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第3話「Garden in Bloom」

正式リリース当日の朝、真冬は五時半に目が覚めた。


アラームは六時にセットしてあったから、三十分早い。にもかかわらず、二度寝する気配は微塵もなかった。天井を見つめる赤い瞳は、すでに完全に覚醒していた。


布団を跳ね除け、洗面所へ。顔を洗い、化粧水、日焼け止め。いつもの手順を丁寧になぞる。鏡の中の自分を見る。白い睫毛。赤い瞳。寝不足の気配はない。昨夜は興奮しながらも十一時には寝た。


髪にブラシを通す。今日の髪型は決めてある。


昨日の帰り道、大学近くの雑貨屋で見つけた桜色のリボン。百円ショップではなく、ちゃんとした店で選んだ。サテン地で、光を受けるとほんのり艶めく。幅は一センチほど。目立ちすぎず、でも確かにそこにある程度の存在感。


白い髪を左耳の後ろで編み込み、その編み目の終点にリボンを結ぶ。右側はそのまま流す。左右非対称のスタイル。編み込みの中に桜色がちらりと覗くのを鏡で確認して、真冬は満足げに息を吐いた。


——誰にも見えない。VCだから。画面越しには映らない。


それでもいい。自分が知っていればいい。今日、自分の髪に桜色がある。それだけで。


「やまびこ、おはよう」


ケージの遮光カバーを外すと、やまびこは既に目を開けていた。真冬が早く動いた気配で起きたのだろう。


「オハヨ」


「今日はね——特別な日」


「トクベツ」


「うん。春が来るの」


「ハル」


朝食を食べ、やまびこの餌を替え、大学へ向かった。午前中の講義はひとつだけ。英米文学特殊講義。今日のテーマはジェイン・オースティンの書簡体小説——手紙のやり取りで物語が進む形式について。


手紙。テキストのやり取り。


教授が語る十八世紀の手紙文化と、自分がここ二ヶ月で経験したチャットやDMでのコミュニケーションが、不思議と重なって聞こえた。文字だけで伝わるもの。文字だけでは伝わらないもの。行間に込められた感情。返事が来るまでの時間の長さ。


ノートの端に、また小さなエルフの耳を描いていた。


講義が終わったのが十一時半。学食に寄らず、まっすぐ帰路に就いた。自転車を漕ぐ速度が、いつもより速い。空は薄曇りで、一月の風はまだ冷たかったが、ペダルを踏む足は軽かった。


帰宅。十二時十分。サーバー開放まで五時間五十分。


やまびこに昼のおやつを渡し、ケージの掃除をする。部屋全体も軽く掃除した。掃除機をかけ、デスクを拭き、モニターの画面をクリーニングクロスで磨く。きれいな環境で、きれいなゲームを始めたい。


昼食は簡単に済ませた。冷凍のカレーピラフをレンジで温め、インスタントの味噌汁をつける。食べながらSNSを確認すると、タイムラインはPHANTASM GARDENの正式リリースの話題で埋め尽くされていた。


『いよいよ今日だああああ』


『仕事中だけど心ここにあらず』


『有給取ったワイ、高みの見物』


『ファンガデ鯖1で待ってます! ギルメン募集中!』


その中にハゲニキの投稿があった。


『ハゲニキ @hageniki_game

本日正式リリース! ギルド「ひだまりの苗床」始動や! メンバーは4人の精鋭(ハゲ1名・デブ1名・妹1名・天才1名)やで! サーバー1で暴れるから覚悟しとけ! 筋肉は裏切らない! 』


精鋭。天才。


真冬は「天才」の部分を見て、小さく唇を噛んだ。悪意のない呼称。褒め言葉。分かっている。でも——分かっているから、今日は笑って流せた。ハゲニキが言う「天才」には、あの異名のような棘がない。


