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バードヘヴン  作者: 木柚 智弥
籠の底の鳥たち
11/23

砕けた心

 それはまさしく悪夢のような高校三年の冬の三ヶ月間だった。

 僕と、幼馴染みでひとつ年下の梶野(かじの)春樹(はるき)が通う公立のK高校は、バレーボールの名門高校として全国に知られ、春樹は二年からベンチ入りを果たしていた。

「よかったな。頑張れよ」

「ありがとう。芳弘も受験勉強、頑張って」

 そう言ってはにかむ春樹は、早々とつかんだ準レギュラーの座に戸惑いながらも嬉しそうだった。

 僕と春樹は家が近所で親同士も仲が良く、一人っ子同士なこともあって、小さい頃から兄弟のようにお互いの家を行き来して育った。背の高かった僕たちは地域のバレーボールクラブに誘われ、小、中を通して共に活躍した。特に春樹は敏捷な運動神経を買われ、中学時代は県の先発メンバーにも選ばれた。

 僕はといえば、一足早くK高に入ったものの県内から集まった精鋭の中で抜きんでる程ではなく、中学時代とは比べ物にならない厳しいトレーニングに音を上げ、バドミントンに鞍替えして程ほどに鍛えられながら、国立大学の法学部を目指していた。

 一方、春樹はバレーボール部に入ってからも、持ち前の粘り強さと真面目さで耐え抜き、二年に進級する頃にはセンターの交代要員として名門の一員に名を連ねていた。

 そんな彼に異変が見られはじめたのは夏休みが終わったあと、全国制覇を逃し、三年が引退して新メンバーに代替わりした頃からだった。

「春樹、そのアザはどうした?」

 残暑の残る夜、久しぶりに泊まりに来た春樹の背中に、それまで見たこともないような青黒いアザを見つけて問いただすと、彼は困ったように笑った。

「ちょっとプレー中に失敗しちゃって。たいしたことはないよ」

「そうか。気をつけろよ」

 その時は、気には留まったもののそれ以上追及することはなく、すぐにほかの話題に移った。レギュラーになった春樹は遠征も多く、なかなかゆっくり話す機会がなかったからだ。しかし、秋が過ぎる頃には、すでに異常な状態が根深く彼を蝕んでいたのだった。

 塾の時間帯を増やした僕が部活から帰る春樹と合流するようになったことで、それは徐々に目につくようになった。そしていよいよ見過ごせなくなった晩秋のある日、僕は帰りがけに春樹を自分の部屋に上がらせて問い詰めた。

「随分痛そうに歩いてたな。たしか放課後までは普通に歩いてたよな? 部活で何があったんだ」

「……ちょっと、転んじゃって」

「嘘だ。おまえは転んでぶつけたくらいでそんな痛そうな顔はしない」

 だらりと下がったままの腕をつかむと、春樹は「いっ……」と顔をしかめた。僕はすかさず春樹の制服を剥ぎ取り、下に着たままのユニフォームの襟を広げた。

「これ、いつかのと同じ……」

 覗き込んだ左肩には、以前、目にしたのと同じ青黒いアザが見え隠れしていた。俯いたまま徐々に震えだした春樹をその場に座らせ、後ろからユニフォームを脱がせると、背中じゅうに広がる無惨な打撲痕が目に映った。

「なんだこれは……っ!」

「練習でボールを取り損ねて、それで背中をぶつけて……」

「センターのおまえが、どうぶつけたらこんな青アザができるんだ!」

 上着を羽織らせながら食い下がると、春樹は虚ろな眼差しになり、やがてポツポツと話しだした。

 春樹に打撲を与えていたのはバレー部顧問、体育教師の皆川(みながわ)だった。

 皆川(みながわ)淳一(じゅんいち)は、K高バレー部を全国制覇に導くこと八回に及ぶベテラン監督だった。その手腕は有名で、周囲からの信頼も厚く、長くK高を手がけ続けるいわば学校の顔だった。しかし彼のスパルタ式の鍛え方には行き過ぎの感があるとの声も(ささや)かれ、暴力を振るうことも取り沙汰されていた。そして春樹は、彼の放つ気合いの入ったかけ声が苦手だったのだ。

 幼少期に春樹と同居していた厳格な祖父は、優しげで争いの嫌いな彼を、よくその迫力ある大声で叱咤(しった)したという。穏やかな父母のもとに生まれた春樹にはその声が恐ろしく、祖父が他界したあともトラウマになって残った。春樹にかけられる皆川のかけ声は祖父を思わせ、プレーに影響を及ぼしだしたのだった。

