表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

氷室邸の怪奇

氷室邸に纏わる噂

作者: 梨乃 二朱

 行方不明となった赤羽静香の運命を知る者としては、世間一般の危機感の無さにはほとほと呆れ返ってしまう。

 赤羽静香は行方不明となったのではなく、ある凄惨な事件に巻き込まれ、誰にも悟られぬまま十七年と二ヶ月の若い生命を散らしたのだ。


 県立拘神産業高校商業科に通う静香は、地元でも有名な不良だった。

 まだ二年だというのに、警察に幾度となく補導され、停学処分も何度となく食らっていた。それでも尚、退学にならないのは、親が権力者であり学校に圧力を掛けているからというのが、専らの噂だった。


 そんな静香にも悩みはあったようで、よく悪友の男子生徒に両親の悪口を溢しては家に帰りたくないと漏らしていた。

 実際、家に帰っていなかったようで、友人宅を転々とする日々を送っていたようだ。しかし、行く先々で住人と問題を起こしていたようで、一つの場所で三日以上長続きした事は少なかったらしい。


 ある日、とうとう行く宛の無くなってしまった静香は、化学科のある男子生徒を脅した。

 その男子生徒は高校生でありながら、古びた豪邸で一人暮らしをしている生徒だった。それと同時に、世にも奇妙な実験を繰り返し行っているという暗い噂も絶えない生徒である。しかしそんな噂とは裏腹に、気性は穏やかな好青年で、暴力とは無縁といった今時の少年でもあった。


 名前を氷室斗真と言って、容姿端麗、頭脳明晰の優等生だ。静香にとっては、これ以上に無い獲物であった。

 静香がどうやって斗真を脅したのかは、後に彼が肋骨の骨折を訴えていた事から想像には難くなかった。


 その日の内に、静香は拘神市から電車で二十分下った南西の隣市、比婆市の北部、山間部にひっそりと佇む洋館に泊まり込む事となった。

 周囲を山に囲まれた洋館には、常に暗い噂が付きまとって比婆市の人間のみならず拘神市でも意味嫌われていたが、静香には関係の無い事のようだった。


「お帰りなさいませ、斗真様。おや? そちらの方は?」


 静香にとって意外だったのは、氷室邸に召し使いが居たことだった。

 歳は十代後半程の少女で、肌の色が褐色をしている事と顔立ちもあって明らかに日本人では無かった。メイド服を着込んだ少女は艶の良い黒い髪を肩口で切り揃え、無感情な猫のような金色の鋭い瞳が静香を睨み据えた。

 その冷徹なまでの眼差しに、両親の威光で周囲を黙らす事をしてきたおかげで、怖いものは無く滅多な事では気圧される事の無い静香が、全身に突き刺さるような殺気を感じ取り狼狽した。


「同級生の赤羽さん。暫く、うちに居候することになったんだ。――赤羽さん、こちらはうちでメイドとして働いているノア・アジールさん」


 ノア・アジールと呼ばれる異国の少女は、厳かに頭を垂れた。

 静香はメイドに苦手意識を感じ、斗真の尻を蹴り上げて部屋に案内するように促した。


 通された部屋は、広大な屋敷の離れだった。

 塵一つ落ちていないフローリングの洋室には、ベッド等の家具に加えてシャワーやトイレも完備されていた。


「この部屋を好きに使って良いよ。何か欲しい物があったら、ノアに言い付けて」


 運ばせた荷物を適当な場所に置きながら、斗真は簡単に説明する。

 豪邸に住んでいると聞いていた静香だが、これは予想外だった。ほぼ高級ホテルの一室と言っても過言ではない部屋に、これから自由に住まうことが出来ると思うだけで心が踊った。


「それから、これだけは守って。夜、何があっても部屋から出ないこと。どうしても出なければならない用がある場合は、そこの壁に掛けてある電話でノアに言付けて」


 入り口付近の壁に掛けられた白い受話器を差して、斗真がいつにない厳しい口調で言った。

 静香は空返事で答え、さっさと出ていかせた。


 夜に出るな、なんて子供じゃあるまいし、何より静香は命令されることが大嫌いだった。

 斗真の言い付けなど、端から守る気など無かったのだった。











 暫くは部屋でごろごろしていた静香だが、徐々に退屈してきた事もあって、屋敷の中を歩き回っていた。

 まだ夜でも無いので、部屋を出ても文句は言われ無いだろう。文句を言われたところで、斗真のような雑魚は怒鳴り付ければ黙らせる事が出来る。そんな屁理屈をもとに、屋敷を勝手に物色していた。

