天使の出現
「珍しいわね。時間どおりに来ないなんて」
今日の担当、紺野由梨花のつぶやきを耳にしながら僕は不安と戦っていた。時間は八時半。到着予定時刻からすでに一時間が過ぎようとしていた。
「何かあったのかしら……」
土日に関わる部分はなるべくぼかしながらも、伝えられる限りの事情はすべて話してあるので、誰も彼が無断で来ないなどとは思わなかった。
「すみません、ちょっと外へ……」
以前、関口店長に駅で拾われたことを思い出し、店を出ようとしたその時、通りかかったカウンターで電話が鳴った。条件反射のように受話器を取り、マニュアルの電話応対を口にすると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
『あ、真嶋さん! よかった。荻原恍星です』
「恍星君! やっぱり拓巳に何かあったんだね? もしかしてお店絡み?」
先回りして問いかけると彼はすぐに答えた。
『はい。でも安心してください。拓巳は前にお伝えした後輩に預かってもらえました』
「〈助っ人〉さんだね? じゃ、迎えに行くよ。どこに行けばいいの?」
『それが……あなたのところに彼が連絡しようとしたら、拓巳は首を縦に振らなくて。無理に連れていくのは良くないから、しばらく様子を見ると伝えるよう、後輩から伝言を受けました』
「………」
『すみません。また連絡します』
「……ああ、よろしく頼むね」
返事を返したあとでのろのろと受話器を下ろすと、紺野が顔を覗き込んできた。
「拓巳君のことだったの? なんだって?」
「今日は、具合が悪くて来られなくなったようです。また連絡をくれると、彼の友人から……」
「そう。よかったわ。何かのトラブルじゃなくて」
「はい」
じゃあ今日は練習はなしね、と残念そうにつぶやく紺野に返事を返しながら、僕は胸に渦巻く感情を悟られないよう、足早にフロアをあとにした。
何があったんだ。
それも気にかかるけれど、僕をもっとも揺らがせているのはそこじゃない。
どうして来ないんだ、拓巳。
わざわざその後輩が連絡しようとしたからにはかなりのことがあったのだ。もちろん拓巳にも物思いがあることはわかっている。
(父を刺激するのは怖い。芳弘に何かあったら――)
おそらくはそのあたりが関連しているのだろう。わかってはいても、胸の中の靄はなかなか晴れるものではなかった。
次の日は一日仕事が手につかなかった。
「しっかりしろ、真嶋」
事情を伝え聞いた関口に注意されてしまうほど、動揺が出てしまった。
「す、すみません……」
切り替えなければと思うものの、手とは正直で、なかなか集中して動かすことができず、どうにかこなすのが精一杯だった。
そんな僕を何者かが憐れんだわけではあるまいが、その電話は予想よりも早く来た。
「真嶋さん、お電話です」
翌日の午後三時を回った頃、受付カウンターで声をかけられた僕は予約の電話と思って受話器を取った。すると。
『あなたが真嶋さんか? おれは小倉雅俊。拓巳を預かっている』
「あ……」
その声は、中学生男子にしてはやや高く、かといって声変わり前にしては低めな不思議な感じがした。
「はい、真嶋です。拓巳を助けていただいてありがとう。彼は大丈夫ですか?」
急かないよう心がけて訊ねると、雅俊なる少年は冷静な物言いではっきりと答えた。
『体はどうにか動けるようになったんだが、ショックが大きくて心が立ち直れてない。真嶋さんのもとでないとだめだと思う』
ショックが大きい――〈バードヘヴン〉絡みに違いない。
それを問いかけるとすぐに返事が返ってきた。
『予定にない呼び出しを受けてえらい目に遭わされたらしい。痙攣を起こしていた』
「すぐ、すぐに迎えにいきます。今どこにいるんですか?」
『真嶋さんは仕事中じゃないのか?』
「今日は少しくらいなら抜けられます」
この先は予約もない。昨日からの僕の有り様を見ている関口なら、きっと承諾してくれるだろう。
『そうか。じゃ、おれが横浜駅まで連れていくから、四時に西口の地下街入り口に迎えに来てほしい』
「西口に。わかりました。よろしくお願いします」
受話器を置いた僕は、その足で許可を取り付けるべく店長のもとに飛んだ。
待ち合わせ場所に行くと、拓巳たちはすでにベンチで待っていた。走り寄る僕の目の前に、拓巳の隣にいた同じ霞ヶ丘の夏服――半袖ワイシャツに臙脂色のネクタイ、グレーのスラックス姿の小柄な少年がスッと立ち上がった。
えっ? これはまた……!
