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第1話「Hello, New World」

朝の光が薄いカーテンを透かして、部屋の中を淡い乳白色に染めていた。


白瀬真冬はベッドの上で仰向けのまま、枕元で鳴り続けるスマートフォンのアラームを止めようともせず、天井の染みをぼんやりと見つめていた。六時半。二度目のスヌーズ。三度目が鳴る前に起きなければ、今日の一限に間に合わない。それは分かっている。分かっているのだが、布団から出た瞬間に訪れる冷気のことを思うと、どうしても指先が掛け布団の端を握りしめてしまう。


十一月の朝は容赦がない。


「……ん」


諦めてアラームを止め、上体を起こす。白い髪がさらりと肩から滑り落ちた。寝癖がひどい。左側だけ跳ねている。鏡を見なくても、手触りで分かる。


ケージの遮光カバーを外すと、中で丸くなっていたヨウムの灰色の塊がもぞりと動いた。


「やまびこ、おはよう」


「オハヨ」


やまびこは首をかしげるようにして真冬を見上げ、それからケージの扉に嘴を押し当てた。開けろ、という意思表示だ。


「ごはん先。順番」


「ゴハン」


都合のいい単語だけ拾う鳥だった。真冬は小さく笑って、まず水を替え、ペレットを入れ替える。やまびこがペレットに夢中になっている隙に洗面所へ向かった。


鏡に映る自分の顔。白い睫毛、赤い瞳。まだ少し寝ぼけた目をしている。頬に枕の跡がうっすら赤く残っていて、白い肌の上ではそれが妙に目立った。


顔を洗い、化粧水を叩き込み、日焼け止めを丁寧に塗る。紫外線は敵だ。曇りの日も、雨の日も、この工程だけは省略しない。冬でも。


それから、髪。


ブラシを通すと、寝癖で絡まっていた左側が素直に流れた。今日はどうしようか、と考える。この時間が好きだった。鏡の中の白い髪を眺めながら、今日の自分を決める時間。昨日はハーフアップにした。一昨日はゆるい三つ編みを片側に流した。


今日は——ローポニーテールにしよう。低い位置でひとつに結んで、毛先をゆるく巻く。大人しめだけれど、うなじが見える分だけ、どこか凛とした印象になる。


手早く結び、毛先にヘアオイルを馴染ませ、バランスを確認する。うん、いい。白い髪が一筋の流れになって背中に垂れるのを、鏡越しに確認して小さく頷いた。


リビングに戻ると、やまびこがペレットを食べ終えてケージの中で足踏みしていた。


「はいはい」


扉を開けると、やまびこは迷いなく真冬の肩に飛び乗った。ずしり、とまではいかないが、ヨウムはインコの仲間としてはそれなりに重い。肩の上でバランスを取りながら、真冬の耳元に頭を擦りつけてくる。


「甘えん坊」


「アマエンボ」


「それ私のこと言ってる?」


やまびこは答えない。代わりに真冬の髪を一本、嘴で器用につまんで引っ張った。


「こら。今日のセットが崩れる」


朝食はトーストと、インスタントのコーンスープ。やまびこを肩に乗せたまま食べるのは行儀が悪いと分かっているが、降ろそうとすると抗議の声を上げるので、結局いつもこうなる。


トーストをかじりながら、スマートフォンを開いた。


SNSの通知が溜まっている。大半はフォロワーからのリプライやダイレクトメッセージで、昨夜上げたスコアアタックの動画に対するものだった。


『まっしろさんまたワールドレコード更新してて草』


『この人マジで人間か?』


『白い悪魔がまた暴れてる』


その異名が画面に並んでいるのを見て、真冬はスープを一口すすり、静かにスマートフォンを伏せた。


悪魔、という言葉はどうしても好きになれない。強いからそう呼ばれていることは理解している。畏怖と敬意が混じった呼称であることも。でも、悪魔だ。小学生の頃、似たような言葉を向けられたことがある。あれとは文脈が違う。違うのだが——反射的に胸の奥がきゅっと縮む感覚は、もう何年経っても消えてくれなかった。


通知をまとめて既読にし、何も返信せずにスマートフォンをポケットに入れた。


やまびこが肩の上で「ピィ」と小さく鳴いた。


「大丈夫。行ってくるね」


「イッテラッシャイ」


やまびこをケージに戻し、鍵をかけ、水とペレットを再確認する。室温は二十二度に設定したエアコンが維持してくれている。ペットカメラの角度を微調整して、スマートフォンから映像が見られることを確認した。


玄関で靴を履きながら、UVカットの薄いカーディガンを羽織った。日差しが強くなくても、癖のようなものだ。


ドアを開けると、十一月の乾いた風が頬を撫でた。


大学までは自転車で十五分。文学部のキャンパスは駅の反対側にあり、通学路は住宅街を抜ける静かな道だ。信号待ちの間にスマートフォンを確認する癖がある。今朝もそうしていたら、SNSのタイムラインにひとつの投稿が流れてきた。


公式アカウントからの告知。


『《PHANTASM GARDEN》ティザーPV公開! 詳細は本日20:00の生放送にて』


添付された三十秒の映像を、信号が青に変わるまでの間に再生した。


幻想的な庭園。色とりどりの花が咲き乱れ、その中をキャラクターたちが駆け回る。アクションRPGだろうか。動きのモーションが滑らかで、エフェクトの粒子が細かい。映像の最後に、白い花弁が画面を埋め尽くして、タイトルロゴが浮かび上がる。


——きれい。


信号が変わった。スマートフォンをポケットに戻し、ペダルを踏む。


きれいな映像のゲームは好きだ。スコアアタックやタイムアタックで数字を追い詰めるのとは別の意味で、美しい世界を走り回れるゲームには惹かれるものがある。PHANTASM GARDEN。ファンタズム・ガーデン。幻想の庭園。いい名前だと思った。


一限は英文学の講義だった。教室の後ろの方、窓際の席に座る。白い髪が目立つのは分かっているが、今さら気にしても仕方がない。入学当初は好奇の視線を感じたが、二年目の秋ともなれば、周囲もすっかり慣れたものだった。


講義の内容は十九世紀イギリスの児童文学——ルイス・キャロルの言語遊戯について。教授の話は面白かったが、ノートを取る手が時折止まる。さっきのPVの映像が頭の隅にちらついていた。


あの庭園の中を、白い髪のキャラクターで走れたら。


そんなことを考えている自分に気づいて、真冬はペンの軸を唇に当て、小さく息を吐いた。まだ情報が三十秒分しかないのに、気が早すぎる。


昼休み、学食で日替わり定食を食べながら、ようやくPVの件をもう少し調べる気になった。


PHANTASM GARDENは新興のデベロッパーが手掛けるオンラインアクションRPGで、今夜の公式生放送でゲームシステムの詳細とリリース時期が発表されるらしい。ジャンルとしてはMMOに近い構造で、広大なオープンワールドの中でパーティを組んで探索やボス戦を行う。キャラクタークリエイトの自由度が売りのひとつ、と書いてあった。


キャラクタークリエイト。


味噌汁を啜りながら、真冬は少しだけ口角を上げた。自分の分身を作れるなら、当然、白い髪にする。エルフの耳があるなら尚良い。どのゲームでもそうしてきた。白い髪に尖った耳。自分のアイコンであり、自分の理想であり、自分自身だ。