「僕が、うまくできないから……」

 それまでも監督から(じか)に指導を受けてはいたが、やはり準レギュラーと主要メンバーでは立場が違う。皆川からの叱咤激励が増えるにつれ、春樹の動きは精彩を欠いていき、結果、チームプレーにも影響を及ぼしはじめた。しかしセンターとして使えそうな選手はまだ育っておらず、成績不振に憤った皆川は春樹を『鍛える』と称して居残らせ、その鬱憤(うっぷん)を彼の背中に叩きつけたのだ。

 最初は平手打ちだったそれが拳になり、やがて蹴りになる頃には、助けを求める気力を春樹は失っていたのだった。

「ひどい。こんなのやりすぎだ」

 僕は春樹の両親に訴えた。しかし彼らは心配しつつも名門のレギュラーである息子の活躍に思いを馳せ、皆川に意見する様子はなかった。むしろ「監督もそれだけ期待してくださっているんだ」と、居残りで受ける暴力を〈愛の鞭〉と捉えている節すら窺えた。

「歴代のエースもみんな皆川監督に叩かれて鍛えられたから、実業団で活躍するまでになったんだぞ」

 そう言って笑う春樹の父親に、僕は納得できなかった。

 あまりに心配だった僕は、塾を早く切り上げて居残りを覗き見に行き、そこで虐待のような暴力を振るう皆川を見た。

 他の居残りメンバーに平手打ちをしたあと、春樹だけ拳で殴り、ひとり体勢を崩して倒れると、「おまえは特に根性が足りない!」と大声を張り上げて背中に蹴りを食らわせていた。止めに入りたくても、前に別のことで春樹を皆川から庇ったところ、倍返しのように厳しくされたことがあったので、逆効果が気がかりで迂闊に動けず、練習が終わるのをひたすら待つしかなかった。

 そうして冬も半ばを過ぎようとする一月の終わり頃、とうとう事件は起きたのだ。

 その前日、我慢の限界を越えた僕は帰り道で春樹に告げた。

「春樹。おまえが受けているのは愛の鞭なんかじゃない。教師による理不尽な虐待だ。このままじゃおまえの体がダメになる。校長先生に訴えよう」

 春樹は優しげな顔に(はかな)い笑みを浮かべ、首を横に振った。

「大丈夫だよ、芳弘」

「なんでだ。うちの父さんと母さんも僕と同じ意見だよ。最近の春樹は幽霊のような顔をしてるって」

「そんなことは……」

「せめて少し休むとか、いっそ休部したっていい。とにかく皆川監督から離れないと」

 春樹はしばらく僕をじっと見返したあと、何かを諦めたようにふわりと目線を和らげた。

「それはできないよ。……レギュラーの責任があるから」

「春樹!」

「ありがとう。芳弘だけだよ、気にかけてくれるのは。でもいいんだ。うまくできない僕がいけないんだよ」

「そんなはずはない」

「もう少し頑張ってみるから」

「だめだ。あいつはおまえを(なぶ)っているだけだ!」

「そんなことはないよ。僕を鍛えようとしてくださっているんだよ」

「嘘だ! このままじゃおまえの身が持たなくなる。心配なんだ」

「大丈夫。でも本当に困ったら、その時は――」

「嘘をつくなっ‼ 本当のことを言え! おまえは小さい頃から暴力や痛いことは嫌いなはずだ。辛くないはずがないだろう。僕にはわかるんだぞ!」

 二の腕をつかみ、目を見つめながら声を振るわせると、春樹は目線を逸らしながらもようやくつぶやいた。

「そうだね。痛いのは……辛いな……」

「そうだよ。当たり前だ」

 僕はホッとして腕をつかむ力を抜いた。

「校長先生にお願いして、なんとか皆川監督を押さえてもらうんだ。こんなひどい怪我まで負っているんだから先生だって無視できないさ」

 明日の授業が終わったら迎えに行くから、教室で待ってるんだぞ――そう約束した次の日の放課後に。

「真嶋、大変だ! 梶野が屋上から飛び降りようとしてるぞっ!」

「なんだって⁉」

 春樹が飛び降り自殺を謀っているとの一報が来た。

 屋上に駆けつけると、取り巻く生徒たちから上がる悲鳴の向こうに、二メートルを越すフェンスのてっぺんに跨がり、今にも身を乗り出そうとする春樹の姿が映った。

「やめろ―――っっ!」

 僕の口からほとばしった叫びが、前のめりになった春樹の動きを止めた。僕は周囲を遠巻きに囲む生徒の輪から飛び出し、フェンスから数歩離れたあたりで一人立ち尽くす春樹の担任のそばに駆け寄った。