それは、先ほどの電話から想像した大人びた姿とは正反対の、光をまとったような美しい少年だった。同じ制服を着ていなければ、少女と思ったかもしれない。
ショートより少し長い、柔らかそうなウェーブの髪に縁取られた顔は小作りで、スッと通った鼻梁も、その下に納まるふっくらとした桜色の唇もバランスよく整っている。が、なんといっても印象的なのは、その大きくて黒目勝ちの瞳だ。典型的なアーモンド型の、くっきりとした二重の瞳は濃い睫毛に縁取られ、バリ島などの神事で見かける美しい踊り子の少女たちに似て神秘的な雰囲気を漂わせている。拓巳が蒼ざめた月に照らされるクリスタルの薔薇なら、この少年は暁の光を浴びて輝く南国の蘭だろう。
しかも華やかな美貌の中に覗く、挑むような表情――。
それが、この華奢で小柄な少年が見かけとは違い、強靭な魂を持ち合わせていることを匂わせていた。
確か特殊な生い立ちとか言ってたっけ。後輩というのは、学校のことだけじゃないのかな。
拓巳と比べると年下に見えるが中学生のはずである。けれども普通の少年とも思えない。この雰囲気は、恍星に共通するものがあるように見える。
まさか……。
「君が、拓巳の世話をしてくれていたのかい……?」
つい、疑問が口をついて出てしまった。すると小倉雅俊と名乗った少年はすぐに意味を飲み込み、黒目勝ちの目に強い光を浮かべた。
「おれはホスト仲間じゃない」
やはり違う。それはそうだ。年が若すぎる。
と思う間もなく彼はこう付け加えた。
「同じ中学の二年だ」
ええ―――っっ! 拓巳より上⁉
僕は全身の力を込め、内心の驚きを封じ込めた。
外見で人を判断することの愚かしさを、僕は青山碧から叩き込まれたはずだ。どう見ても十代半ばにしか見えない彼女の経験豊富な知識やテクニックに散々打ちのめされてきたじゃないか!
「そ、それは失礼しました。今日はどうもありがとう」
礼を述べ、下げた頭をもとに戻すと、小倉雅俊の後ろに立つ拓巳と目が合った。
なんてやつれてしまったんだ………。
ほんの三日間会えずにいたうちに、拓巳は取り戻したものをすべて失ったような顔をしていた。
「どうしてもっと早く連絡を寄こさないんだ……」
僕は拓巳に歩み寄り、さらに薄くなったような肩を抱いた。地下街とはいえ、蒸し暑い真夏の夕方なのに、拓巳の体は妙に冷えて感じられた。まるで凍りついた心が体温まで奪っているようだ。
「いつものように来ないから、ずっと心配していたんだよ……」
「ごめん……」
顔を覗くと、青ざめながらも会えたことにホッとしている様子が見て取れた。
「さあ、まだ顔色が良くないよ。ちゃんと寝てない証拠だ。しっかり休まないと」
「………」
表情に滲むためらいの気配を遮るようにして続ける。
「僕なら大丈夫。一旦お店に戻るけど、すぐに帰ってくるからね」
「でも……」
「子どもは余計な心配しないの」
僕は強調して言った。あの男から僕を庇いたい気持ちはわかる。でもその結果がこれでは返って辛い。
「君の家には今、誰もいないだろう? 家の人に文句を言われる筋合いはないね」
目力を込めて言うと、そこに何かを感じ取ってくれたのか、拓巳はそれ以上の遠慮を引っ込めた。すると横合いから声がかかった。
「真嶋さん。あんたに聞きたい」
肩越しに見下ろした先に佇む小倉雅俊は、先ほどとはガラリと違う雰囲気――愛らしい妖精が一気に戦いの天使に変化したような姿――に見え、僕は内心で身構えた。
「なんだろう、雅俊君」
「雅俊でいいよ。あんたは拓巳のことをどこまで真剣に考えているんだ?」
切り込むような口調に、身構えていたにもかかわらず感情が揺さぶられた。
これは、見かけや実年齢に騙されたらだめだ。
僕は気持ちを切り替え、正面から質問を返した。
「僕も芳弘でいいよ。それはどういう意味だい?」
すると雅俊は意を決したような眼差しでこう言った。
