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昨晩から夜勤をしていた天谷は帰宅した。その代わりに、この日東棟の仕事に入る円が易国間の指導を行うことになった。
「入居者の顔と名前は覚えた? 一応確認させてもらってもいいかな、私から質問するから、それに答えてくれるだけでいい」
「わかりました」
「それじゃあ……今、食堂に入っていった、あの人は誰?」
「井上さん」
「二百六号室に入居されているのは?」
「吉岡さん」
「その吉岡さんの趣味は?」
「……」
「まだまだダメだね。趣味や好きなことについても、もっと話をしないと」
円に指摘されると、易国間はムッとする。
「顔と名前って言ったじゃないですか。趣味は関係ないですよね」
「そうも言ってられないんだよ。どうしても、唐突に予想だにしない事態や突発的な仕事に対応しなきゃいけないケースがあるからね、人間が相手の仕事だから。それは入居者相手ってことでもあるし、上司に看護師や敏明先生など、立場が上の人相手ってことでもある。
つまり、板挟みや理不尽な要求だって少なくない。そういう時に、笑顔で柔軟に対応できるようなストレス耐性が必要になってくるから、多少理不尽なことがあっても今みたいにムッとするのはよくないな」
「はぁ、わかりました」
なおも易国間はムッとし続けた。
「それから、はい、これ。昨日お願いされてたシフト表、大先生が亡くなった日の分ね。コピーはあげるけれども、仕事中は見ないように」
「お! ありがとうございます!」
思わぬ円からのプレゼントに易国間は態度をコロッと変えて喜んだ。
「それから、さっき天谷さんについてた時なんですけども。板倉さんから八万円巻き上げてましたよ、天谷さん」
「ええ!? 何それ……」
円にはよほど強い衝撃だったようで、絶句してしまう。易国間は続けて、天谷から聞いた『散歩』の件や仏壇などについても円に報告した。
「うわぁ……。それは、ありえないよ……。うん、まず、教えてくれてありがとう。ちょっとこれは……」
「やっぱマズイんですか?」
「とんでもない、絶対あってはならないことばかりだ……。私もこの仕事を始めて短くないけど、聞いたことがないよ。早く敏明先生の耳にも入れて、なんとか方策を打ってもらわないと。
……天谷さんが散歩に連れてってくれているのは知ってたけど、理事長や大先生の許可でやってるんだと思ってたよ、コースやメニューも上に報告したうえで。施設長の許可なんて、全く無意味だしあってないようなものじゃないか。
……うん、とにかく僕はどうすることもできないな。ひとまずは天谷さんの指示も、僕が出しているものだと思って聞いていてほしいんだけど、もし怪しい言動があったら逐一教えてほしい」
「わかりました」
円と易国間が、東棟を回っている時だった。
「円君! ちょっと来てけれ!」
「はい、須田さん。どうかなさいました?」
自室から円の姿を認めた須田が呼び止めたのだった。
「注射打ってけねが? ほれ、インスリン。あんた器用だからこういうのうまいだろ」
須田は短めの注射器を取り出すが、円は即座に断ろうとする。
「え? いやいや、それはちょっと……。申し訳ないのですが、私が注射を打つことはできないんですよ。私のような介護職は確認したり見守ったりすることしかできないんです、このことは法律で決まっていますので。
ですから、ご自身で打っていただくか、看護師資格があるかたに打っていただかないと、法律違反になってしまうんですよ。今日は里崎さんが出勤されてますから、彼女に打っていただきましょうか。……易国間君、里崎さんを……」
「あ!? 待て待て待て、せば呼ぶな呼ぶな! 里崎、注射下手クソだもの。痛ぇんだよな、あいつがやると。前に採血された時、腕に何回もブスブス刺してきやがったし、やたらと腕も痺れたし……」
出番の看護師の名を聞いた須田は、苦虫を噛み潰した顔になった。そんな須田を円はなだめる。
「まぁまぁ、誰が打っても同じですよ。注射器の機能も日々進歩してますから、最近のは痛みも軽減されてるはずですし」
「いやいや、そんなことねぇんだや。現に、あの娘はすごく上手かったぞ。針がスッ、と入って全然痛くなくて。誰だったかな……ほれ、あの……イヴちゃんだ、イヴちゃん!」
「えっ!! イヴが打ったんですか!?」
「んだ」
須田の返答を聞いた円は、ガックリと肩を落とした。