「ああっ、真嶋君! 頼むよ、梶野君が」

 狼狽する担任教師を腕で押しやり、一歩前に出た僕は春樹を仰ぎ見た。

「春樹……っ!」

 残りの距離あと僅か二歩、真冬の夕日に照らされた春樹が、フェンスから僕を見下ろした。

「春樹、だめだよ、戻ろう」

 春樹は目元に薄い笑みを浮かべ、そして顔をフェンスの向こうに巡らそうとした。

「春樹っ!」

 再び動きが止まる。僕は震えをこらえながら続けた。

「やめてくれ! お願いだ……っ」

 すると春樹は僕に目を戻した。僕はすかさず訴えた。

「おばさんもおじさんも……みんなも悲しむよ」

「……ごめんね」

 彼はか細い声でつぶやいた。

「でも、僕……なんだかもう、疲れちゃって……」

「いいんだ。おまえは十分頑張ったんだ」

「………」

「休んでいいんだよ。な? 帰ろう」

「芳弘………」

「おまえがいなくなってしまったら、僕は……っ」

 息の詰まる沈黙の中、込み上げるものに邪魔をされ、ちゃんとした声が出なくなってきた。

「頼むから……っ」

 僕の目から幾つもの雫が滴り落ち、それを見た春樹の目からも涙が溢れた。

「ああ……」

 うなだれて力を抜いた春樹の姿に、僕は半歩近づいて腕を差し伸ばした。

「そこは寒いだろう? さあ、帰ろう」

 涙をこぼしたまま笑いかけると、春樹がまたこちらを見た。さらに一歩近づくと、フェンスの(へり)をつかんでいた彼の手が離れた。

 あと少しで僕の指先がその手に届く――そう確信した、まさにその時。

「何やってるんだぁっ! 梶野ぉ!」

 咆哮(ほうこう)のような皆川の怒声が僕の背後から発せられ、直後、春樹の目から光が消えた。それを感知した瞬間、背筋に稲妻が走り、喉から悲鳴が上がった。

「やめろーっ!」

 咄嗟に伸ばした手は空を切り、フェンスにかかる足が目の前から消え――。

「いやだぁ―――っっ!」

 フェンスにすがりついた僕の目の前で、春樹の体は夕日を浴びながら落ちていった――。


 背中に無数の打撲痕があった春樹は司法解剖を受けた。事情聴取に呼ばれた僕は、もちろんすべてをぶちまけた。監督からの理不尽な虐待を苦にしての自殺――僕から名指しで非難された皆川は何日も警察に呼ばれ、K高とバレー部は新聞沙汰になった。

 これで皆川の所行は白日のもとに(さら)され、春樹の苦悩も報われる――そんな風に思っていた僕を、しかし世間は打ちのめした。

 なんと皆川の監督残留を願う署名がバレー部員や保護者を中心に集められ、学校中がそれに同調したのだ。

「ばかなっ。人ひとりを死に追いやったんだぞ。何考えてるんだ!」

 そんな僕の意見に周囲は冷たかった。

「おまえが変に騒ぎ立てたせいで部員は迷惑してるんだぜ。実業団の内定が取り消されたらどうしてくれるんだよ」

 バレー部を引退した三年のメンバーには青い顔で詰め寄られ、

「だいたい、自殺した原因が監督のせいだなんて真嶋さん一人が言ってるだけじゃないですか。僕たち、梶野と監督の様子を見ててそんな風に感じたことないです」

 現役バレー部員には言動を非難された。果ては警察にまで証言を再確認され、憤りを隠せない僕の耳に、皆川残留への署名が三千枚を越えたのと知らせが届いた。

 さらに追い討ちをかけたのは、

「本当は、梶野は真嶋の言葉が原因で自殺したんだ。あいつはそれを認めたくなくて監督に被せたんだぜ」

 という噂だった。前日の帰り際に、僕と春樹が話し込んでいるところを目撃した者がいたらしい。瞬く間にそれは広がり、学校側もそれに乗じた。バレーボールの名門校としての地位を失いたくない学校は、なるべくなら皆川を庇いたかったのだ。