午後の講義を二つ受け、図書館で課題の文献を少しだけ読み、自転車に乗って帰路に就いた。西の空が茜色に染まり始めている。日が短くなった。ペダルを漕ぐ足に力を込めたのは、寒さのせいだけではなかった。今夜八時の生放送が、少しだけ楽しみだった。


帰宅して最初にすることは、やまびこの世話だ。


ケージの扉を開けると、やまびこは弾丸のように飛び出して真冬の肩に着地した。留守中のペットカメラを早送りで確認する。特に問題なし。お気に入りの止まり木で昼寝をして、たまにケージの中を歩き回って、また寝て。平和な一日だったらしい。


「ただいま」


「タダイマ」


「それはおかえり、でしょ」


「オカエリ」


素直なのか、ただのオウム返しなのか。ヨウムだけに——いや、この駄洒落は自分で考えておいて寒いな、と思った。


やまびこを肩に乗せたまま、部屋着に着替え、髪をほどいてブラシを通す。ポニーテールの癖がついているのを丁寧にほぐしてやると、白い髪がふわりと広がった。やまびこがその髪の一房に頬を擦りつけてくるのを、真冬はされるがままにしていた。


「……あったかい」


やまびこの体温は、人間より少し高い。肩や頬に感じるその温もりが、真冬は好きだった。実家を出てひとり暮らしを始めたとき、やまびこを連れてきたのは正解だった。この子がいなかったら、この部屋はきっと静かすぎた。


夕食は冷蔵庫にあった材料で野菜炒めと白米。簡素だが、ひとり分の食事にそこまで手間をかける気力は平日にはない。食べながら、今日の講義ノートを見返す。ルイス・キャロルの言語遊戯。ジャバウォックの詩。意味のない言葉の組み合わせが、読む者の中に新しい意味を生むということ。


ネーミングとは、本来そういうものなのかもしれない。既存の言葉をそのまま使うのではなく、響きと直感で新しい名前を作る。真冬は昔からそれが好きだった。やまびこ、という名前も、ヨウムが人の言葉を返すことから付けたのではなく——山の中で声が返ってくる現象そのものが好きで、その名前を気に入ったから付けた。結果的に言葉を返す鳥だったのは、偶然の一致だ。


「やまびこ」


「ナニ」


「かわいい」


「カワイイ」


食器を洗い終えたのが七時四十分。あと二十分。


デスクのPCを起動し、配信サイトを開いて公式チャンネルのページを表示した。既にカウントダウンが始まっている。待機中の視聴者数は三万を超えていた。注目度は高い。チャットは既に流れ始めていて、期待と憶測が入り混じったコメントが矢のように飛び交っている。


やまびこをケージに戻し——嫌がったが、PC周りに鳥を放つと何をかじられるか分からない——おやつのヒマワリの種を一粒だけ渡して懐柔した。


椅子に深く腰掛け、膝の上にブランケットを引き寄せる。部屋の照明を少し落として、モニターの光だけが顔を照らす状態にした。別にそうする必要はないのだが、こうした方がなんとなく没入できる気がした。


七時五十八分。


チャットの速度が上がっていく。真冬は発言しない。匿名の海に文字を投げ込むのはあまり好きではなかった。SNSでも、自分の動画を上げることはあっても、他人の投稿にコメントを残すことは滅多にない。見ているだけでいい。


八時ちょうど。画面が切り替わった。


公式生放送は、予想以上に充実した内容だった。


PHANTASM GARDEN——略称「ファンガデ」と公式が呼んでいた——は、最大四人パーティのオンラインアクションRPGで、オープンワールドのフィールドに様々なダンジョンやボスが点在するPvE主体の設計。PvPも一部コンテンツとして用意されているが、メインはあくまで協力プレイとのことだった。


開発ディレクターが画面に映り、コンセプトを語る。「美しい世界を、仲間と駆け抜ける体験を」。ありふれた言葉ではあったが、それを裏付ける映像は確かに美しかった。ティザーPVでは三十秒だった庭園の映像が、ここでは数分にわたって流れた。季節によって変化する植生、時間帯による光の移ろい、天候のダイナミックな変化。花弁が風に舞い、水面に月光が揺れ、遺跡の石壁に苔が生し——ただのグラフィックスのデモではなく、その世界で「暮らす」ことを想起させる作り方をしていた。


キャラクタークリエイトのデモが始まったとき、真冬は思わず身を乗り出した。


体型、顔の造形、髪型、髪色——パラメータの細かさが尋常ではない。髪色ひとつ取っても、RGB値を直接入力できるうえに、毛先だけ色を変えるグラデーション機能、光の当たり方で色味が変わるシェーダー設定まである。種族はヒューマン、エルフ、ドワーフ、獣人の四種。耳の形、尖り具合、角度まで個別に調整できる。


エルフ。白い髪。赤い瞳。


もう頭の中でキャラクターが出来上がっていた。


戦闘システムの紹介に移る。武器種は八種類で、それぞれに固有のアクションツリーがある。剣、大剣、双剣、槍、弓、杖、拳、鎌。どの武器を選んでもアクション性が高く、回避やパリィのタイミングが勝敗を分けるスキルベースの設計だと説明された。真冬の目が細くなった。スキルベース。つまり、プレイヤーの腕がそのまま結果に反映される。


チャット欄が湧いている。


『キャラクリだけで100時間遊べそう』


『戦闘モーションやばくね???』


『これ覇権だろ』


リリース時期は来年一月下旬。約二か月後。クローズドβテストが十二月上旬に実施され、参加者は事前登録から抽選とのことだった。


生放送が終わったのは九時過ぎ。真冬は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。


——やりたい。


素直にそう思った。美しい世界。スキルベースの戦闘。自由度の高いキャラクリ。自分が求める要素が、きれいに揃っている。


事前登録のページを開き、必要事項を入力する。名前、メールアドレス、プレイ環境。送信ボタンを押す直前で、真冬の指が止まった。


ハンドルネームの欄。


まっしろさん——と打ちかけて、消した。


新しいゲームだ。まだ誰も自分を知らない世界。白い悪魔という名前がついてこない場所。そういう場所で、最初から自分の名前を使ったら、いずれ紐づけられる。実績が積み重なれば、結局同じことの繰り返しになる。


でも——別の名前を使う気にもなれなかった。まっしろさん、は自分だ。白い髪が好きな自分が、自分のために付けた名前だ。


数秒迷って、結局そのまま「まっしろさん」と入力して送信した。


隠れたところで誰にもなれない。自分は自分でしかない。それでいい。ただ——できることなら、悪魔と呼ばれる前の自分で、誰かと遊べたらいいのに。


ぼんやりとそんなことを考えながら、ケージの方を見た。やまびこは既に止まり木の上で目を閉じていた。


「……おやすみ」


呟いても返事はない。真冬はモニターの電源を落とし、少しだけ寂しそうに笑ってから、寝支度を始めた。


翌朝。


SNSを開くと、PHANTASM GARDENの話題で埋め尽くされていた。ゲーマーのコミュニティは昨夜の生放送の内容で持ちきりで、期待と分析と予想が渦巻いている。真冬はそれらを流し読みしながら、今日の髪型——編み込みカチューシャ——を仕上げていた。前髪の両脇から細い三つ編みを作り、頭の上で繋げる。やまびこが興味深そうに首をかしげて見ている。


