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 泡の音が身を包む。

 生まれは弾けるそれが彼女の身を過ぎ去って上っていく。

 どこを目指すのか、どこに辿り着くのか。うたたねを閉じ込めた泡は恐怖など知らぬとでも言うように、傲慢に、大胆に、仲間を連れて先へ行く。

 ふと、唄が聞こえた。ぽつぽつぽつ、彼女の耳を叩く歌声だった。


  Little Betty Blue

  Lost her holiday shoe

  What can little Betty do?

  Give her another

  To match the other

  And then she may walk in two.


 虚くなったセイレーンが彼女を水底に落とす。底へ底へ。深淵の奥へと迷い込ませる。

 右も左もわからぬ暗闇の底で、彼女はもがく事もなく沈んでいく。

 しかし、哀れな羊子は抗わなかった。彼女は自らその道を歩んだのだ。










 おはよう、彼女が初めて聞いた言葉はそれだった。

 彼女が目蓋を上げた先にいたのは白衣の男。男は彼女の前に跪いている。少しの汚れも目立つであろう白衣はコードが入り乱れている地面を這っている。


「気分はどうだい?」


 と、問われても彼女には返す言葉を知らない。彼女は首を傾げた。濡れた髪が肩から流れる。


「ああ、そうか。君はそんな姿をしていても生まれたばかりの赤子同然だった。悪いことをした」


 男が自身の白衣を彼女に被せると、優しく抱き上げた。彼女は驚かなかった。自身に起こる何もかもを当然のことと受け入れた。


「君の名前はベティ。わかるかい? ベティだ」

「べ、てぃ……」

「うん、それでいい。もう一度言ってごらん」

「ベてィ」

「もう一度」

「ベティ」

「うん、うん。おめでとう。ベティ。君は今日生まれた。今日、この日、僕に望まれて生まれたんだ。僕は君の父でもあり、兄弟でもあり、恋人でもある。僕のことは……そうだね、レイス。レイスと呼んでくれ」


 れいす。彼女はその名前を口の中で呟いた。

 自由に動く四肢、考える脳、言葉を口にできる声帯。彼女のそれは人間のものに酷似している。それも白陶のようななめらかな肌に黒曜石を磨いたような瞳、雪原を夢想させる白い髪はどれをとっても人間の中でも一級品だった。

 しかし、彼女は人間だと見られることはないだろう。

 それは少女の側頭部を飾るにはあまりに無骨で、鋭利で、獣染みている。螺旋状に天を指す二本の逞しい角――確かに、過去に羊と呼ばれていた生き物が持っていたものに類似していた。







 レイスという男は我が子のように、妻のように、母のようにべティを愛した。それは信仰にも似た愛だった。それ以外の愛を知らぬべティもまたレイスを愛した。

 彼女の脳は赤子以上に貪欲だった。彼女が言葉を巧みに話せるようになるのに数日はかからなかった。拙くも滑らかに。彼女は確かに理解して言葉を口にしていた。

 しかし、体は一向に成長の兆しを見せず、幼子のように小柄なままだった。


 ある日、ベティがレイスの袖を引いた。培養液から排出されてから(人間の時間で言うならば)一年が経った頃だった。


「ねえ、レイス。変な音が聞こえるわ」


 その瞳からは大きな好奇心が窺えたが、レイスは年老いた自分には聞き取れない外来の音を聞き取ることがベティにはできるのだろうとそこまで大きな問題と捉えなかった。


 それからまた時は流れ、暗闇の中座り込んでいるベティの姿をレイスは見つけた。

 当初は何事かと呼びかけようとしたレイスだったが、ベティの様子が並々ならぬ様子だったのでそれは躊躇われた。

 ベティは胎児のように丸まっていた。両手は自身の頭部から生えている角に添えられており、まるでうつし世と夢との境間にいるかのようだった。それもそのはず、目を固く閉じているベティは何者かと会話しているかのような口ぶりで唇を動かしていたのだ。