「おれはちょっとこれから勝負に出なくちゃならない。それには拓巳の父親が絡んでくるかもしれないんだ。拓巳はおれにとって貴重な才能を秘めた逸材だから、なんとかこれ以上、傷を増やさないようにしたい。だから芳弘……芳さんが支えてくれるなら心強い。けれどもそれには覚悟が必要になると思う」
「覚悟とは、あの父親と向き合う覚悟かい?」
「そうだ。今すぐじゃないけど、拓巳を庇うならいずれはそうなる。あの男――高橋要は、一筋縄ではいかないぞ。拓巳を巡って必ずや対立することになるだろう。あんたはあの男からどこまで拓巳を守ってやるつもりなんだ」
そんなことは言われるまでもない。とっくに覚悟の上だ。すると雅俊はさらに畳みかけてきた。
「もし守り切る自信がないのなら、中途半端に手を出すのはやめてくれ」
さすがにその言葉を聞いた瞬間、目がつり上がった。横に立つ拓巳が血相を変えて口を開こうとすると、雅俊が鋭い視線を向けた。
「おまえが、頼りたかったのに我慢したのはそこが不安だったからだろう。そんなんじゃ、何かあった時のダメージが計り知れなくなるんだぞ」
拓巳は図星を刺されたようにうなだれた。
ああそうか。だから……
僕は、さっきからまるで挑発するように言い放つ雅俊の真意がどこにあるのかを理解した。
彼は僕に問いかけるようでいてその実、拓巳に僕の覚悟を伝えさせたいのだ。おそらくこの三日間にあったやり取りの中で、そこがネックになっていることを察したのだろう。そしてもし、僕の中に少しでも高橋要に怯む姿を見出だしたなら、自分の目的のために拓巳から切り離すべく吟味も兼ねているのだ。
さすが、あの恍星君から後輩であるにもかかわらず〈強力な助っ人〉と表現されるだけのことはある。
ぼやっとしていたのでは彼の選択から排除されそうで、僕は拓巳を背に隠すと真剣に向き合った。
「ずいぶんはっきりと物を言うんだね。僕には高橋要と対峙するだけの器がないと言いたいのかい?」
「気に障ったのなら悪い。けど、あんたは美容師なんだろう? 高橋要はかなりの実力者なんだ。裏から手を回されて首でも飛ばされたら傷つくのは拓巳なんだぞ。はっきりしておかないとこの先が危ういだろう」
指摘する内容がまたなんとも現実的だ。これを納得させるには半端な表現ではだめだろう。
「僕の首なら心配はいらない。どうとでもして見せるから。こう見えても結構かわし方はうまいよ。拓巳のことに関して、あの父親が何を仕掛けてこようと僕から手を引くつもりは絶対にない」
強い口調で言い切ると、後ろから拓巳の不安げな声がした。
「だめだ芳弘。本当にあの人は危険なんだ。芳弘にもし何かあったら……」
間髪を入れずに振り返り、少しだけ睨む。
「怒るよ拓巳。僕に何度同じことを言わせるんだ」
僕にもプライドはあるのだ。
しょげたように俯くのを確認してから、僕は雅俊に顔を戻した。
「だから余計な心配はせずに、君は君の戦いに専念してくれたらいいよ。僕も拓巳のために応援するから」
彼は少し意外そうな、恐れの入り混じったような表情をしたあとで、「わかった。今後ともよろしく頼む」と軽く頭を下げた。どうやら僕は雅俊から排除を免れたらしい。
その後、僕は拓巳をアパートに連れ帰り、床に就かせてから店に戻って仕事をこなした。やがて店が空いてきたところで関口に早退を願い出た。
「栄養のつくものでも食わせてやれ」
彼は僕に軍資金を握らせて送り出してくれた。
美容師を目指す人たちには家庭に事情を抱えている者が多い。関口自身も家出するように横浜に出てきたあと、両親とは長い間断絶状態にあるのだという。拓巳を巡る環境は厳しいけれど、職場の理解が深いことだけはありがたかった。
アパートに戻ると拓巳は布団に起き上がっていた。けぶるような眼差しを宙に投げ、ぼんやりとしてはいるものの、顔に赤みが注しているのは少し眠れたからだろう。拓巳の隣に腰を下ろすと、僕はようやく対面が叶った雅俊の感想を伝えた。
「なんというか、見かけによらず凄い子だねぇ……」
