羽ばたく空の向こうに
瞬く間に一ヶ月が過ぎた。
「拓巳は本当に小さな子どもになったわ」
陽子が言うとおり、彼は無表情ながら意思をはっきり示すようになった。特に多いのは「イヤ」で、僕たちはしばしば振り回された。でも陽子に言わせると、いいことなのだそうだ。
「今まで言えなかった分を取り戻そうとしてるのよ」
「それにしたって。コラッ拓巳! 逃げるなっ」
雅俊はボイストレーニングが進まないのでおかんむりだ。拓巳は、雅俊には特に我が儘に振る舞い、祐司のそばではのんびりと気ままに過ごした。そして僕のところには甘えに来るのだ。
そんな風に過ごすことにみんなが慣れはじめた頃、思いがけず、それは訪れた――。
その日、定休日の僕は、取ったばかりの運転免許で陽子に車を借り、拓巳をドライブに連れ出した。
真夏の暑い空気を抜けて箱根の頂上に向かい、景色が展望できる峠の一角に車を止め、拓巳とあたりの風景を眺めた。
眼下に広がる大地の向こうには、陽光に照らされた海が煌めき、青い空との境界線に雲が綿菓子のように浮いている。そこから届く風は、山の途中で深い緑を吸い込むのか思ったよりも清々しく、時折その勢いを強めて拓巳のサラサラの髪を揺らしながら通り抜けていった。
ベンチに並んで腰かけていると、ふと拓巳がこちらをじっと見ているのに気がついた。心なしか、瞳の色が濃くなっている気がする。
ああ、標高が高いから、違って見えるのかな……。
郷里での経験を思い出していると、拓巳の片手がそっと僕の肩に触れた。
「拓巳?」
いつものすがるようなつかみかたではない。まるで――。
「よしひろ」
少し不安げな声。やはりいつもの呼び方だ。
「ここ――どこだ?」
僕は微笑んで答えた。
「山の上だよ」
今の拓巳に詳しい説明は無意味だ。
しかし拓巳はこう続けた。
「だってここ、横浜じゃないよな?」
――具体的な地名を言った!
拓巳の顔を覗き込むと、気のせいでなく、瞳がはっきりとこちらを捉えている。僕はそれでもおそるおそる聞いた。
「拓巳……僕のこと、わかるかい?」
拓巳はしばらくけぶるような眼差しを僕に向け、そして頷いた。
「ああ――わかる」
涙が滲んできた僕は、もう一声、確信が欲しくなった。
「自分のこと……わかる?」
すると、拓巳の目も滲んできた。
「ああ……。芳弘がずっと、そばにいてくれた……」
「………」
もう質問の声が出ない。あまりに突然で、あまりに嬉しくて――。
とうとう目尻から涙が溢れると、肩に触れていた拓巳の手が僕の目をぬぐった。
「必ず芳弘が助けに来てくれると信じてた。だから、どんな目に遭わされても、諦めるのだけはよそうと――」
苦しそうに顔を伏せる拓巳の肩を僕は抱いた。幼子にするのではなく、十三歳の少年に対して。
「君に報告があるんだ」
顔を上げた拓巳に、僕は涙をぬぐいもせずに笑いかけた。
一刻も早く、伝えてあげたい。
「君はもう、高橋要のものじゃないんだ。君の保護者は今、正式に僕なんだよ」
「えっ……!」
「拓巳。君はとうとう解放されたんだよ」
「―――」
拓巳の薄い色の双眸から一気に涙が溢れ出た。初めて見る、嬉し涙を流す拓巳の姿。
「ありがとう、芳弘。ありが……」
言葉を詰まらせる拓巳の肩を抱き寄せ、僕たちは抜けるような青空の下、涙を流し合った――。
それからの日々は目まぐるしく過ぎた。
正気を取り戻した拓巳はまず、事情聴取を受けた。主にはプラチナシステムの内容に関する確認で、それが済むと拓巳は「二度とあの男に親権が渡らないように」と強く要望した。
「資料がかなりしっかりしていますから、大丈夫ですよ」
そう担当者に説明されても、「絶対、嫌ですから」と何度も念を押していた。