 皆川の虐待を訴える僕の言葉は「俺たちも同じように叩かれてたけど、そんなにひどくなかったです」とのバレー部員の証言に薄められ、司法解剖を受け、虐待の痕跡が認められたにも関わらず、「監督との因果関係は不十分」との見解が出され、皆川は「軽い懲罰行為があった」として謹慎処分を受けただけで終わった。それは、学校に流れる非難の空気に耐えていた僕を打ち砕いた。粉々にされた僕には、もはや受験に挑む気力は残っていなかった――。


 ――ごめんよ春樹。あんなに身近にいながら、僕はおまえを救えなかった。

(芳弘さん)

 ――もっとうまく支えてやれていたら、おまえを死なせずに済んだのに。

(いいえ、あなたは精一杯頑張った)

 ――僕は何の役にも立たなかった。

(そんなことないわ)

 ――だから今度は、今度こそ僕はやり()げなければ――。

(そうね。あなたならできるかもしれない――)



 宙に差し伸べた手を、あたたかい何かが包んだ。

「あ………?」

 見ると、白くてなめらかな手のひらだ。

「………」

 ぼんやりとしながらその手を目線でたどると、隣に横たわる白い肩に行き着いた。するとその手が導くように僕の手を胸の上に戻し、そのまま肌を滑って頬に触れ、親指で目尻をぬぐった。僕はベッドの上で仰向いたまま、涙を流していたのだった。

 夢――?

 深く遠く、あの日々を駆け巡ってきた気がする。

「泣かないで……芳弘さん」

 目の前に綾瀬の切なそうな顔があった。

「そんな風に傷口を晒したままでは、見ているほうが辛いわ」

「綾瀬……さん」

 僕は何かを口走っていたらしい。あの日々の情景が自分の中に残り、なかなかこぼれ落ちるものが止められない。

「すみ……ません……僕は」

 目尻をぬぐう柔らかな指先ごと、自分の顔を手で覆うと、綾瀬は僕の肩に頭を預けてきた。肌が触れる温もりに混じって、少しひんやりとした感触が伝わってくる。

「いいのよ。私こそあなたに失礼な言い方をしたわ」

「失礼……?」

「あなたの過去をよく知りもせず、不用意な言葉を使ったようだわ」

 ごめんなさいね、とつぶやく綾瀬を見ると、黒く光る髪が湿っていた。

「髪が、湿ってる……」

 頭が冷えて体によくないのにとつぶやくと、ふいに耳たぶをつねられた。

「あなたが髪を乾かす暇も与えてくれなかったのよ」

「えっ……?」

「覚えてないの?」

 からかうような声に、僕は上体を半分起こして肘に預け、辺りを見回した。

 薄暗い光がぼんやりと照らす室内は、どうやら二つあるゲストルームの片方のようだ。壁際に置かれたダブルサイズと思われるベッドの真ん中で、白い素肌のまま横たわる綾瀬の隣に僕はいた。

 首筋で揺れる僕の髪も湿り気を帯び、上掛けから外れた上半身に部屋の空気が触れてくる。ふと横を見やると、少し離れた壁際に置かれた椅子の背もたれに、ブルーグレーのスーツとともに、黒と金のドレスがかけられていた。それを目にした途端、すべての光景を思い出した。

 ――そうだ。僕は、綾瀬に捧げたのだ。


「――いいでしょう。僕の本気がどこにあるのか、じっくりと探してください」

 そう言ったあと、綾瀬の顎に手をかけた僕は唇を奪った。が、所詮、経験不足な僕では彼女に太刀打ちできるはずもなく、逆に煽られてしまった。止めるすべもなく背中に回した腕に力を込めて腰を抱き寄せると、

「大人なら、女性に触れる前にシャワーくらい使うのよ。最低限のエチケットは守りなさい」

 と叱られた。けれども生々しく思い出したあの辛い記憶と体の衝動の波に襲われて混乱していた僕は、「ではご一緒に」と言って腕力に物を言わせ、綾瀬ごとバスルームへ行ったのだ。

 ……そこでさらに仕返しのように翻弄(ほんろう)されてしまったので、確かに髪を乾かす余裕はあげられなかったかもしれない。

「あ、あれはあなたが煽るから……」

「嘘。初めてのくせに妙に上手だったわ。私は騙されたのかしら」

「いいえ。本当に上手ならあんな風に翻弄されません……かなり冷えてしまったようです。申し訳ありません」

 僕は腕を伸ばしてサイドテーブルに放ってあったバスタオルを手に取ると、横たわる綾瀬の頭を軽く()いていった。綾瀬は苦笑を浮かべてなすがままになり、彼女の髪を拭き終えてから自分の髪を拭く僕の腕を軽く引っ張った。