「かわいい?」


「カワイイ」


「ありがと」


大学に行き、講義を受け、帰ってくる。この日も翌日も、その翌日も、日常はいつも通りに流れていった。違うのは、寝る前のわずかな時間にPHANTASM GARDENの情報を追うようになったことくらいだ。公式サイトが更新されるたびにゲームシステムの詳細が明かされ、真冬はそれを丁寧に読み込んだ。


武器ごとのモーション値、スキルの連携システム、回避のフレーム数。この手の数値情報は、後から検証勢が正確な値を割り出すものだが、公式が事前にここまで開示しているのは珍しい。自信があるのだろう——アクション部分のバランスに。


真冬が最も興味を引かれたのは双剣だった。手数が多く、回避と攻撃を織り交ぜるトリッキーな武器種。他の武器に比べて一撃の火力は低いが、敵の攻撃を回避した直後に発動する「シフトスラッシュ」というカウンター技が固有アクションとして存在し、その威力倍率が破格だった。つまり、回避の精度が高ければ高いほど火力が跳ね上がる。


——これだ。


理屈ではなく、直感でそう思った。ギリギリを見切って、切り返す。自分のプレイスタイルに合っている。


数日後の夜、SNSのタイムラインに見慣れたアイコンの投稿が流れてきた。


匿名掲示板のスクリーンショットが貼られていて、スレッドのタイトルは『【ファンガデ】お前ら事前登録した?【PHANTASM GARDEN】』。その中のやり取りが切り抜かれていた。


『42: ハゲニキ

ワイ登録したで 妹と二人でやる予定や

筋肉は裏切らないがゲーム運は裏切るんよなあ CBT当たってクレメンス』


『43: ピザデブ

拙者も登録したでござる ていうか拙者ニートだから発売日からぶっ通しで120時間ぶちこむ所存

ハゲニキの妹ちゃんもやるんか 前のゲームでもパーティ組んでたよな?』


『44: ハゲニキ

せやで ひよりんは古参ゲーマーやからな ワイより上手いのが腹立つわ

あ、ここだけの話やけど妹は「白い悪魔」のファンらしいわ あのまっしろさんの

まあ同じサーバーになるかもわからんけどな ハハッ』


『45: ピザデブ

ファッ!? まっしろさんもファンガデやるんか?

あの人ほんまどのゲームやっても世界一取るよな……尊敬するわ

もし同じサーバーになったら拙者失禁するかもしれんでござる』


『46: 名無しの冒険者


44

お前の妹の趣味とかどうでもいいんだが

45

失禁すな』


真冬はスクリーンショットを眺めて、微妙な表情になった。「白い悪魔のファン」。ありがたいことではあるのだろう。でもやはり、悪魔という単語が目に入るたびに、小さな棘が胸に刺さる。


それよりも——ハゲニキ、ピザデブ。このふたりの名前は見覚えがあった。複数のゲームコミュニティで活動している古参プレイヤーで、匿名掲示板では名物コンビとして知られている。過激な発言はしないし、荒らし行為もしない。ただひたすらに騒がしい。真冬が以前プレイしていたゲームでも、このふたりが立てたスレッドは独特の空気があって、読んでいてまあ不快ではなかった、と記憶している。


妹。ひよりん。その名前は知らなかった。


十一月の最終週に入り、クローズドβテストの当選通知が届いた。


メールの件名は『【PHANTASM GARDEN】CBT参加のご案内』。真冬はそのメールを開いた瞬間、小さくガッツポーズをした。やまびこが肩の上で驚いて翼を広げた。


「ごめん。当たった」


「アタッタ」


CBTの期間は十二月六日の金曜日から八日の日曜日まで、七十二時間。参加者は五千人。レベルキャップやコンテンツの制限はなく、製品版のほぼ全要素が開放されるとのことだった。NDA——秘密保持契約——はないが、バグに関する情報の拡散は控えてほしいとの注意書きがあった。


十二月六日まで、あと十日ほど。


その間に、真冬は準備をした。ゲーム用PCのドライバを最新にし、回線速度を確認し、デスク周りを整理した。長時間のプレイに備えて、保存の利く食料を買い込んだ。冷凍のおにぎり、レトルトのスープ、バナナ、チョコレート。やまびこの餌も多めに確認した。


大学の課題を前倒しで片付けたのは、真冬にしては珍しい行動だった。普段は締め切りギリギリまで粘るタイプなのだが、CBT期間中に課題のことを考えたくなかったのだ。図書館にこもって二日で三つのレポートを書き上げた。


準備万端。


十二月五日の夜、真冬はベッドの中でスマートフォンを見つめていた。明日の午後六時からサーバーが開く。アカウントの設定は済んでいる。ハンドルネームは「まっしろさん」。迷わなかった。


明日から七十二時間、あの庭園に入れる。


やまびこはもうケージの中で眠っている。部屋は静かだ。暖房の微かな作動音と、時計の秒針だけが聞こえる。


早く明日にならないかな、と思った。こんな風に何かを待ち遠しいと感じるのは、久しぶりだった。新しいゲームの開始日はいつだって楽しみだが、今回はそれに加えて、うまく言葉にできない期待感があった。美しい世界。知らない人たち。まだ何の色もついていない、まっさらな自分。


スマートフォンの画面を消し、目を閉じた。


十二月六日。金曜日。


午前中の講義をひとつだけ受けて、正午過ぎに帰宅した。午後の講義は休んだ。サボりだ。真冬は出席率に関してはまったく問題ない優等生なので、たまの一回くらいは許される——と自分に言い聞かせた。


帰宅後、まずやまびこの世話。餌と水を新しくし、ケージの底の紙を取り替える。やまびこを肩に乗せて、しばらく頭を撫でてやった。


「今日はちょっと忙しいから、かまってあげられないかも」


「イソガシイ」


「うん。ごめんね」


やまびこは真冬の耳たぶを軽く嘴で挟んだ。痛くはない。甘噛みだ。抗議しているのか、甘えているのか、あるいはその両方か。


午後一時。サーバー開放まで五時間。クライアントのインストールは前日に済ませてある。ランチャーを起動して、アップデートの確認。問題なし。


遅めの昼食を取り、歯を磨き、髪を整え直した。別に誰に見られるわけでもないのだが、髪が乱れていると落ち着かない。今日はダウンスタイル——何も結ばず、そのまま下ろす。白い髪がストレートに背中まで流れる、一番シンプルな形。勝負の日はこれがいい。


……勝負? 何と?


自分の思考に苦笑しつつ、椅子に座ってモニターを見つめた。ランチャーの画面に表示されたタイトルロゴ。PHANTASM GARDEN。


午後六時まで待つ間、SNSを覗いた。CBTに当選した人々の歓喜の投稿と、落選した人々の嘆きが交互に流れてくる。


ふと、先日見かけた匿名掲示板のコンビ——ハゲニキとピザデブ——の名前が目に入った。ハゲニキのSNSアカウントが、CBT当選を報告していた。


『ハゲニキ @hageniki_game

ファンガデCBT当選きたああああああ!!! ワイも妹も当選や! ピザデブも当たったらしいし3人で突撃するで! 筋肉は裏切らない!!!(関係ない)

サーバーは1鯖の予定 同鯖のニキネキおったらよろしくやで』


リプライ欄に妹——ひよりん——のアカウントからの返信があった。


『ひよりん @hiyorin_games

当選ありがとうございます(運営に) 兄とピザデブさんと3人PTで回る予定です~ サーバー1でお会いしたらよろしくお願いします! 

