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バードヘヴン  作者: 木柚 智弥
傷を負った少年
4/23

父親との対立


「――じま、真嶋!」

 肩を揺さぶられ、ハッと我に返る。

 少し目線を下げたところに関口(せきぐち)(とおる)の顔があった。

「あ、店長。すみません」

 取り落としたロールブラシを関口に差し出され、僕は赤面しながら受け取った。どうやら片付け途中で固まっていたらしい。

 僕の異動時期は、たまたま春の人事異動と重なっていた。トレーナーだった青山碧は関内(かんない)店とへ異動し、こともあろうに本店には関口が新店長として配属されてきた。

「ずるい~っ」

 とは桜木町(さくらぎちょう)店に配属された川崎麗奈のセリフで、

「マジか……?」

 とは四月一日、一足早く三月のはじめに戻っていた僕と再会した関口の言葉だ。

「もうすぐ来るんだろ、例の破壊少年が。急がないと待合で待たせることになるぞ」

 みんなに見られてもいいのか、との言葉に「いえ、困ります」と僕は慌てて手を動かした。

 今ここには川崎麗奈のような技術者のお姉さまが三人、そして麗奈よりも理性のタガが緩そうな技術者のオトコが一人いるのだ。彼らにはまだ拓巳を会わせたことはない。火、水、金は拓巳が来る練習日、今日は水曜日だ。

 僕の思考をたびたびフリーズさせるのは、昨日の黒部オーナーの話から導き出された事実だ。

 いくら家業とはいえ、ホストクラブに子どもを――!

 あの時の黒部と恍星のやり取りを思い出すにつけ、心配が(つの)る。

 一体、どんな店なんだろう。とてもじゃないが、彼に恍星のような対応ができるとは思えない。

(俺が身なりを整えて顔を出すと客が喜ぶんだそうだ)

(俺は、うまくかわせないから――)

 拓巳の言葉に含まれていた自嘲(じちょう)の響きが切ない。そもそも十二、三歳の子供にできないのは当然だ。

 それなのに、口を養ってくれるから邪険にするなだって?

 自分の考えていた姿とあまりに違う父親像――僕が家業を手伝わせることは大事と言った時の、拓巳の複雑そうな表情の意味が今なら理解できる。

 なんて残酷なことを言ってしまったんだろう……!

 明日泊まりに来るのだから、今日、焦って色々聞き出すのはよそう――そうは思うものの、いてもたってもいられなくなる。

 ドツボにハマりそうな自分を叱咤(しった)し、なんとか準備を終えてガラスドアから階段を覗くと、ちょうど拓巳が到着したところだった。

「拓巳!」

 僕があまりに勢いよく階段を駆け降りたからだろう。拓巳は驚いたように後ろに身を引いた。すると路肩の段差に足が当たり、ランスを崩して道路に倒れそうになった。

「危ない!」

 咄嗟に腕をつかんで体を捕まえ、そばを走り抜ける車を辛うじてやり過ごす。

「や、ごめんね。脅かしちゃった」

 頭を()きながら拓巳の顔に笑いかけたその時、通り過ぎた黒い高級車が唐突に斜め前の道路脇に横付けされた。

 ドアが開き、中からダークブラウンのスーツの男が姿を現す。すると腕の中の拓巳がいきなり震えだした。

「拓巳?」

 見ると目が大きく見開かれている。そして。

「父さん……」

 拓巳が小さくつぶやいた。

 お父さん! この人が!

 それは、ホストクラブのオーナーというだけあって、確かに只者(ただもの)とは思えない雰囲気を持った男だった。

 上質なダブルのスーツに身を包んだ引き締まった体躯は祐司に劣らない上背がある。バランスよく肩上に納まる頭部はオールバックになでつけられ、秀でた額に数本の前髪がこぼれるさまが男の色香を漂わせている。三十代後半に見える容貌は、硬質な鋭さと貫禄に溢れ、この人物が若くして成功を収めたことを感じさせた。

 拓巳はお母さん似なのか。

 親子とはすぐにはわからないほど、二人の外見は異なる遺伝子で構成されているようだった。

 その中で唯一共通するのは目の色――日本人には珍しいヘイゼルの瞳が、真っ直ぐなラインを描く眉の下から夜を照らす街の明かりを反射していた。

 とにかく自己紹介しないと。

 拓巳から腕を解いて姿勢を正すと、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた男が深く響く声を発した。

「それが、おまえの落とした〈男〉か」

 ―――!

