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入職して二度目の出勤日となった朝、事務室のドアに手をかけた易国間の耳に、女性の怒鳴り声が飛び込んできた。易国間は思わず身体をビクッと震わせた。
「おはようございまーす……」
ゆっくりと入室した易国間は、誰にも気づかれない。
「私もう無理です! 限界です!!」
怒鳴り声の主は西棟フロアリーダーの小宮だった。それを聞いていたのは円と榎津だった。
「大体私、パートですよね? 日勤と早番だけって話でしたよね? なんで夜勤出なきゃないんですか!? しかも五回ですよ、先月!」
「そこは本当に申し訳ないです、けど今、本当に人が足りないんですよ。小宮さんも痛感されていますよね?」
「ええ、人が足りないですね……まともに仕事してくれる人間が! 全っ然足りない!! 正職員は変なフィリピン人や何考えてるかわからんクソガキ! 多少仕事できるヘルパーは足りないし、遅番や夜勤なんて出てくれやしない、そりゃそうよパートだもの! ロクな職員が少なすぎて、まとめようにもまとまらないし!
大体なんでパートの私がフロアリーダーずっとやり続けてるんですか!! 一時的な処置じゃなかったんですか?」
「本当に申し訳ないです……小宮さんにばかり負担が……」
小宮にひたすら詫び続けているのは円だった。その隣で榎津は、口をパクパクさせながらアワアワオロオロうろたえているだけだった。
「先生にも、事あるごとに申し上げてはいるんです。経験豊富なベテランで、正職員になってくれるような方が必要なんです、せめてあと三人は、と。
ですが、なかなか難航しているようでして……」
「何が難航よ。簡単じゃないの、コレのクビ切って正職員の給料増やせばいいだけでしょうに。給料増やせば人は増えるわよ」
沸き立つ怒りを隠そうとしない小宮がコレ、と指差したのは榎津だった。
「え? ええ!? そういうプロポーザルはちょっと……」
「またわけわかんない横文字使って。ロクに仕事もできないのに高い給料もらって挙句、施設長に手出して。なんであんたみたいなのが私より給料高いのよ!? おまけにボーナスも満額きっちりもらってるんでしょ? あたしはパートだから五万で固定よ!? もう、どうなってんのよ本当にこの施設は……うぅ」
次第に小宮は涙ぐみ始め、言葉が聞き取りにくくなっていった。
「……小宮さんが悩まれているということは、敏明先生にも施設長にもお伝えしますので……なんとか」
「なんとかじゃないわよ!! 施設長? あんな小娘に何ができるってのよ! そんなの円君が一番わかってるでしょ!? ほんっとありえない、この施設!!」
「……おっしゃるとおりです。ですが……」
「じゃあ百歩譲って、夜勤はまだいいとして、フロアリーダー辞めさせてよ。なんでパート待遇なのに下の指導までしなくちゃなんないわけ!? しかもポンコツばっかり押し付けてきて。無理よ無理。いくらなんでも我慢できない」
「後進の指導については、私もこれまで以上に力を入れます。西棟のシフト、私の分増やしますので、小宮さんの負担は極力減らすつもりです……」
「それから、あの小娘も辞めさせなさい、いい加減。敏明先生の嫁だから、ってのはまぁわかるわよ、縁故で施設長やるのはよくある話だし。でも一向に現場の仕事を理解しようとするでもなく、ただフラフラ遊び歩いて役員報酬貰ってるなんて許せないわよ。円君だってそうでしょう!?」
「え、ええ……確かに、施設長としての姿勢に疑問を持たざるを得ない部分はありますけれども……」
「二人とも、一旦クールダウンを……」
「アンタは黙ってなさいよ!」
割り込んできた榎津を小宮が一喝した。
「アンタもアンタよ! 事務長ってのはただのお飾りの名誉職じゃないの! 現場の事情を理解できる人間じゃなきゃ務まんないの! アンタはそれなりに他で社会人やってきてんでしょ? なのに先生におべっか使うか、陰であの小娘と乳繰り合って寝取ろうとしてるだけ、でなきゃ大久保さんと現場の邪魔する。アンタのやってること、秩序を乱してるだけじゃないの!! ……ったく、なんでこんなのが先生に気に入られてんだか……」
「……ビジネスでは、愚痴ではなくインプルーヴメント、つまりカイゼンをですね……」