 けど、あのノアとかいうメイドは苦手だったから、見付からないよう慎重になっていた。


 何か面白いものが無いかと邸内を回ってみたが、期待外れだった。

 どの部屋の扉もしっかり施錠され、押しても引いてもびくともしなかった。使っていない部屋は鍵を掛けているようだった。扉には世にも奇妙な装飾が施されており、それは一室毎に微妙な違いがあったが、静香の興味には留まらなかった。

 詰まらない、と毒づきながら廊下を歩いていると、不意に一匹の黒猫がT字となった廊下の角から現れた。


 毛並みの綺麗な黒猫で、瞳は金色をして鋭い眼光を携えていた。どこかあの異国のメイドに似た瞳をした黒猫は、まだ子猫なのか、よく見掛ける野良猫に比べて一回りか二回りほど小さかった。

 黒猫は静香を睨み付けると、曲がってきた角を戻って行った。


 静香は無意識にその黒猫を追い掛けていた。

 角を曲がった先は、直ぐに突き当たりとなっていて、壁には他と同じく木製の茶色く装飾の施された扉があった。その扉は丁度、猫一匹が通れる程の隙間が開いており、施錠されていない事が分かった。

 そしてその隙間から、少女のものであろう声が漏れ出ていた。それは日本語ではなく、英語でも無ければ何処か知らない国の言語だった。


 静香は扉に近寄り、僅かに開いた隙間から中を覗き見た。

 先ず、静香の目に飛び込んで来たのは、褐色肌のメイドだった。メイドは天蓋付きのベッドに腰掛ける少年に向かって、何事かを訴えている。


 このメイドと少年が、ノア・アジールと氷室斗真であるということは言うまでも無いだろう。

 ノアは語調から何かに憤慨しているようで、斗真がそれを宥めているようだった。


 その内、ピタリと会話が止まったかと思うと、静香の目の前で思わず息を呑むような出来事が起こった。

 ノアが何の前触れも無くメイド服を脱いだのだ。褐色の背中が静香の前に露になり、流れるようなしなやかな体捌きで斗真の膝の上に飛び乗ったのだった。


 二人は唇を重ねると、熱く濃厚に舌を絡ませ水の跳ねるような音を静まり返った部屋に響かせた。

 静香はその様子を見守っていた。いや、見入っていたと言うべきか。


 まさか自分が蔑んでいた少年が、使用人とこんな事をしているなんて、夢にも思わなかった。それに何より、静香という客人が居るにも関わらず、無防備に扉を開け放ち行為に及ぶとは、些か大胆過ぎだ。

 二人は見る見る内に熱を上げて行き、遂にはベッドに倒れ込んだ所でようやく静香は目を離す事が出来た。

 それからは扉の隙間から、汚水の跳ねるような連続した音と、ノアのものであろう喘ぎ声が響いていた。











 思わぬ逢い引きを目撃してしまった静香は、火照る体を冷ますように中庭に逃げた。

 邸内に居れば、嫌でも二人の濡れ場が耳に入って、あの艶の良い褐色の背中と、それをなぞるように淫らに動く五指が脳裏に思い浮かんでしまうのだ。背中の向こうで斗真が行う羞恥な行為も、見ていないのに想像してしまって、下腹部辺りから沸き上がる熱情に体が発熱してしまっていた。


 まさか二人が、そんな関係にあるとは……。

 二人がどの国の言葉で何を話していたのか分からないし、ましてやそのような行為に至る経緯も想像する他に無い。

 けど、やはり年頃の男女が一つ屋根の下に暮らしているならば、そういう関係になっても可笑しくは無いのかも知れない。いや、もしかすると、あのノアというメイドは、斗真の夜伽を担当しているのでは無いのか、とも考えてしまった。