めちゃくちゃ楽しみ……ゲーム始まる前からもう興奮してる……落ち着け私……()』


真冬はそのアカウントのプロフィールページを見た。


『ひよりん  @hiyorin_games

ゲームが好き / いにしえのネットゲーマー / 色々やる / 兄がうるさい / ゲームの話とごはんの話と猫の動画ばかりRTします』


フォロワー数はそこそこ多い。ゲームのスクリーンショットや感想を投稿している、至って普通のゲーマーアカウントだった。アイコンは桜の花びらのイラスト。ヘッダーは夕焼け空の写真。


何気なく過去の投稿を遡ってみた。


ゲームの話題が大半だが、合間にごはんの写真が挟まっている。コンビニのスイーツ、外食のパスタ、自作のお弁当。丁寧に盛り付けられた弁当の写真の下に『今日のお弁当。卵焼きがうまく巻けた日は一日勝ち確です』というコメント。


少し前の投稿。


『ひよりん @hiyorin_games

新しいゲーム始めるときの、まだ誰も自分のことを知らなくて、どこに何があるかも分からなくて、全部が初めてだっていうあの感覚がたまらなく好き。CBTの発表見てからずっとそわそわしてる。早く行きたいあの庭園に』


真冬は画面の前で、少しだけ目を見開いた。


——同じだ。


全部が初めてだという感覚。まだ誰も自分を知らない場所。あの庭園に行きたいという衝動。自分が言葉にできなかった気持ちを、この人はさらりと書いている。


別にそれだけのことだ。同じゲームを楽しみにしている人がいるのは当たり前で、似た感想を抱く人がいるのも当たり前だ。それなのに、画面の向こうにいる顔も知らない誰かが、自分と同じ方向を向いていることが——ほんの少しだけ、嬉しかった。


フォローはしなかった。真冬のアカウントからフォローすれば、相手に通知が行く。「まっしろさん」の名前は、ゲーマーのコミュニティではそこそこ知られている。余計な注目を集めたくなかった。


SNSを閉じて、時計を見た。午後四時十五分。あと一時間四十五分。


やまびこが「ピィ」とケージの中から声を上げた。おやつの時間だ。ヒマワリの種を二粒、手のひらに乗せて差し出す。やまびこは嘴で丁寧に一粒ずつ受け取り、殻を器用に剥いて食べた。


「今日、新しいゲーム始まるんだ」


「ゲーム」


「うん。きれいな庭園があるの」


「テイエン」


「そう。行ってくる」


「イッテラッシャイ」


午後五時半。椅子に座り直す。姿勢を整え、マウスとキーボードの位置を微調整する。飲み物はカフェオレを用意した。


午後五時五十分。ランチャーの「PLAY」ボタンが灰色から緑色に変わった。サーバーはまだ閉じている。


午後五時五十八分。


午後五時五十九分。


午後六時——。


ログイン画面が開いた瞬間、真冬の指は迷いなく動いた。


サーバー選択。サーバー1——「エデンの庭」。これしかない。人が最も多く集まるサーバーを選ぶのが、真冬のいつもの流儀だった。人が多ければ競争相手も多い。その方が燃える。


キャラクタークリエイト画面が展開される。


種族:エルフ。


体型を小柄に寄せる。身長のスライダーを下げ、肩幅を狭くする。手足の細さを調整し、華奢なシルエットを作る。


顔の造形。目を少し大きめに、鼻筋は細く通す。唇は薄めに。顎のラインをシャープにしつつ、丸みも残す。


瞳の色。RGBの値を直接入力する。赤。クリムゾンレッドの深い赤。光彩のパターンは放射状を選び、瞳孔の周りに僅かにオレンジを混ぜた。自分の目を鏡で見たときの色に近づける。


髪型。ロングストレート。背中の中程まで。前髪は眉にかかるくらい。


髪色。白。ただの白ではなく、光の当たる部分に僅かに青みを帯びた透明感のある白。毛先に向かってごく僅かに銀色のグラデーション。シェーダー設定で、逆光時に髪の輪郭が光るリムライト効果を強めに設定した。


エルフの耳。長さを最大にし、角度をやや下向きに。先端の尖り具合を調整する。


できた。


画面の中に、白い髪のエルフが立っている。赤い瞳がこちらを——いや、画面の向こうの世界を——見つめている。白い髪が仮想の風に揺れて、光を纏ってきらめいた。


「……うん」


小さく頷いた。自分だ。自分のもうひとりの姿だ。


キャラクター名の入力欄。


「まっしろさん」


初期武器の選択。双剣。


全ての設定を確認し、決定ボタンを押す。


画面が暗転し、オープニングムービーが流れ始めた——花弁の洪水の中を、カメラがゆっくりと進んでいく。ナレーションの声が世界の成り立ちを語る。かつて神々が作りし庭園、人の手に委ねられし楽園、忘れ去られし花の記憶。やがて映像が晴れて、視界が開けた。


小さな丘の上に立っていた。


眼下に広がるのは、一面の花畑だった。朝焼けの光が花弁を金色に染め、遠くに古い石造りの街が見える。空は淡い紫から青へとグラデーションを描き、雲が低い位置をゆっくりと流れていく。BGMはハープとフルートの穏やかな旋律。風の音が、画面の中から聞こえてくるようだった。


真冬は数秒間、何の操作もせずにその景色を眺めていた。


——きれい。


それから、キャラクターを動かした。左スティック——ではなく、キーボードのWキー。丘を駆け下り、花畑に飛び込む。白い髪が風になびき、足元の花が踏まれて揺れる。走る動作のモーションが滑らかで、キャラクターの体重を感じさせる。双剣を抜いてみた。白い刃が両手に現れ、構えのモーションが入る。軽く振ってみる。速い。連撃のテンポが心地いい。


最初のチュートリアルクエストが始まった。NPCが基本操作を案内してくれるタイプのもので、移動、ジャンプ、回避、攻撃、スキル発動を一通りこなす。真冬はチュートリアルの説明を読みながらも、操作の感触を確かめることに意識を集中した。


回避。右の方向キーと回避ボタンの同時押しで横ステップ。フレームは——体感で十二フレーム程度の無敵時間。悪くない。長すぎず短すぎず、タイミングを合わせる楽しさがある。


シフトスラッシュ。敵の攻撃を回避判定内で避けた直後に攻撃ボタンを押すと、カウンターの斬撃が発動する。一瞬だけスローモーションが入り、白い軌跡を描いて双剣が閃く。


——いい。


チュートリアルを終え、最初の街「アルブレヒトの門前町」に到着した。石畳の道にNPCが行き交い、露店が並び、噴水広場の中央で猫型のマスコットキャラクターが踊っている。他のプレイヤーの姿もちらほら見えた。CBT参加者五千人のうち、どれだけがサーバー1を選んだかは分からないが、街の中にはそれなりに人がいた。


チャットウィンドウに、全体チャットの文字がぱらぱらと流れていく。


『これグラやばくね?』


『キャラクリ神すぎてまだ街から出れてない』


『街の外のモンスターつえええ レベル上げしなきゃ』


真冬はチャットを横目に見ながら、街の外へ出た。


最初のフィールド——「始まりの花園」。チュートリアルの丘を含む広大なエリアで、低レベル向けのモンスターが点在している。花の間を縫うように走りながら、手近なモンスター——花の形をしたスライムのような敵——に双剣で斬りかかった。


