灰かぶり姫の災難
−−−−ことん。
児童書が並ぶ新刊の棚に返却された絵本を、私は何気なく手に取った。
読むまでもなく、内容を諳じられるほど有名な童話。
装丁は、ガラスの靴のみ。
まだ新しいのか、傷ひとつない。
絵本を携え、午後の日差しをブラインドがやんわりと遮る窓辺の席へとついた。
今更改めて読む本でもないが、気分転換にはなるかもしれない。
それが災難の始まりだとは露知らず、私は表紙を捲ってしまった−−−−。
◇
「−−−−り!聞こえているの!灰かぶり!!」
その金切り声で、私は目を覚ました。
絵本を読んでいて、うたた寝をしてしまったのか。
しかし周囲を眺めて、私は記憶との相違に目を見張った。
埃っぽい近所の小さな図書館にいたはずなのに、私は今、黒ずんだ板敷きに倒れ込んでいる。
室内には粗末な藁の寝台のみ。
天井には蜘蛛の巣が悠々と張り巡らされ、片隅に空いた三角の穴から、太いねずみと小さなねずみが数匹顔を覗かせこちらを窺っていた。
「灰かぶり!返事をなさい!」
わめきたてる声に視線を上げると、顔面に灰色の牛乳臭い布をぶつけられた。
湿り気を帯びた布が、ぼとりと哀しい音をたてて落ちた。
私はその布を恐る恐る見下ろす。
それはどこからどう見ても、汚いぼろ雑巾。
心は拒絶しても、それ以外の何物でもないのは明らかだった。
私が雑巾の出所を睨み付けると、三人の着飾った女性たちがやや怯んだ。
だけどもっとも驚愕したのは私だ。
朱や橙のアントワネットドレスを身に纏う彼女たちは、髪を盛り、ごてごての宝石を首からぶら下げていたのだ。
うわぁ……痛い。
私の心の呟きが聞こえたのか、唇を真っ赤に塗りたくった中年女性が眦を上げた。
「薄汚い灰かぶり!私たちは舞踏会にに行って来るわ。帰って来るまでに屋敷中をぴかぴかにしておきなさい!」
中年女性と二人の、恐らく娘たちは鼻を鳴らし、ヒールを響かせ部屋を出ていった。
一人になった私は、「舞踏会………」と言葉をもらした。
私は夢でも見ているのか。
それにしては妙に現実的だ。きちんとした意識もある。
もしかしたら、明晰夢というやつかもしれない。
しかし不思議なことに、ぼろ雑巾の臭気に鼻の奥がつんとしていた。
いまいち理解しきれていないが、灰かぶりと呼ばれていたのは紛れもなく私だった。
となると、あの三人は、継母と義理の姉たちということになる。
何故なら私がさっきまで読んでいた絵本が灰かぶり姫だったからだ。
私は放置されていた木製の手桶を覗き込んだ。
水面に映る顔は寸分違うことなく私だった。
灰かぶり姫は美しい娘だ。私では荷が重すぎる。
筋書き通りに辿れば、このあと仙女やら魔法使いやら妖精やらが現れて、舞踏会へと行けるようにしてくれるはず。
王子様とダンスを踊り、十二時の鐘が鳴る前に城を飛び出し、その際にガラスの靴を忘れてくる。
後は王子様が探しに来るのを待つだけだ。
ひとまず、物語を巡ろう。
私は手始めに手桶にぼろ雑巾を浸し、この屋根裏らしき部屋の掃除に取り掛かった。
どのみち汚れるので、つぎはぎだらけの服は最適な格好かもしれない。
だが床は擦っても擦っても黒さが落ちず、窓は小さすぎて埃が逃げていかない。
灰かぶり姫って自分の部屋の掃除してなかったということなのか?
それに、屋敷中を掃除しろってことは、使用人を雇えないってことなのでは……?