けれども、拓巳の口から返ってきた言葉は予想外の内容だった。
「雅俊は強い。俺よりも厳しい状況なのに、いつも前を向いている」
「君より厳しい?」
拓巳は静かに目線を窓へと向けた。
「雅俊は、普通の体じゃない」
「え?」
「ISといって、両性を併せ持っている」
ああ、それで……。
僕は雅俊の華奢な体つきや、不思議なトーンの声を思い出した。
「その珍しさと顔の美しさを母親が利用して、美少年好きで有名な富豪の当主に売り込んで、その息子の妻に納まったらしい」
「売り込むって、まさか」
拓巳は暗い眼差しを寄こした。
「夜の相手として。それはついこの前、突き止めたことなんだそうだ」
「……!」
「知らなかった雅俊は、最初はその当主――小倉啓介に、母親の立場を保証する代わりだと脅されて夜の相手を務めさせられたり、啓介の友人に売られたりしていた」
「――……」
「だから今、小倉家から出るために戦おうとしている。でも大事な人の体が弱いから、思うようには飛び出せないでいるんだ」
「大事な人……?」
「小倉家で義理の姉に当たる人だ。雅俊の意中の人」
拓巳は背を丸めて膝を立てると両腕で抱え、顔をその上に乗せた。
「小夜子さんは雅俊のピアノの師匠で、養子に入った雅俊と心を通わせた人だ。俺も歌を指導してもらってる。二人はとても似合ってると思う。だけど……」
拓巳の眼差しが再び陰った。
「当主の小倉啓介は裏世界での顔をうまく隠して孫の小夜子さんを可愛がってきたから、彼女は純粋に祖父を敬愛している。それを思いやる雅俊は、できるなら現状を伏せたままで自立したいと考えている。だからなかなか思うように事を進められない」
「そんな……」
「雅俊は恍星と同じようにプロのピアニストを目指せる実力がある。早く自立したいから練習はいつも真剣で凄い。けれど雅俊を自分だけのものにしておきたい小倉啓介に、密かにコンクールに出ることを邪魔されてるんだ」
「………」
「それでもめげずに頑張ってる。俺にレッスンをつけるのもそのひとつだ」
「……そういえば君のことを、『おれにとって貴重な才能を秘めた逸材だから』と言っていたね」
「雅俊が言うには、俺にはボーカルの才能があるらしい。だから今度の音楽会でものになるかどうかを試すんだそうだ」
「ものになりそうだったら?」
「プロデビューして自立するつもりでいると言っていた」
「プロを。本気で?」
「俺もそう思って聞き返した。そうしたら『おれには冗談を言っている余裕はない』と怒られてしまった」
「―――」
凄い。
正直、そこまでのものを背負っているとは思わなかった。それを跳ね返すこの気概。気圧されるはずだ……。
僕は拓巳に向き直った。
「じゃあ、彼の言う勝負というのは小倉家から出ること? 君の父親が関わってくるかもって言っていたけど」
「父は小倉家がらみで雅俊のことを知り、小倉啓介から買ったこともあるようで、あの美しさと強さを気に入ったらしい。店に入るなら小倉家を出るのに手を貸すと言ってきたそうだ」
「あの人が」
確かに、僕でさえ彼の中に夜の匂いを嗅ぎ取ったのだ。高橋が目をつけないはずはない。
「けど雅俊は断った。俺と父のことを知っていたから、『結局、意のままにしようとすることでは同じだ』と言って」
「……!」
なんという胆力なのか。たとえ小倉家を出たくても、援助の裏に見え隠れする思惑を読み取ったなら拒絶する――大人だってなかなかできることではない。
これは、本当に拓巳の助け手になるかもしれない。〈助っ人〉どころか彼こそが拓巳の運命を動かす中心になるのではないだろうか。
「いい人と出会えてよかったね。これは大事な運だ」
「運……?」
「そう。人との出会いは自分を変える大きなチャンスだよ」
僕は拓巳と肩を並べるように座り直し、丸まった背中をなでた。
「恍星君に雅俊に僕。君のことを本気で助けたいと思っている人が増えているよ。僕の店のスタッフもこうして協力してくれている」