「寝物語は横になってするものよ。あなたも冷えてしまうわ」

「……はい」

 確かに、少し汗ばんでいたはずの肌はすでにひんやりとしている。僕は再び横になり、綾瀬に腕を伸ばして抱き寄せた。重なった肌から温もりが伝わる。

「―――」

 あたたかく、柔らかい心地よさに我知らず吐息が漏れる。一連の行為に加え、あの記憶を脳内に一巡りさせたために、僕は思ったより疲れているようだった。すると腕の中の綾瀬が声をかけてきた。

「断片的に話を聞いてしまったの。少しだけ順を追ってもらってもいいかしら」

 ためらいがちな言葉運びに彼女の気遣いが感じられ、僕は感情に引き込まれることなく話すことができた。聞き終えた綾瀬は訊ねてきた。

「それで、あなたはなぜ大学への再挑戦を選ばずにアツシのもとに来ることになったの?」

「K高と同じ公立の小学校教師だった父は、僕にかけられた疑いを晴らそうとして高校や教育委員会に強く抗議しました。そのために、退職間近だったにもかかわらず赴任先を突然、遠方に変えられ、母も保護者会からの中傷に苦しめられました。僕は二人の顔を見るのが辛くなり、塾へ行く気力もなくなって、部屋に閉じ籠っては両親に説き伏せられる毎日でした」

 そんな状況を漏れ聞いた陽子叔母が、ある日僕を連れにきた。

「『姉さん、義兄さん。このままここにいたんじゃ芳弘はだめになる』。叔母はそう言って両親に有無を言わせず僕を横浜に連れだしたんです」

「ああ……あなたによく似ているというアツシの〈心のコイビト〉ね」

「はい。彼女が黒部オーナーに強引に話を通してくれたんです」

 外に出る気力もなく崩壊寸前だった僕に陽子は宣言した。

(いい若いのが家でブラブラしているなら働いてもらおうじゃないの。頭は空っぽでいいから、まずは体を動かしなさい。ついでに手に職をつければいいわ)

 そしてわけのわからないうちに黒部オーナーの店に放り込まれたのだ。

「最初は戸惑いましたが、なにしろ店が忙しくて仕事はいくらでもありましたから、あの時の僕にはよかったと思います」

 それこそ頭を空っぽにして一日中機械のように働いた。やることは雑用だけでも山のようにあった。

「そのうちに技術の課題を与えられ、クリアしてはまた課題を出され――気がついたら一年半が経っていました」

 そうやって何も考えずに済むよう、ただがむしゃらに次の課題を目指してきた。

「それこそ人形のように。だから僕の作るものが、正確で綺麗でも色気がないと言われるのは無理もないんです」

「アツシも言ってたわね。そうなの?」

「はい。いつも指摘されてしまいます。でも……」

 そうして動いていないと、自分が引きずられそうで怖かった。

「だからどんどん練習が進んでしまって。それで最後の仕上げに差しかかった時に、傷ついた(きじ)のような拓巳を見つけたんです。すぐにあの時の春樹と同じで、何かの圧迫に耐えていることがわかりました」

