違法クラブ
なんだって―――!
沈黙がメインフロアを支配した。
武井慎一と関口透がこちらを注視する中、僕の手の下で拓巳の頭が徐々に震えはじめた。顔を覗くと、恐怖に凍りついた眼差しが黒部オーナーを凝視したまま固まっている。
まるで、白昼に地獄の住人と出くわしてしまったような――。
僕は慎重に自分の手を下ろしてから強張った彼の手を握り、振り返って黒部の熱い視線からその姿を隠した。
「ちょっと、よっちゃん! 隠さないでちょうだいっ」
黒部が一歩迫るのを、僕は片腕を上げて制止した。
「お待ちください。僕のモデルさんに何のご用ですか?」
「ふざけないで! そこにいるのは〈プラチナフェニックス〉でしょ!」
「そんな方は知りません。ここにいるのはまだ中学に上がったばかりの少年です」
「うそっ! プラチナってまだ中学生なの⁉」
口に手を当てて驚くさまに何を想像しているかが察せられ、僕は胸が痛くなった。
こんなことがあっていいのか――!
「具合が悪くて今にも倒れてしまいそうです。早く連れて帰りたいのでそこを空けてください」
とにかく一刻も早くここを出よう――そう思ってきっぱりと告げると、彼の目がスッと細められた。パールブルーのシャドウに縁どられた黒い瞳が不穏な光を帯びる。
「イヤよ」
後ろ手に握っている拓巳の手がビクッと揺れる。
「―――」
僕が無言で見下ろすと、何を感じ取ったか黒部は僅かに首をすくめた。
「み、見るくらい、いいじゃないの。減るモンじゃなし。独り占めはズルイわよ」
「……先ほどは立派に深澤さんを戒めたではありませんか。少しキレイなものを見たくらいで、美を指導なさる方がそれではいけません」
「少しじゃないじゃない!」
黒部が息巻いた。
「撤回するわよ。瞭ちゃんが正しいわ!」
「オーナー!」
「よっちゃんこそ、どっかオカシイんじゃないの? なんでそんなにヘイキなのよっ。美に携わるモノとして、鈍感すぎるのもどうかと思うわ。だからあんたの作るスタイルにはいつも色気がないのよっ!」
ズバリと欠点を言われ、一瞬、怯みそうになった。
――イヤ、それはそれ、今はソコではない。
「お言葉は肝に命じ、また明日から精進します。とりあえず今日のところはお譲りください」
「よっちゃん。私に逆らうの?」
「理不尽な要求には従えません」
「見るだけなのがなぜ理不尽なのよっ。私は別に他の人たちみたいに彼を――」
瞬間、僕の腕が前に伸びた。
「真嶋!」
慌てて駆け寄ってきた関口の目の前で、僕の手のひらが黒部の口を塞いでいた。
「オーナー。彼は、高橋要の息子です」
──その事実に胸が潰れそうだ。
黒部は瞬時に目を見開き、口を塞ぐ僕の手をつかんで下ろしざまに声を上げた。
「ええ⁉ だ、だって、〈プラチナフェニックス〉はあの店のお客さんへの……」
「それは、親の強権で心を支配して無理やりやらせているんです」
恐怖と圧力で正常な判断力を麻痺させ、彼の中に絶対の支配を植え付けて。
──これは虐待という名の犯罪だ。僕はまたこの壁に突き当たったのだ。
「なのにフェニックス? 笑わせないでください。そんなの、高橋要が息子の美貌を搾取して作り上げた幻想です。彼は不死鳥なんかじゃない。まだ雛鳥なのに、父親に攻撃されて傷だらけになったフェザント〈雉〉です」
「フェザント……?」
「雉は、雄の世界は厳しい。父は息子が育つと容赦なく戦いを仕掛け、陣地から出ていくまで攻撃します。いくら見かけが親をしのぐ色鮮やかな美しさでも、所詮、経験不足の若い鳥。あっという間にボロボロにされ、住まいから追い出されてさまようのです」
その無慈悲さは、まさしく拓巳に対するあの男の態度そのもの――。
「父親の強要から逃れるすべのない彼にとって、あの店での姿は屈辱なのです。なのに、この現実の場所で、彼をご存じのあなたにどうして顔を合わせられるというのですか」
「それは……う、でも……」
さすが〈美〉を愛でることに生涯をかけて惜みなし、と豪語するだけあって、黒部はしぶとかった。
