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the crying cuckoo  作者: ンジャバダ・ンジャバダ
15/19

15

 午後十二時半過ぎ、事務室のパソコンでは円が作業をしていた。傍の机では、易国間が円から貰ったシフト表を見ながらプリンを口に運んでいる。二人の他には誰もいなかった。


「そういえば、大先生が亡くなった日に出勤されてた看護師の真田さんって方いらっしゃいましたよね。もう辞められたそうですけど、どんな方だったんですか?」


「私より四歳下だったかな、若いけど真面目で責任感も強い人だったよ。だから大先生が亡くなった後、入居者や無関係な地域の方から心ない言葉を浴びせられたのが辛かったみたいでね……。自分の責任だ、自分が殺してしまったようなものだ、と深く沈みこんでしまうこともあったよ。

 白川部長は、彼女に多く休みを取らせたりしてケアしながら様子を見ていくつもりだったんだけど、彼女の意思は固くてね。退職してしまった。私も頼りにしていたから残念だけど、どうしても本人が辞めたいと言ってきかなかったから。しょうがないよ」


「真田さんが処置する予定だった点滴の最中に、大先生が亡くなったんでしたね。実際に点滴をつないだのはメアリィさんだったようですが。そもそもどういった経緯で点滴をすることになったんですか?」


 易国間が問うと、円は驚きと呆れを込めて目を丸くした。


「もうそこまで聞いていたのか。調べるのが早いな、易国間君は。その情熱を仕事に向けてくれたら嬉しいんだけど、不安があるというならしょうがないか。

 ……点滴は敏明先生の指示だったんだけど……ちょっと待って、メモしたファイルを開くから。警察への報告と再発防止対策会議もしなきゃいけなくて、自分用にまとめたものなんだけどね……。

 えーと、亡くなった前日の夜なんだけど、大先生が体調を崩されたから敏明先生が診察に来られたんだ、それが午後六時過ぎ。それまでの大先生は介助があればゆっくり歩けてて、かなり耳が遠くなってはいたけど、ゆっくりであれば会話もできる、といった状態でね。その夕方から体調を崩して、辛そうにグッタリしていることしかできなくなっていたんだ。それで、敏明先生が診られたんだ。昼間の暑さで体力をもってかれたんだ、疲れているだけだ、休んでいればじきに良くなる、とおっしゃって点滴を打つように白川部長に指示したんだ、その夜に打つ分と念のため翌日昼に打つ分との二回。その指示を受けた白川部長はクリニックから点滴袋を二つ持ってきて、一つはすぐに打って、もう一つは翌日の真田さんへ引き継いだ」


「点滴は隣のクリニックに置いてあったものなんですか?」


「そう。医療器具は基本的にすべてクリニックに置いておくことになっている。使う時は先生の指示と許可が必要だから。

 白川部長は元々クリニックの看護師だったから内部にも精通しているんだ。部長が点滴を取りに行ったときは、まだ数名の事務の方が残っていたそうだ。敏明先生の指示で点滴を取りに来たことを告げて、薬品棚から二袋持って行った。その際、指示に適合した輸液――点滴液のことだ――かどうか、外装に破損は無いかなどを確認したけど異常はなかったそうだ。それで敏明先生は白川部長に後の処置を任せて帰宅。白川部長は点滴を打ち、輸液が空になって完了したことを確認した。それが午後九時頃だ。大先生は寝息を立てて、ぐっすり眠っていたそうだ。夜勤で小宮さんが出ていたんだけど、九時半前に白川部長が帰宅する際に挨拶を交わしている」


「白川部長から真田さんへの引継はどのようにされたんですか?」


「決まった書式の手書きメモがあるから、それに記入していたよ。引継の際は必ずメモを残していて、いつもと様子が違うような入居者がいた時などそのことも記入している。当然、大先生のことも記入していた。点滴を行う時間なども含めて細かくね。ほら、そこのバインダーに挟んである」


 円は室内のキャビネットを指差した。二段重ねのスチール製のキャビネットで、中には大量のファイルや書類が保管されている。引き戸の一つから、マグネットで張り付いたフックが飛び出ていた。フックには何枚もの書類を挟んだバインダーがぶら下がっている。