「うっさい。ビジネスの話なんかしてない。アンタと小娘が辞めればいいって言ってるの、改善策があるとするならそれだけ。大体、いっつもうっとうしいのよ、ビジネスだのグローバルだのって。こんな小さな施設のこともロクにわかってないくせに」
なんとかひねり出した榎津の言説を、小宮は一蹴した。青ざめた榎津は口を噤む。
「……まぁ紀子先生だってこの現状は把握されてるはずだから、そのうち適切な処置がなされるでしょうけどね。
……そもそも紀子先生が施設長やればいいんじゃないの、円君、紀子先生なんか言ってない?」
「そうですね、常々、大先生が亡くなられた後の施設のことを一番憂いていたのは紀子先生でした……。紀子先生自身もお忙しい方ではあるんですが、今後は施設の方に協力したい、と大先生が亡くなる前からおっしゃっていましたね」
「そうでしょ!? ね、紀子先生が施設長なら全部解決なんだけどなぁ!」
涙目涙声だった小宮は、みるみるうちに元気を取り戻していった。
「はい、私からも改めて、紀子先生や敏明先生に上申したいと思いますので、この場はなんとか、こちらは取り下げてもらえませんか……? そもそも私は受け取れる立場でも、どうこう申し上げる立場でもありませんし……」
円は小宮に白い封筒を渡した。小宮はそれを懐にしまい込んだ。
「それはわかるけどさ、話通じる人が他にいないじゃない。マトモな人間が少なすぎて。……円君も、もっと言いたいこと言った方がいいよ、転職もチラつかせつつ。君ならもっと待遇いいとこ行けるからさ」
「はぁ、ありがとうございます……」
「まぁ今日のところは円君に免じて引き下がりますよ。とりあえず仕事しますか。……あら、おはよう」
「おはようございます」
円のもとを立ち去る小宮は易国間とすれ違った。涙も怒りも最初からなかったかのように、爽やかにケロッとした様子で声をかけた。
そこで初めて易国間の姿を認めた円と榎津の顔からは、サッと血の気が引いていった。
「そうだそうだ、今日のアジェンダをリスケしなきゃ……」
独り言をブツブツ呟きながら榎津も事務室を去る。
「……おはよう。……聞こえてたみたいだね」
「おはようございます。相当、不満が堪ってるみたいですね、小宮さん。さっきの手紙は辞表かなにかですか?」
易国間はズケズケと訊ねた。
「そこまで見られてたか。……まぁ、そうだね。小宮さんに負担がかかってしまうシフトを組んでるのは私なんだけど……」
「シフトよりも、もっと上の方に不満があるみたいでしたけど。紀子先生って大先生の奥様でしたっけ」
「そうだよ。昔は市立病院の副院長をされていた方なんだ。最近まで、あちこちの企業で産業医もされていたんだよ」
「小宮さんが言ってたとおり、施設長にピッタリですね」
「もちろんそれは僕たち職員にとっては喜ばしいことなのかもしれないけど……紀子先生もご自身のお仕事で大変お忙しい方でね。
当然、大先生もそのことは充分理解されていたし、施設運営はあくまで自分がやりたいことだったから、紀子先生には加担させたくなかったんだよ。それに、将来を考えれば、若先生と恵理耶さん、つまり今の施設長と若い二人が中心になって運営していくことが望ましいと考えられたんだ」
「けど実際には、大先生の望む形ではうまくいってないってことですよね」
「……そうかもね。でも大先生はおっしゃっていたよ、『この施設は若い二人が担っていかなければいけない。まだまだ未熟だが、立場が人を育てた例はいくつもある。若い夫婦と職員が協力していけば、必ず花千流里はよくなっていく。必ずよい方向へ変わっていく』と。……大先生はいつだってそういう人だった。どんな人にでも成長を促し、期待し続け、粘り強く教え育てようとしてくれていた」
「だとしても、受け継ぐ方の若先生にやる気がなかったら意味がないですよね」
易国間が無神経な一言をぶつけたため、思い出に浸りかけた円はムッとした表情を見せた。
「あのねぇ、やる気がないわけではないんだ。ただ、まだお若いからクリニックと施設を両立させることに慣れていないだろうけど、苦心されているはずだよ。ただでさえ、開業医は忙しいんだから。
特に、ここ最近は大先生が亡くなったばかりだし、まだまだショックを引きずっているように見受けられるね」
「そのうち、小宮さんみたいに、感情を爆発させながら辞職しようとする人も次々出てくるんじゃないですか?」
