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易国間が東棟へ向かうと、その姿を認めた天谷が声をかけた。
「来たわね、おはよう」
「おはようございます」
「ちょうどよかった、これから桐谷さんのトイレ介助するから手伝って」
天谷は居室の中へ入っていき、易国間はその後に続いた。
室内にいた男性は緑のニットセーターとスラックスのようなズボンを着用しており、口をポカンと開けたまま椅子に腰かけていた。頬がこけ落ちて呆けた相貌で眼球だけがギョロリと動き、二人の姿を認めると唸るような声を上げた。
「あ~」
「易国間君にご挨拶してるのよ。易国間君もご挨拶を」
「桐谷さん、おはようございます」
「ああ~」
易国間が声をかけると、老人の口元が微かに、笑うように動いた。
「さぁ、桐谷さん、トイレ行きますよ、立ち上がりましょう」
天谷は老人の肩に触れながら、耳元で声をかける。若い人であれば、耳をふさぎたくなる音量だった。
「易国間君は左側を支えて。私は右を持つから。……そう、手を握って、いくよ。……せーのっ!」
易国間と天谷は協力して、桐谷の身体を持ち上げる。居室内のトイレへと手を引いて誘導していく。
「易国間君そこ開けて」
易国間は桐谷の左手を離すと、トイレのドアと便座の蓋を上げて座れる状態を作った。
桐谷は右手で天谷の手を掴み、左手で壁の手すりや物を掴まりながら便座の手前まで進むと、ゆっくりと反転する。
「……はい、桐谷さん、ちょっとそのまま動かないでね」
桐谷は便座両脇の手すりに掴まりながら両膝をプルプルさせて、やや腰の曲がった直立の姿勢を保つ。天谷はその間に、素早くズボンを下ろした。スラックスのようなズボンだが見た目に反して柔らかく、腰回りはゴムで伸び縮みするようだった。
「はい、座っていいですよ」
桐谷が座ると同時に、天谷はどこからかゴム手袋を取り出して両腕にはめた。足首でくしゃくしゃになっているズボンとパンツの中から、天谷は薄いパッドを取り出し、新しいものと取り替えてパンツの中に敷いた。古いものには広範囲にシミができている。
便座の中から、排泄物が流れ落ちていく音がした。音が止まり、排泄が完了したことを天谷は確認する。
「終わりましたね、じゃ立ちましょう」
桐谷は手すりに掴まりながら脚に力を込める。天谷もそれを支え、立ち上がらせると、桐谷の後ろ側を覗きこむ。そして、素早くトイレットペーパーで陰部を拭き、水を流す。ズボンを上げるとゴム手袋を傍らに脱ぎ捨てた。
「じゃ、桐谷さん戻りますよー。……易国間君はトイレの中を片づけてください、パッドやゴム手袋は全部捨てるからゴミ袋に入れて」
天谷は再び桐谷の両手を引き、椅子へと誘導する。易国間はその間に、トイレ内の片づけを済ませた。
天谷は桐谷を座らせると、どこからか紙とペンを取り出して記入し始めた。易国間はその様子を眺める。
「昨日も教わったかな、用を足し終えたらこうして記録をつけなければいけないから」
「風浦さんから聞きました。……出た量とか見た目まで書くんですね」
「そうよ。それだけでなく、時間やご本人の様子も大事な要素だから忘れずに」
天谷の言葉に易国間は頷いた。
「あいあ~」
桐谷は再び唸り声を上げた。その表情は口角を上げた笑顔に見えた。
「桐谷さん、ありがとうっておっしゃってるのよ」
「へぇ、そうなんですか」
易国間は感心したような口ぶりで発したが、まるで興味がないような表情だった。二人が桐谷の居室を後にして歩き出すと、易国間が話しかけた。
「すごいですね、あんな優しく穏やかに下の世話ができるなんて。やっぱり慣れてるからですかね」
「もちろんそれもあるんだけど。……けどそれ以上に介助される側の気持ちになるってことかな」
「介助される側……? 天谷さんも昔、身体が不自由になったりしたんですか?」
「いやいや、そうじゃないわよ」
天谷は笑って否定した。
「こうされたらどんな気持ちになるかな、って考えるだけ。