ひよりんのアカウントにも投稿が上がっていた。


『ひよりん @hiyorin_games

正式リリース日です!!! 有給使いました!!! 後悔はしていません!!! 今日からまた、あの庭園に帰れるんだ……  噴水広場でみんなを待ってます。春が来た ✨』


春が来た。


あの言葉を覚えてくれている。真冬が「長い冬」と書き、ひよりんが「春が来るまで」と返し、真冬が「春が来るね」と重ねた——あの一連のやり取りの延長線上にある言葉。


いいねを押した。


午後二時。PCを起動し、ランチャーを開く。クライアントは最新版に更新済み。ドライバも確認済み。回線速度も問題なし。


午後三時。Discordを開き、「ひだまりの苗床」のテキストチャンネルに入る。


『ハゲニキ:あと三時間やで 長かったなあこの二ヶ月……CBT以来やと思うとめっちゃ感慨深いわ』


『ピザデブ:拙者はこの日のために生きてきたでござる ピザも十枚備蓄してあるでござる 戦の準備は万端でござる』


『ひよりん:ピザ十枚は備蓄じゃなくて兵糧攻めだよ……w 私はお菓子とコーヒーとおにぎり準備しました! まっしろさんは? 』


『まっしろさん:冷凍おにぎりとバナナとチョコレート。あとココア』


『ひよりん:ココア! クリスマスのときもココア飲んでたよね。好きなの?☺』


覚えている。クリスマスイブのVCで飲んでいたことを。


『まっしろさん:好き。冬はココアが多い』


『ひよりん:今度おすすめのココア教えてね! 』


何気ないやり取り。でもその一つ一つが、二ヶ月前にはなかった繋がりだった。


午後四時半。VCに全員が集まった。


「おー! 全員集合! 今日この日を待っとったで!」


ハゲニキの声が響く。いつにも増してテンションが高い。


「拙者もう正座して待機してたでござる。足が痺れてるでござる」


「体勢変えなよピザデブさん……w」


「まっしろさん、聞こえてる?」


「聞こえてる。——みんな、おつかれ。待ったね」


「待ったよー! 長い冬だったー!」


ひよりんの声が弾んでいる。


午後五時半。ランチャーの「PLAY」ボタンが灰色から緑に変わった。CBTのときと同じだ。


「あと三十分……」


「ソワソワするでござる……」


「落ち着け落ち着け。筋肉に力入れて深呼吸や」


「それ筋トレ」


午後五時五十五分。


「あと五分!」


「五分!」


午後五時五十九分。


真冬は画面を見つめ、マウスに手を置いた。心臓の鼓動が耳の奥で聞こえる。


午後六時——。


ログイン。サーバー1「エデンの庭」。


キャラクタークリエイト画面が開いた。


CBTのデータは引き継がれない。もう一度、最初から作り直す。でも——今度は迷わなかった。二ヶ月間、頭の中で何度もシミュレーションしてきた。CBTのときに気になった微調整点は全てメモしてある。


種族:エルフ。


体型を小柄に寄せる。身長は最低値。肩幅を狭め、手足を細くする。華奢なシルエット。


顔。目を少し大きめに——ほんの0.3だけ、CBTより広げた。鼻は変えない。唇も変えない。顎のラインを0.2だけ丸くした。より柔らかい印象にしたかった。


瞳の色。赤。クリムゾンレッドの深い赤——ここもCBTと同じ値を入れる。光彩パターン、瞳孔周りのオレンジ。


髪型。ロングストレート。背中の中程まで。前髪は眉にかかるくらい——ここでひとつ、変更を加えた。左耳の横に一房だけ、短い編み込みを追加できるオプションがあった。CBTでは気づかなかった。


追加した。


髪色。白。CBTよりほんの少しだけ青みを落とした。より純粋な、混じりけのない白。毛先のグラデーションは銀ではなく、うっすらと桜色にした。


——桜色。


やりすぎだろうか。自分のキャラクターに、ひよりんの色を入れるのは。


でも、毛先の本当にわずかな部分だ。気づく人は少ないだろう。自分だけが知っている——いや、ひよりんが気づいたら。


気づいてほしいのか。ほしくないのか。


どちらとも判断がつかないまま、真冬はそのまま決定した。


エルフの耳。長さ最大。角度をやや下向き。先端の尖り具合をCBTと同じに。


シェーダー設定。リムライト効果を強めに——逆光で髪の輪郭が光るように。


できた。白い髪のエルフが、画面の中に佇んでいる。赤い瞳。小柄な体。左耳の横に小さな編み込み。毛先に——春の色。


「まっしろさんキャラクリ終わった?」


ひよりんの声がVCから飛んできた。


「今終わった。一時間かかった」


「一時間!? ワイ十五分で終わったぞ!」


「拙者は五分でござった。前と同じでござるから」


「私は三十分かけたよ。まっしろさんほどじゃないけど、こだわりたいとこあって」


「ひよりんも桜色?」


「うん! また桜色の髪にしたよ☺ 会ったら見せるね!」


初期武器は双剣。キャラクター名は「まっしろさん」。全て確認して、決定。


オープニングムービーが流れる。CBTと同じ——花弁の洪水、ナレーション、丘の上に立つ。眼下の花畑。朝焼けの空。


二ヶ月ぶりの、あの景色。


「——帰ってきた」


小さく呟いた。VCのマイクが拾って、ひよりんが応えた。


「おかえり、まっしろさん」


喉の奥がじんと熱くなった。


チュートリアルを駆け抜け、最初の街「アルブレヒトの門前町」に到着する。噴水広場。石畳。猫のマスコットキャラクター。CBTと変わらない景色に、正式リリースの人波が加わって、広場は賑わっていた。


白い髪のエルフが広場に立つと、程なくして桜色の髪が視界に飛び込んできた。


ひよりんのキャラクターが走ってくる。小柄な人間族の女性。杖を背負い——CBTのときと同じ基本的なシルエットだが、衣装が違う。初期装備のデザインが正式版では変更されていて、白を基調とした僧侶風のローブを纏っている。桜色の髪がそのローブの上で揺れている。


