カットモデル
編集で、ずいぶん時間を使っちゃいました。このシリーズの原点、どうぞお付き合いくださいm(_ _)m。
僕は焦っていた。
駅ビルの壁を飾る時計を見ると、電光表示板が午後七時十分を示している。あと二十分しかない。
「あの、すみません……」
駅から吐き出されてくる仕事帰りの人々の中からようやく目的に適う人を見つけても、声をかけると大抵は胡散臭そうな目線を寄こしながら足早に去っていく。
当たり前だ。僕だって逆の立場なら同じことをするだろう。ここは横浜。郷里の田舎ではない。警戒心強く備えなければ生きていけない大都会なのだから。
ここじゃだめかも……。
少しだけ場所を移動し、ビルの裏手の繁華街に入る。途端、コートやジャンパーを着た人々が行き交う道路の向こう側の建物に目が吸い寄せられた
いたっ! ちょうどいい長さだ!
僕はネオンサインがあちこちに光を飛ばす道路を真っ直ぐに突っ切り、ガラス張りのその建物――ゲームセンターに入った。
自動ドアを通り抜けると、耳に厳しい騒音がブワッと全身を包んだ。しかし以前だったら頭が痛くなりそうなボリュームも、職場に流れるJ-ポップと二十台からなるドライヤーの騒音で二年近く鍛えられてきた今の僕の敵ではない。
年の暮れが迫る師走の夜、多くの若者で賑わう店内を移動し、ガラス越しに見えたその姿に近づくと、僕はさっそく騒音に負けじと声を張り上げた。
「あの! 君、今時間あるのかな?」
やや大ききい画面のシューティングゲームを動かしていた背中が動きを止めた。
「僕はすぐそこのビルにある〈サロン・ド・ルノワール〉という美容室の者で、今、グラデーションのカットモデルを探しています。君の長さがピッタリなんだけと、もしよかったら二センチほどカットさせてもらえませんか?」
変に誤解されるないよう一気に説明し、細身の背中が振り返るのを待つ。
十五、六歳くらいだろうか、すらりと均整のとれた姿は少年に見える。が、小作りなサラサラ髪の頭が、なめらかな肌をした首筋とあいまって綺麗なラインをしているので、上背のある痩せ気味の少女かもしれない。黒のスリムジーンズに格子柄の厚手のカッターシャツといった服装では判断が難しい。
都会には色々なタイプの人がいるからなぁ……。
そんなことを考えていると、目の前の姿がゆっくりと首を巡らした。
「グラデーション?」
あ、男の子だ。
僅かに掠れを帯びたテノールの声で判断した僕は、こちらを振り向いた顔を見て思わず息を呑んだ。
――び、美人!
それがこの先、僕の一生を大きく変えることになる少年――高橋拓巳との出会いだった。
「お疲れ様でした、真嶋さん。満場一致で合格です。研修センターへの異動は年明けになります。頑張ってください」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げると、審査を務めた五人の支店長と本店の店長は奥にある社長室へと姿を消した。すると、試験を見守っていた指導トレーナー、青山碧がパタパタと寄ってきた。小柄な彼女がそばに立つと、僕はかなり目線を下げなくてはならない。
「頑張ったわね、芳弘くん。二年以内での研修生合格は異例よ。私も鼻が高いわ」
「ありがとうございます。青山さんのお陰です」
入店以来、ずっと専属で指導してくれた青山碧に僕は改めて頭を下げた。
このテストに合格したことで、僕は年明けから少し離れたビルにある研修センターに配属される。そこで技術者として働き、二ヶ月後の最終テストに合格すれば、八店舗あるどの店でも一人前として認められるのだ。
もちろんこの本店に帰ってくるのが理想だけれど、週末にいつも寄る叔母の家に近い支店でもいい。いずれにしても一人前まであと一歩だ。
「がむしゃらだったもんねぇ。ところで芳弘くん」
目線を下げると、青山が顔を近寄せてきた。百五十三センチの体が三十センチの差を埋めようと精一杯背伸びをしている。僕は少し屈んだ。
「なんでしょう」
「あのグラデーションモデルの子、高橋拓巳くんでしょ? いつ知り合ったの? どうやって連れてきたのよ」
「彼を知っているんですか?」
「あんなキレイな顔、一度見たら忘れるもんですか。前に来たことがあるのよ、この店に。もっとも最近は道向かいのゲームセンターで見かけるだけだけど」
「ああ、それで……」
僕はあとでお礼をしようと思い、待合のソファーで待ってもらっている少年――高橋拓巳とのやり取りを思い出した。
なんて綺麗な顔なんだろう……!