 僕が言葉を切ると、腕の中の綾瀬が納得したように漏らした。

「そうだったの……だから拓巳の容姿に惑わされなかったのね」

「ああ……でもそれは遺伝子のせいかもしれません」

 僕が陽子や祐司のことを説明すると、綾瀬はくすりと笑った。

「そうね。私への対応も、ちょっと他にないものだったし」

「それはその……あなたこそ、聞かされていたのとずいぶん違うから……」

「あら、アツシが私を評して言うのは本当のことよ。厳しくて容赦がないとか、プライドが高いとか言われたのでしょ?」

「はい。――でも違った。あなたはやさしかった」

「そんなことはないわ。今だって、こうしてあなたに初めてを捧げさせている性悪な女よ」

 ふいに綾瀬の手が僕の顎を捕らえると、柔らかい唇が重ねられた。熱を移し合うようなそれを受け止めると、体の芯がまた(あぶ)られてきた。

「綾瀬さん……」

「やさしいふりをして、数限りない相手を騙してきたわ。必要ならこの体を使うことなど(いと)わなかった」

「それは……でも、やむを得ない理由があったのでしょう?」

「もちろん、私なりに。でも騙された相手には何の言い訳にもならないと承知しているわ。どんなに罵られようと、守るべきものを手にした以上、私は怯むつもりはないの」

「あなたの守るべきもの……?」

「自分自身、そして母と弟よ」

 ――そうして綾瀬は語りだした。

 母親が没落した旧家の出身で、大企業の経営者である父親の妾だったこと。自分が生まれた時に母親は追い出され、そうとは知らずに正妻の子として育ったこと。やがてその正妻から虐待を受け、そのためにすべてを知り、実の母を探しながら自立の道を目指したこと。やがて探し当てた母親は幼い弟との二人暮らしで、高級娼婦として男性客からの搾取状態にあったこと――。

「ようやく母と、父親違いではあるけれど弟に会えたのに、それどころではなくて」

 だから手段を選ばずに何でもやったのよ、と綾瀬は笑みを浮かべた。けれども僕の目にはそれが痛そうに見えた。

「母と私とで手分けして、買われた夜には接待して情報を引き出したわ。それこそどんな些細なことでもあとですぐにメモに残して。そうして相手の身辺を詳しく調べてから、弱点になるものをつかんで一人一人潰していったの。特に上流社会の人はスキャンダルに弱かったから楽だった。なにしろ僅か十四の小娘に手を出したんですからね」

「………っ!」

 たった十四歳で――。

「そんな顔をしなくてもいいわ。モデルになった頃の私の周りには、似たような話はいくらでもあった。モデル業界もけして安全とは言い難いのよ」

 カメラマンやスポンサーからのセクハラなどしょっちゅうだったし、と綾瀬は笑った。

「なのになぜ、モデルを選んだのですか?」

「父の正妻から逃れたかった私には、ほかに自立して身を立てる手段がなかったからよ」

「お父様は庇ってくださらなかったのですか?」

「妾に子を生ませて、しかも取り上げて正妻に渡すような男、こっちから願い下げだわ」

 一瞬放たれた綾瀬の怒りが腕に抱く体の熱まで奪うようで、我知らず僕は腕に力を込めた。それに気がついたのか、綾瀬は体から力を抜いた。

「父は私に執着していたけれど私は縁を切るつもりでいたから、スカウトされたモデル事務所には契約する前に事情を話したの。幸いこの業界の人は事情を抱える人材に慣れていたから、相手を見て選べば協力してくれる人には事欠かなかったわ」

 その代わり、自分の価値を高めようと努力して磨いたけれど、と綾瀬は続けた。

「私は運よくすぐにいい事務所に入れたの」

「では、そこの社長さんの協力で契約できたのですか」

「ええ――最終的には。父を黙らせるための手段は自分で用意したけど」

「手段?」

「正妻からの虐待を逆手にとったのよ。証拠を集めて記録しておいて、訴訟を起こす手続きをしたの」

「記録を……!」

「ええ。写真が一番効果的だったかしら。資料として添付して、弁護士を社長さんから紹介してもらって……いつでも提出できる準備を整えたあとで、父と交渉したわ。あの人も体裁が大事な人だったから、訴訟を起こすと脅すだけですぐに契約書にサインしたわよ」

「―――」

 凄い。十四歳の少女がそこまでやったのだ。

「その時に私の籍も移させて、私は晴れて〈戸部綾瀬〉になれたのよ」

 微笑んだ綾瀬は誇らしげだった。

「そうだったのですか……」

 思わずため息を吐いた僕に、綾瀬が腕を絡めてきた。

「あなたの参考になったかしら」

 僕は、いつの間にか綾瀬が約束を果たしてくれたことに気がついた。

「ありがとう……綾瀬さん」

 その白い腕を取って唇を落とすと、綾瀬は身を乗り上げて僕の体を覆った。

「礼には及ばないわ。それだけのものをあなたから見せてもらったし……」

 頬に片手が添えられ、頭がもう片方の手で固定されると、妖艶な美貌が迫ってきた。乾いてきた黒髪が頬に触れる。

「さらに利息までいただこうとしているわ」

「綾瀬さん……」

「二人でいる時は」

 重ねられた唇が理性を取り払っていく。

「綾瀬、と呼ぶことを許してあげるわ――」

 吐息のようなささやきが耳を通過した時には、すでに僕の自由は奪われていた――。


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