ブラックスワン
「本気かおまえ」
「ええ。彼女が拓巳の解放に道を示してくれるなら僕は何でもします」
まばらになった人影を目に映しながら、僕はロビーでその時間を待っていた。時計は午後の九時。あと三十分だ。
綾瀬が去ったあと、僕たちは川上瑛子を囲んでしばらく談笑した。そして頃合いを見計らったところで彼女のもとを離れると、黒部オーナーは僕たちを隅のほうへと引っ張った。
「よっちゃん……一時はどうなるかと思ったじゃないの」
「すみません。先ほどの方は?」
「アヤセ・トベ。パリで活躍中のデザイナーよ。この前あなたに話した人よ」
「あ、もしかして、中学生の時に拓巳と同じような境遇から脱出したという」
「そうよ。実は少し前に連絡を取って、よっちゃんに話してほしいとお願いしてみたんだけど、保留になっててね。さっきも気が乗らないって言ってたのよ」
よかったわねと黒部が微笑むと、それまで黙っていた関口が口を挟んだ。
「ちょっと待ってください敦サン。真嶋に何をさせる気ですか。あのアヤセを相手に」
「あら、透くん。そんなコワい顔しちゃダメよ」
「はぐらかしてもだめです。彼女には色々な噂がある。その中でも――」
「透くん」
黒部が遮った。
「確かにアヤセにはウワサが絶えないわ。でも私は彼女を直接知っているの。そしてね、今のよっちゃんには、色々な意味を含めて、彼女の生き様に接することがプラスになると確信してるのよ」
関口が押し黙る。黒部は続けた。
「アヤセは一度承諾したら約束は違えないわ。だからあとはこちらの覚悟次第ね」
彼は僕の顔を見上げた。
「よっちゃん。彼女の歩んできた道の中に、拓巳くん解放へのヒントがあると私は思うの。アヤセは滅多に心情を明かしたりはしないし、誇り高くて厳しい人よ。けど、あなたなら何かを得るんじゃないかと思うのよ。けっこうキツイことを言われるかもしれないけど挑戦してみる?」
僕はいつになく真摯な様子の黒部と、強張った表情の関口透の顔を見比べながら、すでに心に出ていた答えを口にした。
「むろん、伺わせていただきます」
「真嶋!」
「そう。よっちゃんならきっとそう言うと思ったわ」
血相を変えた関口を片手で制しながら黒部は続けた。
「場所は最上階のスイート、時間は九時半よ。遅れないように訪ねなさい。私たちの部屋はひとつ下の階だから場所はわかるわね」
僕が頷くのを確認すると、黒部はドレスを翻して立ち去り、会場がお開きになったところで、荷物をフロントから受け取って部屋へと移動した。そのあとで関口が僕を再びロビーへと連れてきたのだった。
「アヤセには黒い噂がある。それでもか」
「黒い噂?」
「彼女は若干十七歳でパリコレのモデルになって名を上げたが、二年後には自分のブランドを持つデザイナーになったんだ」
「それは凄いですね」
「さらに二年後にそれを世界展開しようとパリに拠点を移して成功させ、それが一流ブランドの目に留まって誘いを受け、今に至っている」
「はぁ……才能豊かな方なんですね」
「感心してる場合じゃない。その一連の伸し上がり方に黒い噂があるんだ」
「どういう意味ですか?」
「特に初期、モデル時代から自前のブランドを持つあたりだが、裏世界につながるパトロンの資金によって支えられ、ライバルや邪魔な相手は容赦なく排除したと言われている」
「え……?」
「彼女に仇なすものはことごとく陥れられ、地位を失ったり倒産したり、中には自殺者もいるそうだ」
「………」
「アヤセに何かを求めるなら相応のものを差し出す覚悟が必要、とまで言われているんだぞ」
「相応のもの……」
なんだか不安になってきた。僕にそれを購うだけのものが出せるのだろうか。
「迷うなら悪いことは言わないからやめておけ。思い直したからといって、おまえの恥にはならない」
俺が敦サンに取りなしてやるから、という関口の申し出を、しかし僕は断った。
「心配していただいてありがとうございます、店長。でも行ってみます」
「真嶋!」
