憂鬱のわけ
その後、拓巳は何度か訪ねて来るようになった。
大抵は火曜日と金曜日を避け、人がいないと伝えた残りの平日の夜八時半頃に来た。けれども自分から入って来ることはなく、最初に見つけた電信柱の陰に佇んでいるのだった。僕が迎えに出ると、誰もいないことを確認してからようやく店に入った。その警戒ぶりは確かに祐司の言う野生動物を思わせ、僕はいつしか最初に驚いた目鼻立ちの美しさよりも警戒心を解くことに夢中になった。僕にとって、拓巳はまさしく怪我を負った一羽の美しい雉だった。
やがて一ヶ月半が経つ頃、僕は拓巳の警戒心がどこから来るのかを知ることになった。
いつものように午後八時半過ぎ、ゴミを出しがてら電信柱に目をやると、とんでもない光景が目に飛び込んできた。
「拓巳!」
慌てて駆け寄ると、僕は拓巳にのしかかる五十代ほどの男を引き剥がして路上に転がし、倒れている拓巳を後ろ手に庇った。
「なにするんだ!」
見れば、上質そうなコートに身を包んだ男はどこぞの企業のサラリーマン見える。しかし彼は僕と目が合うと、ぶつけたらしい頭をさすりながら半身を起こし、下卑た笑みを浮かべてこう言った。
「なんだよ、邪魔するなよ。それともあんたもホレた口かい?」
「―――」
意味を理解した途端、僕の中で何かがガチッと切り替わった。
「あなたは、この子が、欲しいんだな?」
「そりゃ……そうさ」
男の笑みが欲望に歪む。その目には、少年に懸想することへの後ろめたさなどは欠片も窺えず、理を説いて正せる相手ではないことが瞬時に読み取れた。
世の中にはいるのだ。己の考えがすべてに勝ると思い込める輩が。
僕はゆっくり立ち上がると、相手を威圧するように睨んだ。
「じゃ、警察へ行こうか。未成年への強姦は罪が重い上に彼は十三歳未満だ。未遂でも、もっとも刑罰の重い懲役刑が下るだろう」
近づいて腕を取ろうとすると、立派なコートの男は狼狽した。
「じ、十三歳未満? なんのことだそれは」
「詳しい話は警察で聞きなさい」
突き放したような口調が効いたのか、男は僕の伸ばした腕が捕まえるより早く身を起こして駆け去っていった。
「大丈夫だったかい?」
後ろを振り返ると、怯えと怒りをない交ぜにした拓巳の眼差しと目が合った。
無理もない。
痛ましい気持ちで手を差しのべると、彼は乱れた衿元をかき合わせ、警戒心を剥き出しにして身を縮めた。
「―――」
それを見た瞬間、僕は一人の人間によって傷つけられた野生動物が、すべての人間に対して恐れを抱くようになる姿を思いだした。
彼は今、〈大人の男〉に対して身構えたのだ。
――ここは、大事な分岐点になる。
咄嗟に判断すると、僕はすぐに一歩離れてアスファルトに膝をつき、片手を差し出して呼びかけた。
「おいで、拓巳」
「…………」
「……おいで」
自分からはけして動いてはいけない――本能が訴えてくる。彼は今、怪我を負った十二歳の心で僕が彼を傷つける〈男〉なのか、それとは違うものなのかを必死に判断しているのだ。
長い睫毛が濃い陰を落とす瞳を、僕は冷や汗を浮かべながら逸らさずに見つめ続けた。
ここで対処を間違ったら、拓巳は二度とここへは来なくなるだろう。
細い体の震えが目に見えてわかるだけに、もどかしい思いと戦いながら僕は判断が下るのを待った。
どのくらいそうしていただろうか。路上から立ち上る冷気がいよいよ膝に厳しいかも、と思ったその時。
「よし……ひ……」
拓巳の口から、初めて僕の名がこぼれ出た。
それは助けを求めるような、本当に小さな掠れ声。
僕はすかさず呼びかけた。
「拓巳、おいで。店に入ろう」
さあ、と少しだけ手を伸ばすと、彼の手がおずおずと前に動いた。僕はゆっくりと身を起こして近づくと、その手の取れる位置で止まり、自分の手を差し出した。
「芳弘……」
ついに拓巳の震える手が僕に触れ、それを僕はそっと握りしめた。さらに震える肩を覆うように腕を伸ばすと、拓巳は素直に頭を預けてきた。そうして彼を少し引っ張り上げて立たせてから、僕らはようやく店に入ったのだった。
「君は、ああいった目に遭わされたのは初めてじゃないんだね……?」
スタッフルームにの丸椅子に座らせて温かいお茶を出し、少し震えが治まってきたところで質問すると、拓巳は湯飲み茶碗を手にしたまま頷いた。僕はふと思いつき、今度は慎重に尋ねた。
「もしかして、毎日ゲームセンターにいるのは、ああいう男を避けるため……?」
拓巳はまた頷いた。僕はようやく納得した。