それは見たこともないような迫力の美貌だった。彫りは深く、長い睫毛に縁取られた二重切れ長の目は大きく、スッと通った鼻梁の下には濡れたように紅く光る薄めの唇が形よく納まっている。
あまりの美貌につい見惚れていると、その唇が動いた。
「グラデーションって?」
僕はハッと自分の置かれた状況を思い出した。――そうだ、時間がないのだ。
「えっと、今の君や僕のような肩くらいの長さで、上の髪と裾との段差があまりない髪型のことだよ。これから試験を受けるところだったんだけど、お願いしていたモデルさんが風邪をひいちゃったらしくてついさっき断られてしまったんだ。グラデーションは重要な課題で、それがないと試験には合格できなくて……」
説明しているうちになんだか自信がなくなってきた。
グラデーションのモデルは親しいお客さんにお願いして、わざわざ先週来てもらって最高のコンディションにしておいたのに……。
「困ってるのか?」
ふいに声がかかり、自分が俯いていることに気づく。
ちょっと情けない顔をしていたかもしれない。
気を取り直して目の前の少年に営業スマイルを浮かべようと顔を上げ――すぐに思い直す。彼の不思議な薄い色合いをした双眸が、真剣にこちらを探っているのがわかったからだ。
僕は正直に心情を伝えることにした。
「とても、困ってる。僕は今日を目標にしてずっと頑張ってきたから……」
少年はしばらくけぶるような眼差しでこちらを見つめ、やがて口を開いた。
「どこのビル?」
えっ、いいの⁉
思わず前のめりになり、慌てて足をグッと踏ん張る。こちらを見る少年の眼差しにはまだ警戒の気配が漂っていた。
「その交差点を右に曲がってすぐの、道向かいにある三階建てのビルだよ。美容室は二階にあるんだ」
すると少年の顔に今度は納得の色が浮かんだように見えた。
「嘘じゃないんだな」
「え?」
それには答えず、彼はゲーム機に戻って操作を止めると再び僕に向き直った。
「切るだけ?」
「もちろん。あ、シャンプーとブローも付くけど。引き受けてもらえるのかい?」
「ああ、いいよ」
彼はスッと踵を返し、さっさと店内を抜けていった。僕は慌ててその後ろ姿を追いかけ、歩道で追いついたところで改めて礼を言った。
「本当にありがとう。僕は真嶋芳弘と言います。今日はよろしくお願いします」
彼は足を止めてこちらを振り仰いだ。美しい切れ長の眼差しが少し驚いているように見える。
なんだろう……?
引っかかりを覚えつつ名前を訊ねると、彼は小声で「高橋拓巳」と答えた。時間がなかったのでそれ以上の質問はやめて店に案内し、無事、テストに間に合うことができたのだった。
「お客さんだったんですね」
「二年くらい前までは家政婦さんに連れられて時々来ていたのよ」
「えっ?」
「関内からたまに来て、買い物のついでに、って感じだったけど。カルテも残ってると思うわよ」
「そうなんですか。意外だなぁ……」
すると青山はアッシュブラウンに染めたウェーブ頭をクルッと傾げた。――まるで雀のようだ。
「意外?」
「だって、お手伝いさんを付き添わせるような家のご子息にはとても見えないから」
この寒空に、彼は上着も着ていない。雰囲気もどこか殺伐とした陰りが漂っていて、綺麗ではあるが表情に乏しく、とてもお手伝いさん付きのハイソなエリート学生には見えない。
二年経つうちに家の事情が変わったのかな、などと想像していたら、青山は別の方向から僕を驚かせた。
「そりゃお手伝いさんとしては、小学四年生を繁華街の美容室に一人で来させるわけにはいかなかったんでしょうよ」
「―――はい?」
しょうがくよねんせい……?