 僕は瞬時に開きかけた口を閉じた。すると彼は僕を無視するようにして固まっている拓巳の前に立ち、いきなり顎をつかんで仰向かせた。

「なかなかやるじゃないか。私の知らぬうちにちゃんと貢がせる相手を捕まえるとは。こんなことができるならもう容赦はいらないだろう。これからは毎日店に出てもらおうか」

 それを聞いた途端、拓巳の震えが増し、僕の限界がきた。

「どうもはじめまして!」

 僕は顎をつかむ手を横から押えて引き離すと、後ろ手に拓巳を庇うようにして男の正面に立った。

「私は真嶋芳弘と申します。拓巳君のお父様でいらっしゃいますか」

 冷静に。とにかく冷静になるんだ、と心で呪文を唱えながら、冷徹に値踏みするような視線を寄こしてくる父親に目を合わせる。

「ほう……軟弱な美容師には珍しく胆力があるようだな。拓巳もそこそこ見る目が養われているということか」

 だからっ、冷静になるんだ僕!

「一流の方であれば、名乗られたら返すものです」

 彼は少し皮肉をないまぜた笑みを浮かべた。

「これは失礼した。私は高橋(たかはし)(かなめ)。息子が世話をかけたようだ。だがこれ以上は遠慮させていただこう。拓巳、乗りなさい。帰るぞ」

 素っ気なく言い切った高橋は、僕の背後に隠された拓巳に強い眼差しを向けてから(きびす)を返そうとした。僕はすかさず言い返した。

「お待ちください。おかしなことをおっしゃる。高橋さんはこれからご出勤のはずです」

 高橋は動きを止めて僕を見た。

「それが何か」

「ご自身で彼に『家を出て避難するように』と指示なさったと伺っています」

 高橋は一瞬、おや、という顔をした。そこまで拓巳から聞き出せたとは思っていなかったらしい。

 僕は一気に畳みかけた。

「私はゲームセンターで彼を見かけた者です。事情も聞き取りました。彼が家にいられない理由と、その深刻さを把握しています。そして先日、高橋さんのお店のお客様である男性から、彼がセクシャルハラスメントを受けているところにも遭遇し、保護しました」

 瞬間、高橋要の目元が(まずい)というように歪んだ。

「以前にも同じことがあったそうで、高橋さんがどう対処されたかも聞きました。私には虐待の疑いを通報する義務が生まれていますが」

 連れていくなら通報するぞ、との気迫が伝わったのか、高橋が今度は僕に対峙した。

「君は、何を言いたいのだ」

「私が美容師であることをすでにご存知のようですので、詳しい説明は省かせていただきますが、私は今、彼にモデルを引き受けていただいています。高橋さんにはそのことをご了承いただきたいのです」

「ほう……?」

「彼は土日に家業を手伝っている、とのことですが、十二歳の少年が手伝うにはいささか問題のある職種ですよね。時間的にも内容的にも」

「………」

「そこで今日のような平日、あなたが彼の保護者としての義務を果たせないでいる時間帯を、モデルを引き受けていただくお礼として私にお任せいただければと思うのですが、いかがでしょう」