「でも、でも。ならせめて横顔を拝むだけでも」
「いーかげんにしなさいよ、敦」
ふいにメインフロアの入り口から鋭い声がかかった。
「黙って聞いてりゃあ。〈美の巨匠〉が聞いて呆れるわ」
そう言って入ってきたのは、濃紺に金のラインの入ったスポーツウェアを着た陽子のすらりと引き締まった姿だった。後ろには、黒革の上下に身を包んだ祐司が従っている。
「ヨーコ……っ!」
陽子は絶句する黒部につかつかと歩み寄ると、おもむろに顎をつかんで上向かせた。――彼女は僕と十センチ違い。彼より八センチほど背が高いのだ。
「地位も名声もあるようないいオトナが、具合の悪い子どもをいたぶってどうすんのよ」
「い、いたぶるなんて……」
「横にもならせず、家にも帰さずじゃ立派な苛めよ。しかもそれを庇おうとした若手従業員を、権力をカサに脅したね……」
言いながらハラが立ってきたのか、陽子の目がだんだん据わってきた。
「よっちゃんを脅してなんかいないわっ」
「ほう……じゃナニか? 『私に逆らうの?』ってのは誉め言葉なのか?」
「えっと……」
しどろもどろの黒部に陽子がグイッと顔を近づけた。
「いい子にしてないと手込めにしちまうよ、敦……」
「………っ」
〈心のコイビト〉ヨーコの至近距離から放たれた言葉に、未だ純な気持ちを胸に抱く黒部敦は腰砕けになった。
一発で黒部を黙らせた陽子は僕に目を向けた。
「車が路駐してあるのよ。警察に引っ張られる前に出たいから早く支度おし」
「あ、でも拓巳を先に」
すると陽子は黒部の肩をつかみ直しながら後ろに向かってこう告げた。
「祐司! 芳弘に変わってその子をガードしてやんなさい。車に連れていくのよ」
ええぇ――⁉ そんな無茶な!
僕の内心の叫びをどう捉えているのか、武井そばまで来ていた祐司は無言で頷くと、武井や関口が目を剥いて見守る中、ゆったりとした動作で黒部をよけ、僕を回り込んで立ち止まった。そして僕よりさらに高い位置から拓巳を見下ろすと、僕に似て、しかしまったく違う印象を与える黒い瞳で拓巳の顔を見据えた。特に彼の美貌に理性を飛ばされる様子はない。それどころか……。
――あの、そんなオオワシみたいな鋭い眼で見つめたら、キジは逃げちゃうんじゃないかナ……。
おそらく陽子以外、その場にいた誰もが思っただろう予想に反し、拓巳も祐司をじっと見返した。そして、二人の間でナニが交わされたのかはナゾながら、フッと目線を和らげた祐司が手を差し出すと、拓巳は自分からその手に手のひら乗せた。
「………!」
それを見た陽子に「ホレ、早くしなさい」と促され、そそくさとフロアをあとにしながら、僕はふと思い出した。
そうだ。春休みや夏休み、僕の家に泊まりに来た祐司も、しょっちゅう一緒に山や森へ入ってたじゃないか。
そして何をするでもなく岩に座って緑の空気を満喫する祐司の肩や帽子には、牧場の馬の背で小鳥が羽を休めるように、よく小さな野鳥が止まったりしていたっけ……。
♢♢♢
(静かにお願いします)
(わかってるわよっ)
(あんた、態度でかいわよ。やっぱりヤメとこうか)
(ごめんなさいヨーコ。私が悪かったワ。だからお願い)
(最初からそのくらい身を低くしてりゃいいのよ。まったく、これだからチヤホヤされてるヤツは……)
(陽子さん、どうかそれくらいで。あとでとばっちりを食うのは僕です……)
「ああ、なんてキレイなの~。この世のモノとは思えないワ。もう、思い残すこともないくらいよ」
「じゃ、葬ってやろうか、敦」
リビングのソファーセットの一角で、ロックグラスを片手にくつろぐ陽子の目が光った。――冗談に聞こえない。
「い、今のは言葉のアヤなの。美しい日本語の多彩な表現のひとつだから、気にしないでちょうだいね」
その隣で二パーセントに抑えて作ったカクテルを啜る黒部オーナーが慌てて説明した。僕はダブルのハイボールをマドラーでかき混ぜつつ、向かいに座る二人を見た。
あのあと陽子の車に乗せられた僕たちは、強制的に本牧町の家に運ばれた。