「――そうなの?――いいえ、私はわからないわ――知らないの――外に出たことがないんだもの」


 ぽつりぽつりとベティは言葉を闇の中に落とす。

 身を固くしていたレイスだったが、次にベティが発した言葉に心を揺らがざるを得なかった。


「――え、連れて行ってくれるの?」


 それはレイスが意図して行ったことではなかった。

 瞬間的と言ってもいいほどに、レイスの口から怒声と見まごうほどに感情の詰まった言葉がベティに降り注いだ。


「ベティ、何をしている」


 その言葉は決して荒々しいものではなかった。だが、レイスの心中は断じて穏やかなものでもなかった。

 ぱちりとベティの白色の縁が開かれ、レイスの存在を認識した。ベティは今までにないレイスの様子に困惑した。レイスの見えざる恐怖の念がその黒曜の瞳からは見透かされているかのようだった。


「レイス?」

「誰と話していたんだ」

「どうしたの? レイスなんだかおかしいわ」

「いいから答えなさい。誰と話をしていたんだ。ここには僕と君しかいない。なのに、誰と話せるというんだ」

「し、知らない」

「知らない? 現に今君は誰かと話をしていたじゃないか」

「わからないの。私にもわからないのよレイス。頭の中で声がするの。目を瞑って、この角に触れると誰かの声がするの」

「――角?」

「ええ、初めは語りかけもせずに聞こえていただけだったの。だけれど、ふと私があなたは誰かと訊くと、彼はその言葉に応じてくれたのよ」

「彼? 男なのか?」

「そうよ。彼が自分で言っていたわ。でも声が高かった。きっと小さな男の子」

「……彼は自分がどこのだれということは言ったのか」


 ベティが次の言葉をレイスに投げると、レイスは驚愕とも恐怖ともとれぬ表情を浮かべて、じっとベティの瞳に潜む暗闇を見つめていた。




 それからまた数年が経った。ベティは初めて言葉を発したときと変わらず幼いままだったが、レイスの足腰は衰え、ベットに横になることが多くなった。

 ある時ベティが何かを抱えながらレイスの横たわるベットに駆け寄ってきた。


「レイス。レイス、これを読んで」


 ベティがレイスに差し出したのはマザーグースの詩集だった。

 レイスは骨ばった手でそれを受け取る。その表情は温和そのものだ。


「もう自分で読めるだろう?」

「いやよ。レイスがいいの。レイスが読むととても気分がいいのよ」


 ベティにとってのマザーグースの詩は子守唄と同義だ。

 ベティが言葉を学ぶのに用いたのが、そこにあるマザーグースの詩集だったからである。言葉の拙いベティにレイスはマザーグースの詩を語り聞かせたものだ。

 唇を尖らせるベティの姿を見て、レイスはにっこりと快諾した。


「しかたないね。じゃあ、そこにお座り」


 レイスが指差したのはベットの横にある丸椅子だった。ベティは首を振った。


「いやよ。レイスの膝の上がいいわ」

「ベティが乗ってしまったら、僕の膝はぽっきりと折れてしまうかもしれないよ?」

「折れないわ。だって私はとても軽いもの」

「ベティの角が僕に刺さるかもしれない」

「刺さらないわ。だって私は器用だもの」

「まったく──ほら、おいで」


 べティは小さく歓声をあげると素早くベットに足を乗せてレイスの膝の上に座った。確かに、彼女はその重厚長大な角に似合わず羽のように軽かった。


  Little Betty Blue

  Lost her holiday shoe

  What can little Betty do?

  Give her another

  To match the other

  And then she may walk in two.