この一ヶ月半でわかったことだが、拓巳は俗に言う〈ゲームおたく〉の子どもではなかった。
先日、ゲームセンターにいるところを帰りがけに見かけたが、試験の日と同じシューティングゲームに向かう横顔は殺伐として熱がなく、薄い色の双眸は冷め、ただ機械のように手を動かしていた。むしろその騒音に辟易としている様子さえ窺えた。であればこそ、あの日声をかけた僕に対してすぐに操作の手を止めたのだ。夜にゲームセンターに通い詰める子どもは大半がゲームに夢中で、中断させられるのを何よりも嫌う。
にもかかわらず、殆どの夜を拓巳はゲームセンターで過ごしているようだった。家に帰るのは大抵が十時過ぎ、下手をすれば十一時に差しかかる時もあるようだった。彼には夜遊びを楽しむといった背伸びする子どもの気配がまるでなく、それがまた大人びた風情に拍車をかけていた。僕は彼の人となりを知るにつれ、見当をつけざるを得なかった。
――夜の七時過ぎあたりからその時間帯まで、家には居たくない理由がある。
つまり、学生(拓巳はどう見ても学生にしか見えない)が夜遅くまで一人でいられるところ、しかもああいった男が近づきにくい場所、それがゲームセンターだったのだ。
「本当は、ゲームセンターってあんまり好きじゃないでしょう」
観察から導き出した答えを伝えると、拓巳はしばらく僕に目を向けたあと、俯いてポツリとつぶやいた。
「ずっとゲームをやってると頭が痛くなる。けど、一人でいると厄介が多い」
「さっきみたいなこと……?」
おそるおそる聞くと、彼は頷いて意外なことを言った。
「あの男は父の店の得意客で……父には怒らせるようなことはするなと言われている」
「えっ?」
「俺の家の周りにはそういった客がよく来る」
「……そんな、お父さんはどうして」
「他の奴に襲われた時に殴って逃げたら、『おまえの口を養ってくださる大事なお客様に失礼なまねをするんじゃない』と……ひどく怒られた」
「………」
「夜、電気が点いていると、そのへんの事情を知っている客がしつこくベルを鳴らす。だから家にはいたくない。俺は……うまくかわせないから……」
僕はようやく事情が呑み込めてきた。
多分、拓巳の父親は飲食系の接客業を営んでいるのだ。あの暮らしぶりからして、レストランバーのような店を展開しているのかもしれない。
お酒を出す高級レストランなら常連客は大事だし、お客からのセクハラは接客業ではありがちだ。美容室でも時々起こる。あからさまに排除するのは難しく、管理者である店長も対応によく頭を悩ませていた。まして経営者なら、身内が粗相をして大事な常連を怒らせるのは避けたいだろう。
けど、それにしたって……?
「そもそも、お父さんのお店のお客さんがどうして君のことを知ってるの?」
取りあえず根本的な疑問を口にすると、拓巳の顔がサッと青ざめた。
あ……何かまずかったのかな。
慌てて質問を取り消そうと片手を上げると、拓巳が思い切ったように口を開いた。
「五月から土曜と日曜は店に出されるようになった」
「えっ……?」
「父が『おまえもそろそろ役に立てる頃だ』と」
「役に?」
「俺が……身なりを整えて顔を出すと客が増えるんだそうだ」
「……ああ」
そういうことか。つまり、美しい自慢の息子をフロアに立たせることで評判に華を添え、客寄せに一役買わせているのだ。その効果が効きすぎて男女の垣根を超え、厄介な成人男性にまで目を付けられてしまったというわけだ。
だから土日はだめだと言ってたのか……。
「そうか。お父さんは君に後を継がせたいんだね。ちょっと早い気もするけど、家業を子どもに手伝わせるのは大事なことだものね」
経営者は先を読んで備えることに長けているものだ。
「………」
拓巳は複雑そうな表情で俯き、僕は励ますように言葉を続けた。
「お父さんが君をお店に出したい気持ちも解るけど、普段がこんな生活じゃ体によくないよね。家に居られないこととか、お父さんには相談した?」
「父に話した結果、こうなった」
「えっ?」
「お客を怒らせることは絶対にするな。家に来られるのが嫌で、うまくかわせないならどこかに避難してろ、そう言われた」
「なんだって?」
「それからあっちこっちに行くようになったけど、父の店がある関内だと常連客にすぐ見つかる。だから……」
それで横浜まで来たのか。
なんだか居たたまれなくなってきた。いくら外見が大人びているとはいえ、小学生を夜の大都会に放り出すようなことでいいんだろうか――?