「さあ、さっさと食べる」
すでに半ば用意してあったらしい夕食を魔法のような早さで仕上げた陽子は、僕と祐司を急き立てながら拓巳を自分の横に座らせた。拓巳に物を思わせる間を与えないようにしているのは明白で、僕はその配慮に感謝した。
「どれ、脈を取らせなさい」
手を取ったり顔色を診たりしはじめた陽子に、拓巳も逆らわなかった。
「くっ、睫毛が長すぎて見づらいわねぇ。大きい目なのに、眼窩が深すぎて目薬も入れにくそう……」
ぼやきながら目の下の結膜を軽く指先で下げ、色を確認する陽子の姿には少し驚いていたが、
「陽子さんは栄養士とスポーツトレーナーの資格を持っているんだよ」
僕が説明すると、ホッとしたように体から力を抜いていた。
陽子も拓巳の顔には無頓着だった。祐司の反応から見て心配なしとは踏んでいたが、さすがは親、僅かな内面の揺れを無言で見つめる時間の長さの中に表現していた祐司に対し、陽子はまったく動じる気配もない。
「どうも、拓巳への反応が世間と違うらしいんだよなぁ……ウチの家系は」
首を捻りながらエビチリをつついていると、先ほど右の額にできた傷跡に手を添えた陽子が素っ気なく言った。
「こーんな痩せぎすの、結膜の色も悪い貧血少年に、食事管理と体調の心配以外、ナニを思えっていうのよ」
そうでしょ? と振る彼女に祐司も頷く。
「世間がみんなそう思ってくれたら、拓巳の苦労も減ったと思うんだよね……」
現実は逆で、正しく感じる者は極めて少なく、しかもこっちが『オカシイんじゃないのっ?』呼ばわりだ。
「まあとにかく、栄養のつくものを食べてよく寝ることね」
陽子は話を切り上げて拓巳の世話を焼き、僕が使う部屋に布団を敷いて先に休ませた。そして彼が眠りについたのを確認するやいなや黒部に連絡を取ったのである。
「――そう。寝顔を見せてあげるわ。じゃ、急ぐのよ」
返事も聞かずに通話を切り、ソファーで再び晩酌を始めた陽子に僕は噛みついた。
「なんでまた! オーナーなんか呼んだら起きちゃうじゃないか。ただでさえ人の気配に敏感で眠りが浅い子なのに!」
すると僕より短い髪を片手でかき上げた陽子は、どこかの歌劇団の男役スターのような艶のある笑みを浮かべた。
「抜かりはないわよ。一服盛っといたから」
――ひどい。
内心が顔に出たのか、陽子は指を立てて左右に振った。
「甘いわよ、芳弘。あなたがあの子を髪で診断したように、私も観察して診断したの。あの子は明らかに自律神経を狂わせている」
「自律神経を?」
「自然に眠くなる機能が失われたために、慢性的に睡眠が取れてない――一目見てわかったわ。栄養もちゃんと摂れてないようだし……なんで背丈が百七十センチ近くまで育ってるのかが不思議なくらいよ」
陽子は目を伏せて嘆息した。僕は高橋要の見事な体格を思い出した。
「……拓巳の父親は祐司と同じくらい大きかった」
「ああ、なるほど。じゃ、ちゃんと食べてよく寝れば、本来はもっと大きくなっていたはずだったんだわ」
僕は胸を締めつけられた。祐司に近い体格になるというのなら、今の量の二倍は食べて眠らないと追いつかないだろう。
「そこまでいっちゃってる場合はね。まず深く眠ることが優先よ」
だから睡眠導入剤ね、との説明に僕が納得して引き下がると、今度は陽子が質問してきた。
「さっきの話では、あの子の父親がその原因を作っているようじゃないの」
「そうです。あれを父親と呼ぶなら」
僕がこれまでに知り得たことをかいつまんで話すと、陽子は直線的なラインの眉をひそめた。
「ひどいもんね……けど、じゃ、敦を呼んだのは正解だわ。ほんとは芳弘のために呼んだんだけど」
「僕?」
陽子はさりげなく自分のロックを作っていた祐司に「あんたは一杯よ」と釘を刺しながら晩酌のおかわりを頼んだ。彼は十分に育っているので世間の基準より規制を緩めているらしい。
「敦はああ見えて執念深いのよ。あのままにしておくと、この先、あなたのスキをついちゃ拓巳を見ようとするはずよ。そんなことになったら練習どころじゃなくなるでしょ?」