 中庭は綺麗に手入れされていた。

 コの字型に中庭を囲う洋館から伸びる石畳を挟む芝生も、そこに生える植木も、定期的に人の手が加えられているようで見ているに心地好かった。


 不意に静香は、中庭の噴水に水が入っていない事に気付いた。

 水が抜かれてかなり歳月が過ぎているようで、風化の度合いが著しい。落ち葉が入り込んだり、所々にはひび割れも見られる。

 この整然とした中庭には、不釣り合いだと思った。


 しかし、噴水機の頂点に飾られた石像は、異様に手入れされており、欠けた所一つどころか、劣化した形跡すら無い。

 その石像というのが、全長三十センチメートル程の、何かの神話に出てくるような悪魔のような姿をしていた。


 片膝を着く人間のような胴体から蝙蝠のような翼を伸ばし、腕と足はやけに太く大きく、掌は指の間に膜があって蛙のようであった。顔は蛸のようで、最初は髭と思ったが、それにしては太く波打っており、どうやら蛇か触手のようであり、地面に着くほどの長さをしていた。

 全体的な印象は、悪魔であった。またはキメラのような合成獣だ。


 これが何かは静香には想像も付かなかったが、悪趣味である事はよく分かった。

 まるで悪魔崇拝にでも利用される石像に悪態を吐くと、静香は中庭を後にした。











 夕食の準備が出来たと声を掛けられた静香は、ノアに導かれるがままにリビングへ足を運んだ。

 ノアは昼間の情事を静香が目撃した事を知らないのか、相変わらず無感情と無表情を崩さなかった。静香も敢えて言及しなかった。出来ればこのメイドとは、何も話したく無いと言う事もあったからだ。


 案内されたリビングは最早、リビングとは思えなかった。

 片側二十人は座れるであろう長テーブルには白いテーブルクロスが掛けられており、その一番端には厳かに夕食を口に運ぶ洋館の若き主の姿があった。


 静香はノアに促され、斗真の対面に腰を落ち着かせた。しかし、あまりに広いリビングに、気持ちの方は全く落ち着いていなかった。

 静香の前に運ばれてきた食事は、少なからず両親に連れられて贅沢を経験した静香でさえも目を見張ってしまうような、豪勢極まりない物だった。


「全てノアの手作りだ。彼女は料理が得意なんだよ」


 主人に褒められたことが嬉しかったのか、僅かに頬を赤らめたノアは厳粛に頭を垂れた。

 それにしてもこの料理を見る限りでは、得意とかそんな次元のレベルでは無いように思った。これは最早、一流レストランで働ける腕前だ。


「冷めてしまわない内に、食べた方が良いよ」


 斗真に促されるまま、静香は何の動物か分からないローストされた肉を口にした。

 料理は見た目も去ることながら、味も格別に美味だった。こんな料理は、生まれてこの方、食べたことが無かった


 食事は特に会話も無いまま進んだ。

 礼儀正しく上品に食す斗真とは対称的に、礼儀も何も無い粗野に音を立てて料理を頬張って行く静香。ノアは常に斗真の傍で控えており、時おり彼の口元に付いたソースを拭き取ったりしていた。


「改めて言っとくけど、夜中は絶対に部屋から出ないようにね? 何があっても、こっちが呼び掛けるまで絶対に」


 食事を終えた静香が部屋に引き返そうとした時、斗真が念を押すように言い付けた。

 静香は空返事を返して部屋に戻ったが、斗真もノアも彼女が約束を守らない事には薄々感付いていた。故に斗真は、ノアに一つ頼み事をしたのだが、結局それは何の効果も発揮しなかった。











 静閑な夜の冷気を引き裂くような悲鳴が氷室邸に轟いたのは、館内の部屋の扉を全て開け放つ役目を終えたノアが、斗真の部屋に訪れた丁度その時だった。

 声の主は、他でも無い赤羽静香だ。悲鳴はよりにもよって、中庭から聞こえたように思え、斗真はノアと顔を見合わせた。彼女もこれには驚いているようで、目を見開き鍵の束を必死に握り締めていた。


 あの愚かな居候は、やはり斗真の言い付けを守らず部屋の外へ出たようだった。

 恐らくは窓から抜け出したのだろう。夕食後、ノアに頼み離れの鍵は全て施錠しておくよう手配した。離れの扉は全て外からでしか鍵を掛けられない為、中からはぶち破らない限りは開かないようになっている。


 しかし、窓は中から鍵の開閉が可能で、しかも悪いことに離れは一階しかまともに使えない為、抜け出すのは簡単だったろう。

 それでも再度、洋館の中へ入らなければ概ね問題は無いのだが、どうやら赤羽静香は中庭に足を運んでしまったらしい。あそこは唯一、外を動き回れるだけの力を持つ“彼女”の出入口だ。たまにしか出ない“彼女”は、よりにもよってこの日に出てしまったらしい。