「えっ? あの、じゃ、彼って今一体……?」
「知らなかったの?」
彼女は少し落胆した。
「てっきり芳弘くんと友達になったから来てくれたのかと思ったんだけど。じゃ、違うのね」
青山の声を耳に素通りさせながら年齢を計算し、あまりの外見とのギャップに絶句する。
「六年生……」
そして気がついた。時刻がすでに夜の九時を回っていることに。
「なんてことだ……っ!」
僕の郷里の常識では、小学生は九時までに寝るものだ。
慌ただしく青山に今日の感謝を述べると、僕は広いフロアを突っ切り、まだ待合に座っている少年のもとに飛んでいった。
「へえー。先週来なかった間にそんなことがね……」
向かいの席で晩酌のロックグラスを傾ける叔母、陽子のつぶやきを聞きながら、僕は目の前のテーブルに展開する中華料理に取りかかった。
横浜港に近い住宅地にある叔母の家は、密集地ながら昔は山だったとかで今もまだ緑が多い。横浜駅の繁華街とすぐそばのアパートを往復するだけの僕にとっては憩いのひとときだ。もっとも、この家で半年間暮らしたあと、昨年の九月にここを出てから一年以上経ち、こうして土曜日か日曜日の夜しか来られなくなった今では昼間の緑を目にする機会も殆どなくなったが。
「それで? そのあとどうしたの?」
「とりあえず謝って、自宅まで付き添って送っていったんだけど……家には誰もいなかったんだ」
「九時過ぎていても?」
「それが……父親と彼との二人家族で、お父さんは夜が遅い仕事らしくて」
僕は叔母特製の手作り餃子にかじりつきながら、つい考え込んでしまった。
あの日、血相を変えて謝る僕に、少年――高橋拓巳は面食らったような素振りを見せた。
「なんで謝る?」
「ごめんね。てっきり高校生くらいだろうと思ってしまったんだ。こんなに遅い時間まで付き合わせて……家の人に連絡するから電話番号教えてくれる?」
拓巳は首を横に振った。
「心配しなくていい。父は仕事に行っている。家には誰もいない」
その大人びた物言いにこっちが面食らってしまった。
青山さん! この子ホントに十二歳⁉
いくらなんでもこれは間違いでは、と受付カウンターに取って返し、カルテボックスから〈高橋〉の欄を抜き出す。見つかったカルテを見ると今年の九月で十二歳、紛れもなく六年生だ。
僕はバツの悪さを拭うようにカウンターから声をかけた。
「じゃ、お母さんも一緒に仕事なのかな?」
飲食店――レストランでもやっていればこの時間でも両親が忙しいことはあるかもしれない。
しかし彼の返事はそれを否定したものだった。
「――母はいない」
簡潔な言い方に驚いて顔を見ると、端麗な細面に納まる切れ長の大きな瞳がガラス玉のように色を失っていた。
「ごめん、無神経だったね……」
待合に戻り、ソファーに座る拓巳の前にしゃがんでもう一度謝ると、彼はまた驚いたように少しだけ目を見開いた。僕はお詫びの気持ちも込めて続けた。
「じゃあ家まで付き添うよ。君がお父さんに怒られてはいけないからね」
カルテの住所には、関内駅からそう遠くない住宅地の番地が書かれていた。
そうして「いい。大丈夫だから」と遠慮するのを説き伏せ、とにかく夜道は危ないからと押し切って同行した。しかしそこで目にした自宅の様子に、僕は疑問を深めることになったのだった。
「立派な家なんだけどね。綺麗すぎて不自然な気がしたんだ」