 易国間はそれを確認すると、質問を続けた。


「翌日の昼に使った輸液はどうやって保管していたんですか?」


「輸液は鍵付きの棚に保管していたそうだ。しまう前にも外装などを点検したそうだけど、やはり異常はなかった。当然、かけた鍵はキーボックスに入れて帰った。

 ……ほら、そこの壁にかかってるよね、施設内の鍵はすべてそこに入っているよ」


 易国間は、東棟に通じる出入口の方を向く。壁にキーボックスが設置されていた。


「キーボックスの蓋はいつも開きっぱなしなんですか?」


「そうなんだ。四六時中職員はいるし、キーボックスの蓋に鍵をつけておく必要がなくて」


「だとしても、なんだか不用心ですね。……そういえば、点滴の中身って何なんですか? 特殊な薬とかなんでしょうか」


「いやいや、ただの水と栄養剤だそうだよ。大先生に打った目的も、水分補給と栄養補給のためだそうだから。……去年かな、都会の方の病院で、点滴に異物を入れられた入院患者が不審死した事件、覚えてる?」


「はい。連続して亡くなったんでしたっけ」


「あの事件では、保管されていた輸液袋の栓に細工がされていたそうなんだ。未使用の輸液には栓に薄いシールが貼ってあるんだけど、そのシールに小さい穴が開いていたんだって。シールの上から穴を開けても中の輸液は零れない仕組みになっているから、そのことを知っていれば輸液中に別の液体などを混入させることは容易い。だから、その事件の犯人は輸液袋の構造を熟知した人間だとされている。結局犯人は見つからず、迷宮入りしているそうだけど」


「ニュースでそのことを見聞きしていたら、大先生の輸液を取り扱っていた真田さんが犯人だと疑うのは当然のことですね。当日の昼、処置の直前に異物を混入させるとしたら、それが一番簡単にできるのはやはり真田さんでしょうか」


「その事件を受けて、全国の病院や診療所では薬品の管理を一層厳しくチェックするようになった。それは、戸湊クリニックやこの施設でも同様だそうだ。現に、白川部長は、点滴を取ってくる時、引継のためにしまう時など、たびたび輸液袋を検めているしね。当然、栓に貼ってあるシールも点検していたそうなんだ。ちなみに警察も調べたんだけど、クリニックに置いてある他の在庫も異常はなし。輸液の製造元の製薬会社でも、同一ロットの同製品に異物混入や異常などはなかった」


「そうなんですか。それで、翌朝までは何事もなかったんですか?」


「そうだね。小宮さんは異常がなかったと報告している。朝六時四十五分、起こしに行った時も顔色はよかったそうだ。まだ疲れているような様子ではあったけど。朝食も昼食も量は少ないがしっかり摂られていた。十二時二十分過ぎ、昼食後に計った脈拍や血圧も一切問題はなかった」


「じゃあ、もし殺害だとすれば全部、昼食後のわずかな時間で行われたってことですね」


「……警察も同じことを言っていた、事故と結論付けたけれども」


「ちなみに昼食はお粥とお茶を召し上がったそうですね」


「そうだね。栄養士の佐々岡さんが工夫してくれて、量は少なくても一杯で栄養を摂れるようにしてくれたようだ」


「当日のお昼に調理室にいたのは佐々岡さんだけですか?」


「いや、パートの相沢さんも出ていたよ」


「調理室にはお二人いらっしゃったんですね。

 ……昨日のお昼に、イヴさんから当時のメアリィさんのことを聞きました。なんでもメアリィさんは食堂から入居者を自室に連れ帰っている最中に真田さんに呼び止められて、点滴を託されたそうです。実際に点滴を大先生につないだのは真田さんではなくメアリィさんでした。そうですよね」


「そうだ。真田さんからメアリィに交代したのは十二時五十二分となっている。食事を摂ったせいか眠っていたけれども、点滴は問題なく行えるようだったから処置に移ったそうだ。だけど、菅野さんに呼ばれて、やむを得ずメアリィに交代した。メアリィはやむなく点滴の処置を行った。結果論になってしまうけど、真田さんは点滴を処置してから菅野さんからの依頼に応えればよかったし、メアリィも請け負うべきではなかった。少なくとも、メアリィ達が非難されることは避けられた……」