――おっしゃるとおりです。
「だから一回はちゃんと見せてあげないと収まらないわ。それなら早いほうが感謝するでしょ? あなたが言い出したことにしてあげるから、引き換えに知りたい情報、全部聞き出しなさいな」
そう言ってバーボンをあおる陽子に僕は脱帽した。
その昔、山で熊に遭遇してもヘイキで生還してた人間は、肝の据わり方がやはりどこか違うのかもしれない。
かくして程なくタクシーに運ばれて到着しながらも、なお陽子の家に入ることをためらう黒部オーナーを出迎え、寝室に眠る拓巳を見せたのだった。
「で? その〈プラチナフェニックス〉とやらは拓巳に間違いないのね?」
陽子が切り出すと、黒部オーナーは両手でグラスを持ちながら頷いた。
「あんな美貌のヒト、見間違わないわ。けど、本当に彼はその、高橋サンの実の息子なの?」
「残念ながらそれは間違いないようです。一度、わざわざ迎えに来ましたし……なによりあんな珍しい目の色、そうざらにはいません」
「ああ確かに。高橋オーナーも見事なヘイゼルだわね」
あれさえなければ僕だって養子を疑った。商売のために美貌の少年を連れてきて養子にし、養育を隠れ蓑にして違法に働かせている、というのなら話は簡単だったのだ。状況証拠だけでも犯罪性を嗅ぎとり、警察はすぐに動くだろう。それを匂わせるだけで、あのプライドが高く頭の切れそうな男は手を引いたに違いない。実の親子――ここにすべての問題点がある。
「じゃ、具体的に、店ではどんな風に過ごしているの?」
土日だけだって聞いたけど、と付け足した陽子に黒部は少し考え込みながら答えた。
「私もいつもお見かけしてるわけじゃないからアレだけど。プラチナは、基本的には該当の人がいる時だけ来るのよ」
「時間と、頻度はどれくらいですか?」
「時間は開店してから三十分後、だいたい八時から十一時までの三時間ね。頻度は、まあ、殆どの土曜日と、日曜日はいたりいなかったり。対象者は上位七番までが一月一回だから、最高が七人になるの」
「ほぼ週二なわけですね。そして自分の席で三時間か」
「自分の席というか、プラチナはステージの横にオープンになったVIP席にいるのよ。だから他の席よりも姿がよく見えるの。私もそれで見たんだもの」
「………」
なるほど。高橋はそうやって拓巳を見せびらかすことで客を煽っているわけだ。にもかかわらず普通には予約が取れない。だから常連が家にまで押しかけてくることになったのだろう。
「ホストのような接客をしないなら――まあ、拓巳にはできないからでしょうが、その間、彼は何をしているんです?」
「基本的には、自分からは何も」
「何もしない?」
「ええ。だから話しかけるのはこちらね。頷いたり、時々は質問したりもするけれど、お酒を作るほかはただそこにいるの。彼専用の椅子に座って足を組んで、相手をあの眼差しで見ていることが多いわ」
それがこっちにはたまらないんだけど~、と、思い出したナニかのために吹き飛ばされそうになった黒部の理性を、陽子がつかんで引き戻しにかかった。
「しっかりしなさい、敦。常識で考えれば、十二、三歳の子どもが三時間もじっと座っているのはおかしいでしょう?」
「わ、わかってるわよ。だからそんな歳だなんて思わなかったんだもの」
ホントか? となおも鋭い目線を向けてくる陽子に、黒部は必死に説明した。
「陽子だって〈バードヘヴン〉での彼を見たら納得してくれると思うわよ。落ち着いた静けさをまとって、得もいわれぬ眼差しで言葉少なに相づちを打ちながら、空になったグラスを美しい所作で満たす……あの高雅で静謐なプラチナを見て、誰が十六歳より下だと思うもんですかっ」
「………」
黒部のより具体的な説明で、僕にはその時の拓巳が置かれた心情がよくわかった。
「……落ち着いた静けさというのは、おそらく高橋の強要に対する諦めからきてるんだと思います。あの眼差しはもとからですし、言葉が少ないのは会話する気力がもうないからで、相づちは打ったほうが場が持つからでしょう」