 初めの頃は覚めていた目も、直に定まらなくなっていた。レイスの柔らかな声がベティの目蓋を心地よく落とす。ふわふわり。世は霧のようにうっすらとぼやけている。ベティはその小さな手でレイスの袖を引いた。


「眠いかい」


 ベティは頷いた。今や彼女の全身は、沼に浸かったかのように身動きを拒否している。自然と、彼女はレイスの膝の上に顎を置いて、膝の上で寝転がる姿勢になった。レイスが角を撫でてやれば、最初は気持ち良さそうにしていた彼女もむずがるように身震いする。ベティは彼を非難するような目で見上げた。


「レイス、撫でるだけじゃいや。研いで」

「前研いだばかりだろう?」

「また伸びたの。いいから研いで。研いでくれなきゃこれでお腹を刺してやるんだから」


 そう言って彼女が指差すのは先が丸い滑らかな角だ。勢いをつけて突進されようものなら、骨の二、三本は軽く折れてしまう。レイスは一つため息を吐いた。持っていた本を横に置くと、棚から彼女のための研ぎ木を引き出す。

 石のほうが何度も使えるものの、ベティは木で角を研ぐことを好む。感触の問題らしい。

 平らな部分で強く撫でると、ベティは快適そうに息を吐いた。レイスは角の先から根元まで細かく丁寧に磨いていく。次第に、レイスの足に圧し掛かる重量が増していった。


「ねえ……れいす……」


 今にも途切れそうなベティの声がレイスの耳に辛うじて届いた。


「なんだい?」

「声がね……きこえるの……。たくさん、たくさん泣いてる声。女の人の声が、いっぱいいるの……。その人たちがよぶのよ。ベティ、ベティって」

「ベティ、それはね、悪い夢だ。ここには僕と、君だけしかいない。他に女の人なんていないよ」

「ううん、それがね……ちがうの。……ちがうのよ、れいす」


 ――あなたも、いるのよ。そこに。








 レイスが立ち上がれなくなった。

 ベティにとってそれは悲劇ではない。彼女にとってレイスと慈しむのも介護をするのも変わらない。彼女はレイスの傍にいるだけでよかったのだ。しかし、レイスは違ったのかもしれない。レイスは眩しいものでも見るような目でベティを見つめることが多々あった。目を細めるその姿は、息を吹けばふっと消えてしまいそうで、必然的にベティの胸を痛めた。


「……ベティ。外に出られると言ったら、どうする?」


 ある時だった。唐突にレイスが掠れた声を喉から出した。

 ベティは咄嗟に答えられなかった。よもや、そのような問いが投げかけられるとは思ってもみなかった。


「……外に……?」

「君は――いや、訊くまでもなく出たいだろうな。知っているよ。君が何度も外の世界を夢想しているのを。その願いは叶う。外に、出られる」


 レイスの言葉は正しい。彼女は角から聞こえる少年の世界から、日々が過ぎる事に外への羨望の想いが強くなっている。だが、それは到底叶わないだろうと嘆息を洩らしていた。彼女は外を知らない。知らないが故に、そこには絶対的な壁が生じる。それは半透明なようで決して彼女に覗くことを許さない。触れられぬ霧のような存在だった。