 円は一人、パソコンの前で頭を抱えた。


「そして、点滴をつないだメアリィは寝床などを整え直し、大先生にキレイに布団を被せて退出した。

部屋から出ると、談話室と君島さんの居室前が便で汚れていたため、そちらの清掃に手を付けた。すると真田さんが戻ってきて、メアリィの施した点滴を直してメアリィを叱った……」


「そう。メアリィが部屋を出たのが十三時一分、真田さんが戻ってきて点滴の手直しをしたのが十三時十二分のことだ。大先生の部屋に入ると、シッカリと点滴が固定されていなかったため、慌てて左腕に器具を固定し直した。腕の様子を確認すると、部屋を出て、談話室前にいたメアリィを叱った。その直後だろうな、僕がメアリィと江藤君を呼びにいったのは。食堂の掃除を最優先にしなければいけなかったから」


「江藤さんが食堂の掃除に合流するまでは何をされてたんですか?」


「洗濯だよ。本当は午前中に済ませておいてもらわなきゃいけなかったんだけどね。分けて洗わないといけないものを、ごちゃ混ぜになった状態で洗濯して干していたから、僕がやり直すように言ったんだ。物干と洗濯室の間を行ったり来たりしていたそうだ。その最中に、一旦食堂の掃除に加わってもらった」


「真田さんが、点滴の手直しをし終わった後に大先生の部屋に入った方は?」


「誰もいない……はずだ。少なくとも、職員の中では」


「鍵はかかってないですよね?」


「……そうだね」


「十三時十二分、真田さんが部屋を出た後、その部屋に入った方はいない、とします。その次に入室したのはどなたですか?」


「……真田さんだよ。十三時五十分、点滴の進み具合を確かめるために入ったんだ。でも……大先生は、すでに……」


 少しの間、沈黙が流れる。再び口を開いた円の声は、震えていた。


「……真田さんが入室したときには、すでに息絶えていた。キッチリと布団をかけられ、ただ眠っているようにしか見えなかった、と言っていた。そんなことは予想だにしていなかったからだろう、真田さんはパニックになってしまった。

 その頃には食堂の掃除は終わりかけていて、若先生が来る前に終わってよかったと、みんなホッとしていたんだ。そんな時に、私は真田さんに呼ばれたんだよ。いくら名前を呼んでも、身体を揺すっても目を覚まさない大先生を見るのは本当に辛かったし、私もショックで頭が真っ白になったよ。

 そろそろ敏明先生が往診でいらっしゃる時間だったし、仮に亡くなっていたとしても、まず主治医に死亡診断書を作成してもらうべきだ。とにかく、敏明先生に早く来てもらわなきゃと真田さんと話して、ご自宅に電話をしたんだ。でもずっと通話中でね。仕方なく救急に連絡をした」


「ちょっと待ってください。その時、死亡を確認したのは真田さんですか?」


「そう。正式に判定をするのは医師だけどね。脈、心音、呼吸、瞳孔と一通り確認すると、サッ、と血の気が引いていくのが自分でわかったそうだ。慌てて点滴を引っこ抜いて、私を呼んだ。……私も信じられなかったよ。前日の白川部長や真田さんの口ぶりでは『あれくらいの年ならよくあること、またすぐ元気になる』といった感じだった。私も同じ気持ちだったのに……」


「真田さん、引っこ抜いた輸液袋はどうされたんですか?」


「慌てていたんだろう、洗面所に放り投げてしまったそうだよ。そのうち、輸液のことはすっかり忘れてしまったそうだ。警察が居室を検めたときにはもう、空の袋がシンクにへばりついている状態だった。二百ミリリットル入りの輸液だったんだけど、予定通り進んでいたら三時頃に完了するはずだった。実際に、十三時五十分の時点では輸液は半分ほど残っていたそうだ。……本来、居室の洗面から下水に流す、なんていう処分方法はやってはいけないんだけど」


「……それで敏明先生には連絡がつかないまま、救急を呼んだんですね」


「一度、救急が来たんだけどその場で救急隊員が死亡を確認した。それで警察へ引継いだんだ。警察が来たのは十四時二十分くらいだったかな。そうして居室や施設内を調べ始めて。……敏明先生がいらっしゃったのはその真っ最中だった。十四時四十分くらいだったと思う。……いつもどおり、往診に来たら父親が亡くなっていて、何人もの捜査員が施設内を調べまわっていたんだ、先生も呆然とされて言葉が出なかった様子だったよ」