黒部はイヤそうな顔をした。
「ソンな風に分析されちゃうと、夢もヘッタクレもないわね」
「夢なんかじゃありません。拓巳にはこれか現実なんです」
さらに厳しい現実のために、僕は聞かなければならなかった。
「オーナーは以前、〈プラチナ〉はプレゼントだから何をしてもいい、とおっしゃってましたよね……?」
黒部はバツの悪そうな顔になった。
「――ええ」
僕は内心で歯を食い縛った。
「それは店内で彼が辱しめられている、と解釈してよろしいのでしょうか」
すると黒部は首を横に振った。
「いいえ。〈バードヘヴン〉では、お客がホストに触れることは原則として禁止なの。手を握るくらいなら目をつむってもらえるけど、あんまりやればブラックリストにのるわね。ただ――」
彼は、食い入るように見つめる僕から視線を外した。
「前にも言ったけど、プラチナの場合は別の道が用意されているの。高橋サンは、初めて対象になったお客に、『車でお出かけの際は、時間内であれば自宅のほうに直接送ってくださっても構いません』と説明するのよ」
「……車でどこへ?」
「そこは暗黙の了解で、対象者がどこで何をしてきたかはわからないようになってるの。外に出る人は、大抵自宅のほうへ送り届けるみたいだし」
僕は想像を上回る事態に総毛立って黒部を見た。
夜の路上で常連客の男が吐いたセリフが脳裏をよぎる。
(なんだよ、邪魔するなよ。それともあんたもホレた口かい?)
「まさか――いくらなんでも、つい最近まで小学生だった子にそんな……」
「……でも、プラチナ相手に遊園地や公園に出かけた、ってヒトは聞いたことないわ」
「………!」
さすがの黒部オーナーにも事の異常性が見えてきたようで、改めて口にした事実に顔が青ざめてきた。
「あの、これは又聞きしたことなんだけど……」
躊躇する黒部に、陽子が顔をしかめながら促した。
「ここまで聞いちゃったら、もう何を付け足されても驚かないわよ」
「……外に出たあとで送られたプラチナは、いつも朦朧としている、と」
車から自宅に戻るところを何回も見た、って人が、友人の知り合いにいてね、と言い足す声が耳を通過していく。
あの日の関口の言葉――。
(なんだか手足が思うように動かせてないような、不自然な感じがした)
凍りついた胸の内に黒部の言葉が響いた。
「それがどんな意味なのかはわからないのだけど、この話が本当のことで、十六、七歳くらいの子が自分の目的のために割り切って稼いでいるのと、大人びて見える十二、三歳の子が父親に強要されているのとでは、話が大きく違ってくると思うの」
しょんぼりとこぼす姿に陽子が顔を向けた。
「最初からそういう態度でいてくれたら、拓巳が寝る前に呼べたのに。改心したの?」
彼はつけ睫毛の目を伏せた。
「だって、プラ……拓巳くんの寝顔、あどけなかったんだもの」
俯いた黒部の表情は少し切なそうで、それが〈バードヘヴン〉での彼と比べて出た言葉だと知れた。
黒部敦を見送ったあと、拓巳の眠る部屋に下がり、まんじりともせずに枕元で寝顔を眺めていると、ドアをそっと開ける音がした。
(芳弘、眠れないんだったらこっちへ来なさい)
――陽子にはお見通しらしい。
リビングに行くと、先に戻っていた陽子がソファーの脇に佇んでいた。
「ひとつ訊いておきたいんだけど」
切り込むような眼差しに、僕は何を聞かれるのかがわかった。
「なに?」
ゆっくりと近づいていくと陽子は続けた。
「あなたはあの子をどうするつもりなの?」
「もちろん、今の理不尽な虐待から救いたいから、手を尽くすつもりだよ」
すぐに答えると、彼女はしばらく無言でいた。やがて僕が正面に立つと、目線を外してため息を吐いた。
「まあ……そう言うだろうとは思ったわ。あんな状態の子、ほっとけるようなあなたじゃないもの。でもね」
再び見上げてきた陽子の、僕とよく似た茶色の目元が少し歪んだ。
「あなた自身が立ち直ってからでないと、繰り返すことになるわよ。大丈夫なの?」
