迷宮書館の司書見習い -1-
1.はじまりの朝、物語の始まり
―― 私を、見つけて
(眩しい……。朝だ)
茶色の三角天井、屋根裏部屋を象徴するものだ。
そこに一つある大きな窓から鳥の声と一緒に朝日が差し込んで、一日の始まりを告げる。
(眠い。お休み)
「寝るなバカ弟子」
「ふぎゃん!」
毛布に包まって夢の世界へ旅立とうとした矢先、呆れ八割苛立ち一割の成人男性ヴォイス&ハンドで毛布共々寝台からひっぺがされた。
ゴロンと掃除が行き届いているのだけが取り柄の床に転がり落ちる。
「酷い……酷いです、師匠」
目の前の隙なくピカピカに磨かれた黒い革靴から、いつも通りビシッと決まったスーツのズボン、ジャケット、ループタイ、そしてこちらを見下ろす氷蒼の瞳とは対照的な柔らかい金髪(つまり頭部)まで余すところなく舐めるように見つつ、そう言った。
「舐め回すように見るんじゃねぇ」
「ゲヘゲヘゲヘ。本日も良い目の保養で」
「ゲヘゲヘ言うな。ったく、何でこんなの弟子にした俺……」
「師匠の意志ってより、中央のご意向ですねー」
眉をしかめ、なんとも言えない顔の師匠にそう言って、再び寝台に戻ろうとしたが、美形目覚まし時計もとい師匠がそれを許す筈もなく。
「寝るな。着替えろ。連れてくぞ」
「くっ、ノンブレスでそんな無情」
「仕・度・しろ」
「……はーい。では師匠、ご退場を」
「表にいるからな」
おかん、もとい師匠が部屋を出ていくのを見届ける。
「ふう。さて……。ククク、師匠もまだ甘いでげすな」
自然と浮かぶ勝利の笑み。そそくさと毛布を手繰り寄せ。
「おやすみなさ」
「簀巻きにしてやろうか」
「おぅ……。ドアの外で息殺して窺うなんて師匠も中々のHENTAIデスね!」
とか言ったら、ドアを開けた師匠の額に青筋が浮かんだのでこれくらいにしておこう。
「仕度しろよ?」
氷蒼の瞳がそれはもう冷たくてゾクゾクしてオイシイのですが、それを口にして二十そこらで師匠の血圧を上げ続けるのもよろしくない。
「はーい」
やや恨みがましい視線を残しつつ、師匠が再度ドアを閉める。
「さて、じゃ、着替えますかね」
寝台脇にある引き出し付きの机、その上に置いた洗面器に水差しから水を注いで、顔を洗う。
師匠の視線とは違った意味で冷たい感触に目と頭が醒める気分だ。
タオルで顔を拭いて、ブラシを片手に一応鏡を見て髪をとかす。
オレンジよりは赤みのある髪は腰まで。苔色の目、十六相応のはりが保たれている健康肌の自分が、鏡の中で少しばかり何か企んでいそうな笑みで見返してくる。
「よしよし。いつも通り」
無駄もないけど凹凸も少ない身体は、着替えも手早くこなせるので、あっと言う間に寝間着からいつもの仕事着。
上は白シャツ紺ベスト。最近は冷えてきたからオフホワイトの長袖カーディガンを羽織る。
「あ。でも一応、こっちも着ないと駄目かもね。夜帰り冷えるし」
セーラー襟の紺ブレザーは、銀ボタンが付いて襟と袖口、裾に銀糸のラインが入っている。
下は防寒として黒いタイツと、紺地に白と黄色のチェック柄が入った膝丈ハーフパンツ。サロンタイプのポケット付き黒いエプロンは、ほぼ巻きミニスカートだ。
味の出てきたチョコレート色の革靴にスリッパから履き替えて、最後に忘れていた髪を首の後ろで一つに束ねる。
大家兼従姉で友人より贈られた白いレースのリボンがあるお陰で、束ねただけの髪でもそれなりにきちんとして見えるだろう。
「完璧。じゃ、行こうかな」
イーステッド地方レンザの小都市、ユルナノグ図書館の司書見習い、イネス・メリーベルはいつものようにどこか不敵な笑みを浮かべて部屋を出た。
「そんな……こんな所でなんて」
泣き出しそうに潤んだ瞳と僅かに上気した頬。切なげとも言える視線を目の前の男性に向けるも、その答えは無情を通り越して無機質だった。
「メシ抜きにするぞ」
「だってぇ、薬局の健康食不味い」
「お前なぁ……」
金木犀の香りが漂う朝、石畳と街灯が綺麗に整えられた街中を通り、何故か師匠は図書館と反対方向へ向かっていた。
このまま行けば街外れに出て店もなくなる。あるのは薬草畑と森と丘、そして丘に建つ廃屋一歩手前の洋館だけだ。
「お前がどうしてもと言うから寄ったんだろうが!」
「何でそれが薬局なんですか。普通、市場でしょう」
「反対方向だ」
良いからここで買え。そんな圧力が掛かるも、屈したら一日の始まりを告げる朝食が大惨事を迎えてしまう。そして多分、昼食も二次災害。