「円さんも直接、遺体を検めたんですか?」


「検めた、というほどではないけどね。看取りに立ち会うのは初めてではなかったけど、なにせ相手が相手だったから冷静ではいられなかったよ。おそるおそる、袖がまくられていた左腕を触ってみたんだ……。

 骨と皮だけの身体だったけど、ヒトの身体らしい皮膚の柔らかさはまだ残っていた。ただ、体温が明らかに生きている高齢者のそれでないことがすぐわかった。高齢者の体温は、若い人のそれよりも低いことが多いんだけどね。肘の関節辺りには針を刺した痕がいくつも残っていた。腕の細さに比べると、やけに針の痕が目立って見えてね、痛々しかったよ。きっと、メアリィや真田さんが、苦労しながら何度も点滴の針を刺し直したんだろう、と今では思うよ。高齢者の血管は細く弱っているから、血管に針を入れるのは技術が必要だということは私も知っていたし」


「救急を呼ぶ前、敏明先生に連絡がつかなかったのはなぜでしょうか?」


「私もわからないよ、白川部長も聞いていない。ただ、警察には言ったのかもしれないけど。その日、午後は休診だったからお昼を過ぎたらクリニックには誰もいなくなる。クリニックに電話をすれば、ご自宅に転送されるんだ。実際に、転送がかかったけど、すぐに呼び出しが途切れた。何度もかけ直したけどダメだったんだ。仕方ないから、ご自宅に直接、知らせに行くしかなくなってね、江藤君を行かせたんだ。若い人なら、走れば二分もしないところにご自宅があるから。

 だけど、何回インターホンを押しても応答はなかったそうなんだ。ただ、高級な外車が玄関の前に停まっていたそうだから遠くに行ってはいないはずだし、もしかしてご自宅の中にいたけれど何か応答できない事情があったのかもしれない」


「……据置の電話機なら、受話器を外してほったらかしているだけでもかけて来た相手は通話中だと勘違いすることもありますよね……。敏明先生の携帯電話にはかけなかったんですか?」


「……残念だけど、この施設の人間は誰も知らないんだよ。この施設もクリニックもご自宅も、簡単に行き来できるほど近いから携帯で呼び出すような事態はほとんど無いんだ。そもそも、敏明先生も教えようとしたがらないし、私も一度聞き出そうとしたけど嫌な顔されたしね。白川部長ですら敏明先生の携帯番号はご存じないんだよ。あくまで、携帯はプライヴェートなもの、という意識があるみたいで」


「そうだったんですね。ところで……」


 易国間は相槌を打つと、手元の紙に改めて目を向けた。


「ちょっと戻したいんですがいいでしょうか。

 ……シフト表を見ると、この日の正午から夕方にかけての時間、出勤していたのは、看護師は真田さん。介護職はメアリィさん、江藤さん、天谷さん、菅野さん、そして円さん。それから事務の大久保さんもか、以上の方々ですね。このほかに、予定外で出勤されていた方はいらっしゃいましたか?」


「いないよ。どこか変な点はあった?」


「お昼の十二時前後から、一時頃なんですけども。真田さんは、大先生の点滴準備をしていた。江藤さんは洗濯。メアリィさん、天谷さん、菅野さん、大久保さんは食堂にいて、食事介助や久我山さんの弄便の対応に追われていた。……円さんは何をされていたんですか?」


「僕? ……仮眠をとっていたんだ、隣で」


 円が指差した先には『宿直室』の室名札が掲げられた小部屋があった。


「大先生が亡くなった当日、私は早番で出ていたんだけどそのまま夜勤もしなくちゃならなくて。

 ……他の職員やパートさんの予定がどうしても合わないし、事務仕事もたまっていたからそうせざるを得なかったんだけど。天谷さんや菅野さんがいてくれてたから、昼食の時間帯はお願いして私は休んでおくことにしたんだよ、十一時から一時の間。起きたらすぐ、食堂は大変なことになっていて、大先生は亡くなってしまった、というわけなんだ」