私はこの絵本内における、灰かぶり姫の家の懐事情を憂いた。
切なさにため息をこぼした時、それは姿を現した。
「今晩は、灰かぶり姫。私は魔法使いの孫です」
礼儀正しく腰を折り、私へと傅くように片膝をついたのは、まさかの男の魔法使いだった。
黒いマントに、私の身の丈ほどある杖。
声や表情には、場にそぐわない妙な色気があった。
「祖母が持病の腰痛を悪化させまして、代わりに私が参りました」
魔法使いは私の手を取ると、甲に唇を寄せた。
ぞわりとして手を引くと、魔法使いは瞳の奥を煌めかせる。
「灰かぶり姫。あなたはとても、素敵です。そのままでもとても魅力的です。舞踏会へと行かずとも、良いのではありませんか?」
魔法使いの言葉に、私は唖然としてしまった。
魔法使いがシンデレラの行く手を阻むような発言をさらりとしたのだ。
物語をなぞりたい私はその提案を却下した。
「私は舞踏会に行きたいです」
魔法使いはつまらなさそうに立ち上がると、窓の外へと目を遣り、次の瞬間不適な笑みを見せた。
ぞくっとする私に、魔法使いは優しく告げる。
「まずは、畑からカボチャを取っておいで」
まともな台詞に安堵しつつ、私は畑へと向かった。
広々とした畑には、オレンジ色をしたカボチャがごろごろと転がっていた。
私はその荘厳なカボチャたちを前に愕然とした。
ジャック・オー・ランタンに使うような可愛いらしいものではなく、形の歪な巨大お化けカボチャだ。
小さいものでも、膝丈はある。
「無理。これを取って来いとか、絶対に無理だ」
私は魔法使いがこちらへと下りてきてくれないかと、屋根裏の小窓へと声を掛けた。
「魔法使いさん!下りてきてください!」
しかし、しんと静まった畑に、私の声が虚しくこだまするだけだった。
諦めて屋根裏部屋へと戻ると、魔法使いは藁の寝台に腰掛け微笑んだ。
「カボチャがないなら、馬車を用意できません。舞踏会へと行くのは止めにしませんか?」
「馬車がないなら、歩いて行きます」
私は舞踏会へと行かなくては、という余計に意識が強くなった。
魔法使いはしらけた表情をして、部屋の隅に空いた穴を眺めてから、思い直したようににこりと笑んだ。
「歩いて行かずとも、馬を使えば良いのです。そこにねずみがいるから捕まえておいで」
「無理です」
私は即答した。
ねずみなんて、触ったことがない。なのに捕まえるなんて無理に決まっている。
ハムスターならば、と私を見物しているねずみたちを睨み付けておいた。
「ほらごらん。舞踏会へと行くのは止めるべきです」
「でしたらやっぱり、歩いて行く方向でお願いします」
魔法使いは冷めた眼差しを私へと向け、それからふわりと顔をほころばせた。
「舞踏会へと行くのなら、その姿ではいけません」
私は自分を見下ろした。
つぎはきだらけの服に、裸足だ。髪は灰をかぶっている。
王子様に引かれるのは目に見えていた。
魔法使いは手桶に杖をこつりと当てると、小さな椅子へと変えた。
「ここに座って、ます髪を綺麗にしましょう」
私は言われた通りに椅子へと腰を下ろすと、魔法使いが櫛で私の髪を梳き始めた。
「魔法は使わないのですか?」
「魔法はここぞというときに使うものです」
さっき手桶を椅子にしていたような、と私は首を傾げた。
髪が一方へと流れ、魔法使いの手がふいに止まった。
怪訝に思っていると、背後から肩を抱き寄せられてうなじに柔らかいものが押し当てられた。
私は慌てて飛び上がった。
「何を……!?」
うなじを手で庇う私に、魔法使いは妖艶に微笑する。
「ただのおまじないです」
魔法使いの言葉よりも、私は自分の悪寒を信じた。
この魔法使いに、私を舞踏会へと連れて行く気はさらさらない。
だけどどうにかして、ドレスとガラスの靴を出して貰わなければならない。
「髪はもういいので、ドレスと靴をお願いします」
魔法使いは極上の笑顔で、腕を広げ言った。