介護をされたくて、されてる人なんて一人もいないじゃない? さっきの桐谷さんだって、ありがとうって口では言っても、心の中では申し訳ない、こんなことをさせたくない、恥ずかしいっていう気持ちでいっぱいなのよ。やっぱり、同じ一人の大人であり、人間なんだから」
「えっ、そうなんですか。めっきり耄碌してるように見えましたけど」
易国間がそう言った瞬間、天谷は歩みを止めた。そして深刻そうな面持ちで易国間を見つめる。
「易国間君、決してそういうことを口に出してはいけません。確かに、口腔機能は衰えていくから言葉でうまく伝えられなくなるし、身体機能も低下してしまいます。だけどお年寄りは、自分が衰えていくことに怯えているし、豊かな感情や感覚は残っているんです。
いや、むしろ若いときより感覚が研ぎ澄まされているといってもいいくらい。特に、さっきの桐谷さんなんかは典型的よ。あの方は昔、脳卒中になったの。その後遺症であんな風にうまく喋れなくなったり、一時期は身体の一部が麻痺して一人で歩けなくなってしまった。だけど意識や感情はそのままだから、その辛さや苦しさは私たちのような健康な若い世代には計り知れないものがあるでしょう。
もちろん桐谷さんだけじゃない。身体機能の衰えによって自分の思うこと、考えていること、伝えたいことが伝えられない。それはどんなに辛く、苦しく、もどかしいでしょうか。
だからこそ、私たちから明るく笑いかけて優しく接すれば、私達以上に喜んで明るく笑い返してくれる。そういう瞬間が私は大好きだし、お年寄りが大好き。だから、職員がみんな、お年寄りの気持ちをもっと考えて接したら、辞める人も少なくなる。看護職も介護職もみんな仲良く、楽しく仕事ができる。私はそう信じてるわ」
「はぁ」
天谷の力説に、易国間はまるで興味を示さなかった。
「それはそれとして、昨日のおやつの時間、聞いたんですけど……。なんでも、天谷さんが一部の利用者の方を散歩だ、っていって外に連れ出して。そしたら、知らない個人宅に連れて行かれて、無理やり仏壇買わされてくるっていってましたけど、本当なんですか?」
易国間が唐突に質問をぶつけると、天谷は心底悲しそうな表情をした。
「……そんな風に思う方もいらっしゃるのね、残念だわ。
一般的に、施設で暮らしている方はふさぎ込んで、出かけることも少なくなるじゃない。だから、外出や人とのふれあいに飢えているのよ。特に、若い人とのふれあいね。
たまにボランティアの学生さんが遊びに来てくれると、すごく楽しい時間が過ごせるけど『次はいつ来るかって、いつだ』って催促が始まるの。もうみんな、いてもたってもいられなくなるけど、私達も答えられない。施設に入居しているお年寄りは、行動の自由を制限されているのよ。いつともしれない楽しみをただ黙って待っているだけの身、身寄り、家族もない、決して私たちには理解できない深い寂しさを抱えているの。私はそんな深い寂しさを少しでも癒してあげたいの。だから、施設長の許可をもらって、時々お散歩に連れて行くことにしているってわけ」
「施設長の、ですか」
「ええ。それからね、まだ易国間君にはわからないかもしれないけど、ご主人、奥様、ご両親がすでに亡くなってしまっているお年寄りにとって、位牌やお墓、仏壇っていうのは家族そのものなの。決してただの置物やインテリアじゃない。お年寄りにとって、神様仏様っていうのは数少ない心の拠り所。私の知り合いに、仏教儀式などに詳しい方がいるから希望者だけを連れて行って、お話をしていただいているの。説法とか法話みたいなものかしら。皆さんそのお話を聞くと、感動して涙を流されている方もいるくらいなのよ。
確かに、世の中には仏壇の押し売りをしたりなんていう悪徳宗教家もいるから、私もその手先のように見られているかもしれない、だけど一人でも多くのお年寄りを癒やしてあげたいの。当然、購入の強制は一切していません。
それから、仏壇や仏具はみなさん自主的にお部屋に飾ってらっしゃるのよ。居室に私物を飾ったりすることは施設のルールに反したことではないし、個性的な飾り付けやインテリアは心の安らぎにつながるんですよ」