「僕なら何かを得るんじゃないか、というオーナーの言葉に従って見ようと思うんです」
「代償に何を要求されるかわからないのに」
「多分、オーナーはそれも含めて、あの人の人生観に触れることが今の僕に足りない何かを補う、と考えたんじゃないんでしょうか」
「……さすがは〈鋼鉄の理性〉。冷静な分析だな。だが、アヤセ相手にそれで済むと思うか」
「僕は、オーナーを信じます」
関口は考えるようにロビーの天井を見上げた。
黙って待っていると、やがて彼は電子タバコを取り出し、しょうがない、とつぶやきながらそれを口に加え、一口吸ってからため息のように吐き出した。
「まあいい。伝えるだけは伝えた。あとはおまえの判断だ。この際、ドーンと当たって砕けてこい。――ホネは拾ってやろう」
彼はじゃあな、と電子タバコをポケットにしまい、今度は本物を吸うために、ロビー脇にある喫煙スペースへと去っていった。
「そちらへどうぞ、真嶋さん」
綾瀬に通された室内は、さすが有名ホテルのスイートだけあって豪華だった。広々としたリビングのほかに、ゲストルームが二つもついているらしい。
「昨日はここで、アツシも含めて親しい仲間と内輪のパーティーを開いたのよ」
彼女が言うように、カウンターバーを備えたリビングは十人程度なら十分にくつろげる広さがあった。僕はその中央に位置するなめらかな革張りのソファーに腰を下ろした。目の前のローテーブルには、すでに様々な種類のアルコール類と酒肴が用意されていた。
「適当に注文してみたのだけれど、よろしかったかしら」
「ありがとうございます。何かお作りしますね」
アイスボックスに手を伸ばすと、はす向かいのソファーに座った綾瀬の手が遮るように腕に触れた。
「私の部屋へ呼び出したのだから、私が作るわ。ゲストは何か摘まんでいらして」
柔らかく微笑む彼女に、僕も笑みを浮かべて返した。
「私的なお願いを叶えていただいたのですから、僕にやらせてください」
何がお好きですか? と訊ねると、綾瀬はそれ以上は言わずに手を戻し、ソファーに身を沈めた。
「では、ジントニックをお願いしようかしら」
「承りました」
手早く作って差し出すと、綾瀬は一口つけてから「美味しいわ」とこぼした。
「慣れているのね。手つきに淀みがないわ」
「はい。オーナーと二次会などをご一緒しますと必ずやらされますから」
「ああ、アツシは弱いくせに味にうるさかったわね」
「ご存じですか。最初はわからなくてしょっちゅう作り直しをさせられました」
苦笑してその時のことを話すと綾瀬も笑みを漏らし、さらに一口飲んでからこう言った。
「〈バードヘヴン〉でも、よくそうやって作り直させていたわ」
さらっと振られた本題に、僕は自分のグラスを持った手を口元で止めた。斜め横の綾瀬を見やると、黒髪に縁取られた美貌の中で、夜色の瞳が柔らかな部屋の明かりを反射していた。
僕は姿勢を正し、綾瀬の目線を受け止めた。
「アツシから聞いたわ。プラチナを解放したいのですってね。そのために、私に訊きたいことがあるとか」
「はい。あの店に行かれたことがあるのですか?」
「ええ、二度ばかり。パトロンに連れられてね」
私の出資者の一人は趣味人なの、と綾瀬は口元に妖艶な笑みをたたえた。
「美しい鳥たちの中でも、特に目を引く白金の不死鳥。それが、私のパトロンの今最大の関心ごとなのよ」
揺さぶるように告げられ、思わずグラスを取り落としそうになった。
「まあ。素直な方ね」
「失礼しました。……あなたのパトロンなる方は、黒部オーナーと同じく〈美しい鳥〉に目がないのですね」
鳥で美しいといえば雄――つまり美少年愛好家なわけだ。
「ええ、そうよ。自前で趣味と実益を兼ねたお店を構えしまうくらいに。あの人はそこに、あの比類なく美しい〈プラチナ〉をコレクションしたくてたまらないの。でも、〈バードヘヴン〉のオーナーとはライバル同士だから、手に入らなくているのよ」
そう語る綾瀬の表現の仕方が気になった。