箸を置き、お茶に手を伸ばしながらつぶやくと、陽子がグラスの手を止めた。
「不自然?」
「なんだか、人の住んでいる気配がしないというか……」
帰路の電車内で聞き出した話では、お手伝いさんは今も昼間の三時間ほど通っているそうで、衣食住には特に不自由していないとのことだった。建物は立派で、庭も手入れがなされていて、彼の家が未だかなりの資産家であることが窺えた。おそらくはプロの業者がやったのだろう、冬の枝の手入れが施された庭は、けれども誰もいない大きな家と相まって寒々しく感じた。
拓巳の様子も同じだ。上着もないカッターシャツの姿をよく見れば、インナーの長袖Tシャツも含めて一流ブランドの製品だった。けれども十二歳の子どもの外出着としては少々薄手で、保温の役目を果たしきれていない。店から出る途中、開いた襟元から覗く首回りがなんだか寒そうで、僕はつい店に置きっぱなしだった自分のパーカーを取ってきて羽織らせてしまった。余計なお世話かな、とも思ったけれど、彼は嫌がるでもなく皺の寄ったパーカーを羽織り、外を歩いていても寒そうに肩を縮めることがなくなったのだからやはり暖かくて良かったのではないだろうか……。
「どうもちぐはぐしている気がして。だから、一人でゲームセンターにいるよりいいんじゃないのかな、と思って次の最終試験のカットモデルもお願いしてみたんだ」
それを聞いた時、拓巳は戸惑ったように目を見開いた。
「研修センターの最終試験?」
「うん。研修センターは本当の店より安くして、実戦で生徒の腕を磨くところだよ。本店のビルのもう少し先にあるんだ。二ヶ月ぐらい頑張って最終試験に合格すれば晴れて一人前になれる」
「まだあるのか、試験が」
「今までだってずっと試験だらけだったよ。でも今度で最後。だめかな?」
「日にちにもよる。土日はだめだと思う」
僕は少しホッとした。彼の家も週末くらいは団欒があるようだ。
「土曜や日曜は忙しいから試験はやらないよ。大抵はお店が暇な水曜日や木曜日かな」
「木曜日ならいい」
「ほんとかい? じゃあ、木曜日に予定してもらえるように希望を出すよ。それで、今日みたいな時間が普段にもあるのなら、研修センターのほうに訪ねておいでよ。お礼がわりに髪のコンディションを整えてあげるから」
「コンディション?」
「君の髪質はとても綺麗だけど、毛先が痛んでパサパサしているから、週に一回トリートメントすれば直せると思うんだ。それもまた勉強になるし」
場所は本店からこの道のここ、と説明すると、彼は「わかった」と頷いた。
そして彼が門の奥に入り、玄関の向こうに消えるまで見届けてから、僕はその場をあとにしたのだった。
「で? 何がそんなに引っかかってるの?」
「あ、えっ?」
ハッと顔を上げると、豪快にグラスを飲み干した陽子がこちらを見た。
「さっきから、その茶色の目で餃子の大皿睨みながら一言喋っちゃ俯いてもぐもぐやってるから、また何か頭の中で展開させてるんだろうなー、と思って」
芳弘は気がかりなことや夢中なことがあるといつもそうだからねと、美人よりイケメンとの表現が似合う顔に口元で微笑まれ、僕は赤面しながら説明した。
「その子ね。平日はいつもずいぶん遅くまで家に帰らないようなんだ」
「良くないことね……でも残念ながら、ここにはそんな子が溢れているわね」
陽子は嘆かわしげに――けれども慣れた様子で言った。