その後ろから、スキンヘッドの巨漢と、さらに大柄な巨漢が走ってくる。ハゲニキとピザデブ。この二人のビジュアルはCBTから一切変わっていない。潔い。


パーティを組んだ。四人のHPバーが画面左上に並ぶ。


「よっしゃ! 「ひだまりの苗床」正式始動や! ギルド申請どこでやるんやったっけ……」


「街の西側にギルド管理NPCがいるはずでござる。公式サイトに書いてあったでござるよ」


「さすがピザデブ、情報収集は早いな」


「ニートの面目躍如でござる」


四人でギルド管理NPCの元へ向かい、ギルド「ひだまりの苗床」を正式に設立した。ギルドマスターはハゲニキ。ギルドエンブレムの設定画面が開くと、ハゲニキが唸った。


「エンブレムどうする? まっしろさんネーミングセンスあるやん エンブレムもセンスあるやろ?」


「エンブレムはデザインだからネーミングとは違う……」


「まあまあ、案があったら教えてくれや」


真冬はエンブレムのパーツを眺めた。盾の形、背景色、シンボルマーク、装飾。


背景色を白にした。シンボルマークは——花。選択肢の中から、蕾のアイコンを選んだ。まだ咲いていない花。苗床だから。これから咲く。蕾の色は桜色に設定した。


白い背景に、桜色の蕾。


「おー ええやん! シンプルで品がある!」


「蕾……いいですね、苗床っぽい! まだこれから咲くんだよね。素敵 」


ひよりんの声が柔らかい。


「なんか白とピンクで……百合っぽいでござるな……(ゴクリ)」


「ピザデブ、何言っとんねん」


「な、なんでもないでござる! 素敵なエンブレムでござる! 賛成!」


エンブレムが確定した。「ひだまりの苗床」の旗印——白地に桜色の蕾。


正式リリース初日から、四人の活動は精力的だった。


メインストーリーを進めつつ、フィールドのモンスターを狩り、装備を整え、レベルを上げる。CBTの経験があるから効率は良いが、正式版ではCBTになかった新エリアや新クエストが大量に追加されていて、新鮮な発見が尽きなかった。


真冬はCBTと同じく双剣の操作精度を追い込んだ。シフトスラッシュのタイミング、回避のフレーム——正式版ではCBTから微調整が入っていて、無敵フレームが一フレーム短くなっていた。体が覚えたタイミングを更新する必要がある。


フィールドで雑魚敵と戦いながら、その一フレームの差を体に叩き込む。百回、二百回と回避を繰り返し、新しいタイミングを筋肉に記憶させる。


「まっしろさん、ずっと同じ敵と戦ってるけど……何してるの?」


ひよりんが不思議そうに聞いた。


「回避のフレーム調整。CBTから一フレーム短くなってる。体に覚え直させてる」


「一フレーム……。そこまで分かるの……」


「分かる。体が覚えてるから」


「すごいなあ……。私には真似できない。一フレームなんて誤差じゃないの?」


「誤差じゃない。一フレームで生死が分かれる」


「……かっこいい」


VCで聞こえるように言われると、恥ずかしい。真冬はマイクをミュートにして頬を手で押さえた。温かい。赤くなっている。


二日目には、CBTでクリアした「腐蝕の温室」に再び四人で挑んだ。


レベルも装備もCBTの時より整っている上に、全員がボスの行動パターンを知っている。腐華の女王は、前回の苦戦が嘘のようにあっさりと崩れ落ちた。クリアタイムは十四分。CBTの半分以下。


「速すぎん!?」


「まっしろさんの火力がCBTの倍くらいあるでござるよ……」


「私ほとんど回復する暇なかった。誰もダメージ受けてないんだもん……w」


「ハゲニキが上手くなったからだよ。タンクが安定してるとDPSが伸びる」


「ワイか!? ワイ褒められとる!? 筋肉の成果やな!」


「筋肉関係ないでしょ兄さん……」


その夜、全体チャットに流れた。


『【サーバー告知】ダンジョン「腐蝕の温室」のファーストクリアが達成されました! 達成者:ギルド「ひだまりの苗床」おめでとうございます!』


今度はソロではなく、ギルド名での達成。真冬の個人名ではなく、四人の名前が載る。


全体チャットが騒ぎ始めた。


『ひだまりの苗床って何? 聞いたことない』


『メンバー見たらまっしろさんいるぞ あのCBTのファーストクリアの』


『白い悪魔のギルドか 強いわけだ』


『ギルド名かわいいな 中身ヤバいけど』


ひよりんが全体チャットの反応を見ていたらしく、VCで静かに言った。


「まっしろさん。全体チャット見てる?」


「……見てない」


嘘だった。見ていた。「白い悪魔のギルド」という文字列が目に入っていた。でも——今日は、それだけでは胸が痛まなかった。


隣に、ひよりんがいるから。


「見なくていいよ。私たちは私たちのペースでやろう」


「うん」


「筋肉のペースでやるで」


「筋肉は黙っといて兄さん」


正式リリースから一週間。


ギルド「ひだまりの苗床」は、サーバー1のトップギルドとして名前を知られるようになっていた。真冬のプレイヤーネームの知名度もあるが、四人パーティという少数精鋭で次々とファーストクリアを叩き出すスタイルが話題を呼んだ。


匿名掲示板にもスレッドが立った。


『【ファンガデ】ひだまりの苗床とかいう化け物ギルドwww【サーバー1】』


『1: 名無しの冒険者

四人ギルドでファーストクリア連発ってなんなんだよ

中身がまっしろさん(白い悪魔)って時点でお察しだけど他の三人もヤバいだろ

ひよりんとかいうヒーラー、PT壊滅しそうな場面で一人も落とさないのすごくね?


2: 名無しの冒険者

ハゲニキとピザデブはなんJ板でよく見る名前だな

あの二人面白いけどプレイもちゃんとしてるんだよな


3: 名無しの冒険者

ギルド名かわいくて中身ヤバいの好き


4: 名無しの冒険者

まっしろさんのプレイ動画見たけどカウンターのタイミングが人間離れしてる

CBTの時もソロファーストクリア取ってたし化け物や


5: 名無しの冒険者

白い悪魔の新しいホームか

他のゲームでもこの人だけ異次元だったもんな

ひだまりの苗床の他のメンバーは生きた心地しないだろ一緒にいて


6: 名無しの冒険者


5

それな

周りが凡人に見える呪いかけてるだろあの人』


真冬はそのスレッドを、大学からの帰り道に信号待ちで読んだ。スマートフォンの画面を見つめたまま、信号が青に変わっても気づかなかった。後ろから自転車のベルが鳴って、慌ててペダルを踏んだ。