その上で、桑原弁護士が「お詫びに一仕事しました」と言って、高橋に〈虐待に対する慰謝料〉を請求し、彼の資産から金額を割り出して、かなりの額を拓巳の口座に振り込ませた。
「あいつから金なんか受け取ったら、また『養っている』とか言われるじゃないか」
拓巳は拒もうとしたが、桑原弁護士が今後のためにと説得した。
「養育費じゃありません。あくまでもあなたの受けた被害に対する正当な対価です。堂々とふんだくっておやりなさい」
それを聞いた拓巳は「それならいいか」と、受け取った。
一方で、楡坂による暴行の内容は思い出すだけでフラッシュバックが起こり、そのたびに痙攣と硬直が拓巳を襲うので、詳しい証言を断念せざるを得なかった。それが響いたのかどうか、店のほうは廃業になったものの、肝心の楡坂本人は執行猶予つきの判決にとどまってしまった。
「クソ~ッ! どうせまたヤツの金がどこかの部署に回ったに決まってる!」
余罪で麻薬取引を暴きたかった大橋健二は、短髪の頭を掻き毟って悔しがった。
「じゃあ楡坂は、刑務所には入らず……」
「ごめん。その代わり厳しく監視するから」
楡坂の手が拓巳に及ぶことを恐れる僕に、大橋は部下を配置すると約束してくれた。が、不安はつきない。
「大丈夫じゃ、よっちゃん。拓巳くんにはわしらがついちょる」
拓巳の救出に手を貸してくれた寛文会長のもとを、お礼と報告を兼ねてみんなで訪ねると、彼は拓巳をそばに寄せて援護を約束してくれた。
「だからこれからは時々遊びに来なさい」
「あんたの目的は拓巳のガードに張りつく祐司でしょうがっ」
陽子は内心拒絶したかったようだが、渋々こう言った。
「しょうがない。拓巳のためだから、たまになら顔を出してもいいわ」
玲が喜んだのは言うまでもない。そうやってみんなが協力してくれたけれど、僕はより安全を図るため、一刻も早く会社組織に属させるべく拓巳のモデル契約を急いだ。
事件前に決めてあった富永モデル事務所に挨拶に赴くと、代表の富永藤子社長は目を細めて拓巳を気づかった。
「これからよろしくね。慣れるまでは、仕事は少しずつにしましょうね」
そして、ベテランの貫禄をたたえた顔に優しそうな笑みを浮かべてスタッフを紹介した。そのあとで僕を別室に誘うと、一枚の封筒と書類の入った紙袋を僕に渡した。
「アツシさんからあなたの事情を聞きましたので、連絡を取らせてもらいました。これは、あなたにと預かってきたのよ」
「え……?」
誰からですか? と問いかけると、富永藤子は「まずは開けてご覧なさい」と促した。手紙を開くと――。
「綾瀬……っ」
それは、あれきり連絡の途絶えた綾瀬の直筆だった。
ちょっと癖のある、でもきれいな細い文字。
顔を上げると、富永社長が説明した。
「アヤセは弟さんとトラブルがあってパリに戻ったの。しばらく〈ガイエ-ジャパン〉からは手を引くのだそうよ」
「弟さんとのトラブル?」
「なんでも、彼女が発端で、弟さんの親しい友人が瀕死の重症を負ったとか」
「そんな……」
あれほど家族のために尽くしていたのに。
「でもね。彼女は強いのよ。これを期にしばらくはパリ本店で力をつけて、トップを目指すのですって。だから心配はいらないって」
さあ、読んでみて、と促されて手紙に目を通すと、拓巳のこれからについてのアドバイスと、仕事の選び方や裏事情などの資料を用意したとあり、最後にこう綴られていた。
〈わたしのデザインした服を身につけ、あなたの作ったヘアスタイルで、大舞台を歩く拓巳の姿を、一日も早く見られますように――〉
「ああ……」
綾瀬の真心が伝わってくる。
拓巳の成長を願い、僕の成長を促して、彼女自身、さらに先へと進みながら、僕たちが追いかけてくるのを待っている。そして導こうと手を差しのべているのだ。
なんて素晴らしい人なんだろう。僕はなんという人と時を過ごせたんだろう……!