「……実は、小宮さんがああやって感情的に辞表を提出してきたのは初めてじゃないんだ」
円はためらいがちに言葉を発する。
「ほぉ、そうなんですか」
「前は、仕方なくフロアリーダーをお願いせざるを得なくなった時だね。敏明先生の思いつきみたいなところがあったんだけど。どうしても、充分な経験を積んでいる正職員が足りなくて、あくまでも一時的な処置として、のつもりで。本当は私ができれば一番いいんだけど、ケアマネの仕事もあるし、介護部門全体を統括するような役目をしなければならなかったから。……それで小宮さんにお願いしたら『パートで入ったのになんで!?』ってさっきみたいな剣幕で。易国間君もわかると思うけど、とても仕事ができる方だし経験豊富なんだ。昔は人をまとめたり指導する立場も経験されていたそうだから、他に適任がいなくて。
けど、本人はあくまでパートとして早番や日勤でだけの勤務を希望されているから、怒るのも当然なんだよ。小宮さんに代わる正職員を採用できていないことや、私のシフト管理がまずいことが問題なんだよね……」
「あんな怒鳴り方して大丈夫なんですか? 入居者は怖がったりしないんですか?」
「大丈夫。小宮さんは入居者の前でそういった態度は絶対に取らないよ。真のプロといっていい。大先生も信頼していたしね。実際に入居者からも評判はいいし信頼されている。だから安心して西棟の仕事や管理をお願いできるよ。ああやって感情的になるのは、あくまで私くらいなものだろうし。西棟の職員を叱ることもあるけど、それは業務上必要最低限にとどめてくれている。
……言い方はよくないけど、小宮さんって一度あんな風に怒ってしまうと、その後はケロっとして冷静になってくれるんだ。かなりストレスが溜まっているのは間違いないし、私にぶつけて発散してくれてるなら、むしろありがたいくらいだよ」
「はー、円さん大変ですね」
「職員のマネジメントも大事な仕事だから」
事務室のドアが開いた。出勤してきたのは大久保だった。
「おはようございまーす。 ……今、外で事務長とすれ違ったんですけど、なんかありました? 目が虚ろって感じで、一人でアタフタしてましたけど」
「いや、別に……」
「もしかして小宮さんじゃないですか? ひょっとしてまた辞表出したとか」
「え!? いやぁ……そんな……」
円はシラを切ろうとするが、顔が紅潮し始めていた。
「そうなんですよね、わかりますよ。……本当、円君って嘘ついたりごまかしたりができないんですから」
「……はい、実はそうなんです」
「小宮さん、普段から言ってきますもん。『フロアリーダーも夜勤もやりたくない、こんな施設もう辞めたい』って。西棟の人も、東棟のパートの人もみんな知ってますよ。仕事してるのだって、息子さんの大学の学費のためだそうですから。旦那さんの稼ぎじゃ足りないから、しぶしぶパートしてるんだ、って。けどもうその理由もなくなっちゃったそうで……」
「それは困るなぁ、それじゃ士気が下がってしまう。というか、まさか息子さん、大学を……?」
「違いますよ。なんでも、前期の成績が優秀で特待生になったから学費免除なんですって! すごいですよね!!」
大久保は我が事のように目を輝かせて言った。
「先月から始まった後期の学費が丸々免除だから、しばらく小宮さんが働く必要もないそうでして。一旦仕事辞めて、半年かけて別のパートに移るのもいいかなぁ、なんて言ってましたよ。
まぁ『花千流里』からしたら大問題ですよね、西棟まとめる人いなくなるのは」
「そうでしたか……。貴重な情報をありがとうございます。そんな事情があったんですね……」
「ただ、それを言ってた時はかなり上機嫌で、浮ついた様子でしたから。本当に辞めそうな感じはなかったんですけどね」
「小宮さんの息子の成績を落とせば、辞める理由もなくなるんじゃないですか?」
易国間が笑みを浮かべながら口を挟んだ。円と大久保が振り向く。
「パチンコでも覚えさせて。大学生は簡単にハマりますから、すぐに授業なんか出なくなりますよ。成績ガタ落ち確実です」
円は目を丸くしながら、易国間に指示を出した。
「何を言ってるんだ、君は。……そうだ、そろそろ始業時間だから東棟に行ってほしい。今日はまず、風浦君の代わりに天谷さんについてください」