『他のメンバーは生きた心地しないだろ一緒にいて』


『周りが凡人に見える呪いかけてるだろ』


悪意がないことは分かる。書いた人は、ただの感想を書いているだけだ。まっしろさんは強い、周りとの差がすごい、と言っているだけだ。


でも——ハゲニキは。ピザデブは。ひよりんは。


「凡人」なんかじゃない。


ハゲニキのタンクは堅実で、パーティを支える柱だ。ピザデブの弓は正確で、遠距離からの火力支援は欠かせない。ひよりんの回復は——あのヒールがなければ、真冬がどれだけ火力を出しても意味がない。四人で一つなのだ。


帰宅して、やまびこの世話をしながら、ずっと考えていた。


自分がいることで、仲間が正当に評価されない。自分の名前が大きすぎて、周りが霞む。それは——自分が望んだことではない。


VCが始まる時間になっても、真冬はデスクの前に座ったまま動かなかった。Discordを開いているが、ボイスチャンネルに入室していない。画面に表示された「談話室」のチャンネル名を、赤い瞳でじっと見つめている。


テキストチャンネルにメッセージが入った。


『ひよりん:まっしろさん、今日のVC来る? もし体調悪かったら休んでいいからね☺』


体調は悪くない。気持ちが——重い。


『まっしろさん:少し遅れます。先に始めててください』


送信してから椅子を立ち、やまびこのケージの前にしゃがみ込んだ。やまびこが首をかしげてこちらを見ている。


「やまびこ」


「ナニ」


「……甘えていい?」


「イイ」


ケージの扉を開けると、やまびこは肩ではなく、しゃがんだ真冬の膝の上に降りてきた。灰色の羽毛の塊が、膝の上でふわりと丸くなる。温かい。体温が高い鳥は、抱えているだけで暖房器具のようだ。


真冬は膝の上のやまびこを両手で包み、額を俯けた。白い髪がさらりと落ちて、やまびこの灰色の背中に被さる。


「私ね、強すぎるのかもしれない」


「ツヨイ」


「強いと、周りの人が小さく見えるって言われる。本当はそんなことないのに」


「ソンナコトナイ」


やまびこの否定形は、真冬が教えた言葉だ。でも、今はまるで慰めてくれているように聞こえた。


五分ほどそうしていた。やまびこの体温と、規則的な呼吸のリズムに、少しずつ心が凪いでいく。


立ち上がった。やまびこを肩に乗せ替え、デスクに戻る。VCに入室した。


「——遅れてごめんなさい」


「おー まっしろさん! 大丈夫か?」


「大丈夫。少しぼんやりしてた」


「無理しないでね」


ひよりんの声。柔らかい。


今日の話題はレイドボスの攻略計画だった。推奨八人パーティの高難易度コンテンツ「深淵の花壇」。四人ギルドの「ひだまりの苗床」だけでは人数が足りない。


「他のギルドと合同でやるか、野良で四人募集するか、どっちかやな」


「合同の方がいいでござるな。事前に打ち合わせできるでござるし」


「どこかいいギルドないかなあ……」


「候補はあるで。サーバー1の大手ギルド『鉄壁騎士団』のギルマスとワイ、別ゲーで知り合いやねん。声かけてみるわ」


ハゲニキの人脈の広さが光る。前のゲームでもギルドマスターをしていたという話は聞いていたが、他のゲームのプレイヤーとの繋がりも持っているのか。


「まっしろさんはどう思う?」


ひよりんが意見を求めてきた。


「……ハゲニキに任せる。人付き合いは得意じゃないから」


「了解やで。ワイが窓口やるわ。まっしろさんは本番で暴れてくれればええ」


暴れる。


その言い方に、匿名掲示板の「化け物」という言葉が被さって——でも、ハゲニキの「暴れてくれ」には、信頼しか込められていなかった。そのことが分かるから、胸の奥が温かくなった。


「……ありがとう」


「何がや?」


「なんでもない」


「まっしろさん、ときどき急にありがとう言うよね。不思議ちゃんやな」


「拙者もそう思ってたでござる。でもそこがまっしろさんの良いところでござるな」


「……不思議ちゃんって言わないで」


「あ、ごめんごめん」


笑い声。温かい空気。


VCが終わった後、���よりんから個別のDMが来た。


『今日、遅れてきたとき……何かあった? 無理に話さなくていいけど、気になって。まっしろさんの声がいつもよりちょっと元気なかったから……』


声だけで気づくのか、この人は。


真冬は少し迷ってから、正直に返した。


『匿名掲示板を見てしまった。私がいると周りが凡人に見える、みたいなことが書いてあった。ハゲニキやピザデブやひよりんのことを、凡人なんて言われるのが嫌だった』


送信してから、自分のメッセージを読み返した。重い。こんな重い話をDMで送りつけるのは迷惑ではないか。


返信は五分後に届いた。いつもの即レスより遅い。考えて打ってくれたのだろう。


『まっしろさんが怒ってるの、自分のためじゃなくて私たちのためなの……? 自分が化け物って言われたことじゃなくて、私たちが凡人って言われたことに怒ってるの……?』


言われてみれば——そうだった。「化け物」や「白い悪魔」と言われること自体より、仲間が貶められたことの方が、刺さったのだ。


『……そうかもしれない。気づいてなかった』


『まっしろさん。ありがとう。怒ってくれて。でもね、私たちは気にしてないよ。兄さんもピザデブさんも、匿名掲示板で何言われても「それ草」で済ませるタイプだからw そして私も。だって私たちは、まっしろさんと一緒にいることを自分で選んだんだから。凡人に見えるとか、化け物の隣にいるとか、そんなの関係ないよ。一緒にいたいからいるの。シンプルでしょ?☺』


