り返ることもなく歩を進める易国間を、追いかけて来た風浦が呼び止めた。
「おいどういうことだよ! いきなり辞表を置いて、辞めるだなんて!!」
「どうもこうも……最初から就職する気なんてサラサラなかったよ。邑間の言ったとおりだ。オレは大先生の不審死を調べに来ただけだよ、それも個人的な好奇心だけでね。悪かった、引っ掻きまわして」
歩みを止めた易国間は風浦へ向き直った。頭に血が上っていた様子の風浦は、開口一番、素直に謝意を口にした易国間に戸惑った。
「いや……。僕はいいけどさぁ、天谷さんも大久保さんも困ってたみたいだし」
「まだ何も任されてない立場なんだ、引継も何もないんだから困ることもないさ。中途半端に続けられる方が困るだろう。むしろ、邑間こそ辞めた方がいいと思うな。円さんが亡くなったから今後ますます夜勤も超過勤務も増えていくだろう? ただでさえ正職員の負担が激しかったのに。いくら紀子先生が施設長に就任するからって、ここにいると、じき本当に身体も精神も壊れてしまう」
「もうその手にはのらないよ。今度は何を買わせるつもり?」
微笑んでみせた風浦を見つめる易国間に笑みはなかった。
「……そうだ、彼の腕はどうだった?」
風浦は、すぐには答えなかった。
易国間は風浦が再び口を開くのを待った。
「……あったよ、腕。まるで赤黒いコードが浮き上がってるみたいだった。それから黒い注射痕がいくつもボツボツって……壊死してたんだと思う。
すごく痛そうでさ、思わずしかめ面になったよ。それ見たら、憎さとか悔しさとか、なぜか吹き飛んだ。恩人を二人も亡くしたのに、この腕が二人を殺したのに、一瞬そう思ったけどさ……。
それ以上に悲しかった。ただただ痛そうだった。彼は全然抵抗もしなくて、無表情で、何も言わないままだった。だけどなんだか、悲しそうな目だった。諦めてるみたいでもあった。彼の目を見て、彼の腕に触れて、すごく悲しかった。こんな目で、こんな腕で、二人を手にかけたのかな、なんて思ったりもしてさ」
「そうか……。彼はどうするつもり?」
「これから紀子先生がいらっしゃる。まず話を聞いて、それから警察に引き渡すだろうって」
「そうか。また退職者や退去者が出るな」
易国間は目線を上に向けた。玄関のドアのすぐ上に館銘板があり、『有料老人ホーム 花千流里』の表記と鳥のマークがかたどられていた。
「なぁ、あの鳥ってホトトギス?」
風浦も建物の館銘板に目を向ける。
「え? ……ああ、よくわかったね。僕は最初ハトにしか見えなかったよ」
「……花散里ってさ、源氏に長いことほったらかされたうえに、別の女の子供を預けられたりしてんだよな。ここの入居者もさ、家族や社会からほったらかされて、しょうがなく預けられてたりして、なんてな」
「……何の話?」
風浦の問いに易国間は答えなかった。
「そろそろ仕事戻らなくていいの?」
「そうだけど……」
「まぁ、戻りたくはないよな。……オレはそろそろ帰ろうかな、今日も〝錬金術〟に勤しまなきゃ」
「……そうやってさ、いつまでも一人で閉じこもったままでいいの、本当に」
「もちろん。大満足だ」
「……外に出たり人と会ったり、そういう社交的な活動と認知症の発生には相関関係があるといわれている。家族や社会から孤立していて、内向的な人ほど認知症にかかりやすくなる。今はいいかもしれないけどさ、きっと伊介もすぐに認知症にかかっちゃうよ。お金を山ほど稼いだって使いきれやしない」
「その時は……そうだな」
易国間は風浦に微笑んでみせてから言った。
「邑間にオレの介護をお願いしようかな、山ほどの金を報酬として」
「絶対嫌だ」