「お話を伺っていますと、まるで彼らが本当に観賞用の鳥のように感じられますが」
「高橋オーナーや私のパトロンにとってはまさしくそうなのでしょうね。ホストとしての接客技術にこだわるだけ、高橋さんのほうがまだしも〈人〉としての部分を尊重していると思うわ」
高橋を引き合いに出され、僕の理性にヒビが入りそうになった。
――だめだ、気をつけろ。彼女は僕を揺さぶって反応を見ている。
「……あなたのパトロンはそうではない、と」
微妙に話をずらしてかわすと綾瀬は畳みかけてきた。
「そうね。彼は接客技術など求めないわ。あの人の店に置かれた鳥たちは、求められるままにただその美しさを提供するだけ。それこそ羽を毟られるが如くに」
それはどういう意味だ? まさか――。
彼女は僕の動揺を読み取ったように付け足した。
「その扱われ方は〈プラチナフェニックス〉の比ではないわよ」
今度は取り違えようもなかった。少年を売り物にする店――違法店だ。
「あなたはそれを……ご承知なのですか」
いささか非難の色が声に混じったかもしれない。しかし彼女は微塵も揺らがなかった。
「もちろん。大切な出資者のプライベートですもの。わきまえて差し上げないと。私にも価値のあることですから」
「価値⁉」
思わず眉が跳ね上がる。
少年を貪るパトロンの価値とは一体――?
すると綾瀬は手にしたグラスを優雅な手つきでテーブルに戻して立ち上がった。
会場で見た時よりもさらに近い距離で見る彼女は、柔らかい室内の明かりに照らされて艶やかさを増したように見え、同時に何かが彼女の表面を覆ったような気もした。
「なぜだかわかるかしら」
グラスを手にしたまま見上げる僕の目の前で、綾瀬は黒と金のドレスに包まれた体をしなやかに移動させて隣に座った。ふわりと蠱惑的な甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「大抵の男性が私を見てどう思うのか、想像してみたらわかるわ」
その妖艶な仕草にどこか作為的なものを感じながらも、言わんとすることはすぐにわかったので答えてみた。
「みんながあなたを欲しがる、ということでしょうか」
男たちを虜にせずにはおかない華やかで危険な磁力。この人の前で理性を保てる者は少ないだろう。でも――。
「そうね。あなたはどう? 何を感じるかしら?」
「………」
僕は率直に言うのをためらった。しかし、彼女の目を見るとやはり誤魔化せるとも思えず、少々勇気がいったが正直に告げた。
「あの、はぐれた黒鳥に似てます……」
「えっ?」
「あなたの中に、もう一人のあなたが見えてしまう。僕の郷里に迷子の黒鳥がいたのですが、公園の池に保護された黒鳥は何度見ても落ち着かない様子だった」
本来の居場所にいない、そんな戸惑いが感じられたのだ。
「あなたは今、立ち上がった時にわざと装った。それは本来のあなたじゃない。そう感じました」
不躾ですみません、と頭を下げてから姿勢を戻すと、大きく目を見開く綾瀬と目が合った。
「まあ……」
彼女はしばらく絶句したように僕を見ると、フッと息を吐いてから口を開いた。
「アツシから聞いた時は驚いたけど……さすがあのプラチナを普通の少年として扱うだけのことはあるわね」
「………」
「私の周囲にもあなたのような方がいたら……或いはパトロンの趣味を非難できたかもしれないわ」
「実際は違う、と」
「容姿について回る辛苦を味わってきたのは、プラチナだけではないのよ」
僅かに歪んだその表情を見て、綾瀬も拓巳と同じような境遇にいたと聞いたことを僕は思い出した。
「私にとっては、あの人が女性を求めない人だということが重要なの」
ああ、そういうことか――。
少し顎を引いた綾瀬は先ほどまでの違和感が薄れ、より鮮明な姿になった気がした。そこには傷つけられた過去を背負いながら、全力で立ち向かう一人の若い女性の姿があった。
「……あなたも戦ってきたのですね」