僕は拓巳の顔を見、髪を見た。実は、拓巳の髪の状態にはひとつの変化の兆しがあった。
「君はここ数ヶ月、あまりよく寝られてないね?」
「―――」
拓巳の眼差しが驚いたように揺れた。
彼の表情はなかなか動かない。けれどもその中でこの目だけはよく感情を伝えてくる。彼の瞳の色はよく夜行性の梟などに見られるヘイゼル――薄茶色にうっすらと緑色が混じった珍しい色で、まさしく野性動物のように、僕にその内心を雄弁に伝えてくる。
「髪を見るとね、わかるんだよ。睡眠時間が少ないと、抜けた髪に特徴が出るから」
「………そうなのか?」
「今日のことといい、僕はとても君が心配だ。君さえよければ、他のスタッフがいるけれど、もう少し早くここに来たらどうかな」
下で待ってないで上がってきていいんだよ? と伝えると拓巳は首を横に振った。
「いい。芳弘に迷惑がかかる」
「どうして? 最終試験をお願いしているモデルさんだもの。誰も文句なんて言わないよ?」
実際、技術者の先輩はコンクールのために、モデルをしょっちゅう店に呼んでは何時間もスタイルを練ったりしている。今はたまたま僕しかいないけれど、ここだって本来なら研修生とモデルで溢れていてもおかしくないのだ。
「いるといっても、センター付属店の店長とトレーナーの先輩が二人にあとはインターン生が三人だから、本店と違って人数も少ないし」
「そうじゃなくて……」
言いにくそうな拓巳をなんとか促して聞き出した内容に、僕は絶句してしまった。
「君を巡って、家政婦さん同士が争った……?」
話はこうだ。
店に出されるようになった拓巳を心配し、手を差しのべた人が一人だけいた。彼を本店に連れてきていたお手伝いさんだ。家政婦事務所から派遣されていたその三十代半ばの女性は、半年前まで拓巳の家を担当していたのだという。
今の状況が出来上がった時、彼の身を案じて僕と同じ結論に達した彼女は、拓巳を夕方から九時まで家政婦事務所の休憩室に匿った。ところがそこで拓巳を見た他の社員や所長が、拓巳に関心を――悪くいえばちょっかいを出し始めた。それはやがて醜い争いに発展し、事の顛末を知った父親は激怒して家政婦事務所との契約を中止、今は別の事務所から派遣された家政婦が来ているのだという。
「そんなところにのこのこついていくんじゃない! 馬鹿者が!」
と言って拓巳自身も叱られたらしい。
「だから、本当はこうして芳弘のところに来るのも迷った。でも、芳弘は他の大人とは態度がまったく違ったから……」
僕はふと、あの日の自分がいかに細い幸運の糸をつかんでいたのかに気がついた。
「よく、僕の試験のモデル、引き受けてくれたね……」
呆然としてつぶやくと、拓巳はすぐに答えた。
「あの店は知ってたし、試験ならきっと塾の模試みたいに試験官が見張ってるだろうから、俺にヘンな手は出せないと思って」
なるほど。それで引き受けてくれたのだ。
「模試をするような塾にも通ってるんだね」
あれ? でも塾って夜に通うんだよね、と考えていると、拓巳はまた顔を伏せた。僕が促すように待っていると、小さな声になって続けた。
「春まではずっと色々なところへ通ってた。でも……四月頃に塾の先生が――」
拓巳の肩が僅かに震えだした。
「拓巳?」
目が色を失っていく。僕は慌てて駆け寄り、その背中をさすった。手を握ると冷たくなっている。
これは――。
その様子は、僕にあの忘れ難い記憶を呼び覚ました。
思わず目の前が暗く陰る。
「まさか、塾の先生まで君を……」
拓巳が小さく頷いた。それ以上は聞かなくてもわかる。震えの止まらない肩をさすると、彼はポソリとつぶやいた。
「父がそれをきっかけに、他の塾もやめにして店に出ろと……」
そうか……!
僕はハタと気がついた。塾のことがあったのも、店に出て困ることが増えたのも、家政婦の事件があったのも、みんな春頃に集中しているのだ。
あの脱毛症はそのせいだ!