 ――それを、彼は出られるといっているのだ。通過を許さない断崖絶壁を上れる手段を持っていると言っているのだ。これを高揚しないでどうしろというのだろう。


「でっ――でたいっ! 今出られる? 私やりたいことがたくさんあるの! まずは海とか、空とか、大きなものをたくさん見たいわ! それにね、」


 ベティの言葉は途中で途切れた。レイスの手が彼女の頬をなぞったのだ。


「ベティ、愛してるよ」


 ベティの手がレイスの骨のような手に重ねられる。


「私も愛してるわ、レイス」

「……君には酷いことをした」

「酷いこと?」

「僕は君を不幸にする選択をしてしまったんだ」

「私はレイスと一緒にいるだけで幸せよ」

「……僕は幸せ者だ。君にこんなにも愛されている」


 レイスの言葉は甘い菓子のようだ。ベティの中にこんなにも容易く解けていく。ひんやりとした手をベティはぎゅっと握った。


「なら、もっと幸せになるために外に出ましょう。一緒よ。一緒に行くの。歩けないなら私がレイスを背負ってあげる。だから、そんなに寂しそうな顔をしないで、レイス」

「寂しくなんかないさ。今までが満ち足りてたんだ。僕は幸せさ」

「なら、ならなぜ泣くの?」

「……すまない。僕は泣いてはいけないのに、泣いてしまう。僕がいなくなったあとの君の悲しみが苦しいから、涙が出る」


 レイスの弛んだ目尻に涙が乗っては零れていく。

 ベティにはわからない。レイスが泣くことなど何一つないのに、彼は己に何一つ訴えようともせずに孤独に涙している。


「レイス、レイスが泣く必要なんてないわ。だってレイスはいなくならないもの。私たちはずっと一緒よ、レイス。一緒に食べて、一緒に眠るの。だから一緒に外にも行くのよ」

「何もかもを一緒にいられることはないよ。僕たちは別なんだ」

「一緒よ。レイスとベティは、同じだもの」

「……ああ、わかった。君と、僕はずっと一緒だ。一緒に、外に出よう」


 ベティは嬉しくなって自然と頬を緩ませた。レイスがとん、とベティの小さな頭をレイスの肋骨の浮き出た胸に押しつけ、弱弱しい力で抱きしめる。だが、彼の体は依然とぐったりしていた。こんなに近くにいるのに、レイスが遠いもののようにベティには感じる。


「レイス?」

「外に出る前に、一つだけ告白させてくれ」

「うん」

「僕は、酷いことをした。口にできないほどに、とてもとても酷いことだ」

「うん」

「君をベティにしたのはみんなだ。だけど、それ以上に君に一番苦しい思いをさせてしまうのは、この僕だ。君は僕を許してくれるかい」

「許すも何も、レイスは私に全てを教えてくれた。あなたと話すことを、あなたと笑うことを、あなたを愛することを。レイス、あなたに罪はないわ」

「――……すまない、僕は、本当にひどいやつだ」


 レイスの言葉はわからない。彼はいったい何を苦しんでいるのだろう。

 ベティの額から感じる鼓動が弱くなっていくのを感じた。まるで子守唄のようだと、ベティは思った。眠りに落ちていくと唄は小さく聞こえて、最後には燃え尽きたように消える。それに似ていた。


「ベティ、先に外に出る準備をしてもらっていいかい……。ドアを、開けておく、だけでいい」

「私、パスワードを知らないわ。前出ようとして出られなかったもの」

「……ああ、そうだった。……そうだった。今の君は、知らないんだ。僕の部屋の、一番右奥の本棚に、一番大きな本がある。その中に、パスワードが、書いてある……」

「わかったわ。レイスも一緒に」

「……僕は、眠いんだ。眠くて、眠くてしかたない」

「じゃあ、起きたら、一緒に行きましょう?」

「…………」

「後で迎えに来るわ、待っててねレイス」


 焦点の合わない目で宙を見つめるレイスを背に、ベティは部屋を出た。

 レイスの部屋は外への出口と思われる場所のすぐ近くにある。パスワードを入力しなければ入れない部屋の一つだ。入力ワードは〝Betty〟。間違えればヒントが表示される仕様となっている。過去、ヒントとして現れたのは〝愛しい人〟だった。

 ベティは少し高い位置にあるそれに手を伸ばして入力する。電子音が鳴ると同時に扉が開かれた。部屋の中は整然としていて、一時期は書類で埋め尽くされていたのが夢のようだ。

 ベティはレイスが口にした場所に足を運んだ。ベティから見れば、十分に大きな本棚だ。その中の大きな本と言われても両手で数え切れないほどにある。ベティはその内の数冊を抜き出すと、順番に中身を調べた。