だからね、と呼びかけると拓巳の肩が揺れた。
「君の父親がどこで何を言おうと僕は絶対に諦めないから」
彼は弾かれたように顔を上げた。
やはり何か言われていた。それに傷き、自信を失ったために僕のところへ来られなくなったのだ。高橋要としては僕を排除したいのだからあり得る手だろうが、そうはいくか。
僕は安心させるように微笑みかけた。
「あの人が何を企もうと、どんなに君を蔑もうと、君自身には何の落ち度もない」
「芳弘……」
「不安ならいつでも言う。何度でも言ってあげる。君は正しいんだ。周りが間違ってる。僕は手を引かないよ。だから次に何かあったら真っ直ぐにここへ来てほしい。あれじゃ心配で眠れないよ」
笑い声を混ぜて言うと拓巳は顔を膝に伏せた。やがて僅かな震えとともにすすり泣く声が聞こえてきた。僕は深く傷つけられた拓巳の心が癒されるように願いながら、涙が涸れるまでその背中をなで続けた。
小倉雅俊の出現によって拓巳の環境は変わっていった。
秋の音楽会でなんとしても成果を上げたい雅俊は、ボーカルに望む拓巳の現状を憂慮し、拓巳を予約した客が外出を望む時にはなんと「おれが同行する」と宣言したのだ。
それまでも雅俊は自身の経験をもとに、男性客のあしらい方や相手からの切り抜け方など、数々の手を拓巳に身に付けさせようと必死だったようだったが、あまり効果が望めないとわかるとすっぱり諦めて手法を変えた。
「おれか恍星から連絡がいったら、時間を見計らって迎えに来てくれ。その日は連れ帰ってなるべく一緒にいてやってほしい」
ある夜、アパートに打ち合わせに来た雅俊に指示され、僕は質問した。
「わざわざ君がそう言うからには理由があるんだね?」
すると彼は厳しい顔つきを和らげて説明した。
「ああいった目に遭うと無性に自暴自棄な気分になる。けれどもそれは、自分を慈しんでくれる人をそばに感じることである程度逃れることができる」
それは彼の実体験に基づく言葉なのだと知れた。
「君にとっての小夜子さん?」
確認するように訊くと「拓巳が言ったか」とつぶやきながら彼は頷いた。
「おれもぶっちゃけエラい目に遭わされてきたよ。けどおれには小夜子がいたから耐えられた。自分を無条件に愛してくれる存在――親でも恋人でもなんでもいい。そんな人が身近にいるのといないのでは段違いだと思う」
「でも小夜子さんは……君と小倉啓介氏の関係を知らないんでしょう?」
雅俊はフッと表情を陰らせた。
「いっそ知らないでいてくれたほうが気が楽だった」
「じゃあ……」
彼はアーモンド型の瞳を半眼に伏せ、淡々とした口調で言った。
「ついこの前な……。大切な人が、おれが傷を受けるたびに心を痛めて嘆く姿を見るのは辛い」
「……そんな」
「逆を考えればわかるだろう?」
そう言われてしまえば頷かざるを得ない。まさしくそれゆえに僕は郷里を離れたのだから。
黙り込んだ僕に雅俊が問いかけてきた。
「あんたにもありそうだな。触れられたくない過去が」
ゆっくりと目線を向けると、黒目勝ちの目と合った。
「……そうだね。失わなくて済んだはずのものを奪われた痛みは知ってるよ」
「あんたは、失ったのか」
「そう……幼馴染みの、兄弟のように育った相手をね」
あの時はあらゆる手を尽くしたつもりだったけど、雅俊の行動を見ていると自分はまだ甘かったのだとわかる。
「だから二度と後悔したくないんだ。拓巳は、自分にはそんな価値はないって言うんだけれどそんなことはない。これは僕自身のためにもなるんだよ」
「自分自身のため?」
「心を傾ける対象がいる。それだけで、もうすでにもらっているんだ。失って空っぽになったからよくわかるよ」
「……同じことを小夜子に言われたことがある」
「じゃあ君も小夜子さんに与えているはずだ。だから彼女は辛くても不幸じゃない」
「そうか……」
少し表情を緩めた雅俊に僕は気がかりを訊ねた。
「拓巳に同行するのはいいけど、そのあとはどうするつもりなの?」