三体同時に引き付けて、回避でひとつずつ攻撃をいなし、シフトスラッシュで処理する。無駄のない動線。敵の攻撃パターンを初見で読み取り、最小限の動きで避け、最大効率で倒す。低レベルの雑魚敵相手でも、真冬は手を抜かなかった。ここで操作精度の基準を体に覚え込ませておく。それが後で効いてくる。


一時間ほどフィールドで狩りを続け、レベルが上がった。スキルツリーが解放され、双剣の派生技を習得する。「連桜斬」——四連撃の後に桜の花弁のエフェクトが散る技。派手だが隙が大きい。使いどころを見極める必要がある。


もうひとつ、「月影の歩法」——移動速度を一時的に上げるバフスキル。これは便利だ。探索にも戦闘にも使える。


レベル上げの合間に、ふと周囲を見回した。他のプレイヤーが数人、同じフィールドで狩りをしている。それぞれが思い思いのキャラクターを作り、思い思いの武器を振るっている。誰も真冬に話しかけてこない。当たり前だ。CBTが始まったばかりで、みんな自分の操作を覚えるのに必死なのだ。


それでいい。ひとりで遊ぶのは慣れている。


慣れている——はずなのに。


ほんの一瞬、ひよりんのSNSの投稿が頭をよぎった。


『全部が初めてだっていうあの感覚がたまらなく好き』


真冬は首を小さく横に振って、再びモンスターに向かって走り出した。


CBT初日の夜は、結局午前二時まで遊んだ。


レベルは二十三まで上がった。メインストーリーのクエストを進めつつ、フィールドのモンスターを片っ端から倒し、武器の操作精度を磨いた。双剣の手触りは期待以上で、シフトスラッシュのタイミングを追い込んでいくと、敵の攻撃モーションの一フレーム一フレームが見えてくるようになった。


ログアウトする前に、スクリーンショットを一枚撮った。月明かりの花畑に立つ白い髪のエルフ。双剣を背中に収め、遠くの星空を見上げている後ろ姿。


この画像をSNSに上げようか、一瞬迷って——やめた。上げれば「まっしろさんがファンガデやってる」と広まる。それ自体は構わないのだが、まだもう少し、静かに遊びたかった。


歯を磨き、スキンケアを済ませ、髪にナイトキャップを被ってベッドに入った。やまびこはとっくに寝ている。明日は土曜日。講義はない。朝からぶっ通しで遊べる。


目を閉じると、瞼の裏にあの花畑が広がった。


CBT二日目。


午前八時に目が覚め、やまびこの世話をして、朝食を食べ、九時にはPCの前に座っていた。


今日の目標はふたつ。メインストーリーの進行と、最初の高難易度ダンジョン「腐蝕の温室」のソロ攻略だ。


このダンジョンは推奨レベル二十五、推奨人数四人。CBT初日の時点でクリア報告はまだ出ていない——少なくとも、全体チャットやSNSでは見かけなかった。パーティで挑むのが前提のコンテンツを、ソロで、しかもまだ推奨レベルに達していない状態で攻略する。


無謀と言われるだろう。だが、真冬は知っている。レベルや装備が足りない分は、操作精度で補える。このゲームはスキルベースの設計だ。敵の攻撃を一発も食らわなければ、HPがいくつだろうと関係ない。


午前中はレベル上げに充て、午後から「腐蝕の温室」に向かった。


ダンジョンの入口は、花園の奥にある廃墟の温室だった。ガラスの天蓋がひび割れ、そこから紫色の瘴気が漏れている。中に入ると、美しかった花園が病んだ姿で広がっていた。花は黒く変色し、蔓は棘を纏い、土壌からは毒の霧が立ち上っている。


美しさと腐敗が同居する空間。真冬はその設計に感心しながら、慎重に奥へと進んだ。


道中のモンスターは凶暴で、攻撃力が高い。一撃でHPの四割を持っていかれる。だが、攻撃パターンを覚えてしまえば当たらなくていい。シフトスラッシュを軸に、一体ずつ確実に処理していく。


中ボスは巨大な食虫植物で、触手による広範囲攻撃と、吸い込みからの即死級噛みつきが厄介だった。三回死んで、パターンを覚え、四回目でノーダメージクリア。


そして、最奥のボス部屋。


「腐華の女王」——巨大な花の化身。腐敗した花弁が翼のように広がり、瘴気をまき散らしながら浮遊する。第一形態は地上戦、第二形態は空中戦に移行し、第三形態では地上と空中を交互に切り替えてくる。


第一形態は十分程度で突破した。攻撃のテンポが読みやすい。


第二形態で詰まった。空中に浮いた敵に対して、双剣のリーチでは攻撃が届かない。ジャンプ攻撃を当てるしかないが、相手も空中から広範囲の花弁弾幕を撃ってくる。滞空中は回避ができない。


七回死んだ。


八回目で、ひとつ気づいた。花弁弾幕の合間に、ほんの一瞬だけ下降してくるタイミングがある。そこに合わせてジャンプからのシフトスラッシュ——空中でもカウンターは発動するのか? 公式の説明には書いていなかった。


試した。


発動した。


空中で白い軌跡が閃き、腐華の女王のHPゲージが大きく削れた。スローモーションの中で、白い髪のエルフが月光を背に双剣を振り抜く。エフェクトの花弁が——腐った黒ではなく、白い花弁が散った。


「——っ」


声にならない声が漏れた。


空中シフトスラッシュのエフェクトが専用のものになっている。これは開発の意図した隠し要素だ。やってほしいと思って作っている。


第三形態は十五分かかった。地上と空中の切り替えに翻弄されながら、一ミスも許されない綱渡りの戦闘。HPが赤く点滅するギリギリの場面が三度あった。回復アイテムの残数が尽きかけ、最後は本当に一撃でも食らえば終わりという状態で——


腐華の女王が崩れ落ちた。


画面に「CONQUEST」の文字が浮かぶ。クリアタイムは三十七分十二秒。


真冬は椅子の背もたれに体を投げ出し、天井を見上げた。心臓がまだ速い。指先が微かに震えている。


「…………やった」


ひとりごとは、壁に吸い込まれて消えた。ケージの中でやまびこが「ヤッタ」と呟いたが、真冬の耳には届かなかった。


そのとき、画面の端にシステムメッセージが流れた。


『おめでとうございます! あなたはダンジョン「腐蝕の温室」をサーバー内で初めてクリアしました!(ファーストクリア達成)』


そして、全体チャットに——


『【サーバー告知】ダンジョン「腐蝕の温室」のファーストクリアが達成されました! 達成者:まっしろさん(ソロ)おめでとうございます!』


全体チャットが爆発した。


『ソロ!?!?』


『え、推奨4人PTのところをソロ?』


『まっしろさんって誰』


『まっしろさん……まさか あの?』


『白い悪魔じゃん もうファーストクリアかよ……』


『化け物すぎるだろ……』


真冬は全体チャットの奔流を見つめて、ゆっくりとモニターから目をそらした。


また、だ。


嬉しくないわけではない。ファーストクリアは達成感がある。ソロでやり遂げた満足感もある。だが、全体チャットに名前が晒され、あの異名で呼ばれ、化け物と言われるのは——。


分かっている。褒め言葉だ。畏敬の念だ。悪意はない。分かっている。


分かっているから、余計に辛い。悪意がないのに傷つく自分が、面倒くさい。


全体チャットを閉じた。個人宛のウィスパーチャットが何件か届いていたが、それも閉じた。ログアウトしようか迷ったが、踏みとどまった。逃げるのは違う。ここは自分が遊びたかった場所だ。


ダンジョンを出て、街に戻った。噴水広場でキャラクターを立ち止まらせ、ぼんやりと画面を眺める。行き交うプレイヤーの中に、こちらを見ている——正確には、キャラクター名を確認している——らしき動きが見えた。


そのとき。


ウィスパーチャットに、一件のメッセージが届いた。


差出人は「ひよりん」。


『ひよりん >> まっしろさん

突然すみません! ソロファーストクリアおめでとうございます  全体チャット見てびっくりしました……! すごすぎます……!