あれから時々覗くようになって気がついたのだが、拓巳のいたゲームセンターには明らかに小学生だろうと思われる子がたくさんいた。しかも大半は子どもだけで来ていた。僕のいた土地では、中高生はよくたむろしていたけれど、小学生が一人でなど滅多にいなかった。
『こっちの子は塾通いが多いから』
店で疑問を投げかけたら先輩にそう言われ、最初は意味がわからなかった。夜遅くまで学習塾に通い、帰りがけに、まるでサラリーマンのおじさんがつい居酒屋に寄り道するようにゲームセンターに寄り、ストレスを発散して帰るのだと聞いた時にはそら恐ろしくなってしまった。
「それとあと……頭の中に最近のものらしい傷跡が幾つかと、脱毛症の跡があったんだ」
「傷跡に、脱毛症?」
陽子はさすがに驚いた顔をした。僕は彼と二度目に接触した一昨日のことを叔母に話した。
研修センターに入って三日後の夜。
他のスタッフが帰ったのを見計らい、一旦、練習を中断してごみ出しに出ると、人陰もまばらな路地裏の電信柱の脇にその姿が佇んでいるのが目に入った。
「拓巳くん! よく来てくれたね。こんな寒い中で待っていてくれたのかい?」
時間はもう夜の九時に差しかかろうとしている。僕は急いでごみを捨ててからそばに駆け寄った。
「すぐに気づかなくてごめんよ。さあ入って」
「他に誰かいるのか?」
「さっきまではいたけど今は僕一人だよ。最後のスタッフが帰ったから一旦、店を片付けていたんだ」
「そうか」
拓巳はホッとしたような顔をした。
その様子から彼が他人に対して強い警戒心を抱いていることを確信し、こう付け足してみた。
「今、毎日練習する研修生は僕しかいないんだ。指導してくれる先輩が火曜日と金曜日にいるだけで、他の日は八時半を過ぎると誰もいなくなっちゃう」
彼はけぶるような眼差しでじっとこちらを見ながら聞いていた。
店の中に通すと、僕はさっそく拓巳をシャンプー台に座らせた。そして髪を指先で軽く梳かしながら根元を見やり、試験の日には気づかなかったものに目を奪われた。
これは……。
髪に隠れるようにして、後頭部のややつむじ寄りのところに不自然な頭皮の様子が見てとれた。それは、お客さんの中でもたまに目にする脱毛症の跡だった。
脱毛症はストレスによって引き起こされるアレルギーの一種だ。
ストレスの原因が消えれば治るが、一度発症した箇所はしばらく髪や頭皮の様子が変わるので、慣れた目で見ればいつ頃できたのかがわかる。彼のものは多分、三ヶ月から半年ほど前だろう。
小学生が脱毛症……?
髪は健康のバロメーター、とはよく言ったもので、見方を勉強すると、その人の体調など色々なことがわかる。中でも十代前半はもっとも髪が健康でダメージにも強い時期だ。小学生の脱毛症など滅多に見かけない。
一体、どんなストレスを抱えればこんな……?
幸い、強い回復力のある年頃なので、すでにそこは新しい髪が途中まで生え揃い、特に繰り返しそうな箇所も見られない。
さらに髪を手櫛で梳かしながら、形の良い後頭部についた打ち身のような跡や、耳の後ろにある堅いものにぶつけたような傷跡を確認してから、僕はシャンプー台を倒し、その頭を洗っていったのだった。
「後頭部の打ち身は、後ろに倒れたんじゃないかと思うんだ。耳の後ろは何か、真っ直ぐな柱の角のようなところにぶつかったか、或いは……」
硬くて四角い棒のようなもので叩かれたか――?