一緒にいたいからいる。


シンプル。この人の言葉は、いつもシンプルだ。複雑に考えすぎる自分に、まっすぐな線を引いてくれる。


『ありがとう。少し楽になった。……ひよりんの言葉、効く』


『私の言葉が効くっていうのは、まっしろさんが聞いてくれるからだよ。一方通行じゃないの。ちゃんと届いてるから、届けたくなるの 』


一方通行じゃない。


真冬はスマートフォンを胸に押し当てて、目を閉じた。


——好き。


もう認めていた。認めてしまっていた。この人のことが、好きだ。声が好き。言葉が好き。気遣いが好き。笑い方が好き。怒り方が好き。桜色の髪が好き。


好きだ。


認めたところで、何が変わるわけでもない。相手は画面の向こうにいる。顔も知らない。年齢も知らない。住んでいる場所も知らない。声とテキストしか知らない。


それでも——好きだ。


「やまびこ」


ケージの中のやまびこが「ナニ」と返す。


「私、好きな人ができた」


「スキナヒト」


「……画面の向こうの人」


「ガメン」


やまびこには何も分からないだろう。でも声に出すと、胸の中で曖昧だったものが輪郭を持った気がした。


正式リリースから二週間が経った頃、ゲーム内で事件が起きた。


ギルド「ひだまりの苗床」がまたひとつファーストクリアを叩き出した翌日のことだった。全体チャットに、見知らぬプレイヤーからの発言が流れた。


『まっしろさんってマジで白い悪魔だよな まわりの雑魚に介護されてるのに自分だけ美味しいとこ持ってく あのギルドのヒーラーかわいそう ずっと回復奴隷じゃん』


真冬は画面の前で呼吸が止まった。


回復奴隷。ひよりんを——回復奴隷。


怒りが腹の底から突き上げてきた。テキストチャットの入力欄に手が伸びる——反論しようとした。でも、指が震えて文字が打てない。


「まっしろさん、見た?」


VCにハゲニキの声が流れた。冷静だった。いつもの陽気さが消えて、落ち着いた低い声。


「見た」


「無視でええ。反応したら相手の思うツボや。こういうのはスルーが一番や」


「でも——ひよりんのことを」


「分かっとる。ワイも腹立っとる。でもな、全体チャットで喧嘩しても意味あらへん。通報して、ブロックして、終わりや」


ピザデブも落ち着いた声で言った。


「まっしろさん、拙者もこういうのは何度も経験してるでござる。ネトゲにはどうしてもこの手の輩がおるでござるよ。相手にしないのが一番でござる」


二人とも、古参のネットゲーマーだ。この手のトラブルは慣れている。冷静な対処が体に染みついている。


「ひよりんは——」


「私は大丈夫」


ひよりんの声がVCに入った。穏やかだった。


「全体チャット見たけど、大丈夫。気にしてないよ。こういうの昔から何回もあったし。ネットあるあるだよね。……まっしろさんの方こそ大丈夫? あんなこと書かれて」


「私のことはいい。ひよりんが回復奴隷なんて——そんなの絶対に」


「分かってるよ。まっしろさんは私をそんな風に思ってないって、分かってる。だから大丈夫」


ひよりんの声は揺るがなかった。強い。この人は、外見の柔らかさからは想像できないほど、芯が強い。


でも——。


ほんの一瞬、ひよりんの呼吸が乱れたのを、真冬は聞き逃さなかった。


気にしてないと言いながら、傷ついている。慣れていると言いながら、痛みを感じている。


真冬は全体チャットを閉じ、ウィスパーでひよりんにだけメッセージを送った。


『まっしろさん >> ひよりん

泣いていいよ。VCのマイクミュートにして、泣いていい。ハゲニキとピザデブには聞こえないから。私にだけ聞かせて』


数秒後、ひよりんがVCのマイクをミュートにした。ミュートのアイコンが点灯する。ハゲニキとピザデブは気づかない——いや、気づいていても何も言わなかった。


テキストチャットにひよりんからのウィスパーが返ってきた。


『ひよりん >> まっしろさん

……ちょっとだけ泣く。ごめん。すぐ戻る』


『まっしろさん >> ひよりん

ごめんなさいって言わなくていい。待ってる』


二分ほど経って、ひよりんのミュートが解除された。


「お待たせ。ごめんね、ちょっと水飲んでた」


声は少しだけ鼻にかかっていた。泣いた後の声。でもすぐに、いつもの明るいトーンに戻った。


「さ、気を取り直して今日の分のデイリークエスト回ろう! まだ三つ残ってるし!」


「せやな! 切り替えていくで! 筋肉は裏切らないし、ワイらの絆も裏切らんで!」


「いいこと言うでござるなハゲニキ。今夜は拙者が奢るでござる。何をとは言わんが」


「ピザか?」


「ピザでござる」


笑い声がVCに戻った。


真冬は黙って、その笑い声を聞いていた。そして、ゲーム内のテキストチャットに——全体チャットではなく、パーティチャットに——一行だけ打った。


『まっしろさん:ひよりんは奴隷なんかじゃない。私の大事な——仲間だから』


パーティチャットだから、四人にしか見えない。


VCで、ひよりんが小さく「うん」と言った。


「ありがとう、まっしろさん」


その声が少し震えていたのは、きっとまだ泣きたかったからだ。


その夜、VCが終わった後。


ひよりんから個別のDMが届いた。


『まっしろさん。今日はありがとう。泣いていいよって言ってくれたこと。待っててくれたこと。あのひと言で、すごく楽になった。


正直、慣れてるって言ったけど、慣れてなんかいないの。何回言われても、嫌なものは嫌だよ。でも、ネトゲやってたらこういうことあるの分かってるから、飲み込むしかないって思ってた。だけどまっしろさんが怒ってくれた。私のために怒ってくれた。それがすごく嬉しかった。