「私を介してメッセージをやり取りできるようにしました。アヤセのアドバイスがあれば、拓巳君も順調に仕事を取れると思うわ。だからあなたもしっかり腕を磨いてね」
なにしろ彼は、あなたの手しか受け付けないんでしょう? と聞かれ、僕は恐縮しながらもはっきりと伝えた。
「はい――頑張ります」
それから一ヶ月後の九月半ば、誕生日を目前に控えた拓巳は、〈タクミ〉の名でファッション雑誌のメンズモデルとしてデビューした。
その雑誌が発売された途端、富永モデル事務所は問い合わせの電話でパンク寸前になった。方々から仕事の依頼や取材がきたが、さすが綾瀬が信頼するだけあり、藤子社長は冷静に選り分けていた。
一方で、僕はさらに幾つかのコンテストに出て優勝した。
「そりゃ、ダントツだろ……ほんと、いい色気を出すようになったよな~」
色気のスペシャリスト、深澤瞭に嘆息されるように、僕の作風は変わった。
女性の持つ素晴らしさ、そして強さ――綾瀬に見いだしたそれらの姿を表現したい――そんな気持ちが芽生えてからは、デザインが次々浮かぶようになった。
「よっちゃんはもうコンテストには出なくていいから、とにかく予約のお客様と、依頼されたタレントさんたちを少しでもこなしてちょうだい!」
半年過ぎる頃には、僕のスケジュールは埋まりっぱなしになり、店内では若手のトップと認識されるようになった。
僕と拓巳はそうやってお互いに相乗効果を生み出しながら、コンビのように一緒に仕事をした。
「腕を磨きすぎよ。断るのに一苦労してしまうわ……」
富永社長は嘆息混じりに僕たちの成果をほめてくれた。
雅俊は拓巳の退院後、〈バードヘヴン〉を辞めた。
それは予定どおりの行動で、僕のアパートのそばに部屋を借りると、祐司と曲作りに励んで自主ライブを展開していった。
「バンド名は〈T-ショック〉さ」
「〈T-ショック〉?」
「トリニティ(三位一体)のT。おれたち三人がひとつになった時、凄い何かができる、っていう」
才能が集まったことに加え、ボーカルである拓巳のモデル効果もあり、あっという間に人気を勝ち得たようで、「スカウトの声がかかりはじめたんだぜ」と手応えに喜んだ。けれども、
「でもまだまだ。もっと大きい会社が来ないと」
と相変わらず目標は高く、妥協しない。
いいことばかりではなかった。
拓巳の群を抜いた美貌は、やはり関係者の目を引き、拓巳はしばしばセクハラの危機に見舞われた。
そんな日の夜は、きまってフラッシュバックを起こした。
「ああ……芳弘……」
呻きながら痙攣に苦しむ拓巳に、僕は夜中付き添って過ごした。あまりにひどい時は、病院をいやがる拓巳を雅俊が「おれの技で治療する」と、アパートに連れていったりもした。けれども塞ぎ込む彼を見かねた僕が「辛いなら辞めていいんだよ。無理してまでモデルでいる必要はないよ」 と伝えると、
「大丈夫。俺、続けたいから」
と仕事を投げ出すことはなかった。そこには、以前にはなかった粘りが生まれていた。
拓巳は一度だけ〈先生〉について質問してきた。
「〈先生〉はどうなったんだ。会わないのか……?」
僕はいつか来るだろうその質問に用意した言葉を返した。
「うん。先生は仕事のために、ずいぶん前にパリへ旅立ったんだよ」
「………」
〈先生〉が、あのヘアショーのスタイリスト、楡坂の連れる女性デザイナー、アヤセであったことは、拓巳は知らないはずだった。僕は自分からそれに触れることは避けた。拓巳は何を察したのか、それ以降、訊ねてくることはなかった。