「はぁ。……それから、天谷さんが夜勤をした日はお金が無くなるっていう人もいましたけど」
「それはただの物盗られ妄想よ。よくあること。一見、普通そうに見える方でも認知症が進行していることはよくあるの。自分についてのあらゆる情報がわからなくなっているケースは珍しくない。すぐに感情的になってしまったりするしね。
だから、物を盗られた、私に嫌がらせをされたっていう人がいても真に受けちゃダメ。私がいるときはすぐに相談して。いないときは、引き継ぎで残してくれても、メモ書きを残してくれてもいいから。まだ易国間くんには判断が難しいところね」
「はぁ」
天谷は数々の疑惑に対し、一切たじろぐような素振りは見せずに堂々と笑顔で答えた。
そこに、一人の老婦が現れて天谷に近づいた。老婦は易国間の視線を避けるように、天谷をうまく壁にしてから小声で話し始める。
「……天谷さん、これ、今週の分です。これでなんとか……仏様に、それから先に逝っちまった息子に……どうか、なにとぞ、よろしくお伝えください、おねげぇします」
言いながら老婦はぐしゃぐしゃに握りしめた万札を天谷に押し付けると、数珠をジャラジャラさせながら天谷を拝み始めた。一連の動作にただならぬ熱意が籠っていることが見て取れた。
天谷は丹念に皺をのばしてから丁寧に枚数を数える。勘定し終えると、真顔で老婦をまっすぐ見つめた。
「五万円? どうしたんですか、これは……?」
「今月は年金支給も無いし……それでなんとかおねげぇしますだ」
「板倉さん、あのねぇ、前も申し上げましたよね? 『仏さまは日々努力を惜しまない方に微笑むのです』、これでは努力が見られませんよ」
「それでもなんとかがんばって、きりつめて、こさえた分です、どうかこれでひとつ……」
「いいですか、板倉さん。『現状維持は後退』、そう言いましたよね。ねぇ、板倉さん。厳しいようですが、これは後退です。今の板倉さんのお姿をご覧になった息子さんは、どう思うでしょうか? いずれ、息子さんと再会する時が来ます。そのときに、笑って再会できますか? ねぇ、板倉さん? よくがんばったと喜びあえますか? こんなおふくろ見たくない、なんて思うんじゃないですか?」
天谷は板倉の目を見据えて語りかける。すると、老婦は次第に涙ぐみ始めた。
「うぅ、うっ、……よしろおおおおお、ごめんよう、よしろう……うっ、うぅ」
涙が止まらなくなり、泣きじゃくる老婦を天谷は優しく抱きしめる。
「……そうです、その気持ちです。……その気持ちを板倉さんが持ち続ける限り、ヨシオさんは見守っていてくれますよ。
……さぁ、板倉さん。お財布は?」
板倉は服の袖で涙と鼻水を拭う。そして、最愛の息子の名をしれっと間違えた天谷に財布を渡した。
「いち、に、……三万円ですか、まぁいいでしょう。確かにお預かりいたしましたよ、板倉さん。それでは、責任を持って私からヨシオさんにお渡しいたしますからね。安心してください」
「うぅ……ありがとうございます、ありがとうございます……」
老婦は空の財布を天谷から受け取り、数珠をジャラジャラと両手でこすりながら何度も頭を下げた後に立ち去った。その光景を見て呆気にとられた易国間に天谷が言う。
「変なところ見られちゃったわね。けど気にしないで、板倉さんはかなり認知症が進んでるから、物事の判別が曖昧になってるの。なぜか私にこうやって、しょっちゅうお金を渡してくるのよ。お布施のつもりなのね、きっと。もちろん後でお返ししますけどね」
「……天谷さんの方から、三万円余計に要求したように見えたんですけど」
「そうしないと、何度も何度もお布施を渡してきちゃうのよ。あえて、ああやって厳しい言い方をして余計にお布施をさせておくの。
まぁ、初めて見た易国間君にはショックだったわね。このお金は、私が確実に責任を持って板倉さんへお返しするから、心配しないで」
そう言いながら、天谷はその八万円を自分の懐へきっちりとしまいこんだ。




