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敏一郎の遺産は存在しないことが判明すると敏明と恵理耶の勢いは萎み、そのまま口を噤んでしまった。そうして、なし崩し的に場は解散となった。円と易国間は、玄関で紀子と敏明を見送った。そのすぐ後に恵理耶は帰宅した。
時刻は午後四時を回っていた。
易国間が、一人事務室で四人分の湯呑を洗っていると風浦が出勤してきた。
「あれ易国間君しかいないんだ。……さっき円さんとすれ違った時さ、あの人すごいウキウキで嬉しそうだったんだけど、なんかあったの?」
「まぁそうかもね。さっき、大先生の奥さんが来たんだよ」
「紀子先生がいらっしゃったの!? 僕も会ったことないよ、よっぽど大事な話でもあったのかなぁ」
「うん。来月から施設長代わるんだって、ここ」
「はぁ!?」
易国間は、応接室で知らされた話を一通り風浦へ聞かせた。すると風浦はホッ、と胸をなで下ろした。
「そりゃあよかった……間違いなくこの施設はいい方向に変わっていくよ。円さんがウキウキなのも頷ける。この施設の惨状を、円さんは誰よりも嘆いていたんだし、誰よりも長くシフトに入って仕事し続けていたんだし。円さんの負担だって多少は減るだろうし、もっといい役にだって就けるはずだし。本当に良かったよ」
「そうそう、円さんで気づいたんだけどね。大先生が亡くなった日の午前十一時から午後一時まで、円さんは事務室隣の宿直室で仮眠をとってたそうなんだ、一人で」
「それがどうしたのさ。円さんは誰よりも長く宿直室を使ってるはずだよ。人手不足のせいで、月の半分以上も帰れないことだってあるんだよ、あの人は。宿直室は半分、円さん専用になりつつあるんだから」
「そんなことどうだっていいよ。大体、十二時半から午後一時頃までの間、一番自由に大先生の部屋に出入りできたのは、実は円さんなんだよね。時間、場所、立場、権限などを鑑みて、この施設の職員で最も制約がなかったといってもいいくらいだ。寝ていた、なんて誰にも証明ができない」
「……何が言いたいんだ? 円さんが大先生を殺したとでも言いたいの?」
易国間の言葉は、明らかに風浦を苛立たせていた。
「円さんがそんなことするわけないじゃないか。絶対にありえないよ。誰よりも大先生を敬愛していて、大先生の志を受け継いでいるのは円さんなんだから」
「やけに円さんを庇うね。そんなに円さんが好きなの?」
「僕は円さんみたいになりたいよ、大変そうだけどあんなにこの仕事に打ち込んでいる人は他にいない。円さんは前に言ってた。
……この施設ができてからは、しばらく大先生が施設長をやっていたんだけどね。その頃に円さんは特養から転職した人なんだ。特養って大体、ここみたいな入居型の介護施設なんだけど。月々の家賃とかが安い分、職員の待遇やサービスもあまり質が良くない場合が多いんだ。円さんも前の特養でずいぶんひどい目にあって、うつで休職した時期もあったほどだったんだ。
だけど、ここに転職して驚いたそうなんだ。まず、給料は一.五倍くらいに跳ね上がって、週休二日ペースできっちり休みも貰えた。何より、職員も入居者もいきいき過ごしていた、そのことが一番ビックリしたんだって」
「今とは大違いじゃないか。そんなに大先生が凄かったのか」
「そう。大先生を中心にして、職員も入居者も一つにまとまっていた。カリスマといっていいくらいに。そして、大先生から直接ご指導いただいた内容は、特養で働いた頃には聞いたこともない、目を見張るようなことばかりだったそうなんだ。当然、医師は看護や介護の専門というわけではない。
なのにどうしてここまで、人の気持ちに寄り添えるのだろうと驚くばかりだった。特養にいた頃は、何度も介護を辞めようと考えたけど、大先生のもとで働いたことで、また介護が好きになったんだ。この仕事でやっていこうと決意できたそうなんだ。だから円さんは大先生を尊敬しているんだ」
「ふーん」
易国間は興味がなさそうだった。
「最近言っていたよ。この施設は代替わりして以降、自分が元いた特養の状態になってしまいつつある、そのことが自分は許せないって。だから大先生が現役だったころの『花千流里』に戻したいって。僕もそのことには同感だ。僕が大先生と一緒に仕事をしていた時期は一年もなかったけど、代替わりしてから明らかに質が落ちている、落とさざるを得ないようになっていると肌で感じている。だから円さんと、あるべき姿の『花千流里』に戻したいよ」
「そのために身も心も削りながら、毎日のようにシフトをこなし続けてるのか、円さんは」
「円さんがフル回転してようやく回っているような状態だからなぁ、介護職は。しかも、入居者全員のなにもかもを把握していて、ケアマネの仕事もしている。これは、ご家族と介護の方針や計画を確認するケアプランの作成などが含まれてるんだ」
「そんなこともやってたのか。よく動けるなぁ、そんなに」
「しかも今日は夜勤だからね、円さん。本当にすごいよ」
「えっ、じゃあ今日は先輩と円さんなのか。昨日も今日も早番の時間帯から出てないか、あの人。もっと若い、例えば江藤さんとか菅野さんみたいな結婚もしてないような人が夜勤やったらいいんじゃないの?」
「菅野さんは夜勤入ってるんだけど、江藤君はまだ、ね。入って半年経つし、そろそろ夜勤も任せたいんだけど、仕事の覚えが悪くてまだ任せられないって言ってたよ、円さん。まぁ、彼は今日日勤で出てるからどっちみち無理だけど。菅野さんは、明日夜勤だね」
「パートさんは夜勤やらないんだっけ」