……まっしろさんって不思議な人だよね。自分が悪魔って呼ばれるのは我慢するのに、私が傷つけられるのには怒る。自分のことより他人のことを先に考える人。でもそれって、自分のことを後回しにしてるってことだよね。


まっしろさんのこと、もっと知りたいな。ゲームの中のまっしろさんだけじゃなくて、画面の向こうにいるまっしろさんのことも。


……重いかな。ごめんね。忘れて。おやすみなさい 』


真冬はそのDMを三回読んだ。


画面の向こうにいるまっしろさん。


それは——アルビノで、白い髪で、赤い瞳で、小柄で、大学生で、やまびこと暮らしていて、髪の手入れが好きで、甘えん坊で、臆病で、ゲームが上手くて、ひよりんのことが好きな——自分。


画面の向こうの自分を知りたいと、この人は言っている。


『忘れないよ。重くない。私も、ひよりんのこともっと知りたい。……おやすみなさい』


送信してから、自分の文面を見つめた。もう一行、追加した。


『いつか——顔を見せ合えたらいいね』


送って、スマートフォンを枕の下に突っ込んだ。


心臓が喉の奥まで跳ね上がっている。何を言っているんだ自分は。顔を見せ合う。つまりビデオ通話か、あるいは——オフ会。リアルで会う。


アルビノの自分を見せる。白い髪を。白い睫毛を。赤い瞳を。色素のない肌を。


それを——ひよりんに。


枕の下からスマートフォンが振動した。返信が来ている。手を伸ばしたくない。怖い。でも伸ばした。


『いいね。いつか。楽しみにしてるね  おやすみ、まっしろさん。大好きだよ(仲間として!)☺』


大好きだよ(仲間として!)。


括弧つき。仲間として。


あの夜——自分が言った「大事だと思ってる。仲間として」のオマージュか。意識しているのか無意識なのか。


括弧の中の四文字が、括弧がなければどうなるのか——考えてはいけない方向に思考が走り出す。


真冬はスマートフォンを枕の下に戻し、布団を頭まで被った。


「大好き」の三文字が、暗闇の中でネオンサインのように明滅していた。


二月に入った。


PHANTASM GARDENのサーバー1「エデンの庭」には、大量のプレイヤーが押し寄せ、経済圏が形成され、ギルド間の競争が激化していた。ランキングシステムが実装され、個人ランキング、ギルドランキング、ダンジョンタイムアタックランキングが設置された。


真冬——「まっしろさん」は、個人ランキングで堂々の一位に立っていた。


ダンジョンタイムアタックでは複数のダンジョンで世界記録を保持し、PvPコンテンツが実装されるとアリーナランキングでも一位。他のプレイヤーとの差は圧倒的で、二位との間に大きな溝があった。


SNSやゲーム系メディアでも取り上げられるようになった。


『【ファンガデ】世界ランク1位「まっしろさん」が異次元すぎる件について』


『新作MMO「PHANTASM GARDEN」にて、発売三週間で全コンテンツのワールドレコードを更新し続けるプレイヤーが話題に。過去にも複数のゲームで世界記録を保持していた「白い悪魔」の異名を持つプレイヤーで——』