僕は肩すぐそばにある顔を見つめた。
「そして勝ち取ってこられた。けれども常に身構えている。それだけ傷が深かったから」
「そうよ、真嶋さん。だから割り切ることができるわ。そうやって努力した者にしか自由を手にする資格はないと」
「もっともな意見だと思います。でも、だからこそ僕も引けません。教えてください、あなたがとった手段を。どうすれば拓巳を父親から解放できますか」
「この私から何かを引き出したいのなら、相応の対価が必要になるわ」
「承知しています」
「では真嶋芳弘さん。あなたは私に何を差し出せるの?」
「逆にお聞きします、綾瀬さん。こうして会ってくださったからには、僕にも多少、あなたの心に叶うものがあったのだと思いたい。何を差し出せばあなたは話してくださいますか」
「本気を見せていただきたいわ。下手に手を出されてからあとで引かれたのではプラチナの迷惑よ」
「僕は諦めません。あの父親から拓巳を解放するまでは。何をすれば本気を納得してくれますか」
「……芳弘さん。あなたは彼のために自分の信念を投げ出せるのかしら」
「どういう意味でしょうか」
「私の前に身を投げ出せるか、と聞いているのよ」
綾瀬の片手がスッと僕の頬に添えられた。
「アツシから聞いているわよ。――まだ誰とも経験していないのですってね」
「………!」
僕の体温が一気に上昇した。
「そういった夜の店に仲間が誘っても、『心の通わない人を抱く気にはなれない』と言って断ったと聞いたわ」
綾瀬の眼差しが再び歪む。
「私やプラチナのような境遇の者にとって、それは計り知れない贅沢なのよ」
「……それは」
「いつか心に叶う相手に渡すはずだったのでしょう? それを私に捧げなさい。あなたの信念と引き換え――それができるなら本気を信じてもいいわ」
もちろん無理強いはしないわよ、と付け足してから綾瀬は手を離した。僕は彼女を見下ろしたまま絶句していたが、そこでたまりかねて声を上げた。
「な、何を言ってるんですか!」
彼女は素っ気なく答えた。
「別に相手に不自由はしてないし、あなたが欲しいわけでもないわ。ただ、あなたのような若い人からはほかに取るものがないのだもの」
的を得た言い様に、僕は別の意味で赤面した。
「あなたは初対面の女をすぐに抱けるような人じゃない。そう確信したから対価にしてみただけよ」
「そ、そんな理由であなたは僕を……」
「条件が呑めないのならお帰りなさい」
僕が狼狽した瞬間、綾瀬は立ち上がった。
「プラチナの味わっている苦悩は今のあなたどころじゃないはずよ。奪われた経験のないあなたがどこまで理解して彼と接しているのか、ちょっと疑問だわね」
「―――!」
その言葉は僕の奥底を貫いた。
脳裏をよぎるのはあの日の記憶。
(あんなの、たいして強くもなかったぜ)
――うそだっ! 春樹は痛くて辛いと言っていた。精神的にも追い詰められていたんだ!
(俺らだって一緒にそこにいて、何度も叩かれてる)
――強さが違うはずだ! あんなアザ、他のみんなにはないじゃないか!
(そりゃ、ヤツが弱かったからだろ?)
――そんなはずはない!
(でもよ、おまえはその場にいたわけじゃねーじゃん?)
――見ればわかるじゃないか!
(真嶋君。実際に叩かれてもいない君が何を言っても無駄だよ。みんなはその場で同じことを経験したんだから)
――同じじゃないって言っているのにっ!
「……経験すればいいんですか」
いつの間にか僕の足は立ち上がり、両腕が綾瀬の肩を押さえていた。
「経験さえすれば、わかってもらえるんですか」
「芳、……っ」
「同じ目に遭わなければ信じてもらえませんか。この目が見て、この手が痛みに触れ、苦しみを自分のものとして受け止めているのに!」
どんなに訴えても、連中の持つボール一個より軽く扱われた僕の証言。
「いいでしょう。僕の本気がどこにあるのか、じっくりと探してください」
そして僕は肩をつかむ手を離すと、片方を顎に、もう片方を背中に滑らせていった――。