「何かと理由つけて避けようとするね。かなり仕事はできるのに、月に一回も入らない人もいるくらいだ。採用時に夜勤やれますって、言ってきたのにだよ。酷いよね。イヴやクリスも、夜勤は厭わないのに」
「メアリィさんはまだ出れないんだっけ」
「精神的なショックがまだ大きいみたいでね。彼女が出れないのは本当に痛いよ」
「夜勤は二人が基本なの?」
「……いや、本当は足りないんだよ。この施設、入居者は二十人近くいるだろ? 本来は三、四人の職員で交代して仮眠を取りながら夜勤をするものなんだけど、人手不足でしょうがなく二人で対応してるんだ」
「……来月からは負担減るといいね」
「絶対よくなるさ。僕も、もうしばらく頑張れそうだ」
* * *
十六時五十分からのミーティングに合わせ、この時出勤していた職員は全員事務室に集まっていた。円はそのことを確認すると、さっそく口を開いた。
「えー、皆さんお疲れさまです。今日は天谷さん、小宮さん、白川部長と各部門のリーダーいらっしゃいますので、今月の予定確認したいと思います。ですが、その前に。
すでにご存知かと思いますが、今月から新入職員が一人加わっております。まず、その新人から改めて一言いただきたいと思います。それじゃ易国間君、その場でいいから立って挨拶を」
指名された易国間は立ち上がり、全員の顔を見回して確認した。間を取って、充分に引き付けてたから口を開いた。
「えー、易国間です。よろしくお願いします。
突然ですが皆さん、大先生を殺害した犯人は、まだこの施設にいます。第二、第三の殺人が起きかねません、早急に手を打つべきです。ですが、ご安心ください。私には、誰なのかもうわかっています。せっかくなので、この場を借りて提案させていただきたいのですがよろしいでしょうか。
その提案ですが、これより私が犯人の名を申し上げます。警察に連絡し、その人物をさっさと引き渡す。警察が来るまでの間はその人物を、この事務室にでも閉じ込めて見張る、以上が提案の内容です。賛成の方は挙手を、反対の方はそのままで。賛成過半数であれば即座に提案を実行する、簡単な多数決です。
いかかでしょうか、皆さん! それでは多数決、スタート!!」
易国間は一人で盛り上がって、イベントの司会者のように振る舞った。しかし、職員はみな戸惑い、挙手するものはいなかった。
沈黙がしばし流れた後、円が口を開いた。
「……えーと、易国間君。ちょっと、うーん、何をやってるのか……。大先生についてはもう、事故ということで警察が結論付けているので、殺害も犯人もないわけなのですが……とにかく、いろいろ言いたいことができてしまったが、明日に回したい。
易国間君はもう帰ってください、今すぐに。今日はいろいろありすぎて、ちょっと疲れたので明日話します。
……それで、今日の夜勤なのですが、私と風浦君の担当です。ですが、私ちょっと夕食の時間が終わるまで仮眠取らせてください、最近早番から出ることが多くてどうもキツくて、申し訳ないのですが。さっきもお願いしましたが、夕食の介助は遅番の方々でお願いします……」
円は苛立ちながら仕切り、普通のミーティングに戻りつつあった。易国間は指示通りに中座して帰り支度を始めた。
やがてミーティングが終了し、各々が持ち場に戻るなかで易国間は帰路につこうとした。円はまっすぐ宿直室へ向かう。
風浦は玄関先で易国間を捕まえた。
「ちょっと! なんなんださっきのは! 酷すぎるよ!」
「そうだね、酷すぎたよ。まさか、誰も挙手しないなんて。職員みんなグルになって犯人を庇ってるみたいだ」
「何言ってるの!? みんなもう忘れたがってることを蒸し返して思い出させて。しかも今日出てる職員を犯人扱いするなんて……」
「職員が犯人だとは言ってないよ。まだ、この施設にいるというだけで」
「いるわけないだろ!! みんなを混乱させただけ、嫌な思いをさせただけだよ、君のやったことは。
……大体、円さんに謝った? あんな風に帰れって言われて本当に真っ先に帰る奴がいる!?」
「……なんで? 帰れって言ってたじゃないか、だから指示通りに帰ろうとしてるんだよ」
易国間が不思議そうな顔で答えると、風浦はハァ、とため息を吐いた。
「……ありえない。普通は帰っちゃいけない場面だろう? そんなんじゃこの先やってけないよ……。
それだけじゃない、昨日今日で君がとった言動はことごとく、周りに悪い印象しか与えていない。仮に君の言ったことが本当だとしても入職二日目の新人で、しかも悪い印象しか与えていない奴の言うことなんて信用されるわけがないじゃないか」
「……そうだ。円さんは、来月から施設長が変わることを喋ったかい?」
「え? ……ミーティング内では触れてないけど、終わった直後に各リーダーを集めて話し合ってたし、そのことにも触れたと思う。表向きは緘口令が敷かれても、噂ですぐに施設内に広まるね。紀子先生は、大先生の時代に施設を戻してくれる。来月からは君もそんな態度じゃいられなくなる」
「その前に、また死人が出なきゃいいんだけど……」
「なんでそうやって徒に不安を煽ろうとするんだよ?」
「不安を煽ってるんじゃない、警戒を呼びかけているんだ。次の……いや次の次あたりかな、君だって危ない」
易国間はまっすぐ風浦を見つめて言った。風浦は一笑に付した。
「何言ってんのさ……。……もういいや、帰っちゃえば」
「そうさせてもらうよ、先輩。もう一人死なないとどうしようもないみたいだし」
易国間は帰路につき、風浦は仕事に戻った。
この夜、またしても不審な死を遂げた者があった。