「ここの持ち帰りは地獄の不味さなんですよ!」
「あらかじめ仕度をしていなかったお前の責任だ。薬局の持ち帰りに美味さを求めるな」
「庶民のささやかな幸せである食事なんですよ? その大事な一食! 求めるに決まってるじゃないですか!」
レンガの壁や白く塗られたドアや持ち帰り用の受け渡し口、アーチを描く窓とレースのカーテンから覗ける店内は綺麗に片付けられている。そんな薬局の軒先で不味い不味いと連呼していたからか、新たに混ざった声は地獄を這うように低いものだった。
「お前達、黙って聞いてりゃ不味い不味いと……」
可愛い扉から熊出現、もとい、熊みたいなご面相の店主出現。
「あ、おはよー大将」
「おはよー、じゃねぇ! メリーベル! 誰の持ち帰りが不味いってぇ?」
いやいや貴方、その熊面だけで十分でしょう。
「おめぇ、今なんか考えやがったな!」
「あははー」
「大体、不味いわけねぇ! 俺の自信作、超健康バーガーが!」
「大将、現実見ようよ。不味いよ」
「なにぃ? どこに不味い要素がある! 俺特製、超完璧バランスパティ!」
「うん。成分言ってみ?」
「究極のバランスを考えたビタミンパウダー(俺特製)を畑の肉である大豆と併せ、プロテインと共に練り込み」
「……」
「バンズも野菜が効率よく摂取できるよう、考え抜かれた野菜粉末を混ぜた特製! これで野菜嫌いな子供でも無理なく」
「いやいや、二度と野菜食べなくなるから」
視界の端、師匠がハンカチで口許押さえてげっそりしてますが、貴方はそんなものを弟子に食べさせようとしていたんですよ?
「もう! お兄ちゃん、いい加減にしなきゃダメよ」
「う。メルシー」
鈴を転がすようなまさに天使の声と共に、熊店主の後ろから可憐を体現したような少女が現れる。
年齢は十六で、ふっわふわの肩より少し上で切り揃えたウェービーヘアは星みたいなキラキラの金髪だし、長い睫毛に縁取られた瞳は晴れた空色。ゆったりとした若草色のワンピースに白いエプロンをつけて、白い花の飾りがついたサンダルを履いている。
「やっほー。メル。今日も可愛いね。グヘヘヘ」
「メリーベル! お前うちの妹を邪な眼で見るんじゃねぇ!」
「お・に・い・ちゃん?」
子ウサギに頭の上がらない熊といった風に、メルシーに怒られ店主がたじろぐ。
ぷりぷりと怒りつつ、それでも本気で怒っているのではないのだろう。その証拠に、店主からこちらに向き直った顔は本当に見るだけでご飯三杯いける美少女スマイルだった。
飯ウマである。
「うふふ。おはよう、メリー。それから、スピネルさん」
「おはよう、ミス」
「今日はどうなさったんですか? 図書館始めには随分早いみたいですけど……」
そう。図書館の開館は通常十時。今は六時。
しかも図書館とは反対方向のこの場所にいる。メルシーが不思議に思うのも致し方ない。
「少し特別な用があるんだが……」
ちろりと呆れたような視線が寄越される。
「いや、だって私も未だに何で今日、こんな朝早くから叩き起こされたのかわからないんですが」
「……まさか本気で言ってないだろうな?」
「本気じゃなきゃ言いませんが」
「お前……」
頭痛でも抑えるかのように片手で顔を覆い、師匠が俯く。
「自分に届く郵便物のチェックもまともにしてないのか!」
「職場ですか家ですか。どっちにしろここ一週間中央から怒濤の書類送付祭りが開催されてた事、忘れてないですよね?」
昨日やっとの事で終らせたばかりなのは記憶にも新しい。
あのデスマーチを忘れたとは言わせない。
「……情けなくて涙が出そうだ」
深いため息をつき、そうは言われてもあの書類ラッシュでは。
「とにかく、大変なんですね……。あ、そうだ!」
メルシーは手を叩くと、一度店内に戻り、小さなバスケットを持って帰ってきた。
「いつもお疲れ様です。これ、良かったら。ただのジャムサンドですけど」
なにこの天使。
「ありがとう! メル!」
「ふふ、お仕事これからも頑張ってね」
「悪いな、ミス。……もう行かないと待たせる」
「いえいえ。これからもメリーの事、よろしくお願いします」
ひらひらと手を振って見送るメルシーと別れ、歩き出す。
何はともあれ、朝食兼昼食が凶器の狂気バーガーになる事だけは回避出来た。天使の笑顔を思い出すだけで、ジャムサンドは天上のフルコースに変わるだろう。