 ――あなたのしていることは明らかに保護者としての道義を欠いている。自分は然るべき役所に申し出ることができるぞ。だから今日から平日は僕が拓巳を預かることを認めろ。

 僕のメッセージに高橋要は反応した。

 背後から威圧する気配が立ちのぼる。

「私には親権者として拓巳を連れ帰る権利がある」

 ――おまえに何を言われようと、赤の他人より親のほうが立場が上だ。

 僕は受けて立った。

「昨今では、子どもが深刻な犯罪に巻き込まれるケースが増えていますね。このままあなたのお店を手伝っていては、息子さんも危ないかもしれません」

 ――親自身が犯罪を誘発している疑いがあるのなら、その限りではないぞ。

 その投げかけにも高橋の気配に怯む様子はない。

「私は親として、息子を養う義務をちゃんと果たしている。家業を手伝わせるのは家長の権利だ」

 その言葉に、後ろ手につかんでいた拓巳の手からまた震えが伝わってきた。僕はその手を握り直すと、目力を込めて高橋を見た。

 負けてなるかっ。

「十三歳未満の労働は法律で厳しく制限されています。拓巳君には本来、あなたの店を手伝う義務はないはずです」

「親の仕事を手伝うのもまた教育の一環だろう」

「本気で言っておられるとは思えません。家業のお手伝いといえども、未成年である限りあなたの職種では無理があります」

 ――その強弁が役所に通用しないことは、わかってるようですね。

「………」

 僕と高橋の目線が真っ向からぶつかった。

 息の詰まる沈黙が流れる。

 どのくらいそうしていたか、やがて先に口を開いたのは高橋だった。

「真嶋君といったか。君は、なかなかよく勉強しているようだな」

「ありがとうございます」

 軽く頭を下げると彼は気配を鎮めた。

「よかろう。しばらく様子を見させてもらおう。平日は君の好きにするがいい」

 高橋は、今度は足を止めることなく(きびす)を返し、路肩に停めてあった車へと戻っていった。車は来た時と同じく、あっという間に車道の奥へと吸い込まれていった。

 い、行った……。

 大きく息を吐いたその時、ふいに背後から声がかけられた。

「やるじゃないか」

「……っ!」

 驚いて拓巳を背に隠し、勢いよく振り返ると、そこには見馴れた姿があった。

「関口店長……」

 体から力を抜くと関口が呆れたように言った。

「そんなに驚くなよ。驚いたのはこっちだ。さすがは〈鋼鉄の理性〉、よく退けたな。今の男はアレだろう? 敦サン御用達のホストクラブのオーナー」

「知ってるんですか?」

「関内では有名だ。俺は関内店にいたことがあるんでな。あのオーナーはかなり危ない橋も渡ってきたらしいぞ。だが、取りあえずは店に入らないか。彼が哀れな有り様だ」

 首を巡らして背後を覗くと、青い顔の拓巳と目が合った。

「大丈夫かい?」

 拓巳は頷いたもの蒼白な様子は痛々しく、僕はすぐに拓巳を連れ、店内に戻った。



 他に誰もいないことを確認し、三人でスタッフルームに入ると、タバコに火をつけた関口は感心したように言った。

「おまえみたいな優しげな男がよくぞまあ、あのヤバそうな男と渡り合ったな。しかも一歩も引かずに要求を通し切るとは」

 僕は拓巳に椅子を勧めながら苦笑した。

「必死でしたので」

「前にも思ったが、真嶋は法律に詳しいんだな。十三歳未満だとそんなに違うのか」

 手早く()れたお茶を腰かけた拓巳に渡し、自分も一口飲んでから質問に答える。

「本来は、どんな理由があろうとも子どもに自分の意思に反した労働をさせてはいけないんです。中でも特に十三歳未満は厳しく制限されます」

「家業でもか」

「そこが微妙なところで……働かせて利益を上げるなどもってのほかですが、農家とか〈手伝い〉の範疇(はんちゅう)なら十三歳未満でも認められます」

 関口透はちらりと拓巳を見、すぐに脇へと顔を逸らした。まともに見て理性を破壊される危険を避けたのだろう。僕は説明を続けた。

「十三歳を過ぎると労働条件が緩みます。家庭の事情や芸能活動など理由があって学校側が許可すれば、中学生でも働かせることができるんです」

「ああ……そう言われれば何人か中坊っぽいのもいたな」

「関口店長は、従業員を見たことがあるんですか?」

「近くに寮があってな。関内店によく来たんだ。どうも訳ありの家庭の少年が主らしい。仕事は大変だが、かなり俸給が見込めるんで、自立するために働いているとかいうやつの話を漏れ聞いたことがある。多分、平均年齢は十六、七歳くらいなんじゃないかな」