「円さんが、その時間ずっと事務室にいた、と証明できる方はいらっしゃいますか?」


「何、私を疑ってる?」


 円は怪訝な表情で、マウス操作をする手を止めた。


「残念ながら誰もいないよ。

 ……というか、そういう訊き方や質問はどうなのかな。言葉遣いや態度について、昨日も言ったと思うけど」


「まぁまぁ、昨日も言ったと思いますけど、僕は職場に対する不安を解決したいだけなんですよ。……ところで、真田さんはメアリィが処置した点滴を直して叱ったんですよね。メアリィは母国のインドネシアで看護師をしていて点滴にも慣れていたはずですよね。日本とインドネシアで点滴のやり方に違いでもあるんですか?」


「そのことなんだけど、実は……」


 円は言い淀んだ。口にするのをためらった。だが、決心したように再び口を開いた。


「これはあくまでも噂で確証はない。絶対に黙ってほしい。本人たちに確認するのもやめてほしい。むしろ、私の独り言として聞き流してほしいくらいだ。……わかったね?」


「ええ、わかりました。何も聞きませんので、安心して話してください」


 易国間はわざとらしく言った。


「実は……メアリィ、イヴ、クリスの三人はインドネシアの出身でも看護師でもない、らしい」


「ほお! ……いやいや、何も聞こえなかったなぁ」


 口元に笑みを湛える易国間は興味深げだった。


「あくまで噂なんだけど。……何年か前、駅前のフィリピンパブであの三人にそっくりな従業員が働いていたらしいんだ。その店は、地元の名士も多数訪れる人気店となり、口コミで評判が広まっていった。常連客の中には、行政の部長クラスや、この辺りでは有名な企業の役員、弁護士、もちろん医師もいた。

 だけど、不法滞在の外国人や未成年者を働かせていたことが発覚して、潰れてしまった。その人気を妬んだ同業者からのリークがあった、なんていわれたりもしている。店で働いていた未成年者の中には、エリヤ、という名前の少女もいたんだとか」


「エリヤ……施設長と同じ名前ですね」


 易国間の言葉を無視して円は続けた。


「それから約一年が経った頃、敏明先生は結婚された。二人目の奥様、恵理耶さんは『花千流里』施設長に就任された。同時に施設は、インドネシア出身の職員を三名採用した」


「どう考えてもフィリピンパブで施設長と知り合ってるじゃないですか。……というか、二人目の奥様?」


「そう。敏明先生は一度離婚されているよ。ちなみに前の奥様は、市立病院の柴田先生」


「そうなんですか。……というか、インドネシアからの三人は、結局何人なんですか? フィリピン人? インドネシア人?」


「……僕もわからないよ。店が摘発されているのなら、正規の入国手続きを踏んではいないのかもね」


「え、でも摘発されているなら、なんらかの処分が下りているんじゃないんですか、本国に強制送還とか」


「どうなんだろうね。現にここで働けているんなら問題なかったんじゃないかな」


 円は、三人の出自について興味がなさそうだった。


「仮に不法滞在だとしても私は全く気にしていないよ。彼女たちは真剣に仕事に取り組んでくれていて、何度も助けられている。私は本当にありがたく思っているんだ。パートで入っている年配の職員が、彼女たちに入浴やトイレの介助を押し付けていることもよくある。汚れるし、力もいるから肩や腰も痛んでくる、なおかつ気を配らなければならない大変な仕事だ。

 だけど彼女たちは、一切文句も言わずに応じている。それどころか、誰もが嫌がる仕事を進んで引き受けてさえくれている。一度や二度ではないよ、毎日のように、常にそういう姿勢でいてくれる。

 私は本当に、彼女たちに感謝している。そして、尊敬しているんだ。それには人種も、年齢も、国籍も、経歴も、何も関係がない」


「そういえばメアリィさん、談話室の汚れも自主的に掃除したんでしたね。


 その直前、真田さんから点滴を任された時、素直に応じたのはなぜでしょうか? 経歴についての嘘がバレないようにするためでしょうか、与えられた仕事に対する責任感からでしょうか」


「……私は後者だと信じたいな。この仕事をしていれば、点滴の処置をする場面に出くわすことは何度もある。目の前で処置を見ているうち、見様見真似でなんとなく手順を把握してしまうこともあるだろう。

 ……易国間君は知っているかな、この国では十年ほど前からインドネシアやフィリピンなどの国と協定を結んでいるんだ。国内で看護師・介護士として働くための候補者を受け入れる、という協定なんだけどね。