雅俊は薄々何かに気づいている節があった。
「楡坂の連れた女が、おまえを救う手助けをしてくれた、とは言っておいた」
後日、彼からそう伝えられた時、おそらく拓巳と何らかのやり取りがあったのだろうと推測した。
それが影響しているのかどうか。
「そろそろ〈タクミ〉にどこか、一流ブランドとの契約を」
モデルをはじめてから半年後、綾瀬から届いたアドバイスに従い、富永社長に日本で募集のある幾つかのブランドを示されると、拓巳は〈ガイエ-ジャパン〉を希望した。複雑な思いで理由を訊ねると、「この前着た服、すごく動きやすくてデザインもよかった」と答えた。オーディションを受けた拓巳はまもなく契約がまとまり、一ヶ月後のコレクション参加も決まった。
そして、思わぬ形でそれは僕にもたらされた――。
「これはタクミをイメージして作られた、この秋から日本だけに置く商品なんだよ」
コレクションの当日、〈ガイエ-ジャパン〉のデザイナーが、準備が済んだ僕たちに拓巳の衣装を指差して説明した。
「えっ?」
「今回は来日してないけど、パリのサブチーフがタクミをとても気に入ったようでね」
綾瀬だ。きっと綾瀬に違いない。
「内緒にして、今日伝えるようにってわざわざ指示があったんだ」
あと、これをあなたに、と手渡された封筒はいつかと同じものだった。封を開けると――。
「なんて?」
拓巳が聞いてくるのに僕は微笑んだ。
「今日の君の成功を期待しています、って」
「そうか」
「じゃあ、そろそろ行こう」
デザイナーに促され、僕たちは楽屋を出て舞台袖に移動した。出番が近づくと拓巳は僕を見た。
「行ってくる」
「ここで見てるからね。頑張って」
いつものやり取りを交わし、その背中を見守る。ライトに照らされた拓巳は年上のモデルたちに交じり、堂々と綾瀬の手からなるダークブラウンのスーツを披露していた。
それを眩しく見やりながら、僕は手の中に握るメッセージを脳裏に思い浮かべた。
〈私のデザインをあなたへ。このブランド〈タクミ〉に込めて託します〉
綾瀬―――。
僕は拓巳との出会いがもたらしたものに思いを馳せた。
それぞれが目標に向かいながら、日々過ごしていく――そんな、当たり前の環境を得るために、拓巳、雅俊、そして綾瀬の戦う姿を僕は見た。そして今、僕はその一端を担っている。
三年前、春樹とともに砕け散った僕の魂は、拓巳のもとに再び集まり、雅俊に鍛えられ、綾瀬に豊かさを注ぎ込まれた。すべてはあの日、一羽の美しい、けれども傷ついて動けない雉を見つけたところから始まった。今、彼は堂々と羽を広げ、自らの居場所で羽ばたいている。僕はそれを見守り、支え、受け止めるのが役目――。
舞台を無事にこなした拓巳が戻ってきた。その表情が僕を見て安心の色に染まる。
「芳弘」
僕は封筒を手に握ったまま、腕を広げて出迎えた。
「お帰り拓巳。今日もよかったよ。きっと、デザイナーも喜んでくださってると思うよ――」
この作品はプレリュードと時間が被ってます。視点の違いを楽しんでいただくのも一興かと思います。
これにてT‐ショック過去編、終了。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
次は現代編、ルーツの続編になります。高校生になった和巳にライバル登場……?
出来上がりましたらご一読くださいまし(もうすぐ……のはずですっ(--))。
2018.9.27 編集改訂いたしました。