あの、もしよかったらフレンド登録させてもらえませんか? 迷惑だったらスルーしてください! 』


真冬は画面を見つめて、まばたきを忘れた。


ひよりん。あの、ひよりん。ハゲニキの妹。SNSで見た、あの投稿の人。


『全部が初めてだっていうあの感覚がたまらなく好き』


脈絡なくその一文が蘇って、真冬は自分の頬が熱くなるのを感じた。白い肌に赤みが差す。画面の中のエルフは無表情のままだが、画面の前の真冬は明らかに動揺していた。


フレンド申請。初対面の相手から。ゲームの中では珍しいことではない。でも、真冬はいつも断っていた。知らない人とパーティを組むのも、フレンドになるのも、基本的には避けてきた。ソロの方が気楽だし、余計なコミュニケーションを取らなくて済む。


でも。


返信を打つ指が、震えていた。緊張だ。寒さでも、さっきの戦闘の余韻でもなく、純粋な緊張。


『まっしろさん >> ひよりん

ありがとうございます。フレンド、大丈夫です。送ってください』


送信してから、文面が素っ気なかっただろうかと不安になった。もう少し絵文字を使うべきだったか。「大丈夫です」って冷たくないか。でも取り消せない。


数秒後、フレンド申請の通知が届いた。承認ボタンを押す。


『ひよりん >> まっしろさん

わあ、ありがとうございます!! 嬉しい……! あの、今もしお時間あったらちょっとお話しませんか? 噴水広場にいます!

兄と友人も一緒なんですけど……あ、気にしないでください、いい人たちなので!たぶん!()』


「たぶん」に括弧付きの笑い。このノリはSNSの投稿そのままだ。


真冬は噴水広場を見回した。プレイヤーが何人かたむろしている中に——いた。


桜色の髪をした小柄な人間族の女性キャラクター。杖を背負っている。ヒーラーだろうか。その隣に、スキンヘッドの巨漢の男性キャラクターと、さらに大柄な——体型設定を最大にしたのだろう——男性キャラクターが立っている。


スキンヘッドのキャラクター名は「ハゲニキ」。大柄なキャラクターの名前は「ピザデブ」。


……一切の躊躇なくその名前を使っているのか、この人たちは。


桜色の髪のキャラクター——ひよりんが、真冬のキャラクターを見つけたらしい。小さくジャンプした。ゲーム内のジャンプモーションで、手を振る代わりにしているのだろう。


真冬はゆっくりと歩いて、三人の前に立った。


『ひよりん >> まっしろさん

来てくれた! ありがとうございます! えっと、改めまして、ひよりんです。こっちが兄のハゲニキと、友人のピザデブさんです』


全体チャットではなくウィスパーで話しかけてくれているのは、配慮だろう。今「まっしろさん」の名前は全体チャットで注目されている。公開の場で絡めば余計な衆目を集めかねない。


この人、気が利く。


『ハゲニキ >> まっしろさん

おっ ホンマにまっしろさんか! ワイはハゲニキや よろしくニキ! いやネキか?

ソロファーストクリアとかヤバすぎやろ 筋肉は裏切らないけどゲームの腕前は次元が違うわ』


『ピザデブ >> まっしろさん

こ、これは……白い悪魔殿でござるか……! 拙者ずっとお噂は聞いておりました……! こうしてお会いできるとは……! まさにデブ冥利に尽きるでござる……!』


妹のウィスパーに割り込んでくるあたり、遠慮というものがない。だが、文面から悪意は感じない。ハゲニキは陽気で、ピザデブは——大げさだが、本心から敬意を払っているのが伝わってくる。


ただ。


白い悪魔。


真冬の指がキーボードの上で止まった。


『まっしろさん >> ハゲニキ, ピザデブ

よろしくお願いします。あと、できたら悪魔って呼ばないでほしいです。ちょっと苦手なので』


送信してから、わがままだっただろうかと思った。有名なプレイヤーの通称を使うなと言うのは、相手にとっては唐突に聞こえるかもしれない。


返信は意外にも早く、そして意外にもあっさりしていた。


『ハゲニキ >> まっしろさん

おっ そうなんか! すまんな 了解やで まっしろさんはまっしろさんや 名前の方がええよな!

ピザデブ お前もやぞ』


『ピザデブ >> まっしろさん

承知でござる! 失礼いたした! まっしろさんとお呼びするでござる!

……あの呼称が苦手とは知らず、大変申し訳ない でござ……』


『ひよりん >> まっしろさん

すみません二人とも騒がしくて  あの呼び方苦手だったんですね。教えてくれてありがとうございます。私も気をつけますね』


真冬は画面の前で、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


謝ってくれた。言い訳もせず、理由も聞かず、ただ「分かった」と言ってくれた。こういう反応をされるとは、正直思っていなかった。


『まっしろさん >> ひよりん

いえ、こちらこそ。ありがとうございます。……騒がしいのは嫌いじゃないです』


本心だった。静かすぎるよりは、賑やかな方がいい。ひとりでいるのは慣れているけれど、好きなわけではない——たぶん。


『ひよりん >> まっしろさん

よかった! じゃあこの二人の騒がしさは保証しますw

あの、まっしろさんはソロでプレイしてますか? もしよかったら明日、一緒にダンジョン行きませんか? 私たちまだ「腐蝕の温室」もクリアしてなくて……3人PTだと一枠空いてるんです』


パーティの誘い。


真冬は椅子の上で姿勢を正した。断るのが普通の自分の行動パターンだ。知らない人とパーティを組むのは気を遣うし、自分のペースで遊べなくなる。ソロの方が——。


でも、と思った。


CBTはあと一日しかない。日曜の夜にはサーバーが閉じる。この七十二時間が終わったら、正式リリースまでまた一ヶ月以上待たなければならない。


残りの時間をひとりで過ごすか、この人たちと過ごすか。


指が動いていた。


『まっしろさん >> ひよりん

行きます。時間合わせてもらえますか?』


『ひよりん >> まっしろさん

ほんと!? やったー!! 明日の午前中からでいいですか? 10時集合で! 』


『ハゲニキ >> まっしろさん

マジか! まっしろさんとPT組めるとかワイ歓喜 筋肉が震えるわ

ピザデブお前も喜べ』


『ピザデブ >> まっしろさん

(喜びのあまり絶命)