 例えば、インドネシアから介護士の候補者を受け入れるとする。その候補者には最大で四年間、プラス延長が認められれば五年間、この国の介護施設で働いたり、語学研修を受けるための在留資格が与えられるんだ。そして、その期間中に介護福祉士の試験に合格すれば、引き続きこの国での滞在と就労が可能になる、というものだ。候補者になるためには、母国の学校や大学で専門課程を修了する、ある程度以上の実務経験を積む、などの要件があるんだけど、インドネシアはフィリピンよりも期間などの面では比較的、要件が軽減されている。それから、看護師候補者の要件を満たしていれば、介護士候補者の要件も満たす仕組みになっている。その候補者と雇用したい施設側の間には、国から認められた正式な調整機関が存在して、仲介やマッチング、情報交換を行っている。

 彼女たちが採用される際に、私は敏明先生から聞いたよ、この協定に則って彼女たちはやってきたんだ、と。だけど実際に仕事に就いてもらうと、とてもそうは思えなかったんだ」


「ボロが出たんですか」


「そうじゃない、いい意味でだよ。協定に則って、介護士の候補者を受け入れた施設ではどうなっているかニュースで見たことないかな。

 順調にこの国で就労を続けているケースは数少ないよ。言語や文化の違い、サービス残業や休日出勤が慢性化しているような業界の慣習に適応できなかった例はよく知られているし、四年間の在留中に身につけたスキルがあれば、母国で働いたほうがずっと稼げる、ということもある。看護や介護に関係のない、語学学校の先生として活躍することだって珍しくないんだ。

 だけど、彼女たちは違った。そもそも、話し方が上手すぎる。協定によると、候補生が実際にこの国で就労する前には、母国で半年間語学研修を受けるそうなんだ。そうして、ある程度の言葉遣いを身につける。

 しかし、いくら研修を受けても、実際の会話がすぐできるようになるわけではない、ということは容易に想像がつくよね。患者や施設利用者には、スタッフ個人の事情なんて関係がないから、わかりやすい言葉遣いをしてもらえるとは考えにくい。その職場での上司や先輩が相手の場合だってそうだろう。まして田舎だと、方言がきつくて意思疎通に骨を折ることだってある。当然、就労直後は言葉の壁にぶつかる。看護師・介護士資格試験のための勉強を妨げることにもなりかねないだろう。

 彼女たちは、そんな言語の壁を全く感じさせなかったんだ。入職した当初から、入居者や他の職員との会話がスムーズだった。確かに片言ではあったけど、仕事上の意思疎通で齟齬が発生したことはなかったといっていいくらいだったよ。それから、この国のこの業界の現状として、サービス残業や長時間の勤務がまだまだ横行してしまっている。また、おもてなし、気配りなどの細やかな心遣いがこの国の社会では美徳とされていて、介護の現場だけでなく様々な職業で当然のように求められるスキルになっているよね。それは、僕たちのように、この国で生まれ育った人間にとっても難しいスキルだ。僕は、彼女たちからは勤務についての不満を聞いたことがないし、心遣いについても及第点とは言い難いけれど、その分伸びしろがあるといっていいと思っている。

 つまり、彼女たちは最初からこの国の文化、この国での働き方に適応できていた。だから、通常の候補生ではないと私は思ったんだ」


「フィリピンパブでの経験が活きている、ということなんですかね」


「仮に、そこで働いていたのなら、ね」


 ガチャ、と事務室のドアが開く。入ってきた職員の顔つきは異国人のものだった。


「オツカレサマデース」


「あれ? イヴさん今日も……?」


「彼女はクリスだよ」


「易国間サンデスネ。クリストイイマス、ヨロシク」


 初対面の新入職員に向かって、クリスは丁寧にお辞儀をした。


「よろしくお願いします。……円さん、この国に適応できていたってこういうことなんですか?」


「ちょっと易国間君! だから……」


「? 何カ、アリマシタカ」


「今、円さんから、クリスさん達三人のお話を聞いていたんですよ。なんでも、仕事への姿勢もこの国への適応も本当に素晴らしい、ということでしたから。ぜひ、私もクリスさんから学びたいと思いまして」