いずれにしろ彼の生活のどこかに歪みのようなものが感じられ、とてつもなく気になった。
「ちょっと、普通じゃなさそうね……」
陽子も深刻な表情になった。手に持ったグラスが傾いて中の氷がカラリと揺れる。するとふいに背後から低く深みのある声がかかった。
「俺のことか?」
振り返ると、ダイニングの入り口を埋めるようにして黒ずくめの姿が立っていた。
「祐司」
「おかえりなさい、祐司。今日は早かったじゃない」
この井ノ上家の一人息子、従弟の祐司だ。
彼は右肩に提げていたエレキギターをドサリと下ろして部屋の隅に立てかけると、黒革のジャンパーを脱ぎ、長身を折り曲げるようにして僕の隣に座った。
「芳兄さんもおかえり」
そして二週間ぶりの僕に律儀に声をかけてから陽子が差し出した箸を手に取った。
「今夜はライブじゃなかったの?」
陽子の質問に祐司は一言、「キャンセルしてきた」と答えると、その大きな手を夕食に専念させはじめた。
陽子がため息を吐いた。
「また? 今日は何が原因?」
「向こうが約束を破った。仕方がない」
「あんたの音に文句をつけないってヤツ?」
「そうだ」
寡黙な祐司はそれ以上の説明を拒むように出されたお茶碗――家庭によってはどんぶりと表現されるかもしれない――をかきこみはじめた。
祐司は僕より三つ下の高校二年生ではあるが、すでに幾つかのプロのバンドから助っ人を頼まれるギタリストでもある。
と言えば聞こえはいいが、すらりと引き締まりながらも僕よりさらに五センチほど高い上背と、ハードボイルドに出てきそうな彫りの深い鋭角的な容貌、そして大人びて寡黙な態度が同世代のロックグループでは誤解やコミュニケーション不足を招き、はっきりいって浮きすぎて馴染めなかったのだ。
では、大人のバンドならいいかというとそうでもない。音にこだわる祐司はよく言えばストイック、悪く言えば頑固、とにかく音に口を挟まれることを嫌う。大人のバンドでも祐司のテクニックは有名らしいのに、評判を聞きつけて頼むわりには実際目にする彼が思ったより若いためなのか、最初の約束を忘れて不必要な細かい指示を出すらしい。
「約束したことをすぐに撤回するようじゃ先が見えてる」
そんな輩に対し、祐司はバッサリと切って捨てる。
かくしてすでにスカウトの話までくる実力だというのに、未だ一匹狼のごとくあちこちのライブに呼ばれては手伝うといった立場から脱却できないでいる。でも本人は妥協する気はないらしく、一向に態度は変わらない。
自分のバンドを持てば、祐司ももっと自由裁量にできると思うのだけど。
僕は祐司の姿を眺めた。
僕と祐司は顔の造作はほぼ一緒だ。けれども緩いウェーブをかけた色素の薄い髪や、目の色が明るい分、僕は柔らかく見え、硬そうな黒髪に黒い目の彼は鋭角的に見える。嘘はないが愛想のカケラもない性格に、昔から馴染んでいる僕は平気だけれど他人はそうもいかないらしい。
そのガタイで黒革の上下にリーゼント風のヘアスタイル、っていうのが同じ年頃の子たちには威圧感ありすぎるんじゃないかなぁ……。
僕はギターの横に置かれた祐司お気に入りの真っ黒な革ジャンを見やると、こっそりため息を吐いた。
「で? 何が普通じゃないんだ?」
お腹を満たして人心地がついたのか、食後のウーロン茶を一口飲んだ祐司が質問してきた。僕は先ほど陽子にした話を祐司にもかいつまんで聞かせた。
「それはまた、引っかかる家だな」
「だよね。だからどうにも放っておけなくて」
「ああ…芳兄さんは傷ついた野生動物に弱いからな」
祐司はそう言ってウーロン茶をまた一口飲んだ。僕は妙に納得してしまった。
――なるほど。それで気になるのか。
確かに、僕はよく郷里で傷を負ったハトやらキジやらを見つけると見過ごすことができず、家に連れてきては手当てをしていた。
「でも少し安心したわ」
陽子が手の中のグラステーブルに置いた。
「安心?」
「その子が気にかかるお陰で、久しぶりに雑念のない顔をしてる」
「………」
僕が目線を逸らすと、陽子はそれ以上、何も言わなかった。