 斗真はベッドの下に常に備えている猟銃を引き出すと、慌てて窓に飛び付いた。が、それから先の行動はノアに止められた。

 彼女はその華奢な体からは想像も絶する力を持ってして、窓から外へ出ようとする斗真をベッドに押し倒した。


「何をする!?」


「それはこちらの台詞です。そんな玩具で何をするつもりですか?」


 猫のような鋭い眼光を帯びた金色の瞳が、斗真を睨む。


「その猟銃は人間の世界を行き交う生き物には有効ですが、我々には豆鉄砲も同然。忘れたわけでは無いでしょう? 我々が何かを――――」


 ノアの詰問に言葉を無くす斗真。

 そんな斗真の耳に、二度目の悲鳴と助けを求める声が響いた。

 そしていつもと同じく、狂ったような甲高い縦笛の音と陰鬱な太鼓からなる悪夢のようなメロディーが邸内に流れ始めた。


「彼女は手遅れです。諦めて下さい。全ては彼女自身が招いた結果です。貴方が気を病む必要はありません」











 翌日、赤羽静香はこの世界から忽然と姿を消していた。

 彼女の代わりに氷室邸の食卓に現れたのは、黒髪を腰まで伸ばしセル縁の眼鏡を掛けた美女だった。黒いスーツの上に白衣を羽織っている姿から察しが付くように、その女性は学者で、拘神大学民族学部の助教授である。

 名前を志乃森輪廻と言い、氷室斗真とは協力関係にある。


「珍しくお客さんが居たようね? この館に人を呼ぶのは止めるよう、忠告しておいた筈だけど?」


 赤羽静香が食べる筈だった朝食を、見るも豪快に食べていく志乃森助教授。

 最近の女性は、食事のマナーを気にしないのだろうかと、斗真は小さく首を傾げた。


「反省してるよ。まぁ、彼女は世間では鼻摘み者だったみたいだから、適当に取り繕えそうだけどね。行方不明になっても、悲しむ人は居ないんじゃ無いかな? 悲しい事に」


「そうなの? まぁ、私はいつもと違う新鮮な食材を手に入れる事が出来たんだけど。あの娘が餌になってくれたお陰で、レストランの看板メニューが久々に出せるわ」


 不適に笑う志乃森助教授は、「支払いはいつもの口座に振り込んどくわね」と言ってヨーグルトをまるで飲むように数秒の内に食べきった。

 こんな食に無頓着そうな人でも、拘神市小羽町に店舗を構える高級レストラン『Mnemosyne』のオーナーだ。料理には拘りが強い。


「ねぇ、それより最近、質が落ちてきてる気がするわ? ちゃんと鮮度を保ってくれてないかしら?」


「はぁ、そうですかね? まぁ、最近は実験の結果が芳しくありませんからね。やはり、扉は毎度新しく作り直すべきと、結果から学んだ次第です」


「そんな報告はどうでも良いわ。貴方に望むことは、食材の提供だけよ。――――本当は、こっちの子猫ちゃんが欲しいのだけどね?」


 不意に食後のコーヒーを運んで来たノアを指差し、値踏みするような目付きになる志乃森助教授。

 するとノアは「ご生憎様」と斗真の肩に手を乗せる。


「私を美味しく戴いて良いのは、世界広しと言えど斗真様ただお一人です」


 そんな恥ずかしい台詞に頬が熱くなるのを感じる斗真を他所に、「あら? お熱いこと」とからかうように笑う志乃森助教授だった。










 こうして赤羽静香の存在は忘れ去られる事となる。

 斗真の予測した通り、彼女が消えて悲しむ人間はほとんど居らず、実の両親でさえ、彼女の失踪を喜ぶ始末であった。


 氷室邸の暗い噂は、相変わらず周囲の街を恐怖させていた。

 その噂とは、毎夜邸内をこの世ならざる者が徘徊し、縦笛を吹いては太鼓を打ち鳴らし、陰鬱なメロディーに合わせて踊り狂うという内容だった。

 それは若き主人、氷室斗真の実験の結果、呼び出された者であり、彼はそれが外に出ないよう見張っていて、更に彼の傍らにはいつも異国の黒猫が付き纏い、彼の逃亡を阻止しているのだという。


 数年が経った頃、氷室斗真は親族のみで厳かな結婚式を挙げる事となる。

 その相手は、遥かエジプトの地より日本を訪れた褐色肌の女というのだが、その妻の姿を見た者は誰もいないそうだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