「ドレスを仕立てるには、サイズを正確に計らなくてはなりません」
こつり。と魔法使いが一歩近づいてきた。私はたじろぎ、後退する。
それを数度繰り返し、私の背中は壁にぶつかり、これ以上下がれなくなってしまった。
魔法使いは恍惚として私を抱き締めようとした。
冷や汗が背筋を伝い、身震いをする。
「ドレスはいりませんから!靴だけください!」
咄嗟に叫ぶと、魔法使いは渋々私から離れ、足元に跪く。
私の片足を羽に触れるかのように持ち上げる。
そして、甲へと口づけた。
短時間に様々なことがありすぎて度胸がついたのか、もう片方の足にも同じことをされたが鳥肌を立てるだけに留めた。
すると足にひやりとする硬質な感触が。
私は足を見下ろすと、いつの間にか透明なガラスの靴を履いていた。
つぎはぎの服に不釣り合いの、美しい靴。
私に与えられたのはこの靴だけだ。
「舞踏会へと行ってきます」
「どうしても行きますか?」
魔法使いは不服そうに尋ねてきたが、私は頑として譲らなかった。
王子様とダンスがしたいわけではない。
この魔法使いの元から逃げたい一心であった。
「あなたに何かあると心配です。城までお供しましょう」
「魔法使いさんは留守番をしていてください」
「ならばトカゲを」
「無理です」
私は話を最後まで聞かずに、一刀両断した。
トカゲを捕まえる時間などない。
従者は不要だ。
「城までは森を抜けていかなければなりません。野性動物に、食べられてしまいますよ?」
魔法使いは情欲をにじませた瞳で、熱っぽく私を見つめてくる。
もはや感化出来る問題ではなくなってきた。
いっそ野性動物に食べられた方がましだ。
私はガラスの靴で屋根裏部屋を飛び出した。
森を走りながら、私は幾度も背後を窺った。
魔法使いがつけてきていないか、気が気でない。
そして何度目かに振り返った時、慣れないガラスの靴を木の根に引っ掛け躓いてしまった。
地面が近づき、目を瞑る。
だが訪れたのは痛みではなく、むしろもっと痛い魔法使いだった。
私を抱き止め、耳朶に熱い吐息をかける。
「舞踏会へ行くのは止めて、あの粗末な屋根裏部屋へと帰りませんか……?」
「帰りません!」
私は魔法使いの腕から抜け出して、城に向かって一目散に駆け出した。
ガラスの靴が片方脱げてしまったが、ひとつあれば十分だ。
死に物狂いで辿り着いた城の階段を登り始めた瞬間、無情にも十二時の鐘が鳴り響いた。
私はぐったりとその場に倒れ込み、そのまま意識を失った。
◇
ーーーーことん。
何かの音がして、私はうっそりとまぶたを開いた。
顔の下敷きになっているのは、絵本の灰かぶり姫。
やはり私は夢を見ていたのだと心底ほっとし、ページを捲った。
しかし背景はあるのに、肝心の灰かぶり姫も魔法使いも出てこない。
しかも終盤には、例の継母と王子様が楽しそうにダンスを踊る絵が描かれていて目眩がした。
夕日がブラインドの隙間から差し込み、机の上におかれた何かを煌めかす。
私は怖気を堪えて、絵本のすぐ向こうへと視線を上げた。
「−−−−!?」
そこにはガラスの靴がひとつ。
そして−−−−。
「私からは、逃げられませんよ?」
正面で肘をつき、会心の笑みを浮かべた魔法使いが尋ねた。
「まだ、舞踏会へと行きたいですか?」
私は項垂れて、とうとう降参宣言をした。
「二度と行きたくありません」
魔法使いは満足げに、杖を振ったのだった。
♢
誰もいなくなった図書館には、出しっぱなしの絵本が机の上に開かれていた。
ぱらりと捲れた最後のページ。
灰かぶり姫はガラスの靴を持った魔法使いに、追い掛けられている。
締めの一文はこうなっていた。
こうして灰かぶり姫は、魔法使いと楽しく追いかけっこをしながら幸せに暮しましたとさ。
細々とした部分は童話と違っています。
太ったねずみは馬ではなく御者ですね。
そしてドレスよりもトカゲが先です。
童話は好きです。もちろん子供向けの方ですが。