拓巳の父親はそれなりに考えて、自分の目の届く範囲に彼を置こうとして、今度は別の問題に突き当たり、やむなく夜は家から離れるよう言ったのかもしれない。
僕はその話を聞いて心を決めた。
「よし。君の心配はわかった。じゃあ取りあえず試させてくれる?」
「試す?」
「そう。つまり君は家政婦事務所のようなことがあったら困ると心配しているんでしょう? 幸いなことに、僕の最終試験まではあと二週間だ。受かれば一週間後には配属が変わるんだ。だからまずは少し早めに来てみてよ。もしこの店で何か起きても、すぐにここから移動できるよ」
それなら安心でしょ? と顔を覗くと拓巳は戸惑ったように答えた。
「なんでそこまでしてくれるんだ。俺が欲しいんじゃ、ないよな……?」
探るような眼差しに警戒が滲みだしている。
人の助け手を、そういう風に受け取るようになってしまった環境をこそ、憎まなければならないのだ――。
熱くなりそうな自分を抑え、心に言い聞かせながら口を開こうとすると、彼のほうが早く反応した。
「……ごめん」
やはり、顔に出てしまったらしい。
ひとつ深呼吸をすると、僕は気を取り直してこう伝えた。
「いいんだ。そんなに色々大変な目に遭ってたら無理もないよね。……僕はね、前に助けることに失敗したことがあるんだ。だから手を差しのべた以上、今度は間違えたり諦めたりしたくないと思ってる。これは僕の勝手な事情だから、君は気にしなくていいんだよ」
拓巳は疑問の眼差しを向けてきた。けれども僕が口をつぐむとそれ以上は聞いてこなかった。
♢♢♢
「失礼します」
閉店後、店長から呼び出しを受けてスタッフルームに入ると、先に呼ばれたのか、技術トレーナの川崎麗奈がテーブルの脇に立っていた。
明後日の最終試験のことに違いない。
「なんでしょうか」
少し緊張しながら訊ねると、奥の丸椅子に腰かけた店長の関口が苦笑した。
「そんなにかしこまらなくていい。ちょっと確認したいだけだ」
彼は椅子をずらして壁に寄りかかり、テーブルに腕を伸ばしてタバコを手に取った。
関口透は三十代前半、いずれは全店を総括するマネージャーになるだろうと言われている人物だ。中肉中背、明るく染めた短髪に人当たりのよさそうな顔立ちで、洒落たジャケット姿が定番の、頼れそうな雰囲気を持つ美容師である。
僕は緊張を解いてタバコに火を点ける関口を見下ろした。
「おまえが最近連れてくるモデルのことなんだがな」
あ、そっちか、と再び身構えると、関口は困ったように右横の川崎麗奈を見上げ、次いで僕に目線を戻して続けた。
「あの超絶美形男子とおまえはどんな関係なんだ?」
――道端でキレイな雉を見つけたんです。ケガをしていたのでつい、連れてきちゃいました――。
と言いたいところをグッとこらえ、僕は簡潔に説明した。
「年下の友人です」
「友人か。フツーの友達と解釈していいのか」
僕は補足した。
「窮地を救ってくれた恩人であり、少々事情を抱えてもいます。大事なモデルさんですし、未成年をお預かりしている責任もありますので、そっとしておいていただけると嬉しい、と店長には説明してご承諾いただいたはずですが?」
「そうだな。俺は承知している。わざわざ繰り返して訊いたのは彼女のためだ」
関口に指し示され、川崎麗奈が口を開いた。
「真嶋くん。彼はいつまでここに来るの?」
「それは、僕の試験が終わって配属が変わるまでですが。……それが何か?」
警戒しながら訊ねると、麗奈は顔にかかる栗色のロングウェーブを払い、黒い目を潤ませながら両手を組んで可愛らしく首を傾げた。
「アタックしてもいい?」
一瞬、頭の中が白くなった。
「―――は?」
するとタバコを吹かしながら関口が言い添えた。
「川崎は、自分の教えるインターン生の三好純が彼にモーションかけるんで焦ってるんだ。俺も頭が痛い」
なにしろトレーナーと教え子で取り合おうってんで仲が悪くなっちまって、とぼやかれて僕は関口に目線を戻した。
「あの、ナンの話です……?」
「だから、高橋拓巳くんのことよ!」
川崎麗奈が焦れたように七センチヒールのブーツで地団駄を踏んだ。ファー付きの黒いミニスカートが揺れる。
「とにかく、真嶋くんに認めてもらえればいいのっ。筋を通した私が優先よ。結果が出るまで他の人が手を出さないでくれれば争いも起きないわ。それならいいでしょ? 店長」
……なんとなく理解ったぞ。
