続く
結局レポートについては僕の後輩を呼んで採点を手伝わせる事にして、色々な難題を全て置き去りに僕達は和倉葉山に向かう事になった。問題はバスすら通っていない非常な田舎のため、足の確保をしなければならない、ということだけだったが、これは意外な形で解決した。
「私の車で行きましょう」
教授がそう言った時、僕は多分人生で五番目くらいの驚きを覚えたと思う。
「車なんて持ってたんですか」
「正解です」
「……免許は」
「持っていないとでも?」
多分これが人生で四番目くらいの驚きだった。
そういう事なので、僕は高をくくっていたのだった。僕も免許は持っているが、教授の車なら流石に彼女が運転するだろうし大丈夫だろう、と。まあ、この段階で「だろう」が続いている事に気づくべきだったのかも知れない。
田上の訪問から三日後、出発当日の朝に大学の前で待っていた僕は、驚きを通り越して呆れた。
教授が車体をがくがくさせながら乗ってきたのは、そこそこの大きさで妙に丸く、生まれ方を間違えたカタツムリみたいなスタイルの、黒くて古い車だった。
「……何ですか、これ」
「車です」
教授はいつものソフト帽をちょっと傾け、微笑んだ。
「正式名称はシトロエン2CVですね」
外車か。
いや、それは問題ではない。彼女がドアを開けて運転席から降りて、てくてくとフロントを回り込み、助手席のドアを開けて、澄まし顔でそこに収まったのが問題だ。
「教授」
「はい」
「これ、僕が運転するんですか」
「正解です」
僕は答える前に、運転席をちらりと見た。シフトレバーらしきものやエアバッグなどついている様には見えない細いハンドル、ちゃんと動いているか怪しい、くすんだ計器類。
「……分かりました」
そう答えるしかあるまい。
結論から言うと、道中で事故は起こさなかった。褒めて欲しい。
教授曰く「祖父の代から乗っている」というベテラン(という事にする)で、極たまに運転するらしい。
「車は動かさないと壊れる、と言われたものですから」
教授は涼しげにそう宣ったが、エアコンなんて存在しない車内は熱くて仕方ない上、初めて乗る(当たり前だ)車なのでいまいち感覚が掴めない。
それでも教授よりはマシだったろう。ギアの変え方を聞いた時の彼女の顔は、いつもより楽しげだった。
「不明です。感覚で覚えて下さい」
僕じゃなかったら怒っていたと思う。
まあ、何とかなったからいい。もう過ぎた事だ。帰りも乗らなくてはいけないのだが、そんな事は今考えたくない。
これで高速道路なんて狂気の沙汰に侵入したら間違いなくまずい事になる、と直感したので、一般道をのんびり行く羽目になった。結果、朝早くに出たにも関わらず、和倉葉山の麓に着いたのは夕方だった。
さらに間の悪い事に、シトロエンは疲労の限界に来たのか、先に村に来ていた田上に迎えられる為、村の入り口に停まったら動かなくなった。彼は凄く微妙な顔で、このベテラン車の古いエンジンに悪戦苦闘する僕とオーナーであるにも関わらず全く手を出さずに煙草を吹かす教授を見ていたが、やがて申し訳無さそうに顔を突き出してきた。
「あの、あまり遅くなっても山を登れないのですし、僕の車もあるので、ここに置いていってはどうです? 修理ならまた明日でも」
一理あったので、僕は教授の簡単な荷物の入ったスーツケースと僕の荷物である小型のボストンバッグを抱え、ようやく生の和倉葉山を見上げた。
夕闇で一層濃くなった緑の集合体、その上の方に、確かに存在した。
枯れた色の一点。
病葉の呪い。
山の上までは農道が通っていて、田上が運転するミニバンで進む事になった。
「一応、お二人が来る事は伝えておいたのですが」
「聞いてもらえたんですか」
助手席の僕が尋ねると、彼は苦笑した。
「手紙を書いて、玄関から滑り込ませておきました。気づいてなかったらすいません」
割と適当な伝言である。まあ、アポイントメントを取らないよりはましだろう。
田上の興味は、後部座席の窓から景色を眺める教授に移った。
「で、何かお考えはあるんですか?」
「不正解です」
即答した教授は、バックミラーの中でぽかんとする田上に微笑みかける。
「実際に見聞しない限りは判断がつきません。百聞は一見に如かず、です。覚えておいて下さい」
「は、はあ」
田上は神妙に頷いた。ちょっと同情する。
ミニバンは山道をうねりながら登っていった。途中に畑がいくつか見えるが、確かに青々しく、とても昔はひどかった、という雰囲気は無い。
すると、脇の畑に生えたトウモロコシの間から、老人がひょこりと顔を出して手を振った。田上が車を停めると、彼はよろよろと寄ってきた。
「おう、田上さんとこの倅か」
「こんばんは。ああ、こちらは村長の畠山さんです」
紹介された村長は、ぼろぼろの麦わら帽子をひょいと取って、後部座席の教授と助手席の僕に軽くお辞儀した。
「じゃあ、あんたらがあれか、山井葉様んとこの」
「あちらがそうです」
僕が後部の教授を指すと、彼女は微笑んで帽子を取った。
「初めまして」
挨拶された村長は目をぱちくりさせていた。教授は言動こそおかしいが、美人なのだ。
「はあ、いやはや、別嬪さんだねぇ」