 何冊か机の上に積み重なるほどになると、小さな紙片が間から零れ落ちた。メモ書きのようだった。

 そこに書いてあるのは一言だけだ。本のタイトルと言っても良いほどに短い文字。

 〝頭の中の人〟と。



 ベティは外へ出たことがない。

 出ようとしなかったわけではない。しかし、別段外への強い願望があったわけでもない。

 ただ、彼女の角に語りかけてくる少年が話す世界を見てみたかったという、少しの興味が彼女を突き動かしたのだ。

 しかし、それは叶わなかった。外への道を阻む頑丈な壁と、それを強固にするロックがかかっていたからである。ロックを解除するにはパスワードがいる。彼女は思いつく限りのワードをそこに入力したものの、解除できた(ためし)がなかった。

 唯一の足がかりは一度間違えれば表示される文字。レイスの部屋を開けるものと同じ〝愛しい人〟だった。


 ベティは紙片を片手にレイスの部屋を出る。

 思えば、レイスの部屋に訪れたのは片手で数えられるほどだった。パスも知っている。自由に入れる。だが、ベティは何度も入ろうとは思わなかった。言葉にしないまでも、レイスから嫌がる雰囲気を感じ取れたからだろう。ベティにとって、レイスは世界に近い。この狭い世界を大きくしてくれる、たった一人の存在(かみさま)を大切にしたかった。


 少し歩くと、今まで見た扉の中でも巨大な扉が見えた。三メートルはあるであろうそれは、白色の素材で覆われている。分厚い障壁の端には、電子ロックが設置してある。

 ベティは紙片に載っている文字をそこに入力した。〝clear〟という文字が現れる。

 噴出音がして、長年働かなかった装置が動作を開始した。障壁は二つ設けてあった。手前の扉が怠慢に開かれる。漏れてきた喉に詰まるような空気に、ベティーは顔を顰めた。


『メッセージがあります。

 ――ベティ、聞こえるかい? 僕だ。レイスだ』


 女性の機械音かと思えば、レイスの声が流れた。突然のことにベティは頷くことしかできない。目が覚めたのだろうか。ならば、きっと迎えを頼むために連絡してきたに違いない。ベティは先ほどよりもよっぽど張りのあるレイスの声を耳にしたおかげか、気分が良くなった。


『……外に出るんだね。最初は息苦しいだろうけど、君ならすぐに安定した呼吸を得られるだろう。だから慌ててはならない。落ち着いて息をするんだ』

「うん」

『それと、きっと君は駄々を捏ねるだろうけど、僕を連れて行く必要はない。……不安に思わないでくれ。君は外に出なければならない。本当は、こんなところに閉じ込めていい人じゃないんだ』

「嫌。レイスが行かないなら、私行かないわ」

『僕は、人間だ。人間は外では生きられない。……外は、広い。僕らでは踏めない土も、君ならば踏める。僕たちは、君に歩んで欲しい。僕らには歩めない広い世界を知ってほしい』

「でも……」


 ――レイスがいなければ、意味がない。

 ベティは迷わず外への扉に踵を返した。レイスはベティにとって空気だった。どんなときも傍にいて、ベティを生かす存在だった。レイスは、ベティの神に等しかった。レイスのいない世界など、窒息しろと言っているも同然だ。


 しかし、ベティが戻ろうとした先には先ほどまでなかった壁が立ちふさがっていた。

 それは彼女にとって最も巨大で、初めて憎いと胸を焦がすほどの怪物だった。

 拒絶だ。

 彼は──最愛の人は──彼女を拒絶しているのだ。


「え、どうして……レイス、嫌よレイス! レイス! 帰して! 私を帰して!」


 ベティは己の帰り道を塞ぐ壁を力の限り叩いた。指を握りこんだ手は衝撃の痛みに痺れた。しかし、ベティは怒りとも悲しみとも言えぬその感情をぶつけるしかなかった。窒息したくなかったから、ベティは暴れた。二つ目の障壁が開こうとしている頃には、ベティは金属でできた足場に崩れ落ちていた。いっそのこと、このまま足元が崩れ落ちて真っ暗闇に落ちてしまえばいいとさえ思った。