そのことに直接触れられるのは、この地に上京したばかりの二年前以来だ。
「陽子さん。僕はまだ、正直そこに自信はないよ。あの高校最後の三ヶ月で、僕の価値観は百八十度変えられてしまったから」
正義が通るべき学校の世界で起こった理不尽な事件――。
「〈自分〉を形作っていたものが粉々になったから、それを新しく組み立て直すにはまだ時間がかかると思う。けれども拓巳に接するようになってから、ひとつだけ気がついたことがあるんだ」
「なに?」
「僕はまだ、どん底に堕ちていたわけではなかったんだ、と」
僕が堕ちた先には、さらなる深淵が潜んでいたのだ。
「少なくとも僕には支えになってくれる家族がいた。僕の潔白を信じ、学校に抗議までしてくれた父親がいた」
降り注ぐままに受け取っていた信頼と愛情。――たとえ、それ故に家には帰れなくなったのだとしても。
「あの時、僕のせいで職場を追われた父さんに、中傷に苦しめられる母さんに、自分がしてあげられるのはもう、離れることだけだと思ったけど」
確かに、それによって救われた部分もあったけれど。
「二人との絆は今も僕の中にある――それがどんなに幸せなことなのかを、拓巳を見ていて思い知らされたよ」
離れていてもわかる、自分の中に息づく両親の想い。それがないということが何を意味するのか、拓巳の姿は教えてくれた。
「拓巳には自分を支える絆が何もない。それどころか、愛情をもらうべき人から逆に奪われているんだ。それなのにね。初めて会った時、あの子は僕を見て『困ってるのか?』って聞いてくれたんだよ」
それを思い出すと胸が締めつけられる。
「自分こそ、どんなにか困り果てていただろうに……『そうだ』と言ったらモデルを引き受けてくれたんだ。だから陽子さん、これは僕に与えられたチャンスだと思うことにしたんだ」
「チャンス?」
「そう。今度こそ、持てる力を振り絞ってあの魂を救いなさい、と呼びかけられてる気がするんだよ。あの時の失敗と挫折は、さらに難しそうな拓巳のための布石だったとすら最近は感じられるんだ」
「芳弘……」
「今度は絶対に諦めないよ」
僕が言い切ると、陽子は真剣な眼差しを向けてきた。
「今回の件、手を出すのならもうあとには引けないわよ。あの子の……今後の人生すべてがかかってくるわ。なんといっても相手が父親なんだもの。どこに落としどころを定めるつもり?」
「高橋要が父親として反省して、拓巳をちゃんと養育するならそれに越したことはないと思う」
答えながらも、はじめて高橋要と対峙した日のやり取りを思い出すにつけ、その可能性は極めて少ないと思えた。
「それが保証されないなら、妥協するつもりはないよ」
「相手はやり手で知られるホストクラブのオーナーよ。危ない橋を渡らなくちゃならないかもよ?」
「それでも。陽子さんや祐司に迷惑がかかったら申し訳ないけど……」
俯いてつぶやくと、ふいと持ち上がった陽子の手が僕の頬を軽くつねった。
「バカね、気遣いは無用よ。私たちは拓巳に感謝しているの。彼のために必死になるあなたは昔と同じ目をしている。半年前までの、虚ろなものを抱えた目をして、与えられた課題をただがむしゃらにこなしていたあなたとは違うもの」
「陽子さん……」
「祐司には安心して心を委ねられる同世代の理解者があなたしかいない。わかってるでしょう?」
「……」
「そのあなたが壊れていく。食い止めたくても、祐司や私にはそういう力がもともと足りない。そこを拓巳が救ってくれた」
だから、と陽子は微笑んだ。
「もし、その高橋要とやらが本当に違法な手段を使って仕掛けてくるなら、こっちもそれなりの対処はさせてもらうわよ」
「陽子さん! それは」
驚いて声を上げると陽子は苦笑した。
「しょーがないでしょう。祐司にはあなたが無事であることが必要不可欠なのよ。大丈夫、まずは実力で排除してやるわ。久々に血が騒ぐわね」
そう言って片方の口角をつり上げる陽子は、いつになく物騒だった。