記事を読むのは途中でやめた。「白い悪魔」の四文字が見えた時点でブラウザを閉じた。


「注目されるのは避けられないね」


VCでひよりんが言った。静かな声。


「うん。分かってた」


「まっしろさんのプレイが凄すぎるから。でも——大丈夫?」


「大丈夫。慣れた——」


言いかけて、やめた。ひよりんの言葉が蘇ったからだ。


『慣れたって言うの、やめない? 慣れたっていうのは、痛くなくなったんじゃなくて、痛いのに我慢できるようになっただけでしょ』


「……大丈夫じゃない、かもしれない。でも、逃げたくない」


「うん。逃げなくていい。でもしんどくなったら言ってね。私、いつでも聞くから」


「……ありがとう」


ハゲニキが口を挟んだ。


「まっしろさん、ワイもおるで。愚痴でも何でも聞くわ。ワイの筋肉は聞き上手や」


「筋肉に耳はないでござるよハゲニキ……。でも拙者も同じ気持ちでござる。まっしろさんは一人じゃないでござるからな」


一人じゃない。


CBTの前の自分は、一人だった。ゲームの中でも外でも。やまびこは一緒にいてくれたが、人間の仲間はいなかった。


今は四人だ。五人——やまびこを数えれば。


「……みんな、ありがとう。——あと、報告がある」


「報告?」


「ダンジョン『深淵の花壇』のレイドボス、ソロで倒した」


VCが爆発した。


「は!? ソロ!? あれ八人推奨やぞ!?」


「ファッ!? 正気でござるか!?」


「えっ!? いつ!?」


「さっき。みんなが寝てる間に」


「何時やねん!」


「午前四時」


「あさよん……」


「レイドボスの行動パターンを全部覚えたかったから、ソロで検証してたらそのまま倒してしまった」


「倒してしまったって……。検証のついでにレイドボスをソロ撃破するの、まっしろさん以外に聞いたことないでござるよ」


「タイムは?」


「一時間十二分」


「八人推奨を一人で一時間十二分……。ちなみにウチらが前にクリアしたのが四十分だっけ? 八人で」


「人数倍やのに時間は半分以上かかってないのヤバすぎやろ……」


真冬はこの報告をした理由がある。検証結果を共有したかったのだ。


「ボスの行動パターンを全部記録した。フェーズごとの攻撃頻度、安全地帯、DPSチェックのタイミング。ドキュメントにまとめたからギルドの共有フォルダに上げておく」


「まっしろさん……それ個人で全部やったのか……」


「うん。みんなが次に行くときに楽になるように」


沈黙が落ちた。ひよりんの声が、小さく震えた。


「……まっしろさん。あのね」


「なに」


「ソロでレイドボス倒すのもすごいけど。その後に攻略情報をまとめて共有してくれるのが——」


声が詰まった。


「——すごくまっしろさんらしくて。嬉しい」


「……私は自分のためにやっただけ。みんなで回すとき楽だから」


「それが優しいって言ってるの」


「優しくない。効率的なだけ」


「効率のためだけなら共有しなくていいでしょ。自分だけ知ってればいいでしょ。それをみんなに共有するのは——優しさだよ」


反論できなかった。


「……ありがとう」


「こちらこそ。いつもありがとう、まっしろさん」


二月中旬のある夜。


VCでの雑談中、ひよりんが何気なく言った。


「あーあ。ゲームの中で会えるのは嬉しいけど、リアルでも会ってみたいなあ」


真冬の心臓が一拍飛んだ。


「オフ会ってこと?」


ハゲニキが食いついた。


「うーん……オフ会っていうと大げさだけど。みんなでごはん食べるとか。……あ、でもまっしろさんが嫌だったら全然いいんだけど! 私が言いたいだけだから!」


「ワイは賛成やで。ネトゲ仲間とリアルで会うのは何回もやっとるし。ピザデブとは前のゲームのときに一回会ったことあるやろ?」


「あるでござる。拙者の巨体を見たハゲニキが『お前マジでピザデブやな』と言ったでござる。そのままでござった」


「ハンドルネームに偽りなしやったな」


「ワイもやろ」


「……ハゲニキもそのままだったでござるな」


二人の会話を聞きながら、真冬は黙っていた。


リアルで会う。顔を見せる。自分の——アルビノの顔を。白い髪を。白い睫毛を。赤い瞳を。


ゲームの中の白い髪のエルフではない。現実の、色素を持たない自分を。


怖い。


怖いけれど——いつかは越えなければならない壁だと、どこかで分かっていた。ひよりんが「画面の向こうのまっしろさんを知りたい」と言ってくれたあの夜から、この瞬間はいつか来ると思っていた。


「……いいよ」


静かに言った。


VCが一瞬沈黙した。


「え——いいの? まっしろさん」


ひよりんの声が、驚きと喜びが混ざったトーンで跳ねた。


「うん。会いたい。みんなに」


言ってしまった。撤回したい気持ちと、言えて良かったという気持ちが半々で胸の中で渦巻いている。


「よっしゃー! オフ会やるで! 場所はどこがええかな!」


ハゲニキが即座に動き出す。


「都内がいいでござるな。拙者都内在住でござるし」


「ワイとひよりも都内やで。まっしろさんは?」


「……都内です。大学が都内だから」


「ほな都内で決まりやな! 日程は——みんなの都合ええ日を合わせよう」


とんとん拍子で話が進んでいく。真冬はその速度に少し眩暈がした。


VCが終わった後、ひよりんからDMが来た。


『まっしろさん。オフ会OKしてくれてありがとう。正直、断られると思ってた。……すごく嬉しい。


でもね、無理はしないでね。もし当日になって行きたくなくなったら、キャンセルしていいから。私は待ってるけど、強制はしない。まっしろさんのペースでいいから 』


真冬は返信を打った。


『ありがとう。正直、怖い。でも会いたい。ひよりんに。……みんなに。


ひとつだけ——お願いがある。会ったとき、私の見た目で驚かないでほしい。ゲームの中の白い髪は、ファンタジーじゃなくて……現実の私も白い髪なの。理由は、会ったときに話す。今はそれだけ知っていてほしい』


送信ボタンを押す指が震えた。


アルビノだとは書かなかった。でも、白い髪だとは伝えた。予告なしに会って驚かれるよりは——心の準備をしてほしかった。


返信は、いつもより長い時間をおいて届いた。十分。ひよりんの返信としては異例の遅さだった。


『まっしろさん。教えてくれてありがとう。驚かないって約束は、正直できない。だって初めて会うんだもん、どんな見た目でもきっと驚く。


でもね。嫌な意味で驚くことは絶対にないよ。それだけは約束できる。


まっしろさんが白い髪を好きだって、ずっと聞いてきたよね。ゲームの中でもSNSのアイコンでも、いつも白い髪。それがまっしろさん自身の髪の色なんだって聞いて——正直、嬉しかった。ゲームの中のまっしろさんと、現実のまっしろさんが繋がった気がして。