教授は特に答えず、微笑むだけだった。
彼が道の脇に下がって、車はまた発進する。
サイドミラーを見やると、村長はじっと立ってこちらを見ていた。
山道はまた少し細くなり、やたらと暗くなってきた。陽が落ちたのもあるが、どうもそれだけではない。木が多いのだ。
「ここらへんから、風葉さんが貸し付けていない土地です。彼女は畑をやってないので」
田上が説明する。
「……そろそろです」
彼が呟く様に言うと、確かに風景がおかしくなってきた。
まず、色が変わってきた。密度と言ったらいいのか、木々の間から夜空が見えるような、かすれたような景色が視界に広がっている。
それから、音が変わった。
かさかさ、かさかさ。
軽くて乾いていて、寂しい。夏にふさわしくない音だ。窓の外を見やるだけで、その理由ははっきり分かる。枯れ葉が、風に乗って飛んでいるのだ。
別に量が多いというわけではない。ただ、夏にあるべき「生気」の無さがひたすらに不気味だ。
バックミラーに目をやると、教授も外を眺めているのが分かった。恐ろしいほど静かな世界の中で、教授は変わらず微笑んでいる。それも、あるいは不気味なのかも知れない。
結局誰も喋らないまま、車はがたがたと進んだ。
数分走ると、ヘッドライトの光の中に白いものが見えた。どうやら、白塗りの土塀らしい。田上は土塀の前で車を停めると、小さく息をついた。
「ここが、和倉葉旅館です」
それなりに立派な門の向こうに、木造平屋の小さな建物があった。あまり旅館には見えないが、まあ、それはそれか。
「……すいませんが、僕はここで」
田上はぽつりと言って、すまなそうに顔を伏せた。
「結構です。予定通り、明日お伺いします」
教授は簡潔に言って、後部座席のドアを開けると外に降り立った。
僕も田上に礼を言い、荷物と共に車を降りる。薄く積もった枯れ葉が踏みしめられ、がさり、と音を立てた。田上は門の前で車を反転させ、のろのろと山道を下っていった。
僕と教授は、揃って門を見上げる。特に看板があるわけではなかったが、やはり門構えというのは気持ちが入るものだ。
「教授」
「何でしょう」
「行きますか」
「正解です」
僕達は、門をくぐった。
一瞬で、息が詰まる。
何だろう、湿気とは違う。瘴気とでもいうべきか。
空気が重いのだ。
肌にまとわりついてくるような、妙な感覚。
そして、地面には大量の落ち葉が堆積している。建物の周りにあるのは、裸の木ばかりだ。
しかし、空気はやっぱり夏で、じっとりと温い。
恐ろしいほどの違和感で、思わず足がすくんでしまった。
「行きますよ」
僕の先にいる教授が、立ち止まってこちらを振り向いていた。
重い空気の中でも、やはり微笑んでいる。ある意味こっちの方が恐ろしい。
教授のスーツケースと僕のボストンバッグを抱え直して頷くと、彼女はくるりと前を向いて歩き始める。
旅館は真っ暗だった。生気の無い周囲に吸われているかの様に、全くと言っていいほど人の気配は無い。だが、この中に教授の大叔母上がいるはずだ。いるはず、なのだが。
ふと「教授の大叔母上」の事を考える。どんな人だろう。教授は会った事が無い、と言っていたから、彼女も知らないはずだ。
こんな所に一人で住んでいる、というのだから何となく小柄で陰気な老婆を想像してしまう。しかも「呪い」に関係しているというのだから、余計だ。ちょっと怖い。
そうこうしているうちに、玄関に辿り着く。呼び鈴などは無い。教授は、何のためらいも無く引き戸を開け放った。まるで数年は使っていなかったかのような大きな音が、空虚な空間にこだまする。
土間になった玄関の先は、長い廊下になっていた。正面から見たら民家程度の小さい家だったが、どうやら奥に長いらしい。
そして、暗い。電灯の明かりは点いていないし、スイッチの位置も分からない。そして、何より暗い。
「ごめんください!」
教授が一向に動く気配がないので叫んでみる。が、当然反応は……。
す。
最初は小さな音だった。
す、す。
薄暗い廊下の奥から、小さく音がする。それが足音だと気づくのに、少しかかった。
長い廊下の先からゆっくりと、音が近づいて来る。
すっ、すっ。
僕はそれに釘付けになっている。
木の床が軋む音は、少しずつ大きくなる。
ずっ、ずっ。
僕が生唾を飲み込んだのとほぼ同時に、黒いモノがふっと現れて、思わず咽せて咳き込んでしまった。
「いらっしゃい」
優しげな、儚い声が振って来る。
玄関の土間で呆然と突っ立つ僕と、表情の変わらない教授。
その前に現れたのは。
「大きくなったね」
やたらと背筋の伸びた、細い体躯。
黒い半袖のシャツに、黒のロングスカート。
そして、長い黒髪。
「上がって頂戴」
色が抜けてしまったかの如く白い顔。
シャツの袖から伸びる白い腕。
何故か、白い足袋を履いている。
「そちらの方は?」
彼女は僕に向かって微笑んだ。
「六条寺華一郎です」
条件反射的に名乗るが、首より下が動かない。
「初めまして、山井葉風葉です」
彼女はゆっくりと会釈した。長い前髪がその動きで流れて、奥にある瞳が青い事が分かった。
その顔。
その顔は。
まるで、否、まるっきり、和倉葉朽葉だった。
彼女と、同じ顔をしていた。