「あぁ……。それダメなんですよ、法律違反になってしまいます、イヴは介護士資格しか持っていませんから。須田さんのお身体に差し障りが出なかったのは幸いですが……。大変申し訳ございませんでした。今後、インスリン注射が必要な時は看護師にお願いします。これからは、そのようなことがないように、イヴを始め介護職側にも改めて注意喚起いたします。万が一、須田さんのお体に差し障りが出てしまってからでは遅すぎますから」
丁重に謝罪を始めた円を見て、逆に須田が慌ててしまう。
「まぁまぁまぁ、頭上げてくれよ……。いや、逆に円君に悪かったなコリャ。……しゃーねぇな、自分で打つよ、里崎に打たれるくらいなら。えーと、これであってるよな?」
須田は円に注射器を見せた。円は受け取って、外見を検める。
「インスリンのお昼前に打つ分が一本ですね。……はい、確認いたしました。どうぞ」
須田は上着を少しめくると、突き出た腹に自ら注射器を刺して薬剤を注入した。一瞬、痛みのためか顔が歪んだ。見届けた後、円と易国間は退出した。
「今見てもらってわかると思うけど、こんな風に入居者から急なお願いをされることもよくあるんだ。だけど仕事はたまっていくし、絶対に今必要でないことも多い。しばらくは、突発的な頼みごとをされても、即答しないように。私や天谷さん、風浦君に一旦確認を取ってください。
それから、今の須田さんに関連することなんだけどね、介護職員ができる医療的ケアと、看護師や医師でなければできない医療行為というものがあるんだ。須田さんからお願いされたインスリン注射、これは医療行為に該当する。僕たち介護職にできるのは、見守ること、何の薬剤を打つかを確認するところまでなんだ。そこから先、実際に注射を打つことはご自身にやっていただかなければならない。さっき須田さんにも言ったように、須田さんに注射を打ってしまったイヴの行為は法律違反になってしまう。僕からも注意しておくけどね。
できるだけ、お願いされたことには応えるべきではあるけれど、必ずやっていいこととやってはいけないことの線引きがあるから、そこを間違えてはいけないんだ。一度、線引きを間違えて、やってはいけないことを承ってしまうと、後で訂正したり誤解を解くのは大変なんだ。
さっきの須田さんみたいに『前はやってくれたのに』と不満を持たれることも多い。今の須田さんのケースは、まだありがたい方だよ。
それからこの仕事では、どうしても看護師さんにお願いして引継ぎをしなきゃいけない場面がどうしても存在する。看護師からしたら、こちらの立場は下に見られるし、いけ好かないと思ったり思われたりすることもあるかもしれない。
だけど、看護も介護も命を預かっているという重要な仕事であることに変わりはない。いざというときにうまく連携がとれないと、命に関わる重大事につながることも多々ある。だから、普段から看護師さんたちともコミュニケーションをとって、良好な関係を築いておいてほしい」
「看護師にも媚びておもねろってことですか」
「そういう言い方とは違うんだけどなぁ、媚びたりおもねる必要はないんだけど。そういう上っ面なだけの人間こそ最も嫌われてしまうんだけどね、医師や看護師みたいな命を預かる職業の人からは。まぁ、医療関係者に限らないけども」
「上っ面で思い出しましたけど、須田さんって、円さんの言うことは聞いてしおらしくなるんですかね。昨日は横柄な人かと思いましたけど」
易国間の発言に、円は眉を顰める。
「確かに、横暴に見える部分はあるけれども、こちらから礼儀を持って接すれば礼儀を持って返してくれる人だと私は思っているよ。筋が通っているというか、仁義があるというか。自ら起業して何十年も商売をやってきたからこそ培われた人間性だと思う。
イヴも須田さんの言いなりになるのではなく、筋道を立てて説明すればわかってくれたんじゃないかな。言語や文化の違いもあって難しいけれど、それを踏まえたうえで熱意を汲んでくれる人だから、須田さんは」
「はぁ、そうなんですか。……円さんは入居者が飲んでいる薬や抱えている病気をすべて把握しているんですか?」
「私は立場上、すべての入居者の方について知っておかなければいけないからね。仕事をしているうちに自然と覚えてしまったよ。易国間君はまず、顔と名前とを確実に一致させるように。そこから先は接しているうちに自然と覚えてくるはずだよ。
……僕が初めて介護の仕事に就いた時は、ただ一人でほったらかされたっけなぁ、ここと同じような入居型の施設だったよ。施設の利用者とコミュニケーションとってて、なんて言われたけど、さすがに何を話せばいいかもわからなくておどおどしちゃっててさ……」
円の昔話が進んでいくと、易国間は飽きて聞き流すようになった。