拙者復活 ありがとうございますまっしろさん! 明日は足手まといにならぬよう今夜レベリングに励む所存! やるぞハゲニキ!』


『ハゲニキ >> まっしろさん

こいつ一回死んでて草 まあそういうことやで! 明日よろしくな!』


チャットの嵐が一段落したところで、ひよりんから一通だけ、静かなメッセージが届いた。


『ひよりん >> まっしろさん

改めて、明日よろしくお願いします。一緒に遊べるの、すごく楽しみです。おやすみなさい 』


真冬はそのメッセージを数秒間見つめてから、返信を打った。


『まっしろさん >> ひよりん

おやすみなさい。私も楽しみにしてます』


送信して、ログアウトした。


モニターの電源を落とす。部屋が暗くなる。暖房の音と、時計の秒針と、やまびこの寝息だけが聞こえる。


真冬は椅子の上で両手を膝の上に置き、暗い天井を見上げた。


楽しみにしてます、と書いた。社交辞令ではなかった。本当に楽しみだった。明日、あの庭園で、知らない人たちと一緒に走る。騒がしいスキンヘッドと大げさな巨漢と、桜色の髪の——。


頬が熱い。部屋は暗いのに、白い肌に浮かぶ赤みは自分でも分かった。


やまびこがケージの中で寝返りを打つ気配がした。


「……楽しみ、だな」


誰に言うでもなく呟いて、真冬はベッドに向かった。


CBT三日目。日曜日。最終日。


朝七時に目が覚めた。アラームより早い。体が勝手に起きた。


やまびこの世話を手早く済ませ、朝食を食べ、髪を整えた。今日はフィッシュボーン——魚の骨のように編み込む複雑な編み方。時間がかかるが、仕上がりが好きだ。白い髪が規則正しい模様を描いて背中に流れる。


「今日はね、一緒に遊ぶ人がいるんだ」


鏡に向かって言った。やまびこが肩の上で首をかしげる。


「イッショ」


「うん。初めて」


初めて——誰かの誘いを受けてパーティを組む。今までずっと断ってきたのに。自分でも不思議だった。何が違ったのだろう。ひよりんの文面の温度感だろうか。ハゲニキとピザデブの、裏表のなさだろうか。それとも——。


『あの呼び方苦手だったんですね。教えてくれてありがとうございます』


あの一文だろうか。苦手だと言ったことに、ありがとうと返してくれた人。苦手な理由を詮索せず、ただ受け取ってくれた人。


九時半にPCの前に座り、ログインした。街の噴水広場に立つ。集合は十時。三十分早い。


しかし、広場にはもう一人いた。


桜色の髪。杖を背負った小柄なキャラクター。ひよりん。


ウィスパーチャットが届いた。


『ひよりん >> まっしろさん

あ、おはようございます! 早いですね! 私もちょっと早く来ちゃいました  楽しみすぎて……w』


『まっしろさん >> ひよりん

おはようございます。私も同じです。早く来すぎました』


『ひよりん >> まっしろさん

ふふ、お揃いですね☺ ハゲニキとピザデブさんは10時ぴったりに来ると思います。兄は時間ぴったり派なので……

あ、せっかくだしパーティチャットにしませんか? ウィスパーだと二人にも見えないので』


パーティを組んだ。ひよりん、まっしろさん、空席、空席。画面の左上にパーティメンバーのHPバーが表示される。ひよりんのHPバーの横に、小さなアイコン。杖のマーク。やはりヒーラーだ。


パーティチャットに切り替えて、二人で他愛もない話をした。


『ひよりん:まっしろさんのキャラ、すごくきれいですよね。白い髪にエルフ耳、赤い瞳……めちゃくちゃこだわって作ったんだろうなって見た瞬間思いました』


『まっしろさん:ありがとうございます。キャラクリは二時間かかりました。ひよりんさんの桜色の髪もかわいいです』


『ひよりん:えっ ありがとうございます……! 嬉しい……  あ、ひよりんさんじゃなくてひよりんでいいですよ! 呼び捨てでも全然OKです!』


『まっしろさん:では、ひよりん。よろしくお願いします』


『ひよりん:よろしくです! まっしろさんって丁寧な方なんですね。チャットの文体が落ち着いてて好きです』


好き、という単語に一瞬だけ心臓が跳ねた。文体が好きだと言われているだけだ。深い意味はない。分かっている。分かっているのに、頬が——もうやめよう。この体質は本当に厄介だ。


十時になった。


『ハゲニキがパーティに参加しました』

『ピザデブがパーティに参加しました』


『ハゲニキ:おはようやでー! 筋肉は裏切らない! 今日も元気や! よろしくニキネキ!』


『ピザデブ:おはようございますでござる! 昨夜レベリングに励んだ結果、レベル22まで上げたでござる! 寝不足で目が死んでるがいい笑顔でござる! たぶん!』


『ひよりん:おはよう二人とも。レベルは私が25、兄が20、ピザデブさんが22か。まっしろさんは?』


『まっしろさん:28です。昨夜少し上げました』


『ハゲニキ:28!? ワイら寝てる間に差つけられとるやんけ さすがやな……』


『ピザデブ:圧倒的でござる……これが……世界最強……(ゴクリ)』


『ひよりん:じゃあ、行きましょうか! 「腐蝕の温室」! まっしろさんはもうクリアしてるけど……もう一回付き合ってもらうのは申し訳ないかな? 』


『まっしろさん:気にしないでください。ソロとパーティでは攻略が変わるので、むしろ楽しみです。ボスの行動パターンは覚えてるので、必要なら共有します』


『ひよりん:ありがとう! 頼りにしてます! 』


頼りにしてます。その言葉が、じわりと胸に広がった。


四人パーティでのダンジョン攻略は、ソロとはまるで別のゲームだった。


まず、役割分担がある。ひよりんはヒーラーとして回復とバフを担当し、ハゲニキは大剣を持つ前衛で敵のヘイトを引き受け、ピザデブは弓で後方から火力を出す。真冬の双剣は遊撃役——ハゲニキが引きつけた敵の側面から斬り込み、シフトスラッシュで大ダメージを叩き込む。


道中の雑魚戦はスムーズだった。ハゲニキのタンク性能はレベルの割に安定しており、被弾を恐れずに前に出る胆力がある。ピザデブは弓の射程を活かして的確に弱点を射抜くし、ひよりんの回復タイミングは的確で、HPが危険域に入る前に必ずヒールが飛んでくる。


上手い人たちだ、と真冬は思った。プロレベルではないが、各々が自分の役割を理解し、連携を意識している。特にひよりんの判断力は光っていた。回復だけでなく、バフの優先順位、デバフの解除、ポジショニング——ヒーラーは戦場全体を見る必要がある。その視野の広さが、パーティ全体の安定感を支えていた。


中ボスを突破し、最奥のボス部屋の前に到着した。


『ひよりん:ここが「腐華の女王」……! まっしろさん、何かアドバイスありますか?』


『まっしろさん:第二形態で空中に浮きます。近接は攻撃が届かなくなるので、ハゲニキは地上で回避に専念して、花弁弾幕を引きつけてください。ピザデブは弓で空中の本体を撃ち続けて。ひよりんは回復に徹して大丈夫です。私がジャンプで空中に飛んでカウンターを入れます』