『ベティ、これは僕の贖罪だ。僕は――いや、僕たちはやってはならないことをしてしまった』

「しらない……」

『僕は君を浚ってきた。彼女たちの最後の娘である君をこんな檻のような場所に閉じ込めて、何も知らせず、何も見せず、育ててきた。それで彼らと君が隔絶できたと信じていたんだ。……それでいいと思っていた。だけど、違かった』

「しらない」

『君が、声が聞こえるのだと言い出したことで、僕は己の間違いを突きつけられた。君は忘れてなんていなかった。僕たちは忘れてはいけなかったんだ』

「しらないッ! 私のしらない話をしないで! 私は、私はここにいたのに、いたかったのに、どうして放すの……! どうして私を拒絶するのっ! レイスッ!」


 空気が変わる。こことは異なる空気が、ここの空気を奪おうと流れ込む。

 砂の混じった風が彼女の長い髪を嬲った。鉄が混じったにおいが鼻につく。喉元にしがみつくようなそれに吐き気を覚えた。


『君は外に出なければならない』

「私は――私は、レイスのいない世界になんてでたくない……」


 角先が壁を削った。それは、ほんの少しのかすり傷しかできなかった。







 ベティは外にいた。外は広大な空、見渡せないほどの大地、その上に立地する崩れた建物で溢れ返っている。

 彼女の思っていた以上に外は広かった。だがそれは、穿たれた胸の穴を一層広げるようなものだった。


 1歩歩めば、足の裏を極小の石が存在を主張する。息を吸えば大空に自分が吐き出される。肌を撫でるのは荒野を飛び交う風。それは黄ばんでいた。


 全て見渡せた。

 本の中にあったような木々はなかった。たくさんの動物もいなかった。

 ──いなかった。


 奥に。きっと、奥にならば、とべティは歩を進めていた。

 しかし、どこを見ても、どこを踏んでも、削り取られたような荒野のみ。

 ──いなかった。


 点々と跡を残している建物の中も覗いた。腐った床。軋む柱。砂埃に犯されたのか、とても人が住んでいるとは思えぬものだった。

 ──いなかった。


 人間は──いなかった。



 べティは足を止められなかった。止めてはならなかった。彼女は止めたくはなかった。今この瞬間にも首を絞められ喘いでいる己の苦汁を認めてはいけなかった。止めれば、彼女は二度と目を開くことも足を動かすことも諦めてしまうに違いなかったからだ。

 夜になれば角に触れた。震える体を静めようと身を縮めた。待っている時間が恐ろしかった。


『どうしたの?』


 少年の声だった。角に囁きかけてくる唯一の希望だ。

 安堵の息を吐いたべティはようやく頬を綻ばせた。この時、この瞬間だけベティは自分が生きていることを知ることができた。


「今、一人なの。フェルドは?」


 己の声だ。語りかける者がいる。そしてそれを聞く者がいる。私は呼吸している。遠いどこかで、ベティは自分という存在を伝えている。


『僕は今家族でバーベキュー。どう? 僕の家着きそう?』

「ちょっと難しいわ。今、どのあたりにいるのかもわからないから」

『現地の人たちと言葉は通じる?』

「ううん。相変わらず何を言ってるかわからないわ。でも、とても親切よ。さっきも色々教えてくれたの」

『そっかぁ。でも、それならいつか会えるね。楽しみにしてる』


 ベティは呼吸を一間置くと、小さく「うん」とだけ答えた。

 言葉を幾つか交わし、彼との会話を終わらせると、寝屋にしている建物の壁を角先で削った。

 頭の中の彼の名前はフェルド。会話を続けてわかったことだ。

 ベティは彼に嘘を吐いていた。人と会ったという紛れもない事実無根の空想の話だ。

 なぜ嘘を吐いてしまったのか、それは咄嗟のことだったとしか言えない。嘘を言えば、それは事実になるような気がした。事実を伝えれば、それは変えることのできない真実になってしまう気がしたのだ。

 縁の腐った窓から見上げる外には、本の中にある満天の星はない。誰かがかすめ取り、何も残っていない空しかなかった。

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