すると僕の内心を察したか関口がさりげなく目で伝えてきた。
(悪いケド、手に負えないんでオマエなんとかしろや)
僕は麗奈に向き直り、正攻法で撃退することにした。
「川崎さん。大変失礼ですがお幾つになられましたか」
「まだ失礼じゃないわっ。二十二よ」
「そう、つまり成人になられていますね。ところが僕の友人はまだ未成年……それも十二歳です。成人のあなたが本気で彼にアタックなさる気ですか?」
「十二歳……」
事前に彼の年齢は説明したはずですよね? と言い添えると麗奈は一瞬、躊躇した。が、しぶとく持ち直した。
「い、今はそうでも五年後には十七と二十七よ」
言いながら十七歳の拓巳を妄想したのか、麗奈の瞳が妖しい光を放った。
川崎麗奈は仮にも研修センターのトレーナーになるだけあって、技術、接客ともに秀でた若手のホープなのだ。にもかかわらずこの壊れっぷり……。
た、拓巳が気にするわけだ……。
恐るべき破壊の美貌は、今日はまだ来ていない。
彼が来るまでになんとかしなくては、と僕は心を引き締めた。
「彼は今、そっとしておいてほしいのだそうです。にもかかわらず川崎さんにアタックされてしまいますと、人見知りの彼は間違いなく来なくなるでしょう。おまけに、父親に訴えられたら裁判では確実に川崎さんが負けます」
「えっ?」
「嫌がる彼に声をかけますと、それだけでも成人であるあなたは児童福祉法違反で罰金刑を課せられてしまいます。彼の父親は大変厳しい方なので容赦しないでしょう。あまりお勧めできません」
父親の下りは勝手な想像だがあとはおおむね間違ってはいない。普段使わない言い方をすると結構効くものだ。
案の定、麗奈は明らかに怯んだ。
「そ、そうなの?」
僕はもうひと押しすることにした。
「ここはやはりオトナになって『優しく見守るステキな美容師のお姉さん』として彼の記憶に残ったほうが、『父親に訴えられたセクハラ女』より得策かと」
真面目に訴える僕の目力が真剣な眼差しの川崎麗奈に降り注ぐ。やがて麗奈はがっくりと肩を落とし、「わかったわ……」とつぶやいてスタッフルームを出ていった。
「やれやれ、ご苦労さん」
吸い終えたタバコを灰皿に押しつける関口に僕は訊ねた。
「今の……冗談とかじゃないですよね?」
「だったらおまえなんぞ呼ぶか。厄介の種を持ち込みおって」
彼は渋面を作ると狭いテーブルの上に肘をついた。
「おまえはあの二人の様子が険悪になっていくのに気がつかなかったのか」
僕は正直に答えた。
「はい。まったく」
「ははは。さすがは〈鋼鉄の理性〉。川崎への対応も見事だった。明後日の試験も万全だな。さっさと受かって、あの少年を連れて速やかにここを去ってくれ」
〈鋼鉄の理性〉とは、何を見ても言われても動かされる気配のない僕の態度と、怒るとかえって冷静に見える対応からついた渾名らしい。僕自身はそんなことはないと思うのだけど、人はそれぞれ違う見方をするものなのであえて突っ込まないことにしている。
「あの、そんなに店内の様子ってヘンでしたっけ……?」
「おまえな~」
関口が脱力した。
「三好と川崎、そして他のインターン生二人もヤバい。実に店内の半分が理性をやられている。……あんな超絶美形、目の毒だ」
平気で接してるオマエがどっかおかしいんだっ! と呻かれて僕はしばし関口に目を留めた。
「いい大人の関口店長までそんなコトを」
「おまえはあの美貌を見て何か感じるものはないのか」
「そりゃ、最初は驚きましたが、もう馴れてしまいました」
美人は三日で馴れるじゃありませんか、と言うと、関口は新たに火を点けたタバコを一口吸い、ため息のように吐き出した。
「その感受性の乏しさは、この先美容師としてはアダになるかもしれんぞ……。とにかくこっちの理性がやられる前におまえにはぜひとも受かってもらおう。モデルを変えるつもりはないんだろ?」
「もちろんです」
「全店でも異例のスピード合格になるだろう。……頼むから外すなよ」
祈るような関口店長のつぶやきを聞きながら、僕はスタッフルームを下がった。
たった二週間でコレ?
そして拓巳の言葉を、話半分程度にしか捉えていなかったらしい自分を反省した。
――その二日後に行われた最終試験で、僕は関口店長の期待どおり合格した。そして配属は本店に決まり、ナゼかすぐに異動を、との辞令を受けた。
こうして僕は異例の早さで、晴れて本店の技術者として迎えられることとなった。