「そ、そうなんだよ! ……ははは」


 平然とやり過ごす易国間と焦る円の真意に気づかないクリスは突然、表情を曇らせた。


「アリガタイ言葉デスガ……私ハ、マダマダデス。ツイ最近モ、小宮サンニ怒ラレマシタ。食事ノ際、オ箸ノ向キヲ間違ッタママ出シテシマッタカラデス……」


「あまり落ち込むことはないよ。次から同じミスをしなければいいんだから」


 円は、落ち込むクリスを慰めるように言葉をかける。


「小宮さんは仕事のレベルも意識も高いベテランだ。細かいところまで目が届くし、だからこそフロアリーダーとして、クリス達三人や江藤君のように、まだ経験が浅くて不慣れな人の指導をお願いしていた。

 ただ、仕事ができる人だからこそ、君たちへの要求が厳しくなっているだろう。それは、君たちならそのハードルをクリアできる、という期待の表れでもある。クリス達は母国で看護師として、江藤君は居酒屋だかバーテンダーだったかな、とにかく、これまでの経験もある。様々な面から鑑みて、君たちはここでやっていけると踏んだから採用したんだよ。辛いかもしれないけど、なんとか頑張ってほしい」


「ハイ……」


「それから、そう思っているのは私や小宮さんだけじゃない。大先生もなんだ。大先生は、この地域で最も尊敬されている一人だということは知っているよね。本当は、小宮さんのような経験豊富な方によって直接、手厚く丁寧な介護を受けるのが当然な方だ。

 だけどあえて、まだまだ未熟なクリス達や江藤君に担当してもらっていた。それは君たちの、ひいては施設全体のレベルを引き上げるために必要だと、大先生ご自身が希望されていたからだよ。

 生前おっしゃっていたよ。『私は何年も前から思っていた。介護施設へ往診に行くと自分はここに入りたくないな、と思わざるを得ないような施設が少なくない。職員の仕事ぶりも入居者への接遇も環境も、まだまだ酷いところが多い。だから私は、ここで生涯を終えたい、ここが終の棲家にふさわしいと、どんな方にも思っていただけるような施設を自分の手で作りたかった』と。そして、敏明先生に権限を譲られてからも、この施設の行く末をずっと心配されていた。

 大先生は本当の意味での心遣いを理解し、実践されてきた方だ。医師として、どんな人の気持ちも理解し寄り添おうとされてきた方だ。そして、誰よりも職員のことを想われていた。そんな大先生だからこそ、気づけることがある。大先生が君たちの接遇を受けたうえで気づいた点を私や小宮さんに知らせて、それを指導にフィードバックさせる、といったこともよくあった。そうして、大先生が望んでいたレベルを目指していた。

 さっき、お箸の向きを間違えて出してしまった、とクリスは言っていたよね。なぜ、その程度のことで怒られるのか、と感じたかもしれない。もしかして、易国間君もそう思ったりしていないかな」


「そうですね。くだらないです」


 易国間はハッキリと言い切った。


「……まぁ、若い人ならそう思うのもしょうがないか。私自身、もしそうされても特に気にしないだろう。

 だけど、お年を召された方、お客様となる方に対してはそうではいけないんだ。必ず、お箸は箸先を左に向けてお出しする。もし相手が左利きであるならば、逆でもいいのだけど。相手が扱いやすいからという理由もある。他にも理由があるのだけど、なんだと思う? 箸先を右向きで置くというのは、宗派などで異なる場合もあるけども仏壇にお膳を供える際のしきたりでもあるんだ。つまり死んだ人に対しての出し方、というわけだね。特に、高齢者であれば、そういったしきたりに敏感なことも少なくない。人によっては『俺に死ねと言っているのか』と嫌味として捉えられて怒り出すことだってある。

 若い人には、そういった意識は微塵もない、だけど何気ない、ちょっとした言動が悪意として相手に捉えられてしまうことは意外と多い。そして、一度やってしまうと取り返しはつかない。だからこそ、常に丁寧に、細やかに気を配らなければいけないんだ。だからこそ、箸の置き方一つでも私たちは注意を喚起し、君たちに改善を促すんだ。些細なことから、綻びは始まっていくからね。

 私の中には、今でも大先生がいらっしゃる。私は大先生の理想を実現させたい。本当に、厳しくも温かい人だった。だから恩に報いたい。大先生の理想があれば、入居者も、そして職員みんなも、満足して過ごせる環境を築ける、そう信じているよ。だから私も小宮さんも、厳しい要求をする。それは必ず君たち自身のためにもなる」


 円は易国間とクリスの目を交互に見ながら、力強く言いきった。


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