「むろん、入れ替わる」
驚いて口を開こうとすると、彼は手を上げて遮った。
「高橋オーナーはこの前おれに『成果を出せるなら別に夜を捧げなくとも構わない』とはっきり言った。つまりあてがわれた客から苦情さえ出なければ何をしてもいいってことだ」
「それじゃ……」
「追い込まれた新人ホストたちは、その言葉を聞くとあっという間にコツをつかんで体を張ることから解放される。そして売り上げのノルマを果たすようになる。高橋は効率よく優れたホストを作り上げることに成功しているんだ」
「でも、拓巳は」
「そう。あいつは高橋の思うようにはいかない。あいつの才能は別にあるのであって、そもそもホストには向いてない。そこが高橋には許せないんだ。だから仕打ちがエスカレートして今のようになったんだな」
そこを逆手に取らせてもらうぜ、と雅俊は不敵な笑みを浮かべた。
「父親のエゴで貴重な才能を潰されてたまるか。おれが苦情をシャットアウトしてやる」
「そんなことができるの?」
雅俊はアーモンド型の瞳を光らせて答えた。
「まあ見てなって。おれも伊達に小倉家で苦労してきたわけじゃないのさ」
雅俊の言葉はまもなく迎えた土曜日の夜に証明された。
「今夜九時頃、関内駅前のNホテルに頼む」
という、なんとも簡潔な雅俊の連絡を受け、指示されたホテルの入り口前で待っていると、十分と経たないうちに二人が連れだって出てきた。
前に立って歩く雅俊は軽い足取りだ。
「大丈夫だった……?」
それでも不安を拭い去れずに訊くと、雅俊は余裕の笑みを浮かべた。
「ちょろいもんだ」
さ、行けよと彼に促された拓巳は強張った表情の中に感嘆の色を滲ませて、
「スゴすぎる……」
とつぶやいた。どうしたのと訊ねても顔を赤らめるだけで答えが返ってこない。疑問の眼差しを雅俊に向けると、彼はさらりと受け流した。
「企業秘密ってコトで。芳さんは知らなくていいよ。一人くらいこーゆー世界とは無縁な人がいてくれないと、おれたちやってられないから」
じゃあな、と雅俊はこともなく去っていった。
それからは日々が順調に過ぎた。
雅俊から僕が呼び出される頻度はだいたい月に二回ほどで、彼の技(?)によって毎回短時間のうちに拓巳は救出された。力強い援護を得た拓巳は心身の健康を取り戻し、目に見えて顔色が良くなった。
「なんでだろう……?」
なぜそうもあっけなく事なきを得るのかと不思議に思っていると、拓巳が一端を明かしてくれた。
「小倉啓介から雅俊を買った客の中に、整体術のプロがいて、そいつから雅俊は色々な夜のツボ技を伝授されたらしい」
「ツボ技?」
「つまり、そこを押されると身動きができなくなったり、痺れて気が遠くなったり、体の奥が疼いてその……」
なんとも説明しにくそうな様子に、その手のことには疎い僕も内容を察し、慌てて「ゴメン。もういいから」と遮った。――つまり彼は、体の構造を知り尽くしたプロから伝授された〈ツボ技〉なるものよって、相手の感覚を自在にすることができるわけだ。
後日、お礼を言ったあとで君の負担になってなければいいんだけどと付け足すと、雅俊は笑みを浮かべて答えた。
「それは心配ない。おれも自分のためにやっているんだから」
お陰で音楽会のオーディションは受かったんだぜ、と彼は嬉しそうだ。
「拓巳のボーカルは本当に凄いんだ。芳さんも聴きに来てくれるだろ?」
「確か平日だったよね。大丈夫、なんとかなるよ」
「よかった。あんたがいるのといないのとじゃ、拓巳の出来が段違いだろうからな」
小夜子も来るからよろしくな、と少しはにかんだように彼は笑った。
――不思議な少年だ。
厳しい大人の視点を持ち、容赦なく自分の方針を貫くかと思えば、こうして好きな人への想いを滲ませてはにかむ――したたかな計算高さと豊かな情愛深さが自然に混在している。そんな雅俊の、自らを縛るものに対して挑む姿は僕にひとつの方向を示してくれた。