「……なるほど。あの人はそのあたりの法律に詳しいんですね。拓巳は息子だから例外なんだ」

「どういう意味だ?」

「つまり、衣食住を提供することで、一見、事情を抱えた未成年者の福祉を肩代わりしている、との言い訳が立ちます」

「セクハラする客が常連にいるような、飲酒を伴う接客業でもか」

「清掃や雑用など裏方業務があるのですから、いくらでも抜け道はあるでしょう」

 彼は煙を吐き出すと、今度は横目で拓巳を見た。

「……上流階級の男が主な客層だ、と聞いているぞ。俺はその手の趣味の輩のことは知らんが、かなり、その……変わった店じゃないのか? 君はそこで何を――」

「店長」

 遮るように強く呼びかけると関口はこちらに目線を戻した。

「その話はまた。……今日は色々なことが起こったのでちょっと集中力が保てません。拓巳も疲れたようです」

 彼は一瞬目を見張り、やがてひとつ頷いてからタバコをふかした。

「ああ、そうだな。今日はもう帰れ。ゆっくり休めよ」

「ありがとうございます。また後日、相談させてください」

 関口は承知した、というように手にしていたタバコを揺らし、そのまま下ろして火を消した。



 その日はそのまま拓巳をアパートに連れて帰った。とてもじゃないが家に帰す気になれなかった。

「朝早く出て家に寄れば、学校には間に合うよね」

 急かすようにして食事を取り、拓巳を風呂場へ促してから片付けをする。手を動かしていないと、今日知った数々の事実を拓巳に問い詰めてしてしまいそうで怖い。

 あの高橋要の態度。顎をつかんだ時の拓巳を眺める目つき。まるで、ペットショップの店主が商品の毛並みを確かめるような扱い方。

 思い出しただけで、全身の血が逆流しそうだ。

 こんな感情のまま拓巳に質問をぶつけてはいけない――そう自分を戒めながら、寝室にしている畳の部屋で、布団を用意する傍ら枕を絞めつけて怒りを発散していると、風呂から上がってきた拓巳が引き戸を開けた。

「芳弘――」

「ああ、よく暖まってきたかい?」

 気持ちを切り替え、声をかけながら場所を開けると、戸口に立ったままの拓巳がつぶやくように聞いてきた。

「……さっきの話は本当か?」

 僕は掛け布団を広げる手を止め、首を巡らせて拓巳を見た。

「関口店長との話? それともお……あの人との?」

 お父さん、とはもう口にしたくない。――あんな父親がいてたまるかっ!

「俺には、父の店を手伝う義理はないのか」

「……っ」

 やはり、そう言われていたか――。

 拓巳のけぶるような眼差しが、凍りついたまま光っている。

『頼まれているのではありません。強要されているんです――』

 あの恍星の言葉を聞き、高橋要とやり取りを交わしたあと、何が僕を打ちのめしたかといえばそのことだ。

 僕は、彼になんと言って詫びればいいんだろうか……!

「そのとおりだよ、拓巳。あの人のお店のような職業の場合は、子どもを働かせてはいけないんだ。君は拒んでいいんだよ」

 僕は敷いた布団の上で姿勢を正した。

「子どもには、安心して、安全に暮らす権利がある。子どもの義務とは〈学ぶ〉こと。基本的にはそれだけだ。あとは親の務め」

 罪を犯さないように教えるのも、お金を稼いで衣食住を整えるのも、安全に気を配るのも。

「そして周りの大人には、子どもが不当な扱いを受けていたら届け出る義務があるんだ。特に、抵抗のすべもない親からの場合は……」

 これは一種の虐待と言えるのではないだろうか。

 言葉に詰まって(うつむ)こうとした時、スッと頬に触れるものがあった。

「―――」

 ほんのりとまだ暖かい、それは数本の指先。

「どうして芳弘がそんな辛そうな顔をするんだ……?」

 いつの間にか、拓巳が目の前に片膝をついてしゃがんでいた。

「……あまりに自分が無力で情けないから」

「どうしてだ? 俺の知る限り、父の言葉を()ねつけたのは芳弘が初めてだ。尊敬する」

 僕は首を横に振った。

「あんなの、裏取引もいいところだ。僕は建前より実を取ったんだよ。あの人に負けたくなかったから妥協したんだ」

 今にも連れていかれそうなのを阻止したいあまり、抗議することをやめ、平日を確保することだけに目的を絞った。中学に上がったばかりの子供が土曜日や日曜日の夜、ホストクラブの仕事を手伝わされると知りながら目をつむったのだ。