会うの楽しみ。すごく。まっしろさんの白い髪、見てみたいな 


おやすみなさい。大好きだよ(仲間として!)☺』


大好きだよ(仲間として!)。


二回目の括弧つき。


真冬は布団の中で丸くなり、スマートフォンを胸に抱いた。涙が一筋、白い頬を伝った。


嬉しかった。怖かった。両方が同時にあった。


やまびこの寝息がかすかに聞こえる。暖房の音。時計の秒針。十一時を回った二月の夜。


涙を手の甲で拭い、スマートフォンを枕元に置いた。


『ありがとう。おやすみなさい。——大好き(仲間として)』


括弧をつけた。つけなかった場合の自分を想像して、心臓が破裂しそうになったからだ。


オフ会の日程は二月最後の土曜日に決まった。


場所は都内のカフェ。ハゲニキが選んだ店で、個室があって静かな雰囲気だという。「女性が入りやすいとこにしたで」とハゲニキが気を遣ってくれた。


あと十日。


真冬はその十日間、普段以上に髪の手入れに力を入れた。トリートメントを二段階にし、ドライヤーの温度を下げ、ヘアオイルの量を微調整する。爪も切り揃え、肌の保湿も念入りにした。


やまびこが不思議そうに見ている。


「気合い入ってるね」


「キアイ」


「……うん。大事な日があるから」


「ダイジ」


VCでの会話は普段通り続いた。ゲーム内の活動も普段通り。でも、ひよりんとのDMのやり取りの頻度が、少しだけ増えていた。


『今日のごはん何食べた?』


『焼きそばです。具はキャベツと豚肉だけ』


『シンプル! 私はコンビニのパスタ……負けた……w』


こうした日常の断片を交換することが、真冬にとっては大切な時間になっていた。ゲームの話ではなく、現実の生活の話。相手が今日何を食べたか。何を見たか。何を考えたか。


ある日のDM。


『まっしろさんは、普段どんな服着てるの? オフ会のとき何着ていこうか迷ってて……参考にしたいわけじゃないけど、なんとなく聞いてみたくて☺』


服。真冬は自分のクローゼットを見回した。


UVカット機能のあるカーディガン。長袖のシャツ。肌の露出が少ない服。紫外線対策が第一で、おしゃれは二の次——と言いたいところだが、色の選び方にはこだわりがある。白い肌と白い髪に映える色。淡い色よりも、少し深みのある色の方が好きだ。ダークグリーン、ネイビー、ボルドー。


『肌が弱いので長袖が多いです。色は暗めが好き。ダークグリーンとか紺とか』


『ダークグリーン! 白い髪にダークグリーンって絶対きれいじゃん……! 想像してときめいてる…… ✨』


ときめいてる。


真冬は返信を打つ手を止めて、スマートフォンを見つめた。ときめく。この人は何気なくそういう言葉を使う。深い意味はないのかもしれない。あるのかもしれない。分からない。


『ひよりんは?』


『私は淡い色が好き! 白とか薄いピンクとか。かわいい系が好きなの。会社では地味にしてるけど、プライベートでは好きな服着たい! ……あ、でもまっしろさんの前ではちょっとおしゃれしたいなあ。なんて☺』


おしゃれしたい。自分の前で。


真冬は枕に顔を埋めた。このDMのやり取りは毎回心臓に悪い。ひよりんの言葉は、常に境界線の上を歩いている。友達の距離。それ以上の距離。どちらとも取れる言葉たち。


意識しているのか、していないのか。


考えても答えは出ない。出るのは——オフ会当日だ。


オフ会前日。金曜日。


大学の講義を終え、帰宅してからの時間が、異様に長く感じられた。明日のことを考えると落ち着かない。部屋の中を歩き回り、やまびこに話しかけ、髪にブラシを通し、また歩き回る。


「やまびこ」


「ナニ」


「明日、初めて会うんだ」


「ハジメテ」


「怖い」


「コワイ」


「でも楽しみ」


「タノシミ」


「……矛盾してるね」


「ムジュン」


夜のVCは全員参加だったが、いつもより短めに終わった。ハゲニキが「明日に備えて早く寝ろ」と切り上げた。


VCが終わった後、いつものようにひよりんからDMが来た。


『明日だね。ドキドキする……。まっしろさんに会えるの、夢みたい 


あのね、言おうか迷ったんだけど。私、まっしろさんに会うのが楽しみすぎて、今週ずっとそわそわしてたの。会社でもぼーっとしちゃって、先輩に「東雲さん最近どうしたの?」って聞かれちゃった。「友達に会うのが楽しみで」って答えたら、先輩がニヤニヤしてたw なんでだろうw


明日、楽しもうね。いつも通りでいいからね。まっしろさんらしく来てくれたら、それだけで嬉しいから 


おやすみなさい☺』


真冬は返信した。


『私もそわそわしてる。今日何回やまびこに話しかけたか分からない。やまびこが呆れてると思う。


明日は——素直になる練習の成果を見せるから。覚悟しててね。


おやすみなさい。明日、会えるの楽しみにしてます』


「覚悟しててね」と書いた自分に驚いた。何の覚悟だ。何を見せるつもりだ。


——全部。


全部見せる。白い髪。白い睫毛。赤い瞳。アルビノの自分。そして——ひよりんのことが好きだという、この気持ちを。


言えるかは分からない。でも、言いたい。言おうとしている自分が、三ヶ月前の自分からは想像できなかった。


髪にナイトキャップを被り、ベッドに入った。明日の髪型はもう決めてある。


編み込みに、桜色のリボン。あのリボン。正式リリース初日に買ったリボン。あの日からずっと、誰にも見せていなかったリボン。


明日、初めて——ひよりんに見せる。


目を閉じた。眠れるかどうか分からなかった。


心臓がうるさくて、時計の秒針が聞こえない。


でも——不思議と、怖さよりも温かさの方が大きかった。


あの声に会える。あの言葉に会える。画面の向こうではなく——目の前で。


春が来る。もうすぐ三月。本当の春が。


真冬は自分の白い髪を一房つまんで、暗闇の中で微笑んだ。


明日——素直になる。

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