 思い出した悔しさのあまり手の下の上掛けに新たな皺を与えていると、拓巳が言った。

「そんな顔しなくていい。十分、嬉しかった」

 彼は目の光を和らげた。

「俺のために、本気で父に立ち向う人がいた。それがわかっただけでも嬉しい」

「―――」

 なんて切ない言葉なんだろう――。

 慰めるような響きを帯びた声は、まだ声変わりを脱したあとの初々しさをまとっているのに、切れ長の目に浮かぶ静けさは深く濃い諦観(ていかん)に彩られ、およそ思春期を迎えた少年のものではなかった。

 拓巳にとって、それほどまでに父親の壁は厚く、なすすべがないのだ。

 僕の心にひとつの覚悟が生まれた。

「決めた。僕は今の状態から君を脱出させることをこれから全力で目指すことにする」

「芳弘……?」

「いくら容姿が優れているからといってもこれはおかしすぎる。実は今日、君の友人だと名乗る学生さんが僕を指名してカットに見えられてね」

 荻原恍星君というんだけど、と伝えると拓巳が僅かに目を見開いた。

「恍星が」

「彼が僕に、君が高橋オーナーから店に出ることを強要されていると教えてくれたんだ」

 まさしく間一髪のタイミングだった。もし彼が来るのがあと一日遅かったら、僕は何も知らないままあの男と対峙するところだったのだ。

「それは事実なんだね?」

 拓巳は青ざめた顔で目を伏せた。僕はすぐに付け加えた。

「話したくない時は無理に話さなくていいんだよ。それも君の持っている権利。ただ、大事なことだからひとつだけ確認させて。君はあの人の店には行きたくない、これに間違いはないだろうか」

 拓巳の眼差しに恐れの色が入り混じった。

「……何をするつもりなんだ? 父は容赦ない人だ。今日のことで芳弘は目をつけられたと思う。これ以上は危ない橋を渡らないほうがいい」

 自分の気持ちを伝えるよりも不安が先に立つ――その姿が、彼が今まで置かれてきた状況を物語っていた。

 僕は安心させるように笑いかけた。

「子どもは余計な心配はしないの。質問に答えてないよ?」

 辛抱強く待つと、やがて拓巳は胸の奥にしまい込んだ感情を吐き出すようにその一言をつぶやいた。

「すごく、嫌だ……」

 拓巳の性格ならそう思って当然だろう。

 僕は徐々に震えてきたその肩を抱き寄せた。貸してあげたパジャマはブカブカで、彼の体は服を着た時の見かけよりもずっと華奢で頼りなかった。

「わかった。どんな手段があるかよく考えるから」

 ひとつ頷いてから顔を覗くと拓巳は怯えたような表情を浮かべた。僕は腕に力を込め、言い含めるように伝えた。

「君のお父さんは親として明らかに間違っている。けど、あの様子じゃ簡単にはそれを認めないだろうね。だから少しずつ手を打って状況を変えていくように努力する。あからさまに対立して逆効果になるようなことはなるべく避けたいと思っているよ」

 それを聞くと拓巳はホッとしたように力を抜き、僕の胸に寄りかかって目を閉じた。それは不安にかられた幼子が、親の腕の中で安心をかき集めるような仕草に似ていた。少し丸めたその背中に手を滑らせながら、改めて僕は拓巳が何に餓えているのかを悟った。

 この壊れそうな魂を、けして見捨てずに守り切る。それができたら、挫折に苦しんだあの日々も昇華されるかもしれない――。

 そんな風に感じている自分がいた。


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