『ハゲニキ:おおー 具体的やな 了解やで! ワイは壁になる! 筋肉で受け止めたる!』


『ピザデブ:承知でござる! 空中の的を射るとは……風林火山! 的確に射抜く所存!』


『ひよりん:分かりました! 回復はお任せください。みんなのHP、絶対落としません 』


ボス部屋に入った。


腐華の女王が咆哮とともに現れ、瘴気が部屋を満たした。


第一形態。ハゲニキが前に出て敵を引きつけ、ピザデブが背後から射撃。真冬は側面から双剣で切り込み、連桜斬のフルコンボを叩き込んだ。ソロのときよりもはるかに攻撃チャンスが多い。タンクがヘイトを取ってくれるおかげで、敵の攻撃が自分に向かない。その分、回避に使っていたリソースを攻撃に回せる。


第一形態、五分で突破。


第二形態。


女王が空中に浮き上がり、花弁弾幕が降り注ぐ。


『ハゲニキ:きたきた空中戦や! ワイが花弁引きつけるで! まっしろさん任せたで!』


ハゲニキが地上を走り回り、花弁弾幕を自分の方に誘導する。被弾する。HPが削れる。だが——


『ひよりん:ヒール入れます! 兄さん無理しないで!』


回復が飛ぶ。ハゲニキのHPが回復する。また被弾する。また回復が飛ぶ。タンクとヒーラーの連携が噛み合っている。


その間に、ピザデブが弓で空中の女王を撃ち続ける。少しずつHPが削れていく。


真冬は機を待った。花弁弾幕の合間——女王が一瞬だけ下降するタイミング。昨日、ソロで見つけた隙。


来た。


ジャンプ。空中で女王の攻撃モーションが見える。回避——空中シフトスラッシュ。


白い軌跡。白い花弁のエフェクト。スローモーションの中で、双剣が閃いた。


『ピザデブ:うおおおおお! なんだあのカウンター!? 空中で!? 美しい……美しすぎるでござる……!』


『ハゲニキ:ヤバすぎて草 なにあれ 格好良すぎやろ』


『ひよりん:すごい……!!! きれい……!!!✨✨✨』


女王のHPが大きく削れた。第三形態に移行する。


ここからが本番だった。地上と空中の切り替えが激しくなり、全員の判断力が試される。ハゲニキが被弾し、ピザデブが追い込まれ、ひよりんの回復が追いつかなくなる場面があった。


『ひよりん:MP足りない……! 回復ポーション使います!少し回復止まります!』


その瞬間、ハゲニキのHPが危険域に入った。女王の追撃が迫る。


真冬は判断を下した。双剣の派生スキル——「月影の歩法」で移動速度を上げ、ハゲニキの前に滑り込む。女王の攻撃をシフトスラッシュでカウンターし、同時に敵のヘイトを自分に移した。


一瞬の空白。ひよりんの回復が間に合う。


『ひよりん:助かった……! まっしろさんありがとう!!! 』


『まっしろさん:大丈夫。続けて』


そこから三分間の、息の詰まるような攻防が続いた。四人の動きが噛み合い、ぶつかり、また噛み合う。言葉で全てを伝えられない中、画面の動きだけで互いの意図を読み取る。ハゲニキが大剣で地面を叩いてヘイトを取り返し、ピザデブが弓で弱点を射抜き、ひよりんが全員のHPを繋ぎ続け、真冬がカウンターで大ダメージを刻み続ける。


女王のHPがゼロになった。


崩壊するモーション。散っていく花弁。瘴気が晴れ、温室に光が差し込む。


「CONQUEST」。


パーティチャットが弾けた。


『ハゲニキ:うおおおおおお勝ったあああああ!!! ありがとうまっしろさん! ありがとう妹! ありがとうピザデブ! 筋肉は裏切らなかったああああ!!!』


『ピザデブ:勝利でござるうううう!!! 涙が止まらんでござる! キーボードが涙でびしょ濡れでござる! 拙者人生で一番楽しいでござる!!!』


『ひよりん:やったあああ!!!    みんなすごい!! 最高のパーティでした!! まっしろさんがカバーに入ってくれなかったら全滅してた……! 本当にありがとう!! ✨』


真冬は画面の前で、声を出して笑った。小さな声だったが、確かに笑っていた。


楽しかった。


誰かと一緒に戦って、助けて、助けられて、勝った。それがこんなに楽しいものだと、忘れていた。いや——知らなかったのかもしれない。ソロでの達成感とは違う、もっと温かい何かが胸の中に広がっていた。


『まっしろさん:楽しかったです。ありがとう、みんな』


打ち込んで送信した。「みんな」という言葉を使うのは、いつ以来だろう。


『ひよりん:こちらこそ! ……あの、まっしろさん。正式リリースしたら、また一緒に遊んでくれますか? このパーティで 』


画面を見つめた。桜色の文字が、チャットウィンドウの中で輝いているように見えた。


『まっしろさん:はい。ぜひ』


『ハゲニキ:よっしゃー! これ固定PTの誕生やで! ギルドも作ろうや! ギルド名はワイが考えたる!』


『ピザデブ:拙者も考えたいでござる! こういうのは民主主義でござろう! ……「漆黒の翼~Darkness Wing~」とかどうでござるか?(厨二並感)』


『ハゲニキ:却下や 中学生のノートか? もっとこう、シンプルなのがええんよ 「ハゲと愉快な仲間たち」とか』


『ピザデブ:それも却下でござる ハゲを前面に押し出すなでござる』


『ひよりん:二人とも  まっしろさんは何か案ないですか? ネーミングセンスありそう……!』


突然振られた。真冬は少し考えた。


ギルド名。四人の、最初の拠点。


庭園のゲームで、花畑の中を駆け抜けて、腐った花の女王を倒して、瘴気が晴れた温室に光が差し込んだ——あの瞬間。


『まっしろさん:「ひだまりの苗床」はどうですか』


沈黙が一拍。


『ハゲニキ:ひだまりの苗床……ええやん! 温かい感じするわ! ワイ賛成!』


『ピザデブ:苗床……でござるか。苗床……(意味深)。いやなんでもないでござる。いい名前でござる! 賛成!』


『ひよりん:すごくいい……! 「ひだまりの苗床」。これから育っていくみたいで、素敵ですね  決まりです!』


真冬はモニターの前で、そっと微笑んだ。


名前が決まった。まだ種を蒔いただけの、小さな場所。これから何が育つかは分からない。でも、ひだまりの中にある苗床なら、きっと——。


自分がそんなことを考えていることに気づいて、真冬は恥ずかしくなった。柄にもない。白い頬がまた赤く染まるのを感じて、誰も見ていないのに俯いた。


CBTの残り時間を、四人はフィールドの探索に費やした。


戦闘だけではなく、この世界を見て回った。花畑の丘、湖畔の遺跡、星空の見える崖の上。各所で記念のスクリーンショットを撮った。


白い髪のエルフと、桜色の髪の少女と、スキンヘッドの巨漢と、さらに大柄な巨漢が、花畑の中に並んで立っている画。構図としては滅茶苦茶だが、それがなぜか楽しかった。


日が暮れた——ゲーム内の時間で。夕焼けのフィールドで、四人のキャラクターが焚き火を囲んでいる。ゲーム内に焚き火のギミックがあり、その周囲に座ると自動でキャラクターが暖を取るモーションになる。


『ひよりん:CBT、もう残り数時間だね。早かったなあ……』


『ハゲニキ:ほんまやなあ 七十二時間あっという間やったわ 正式リリースが待ち遠しいで』


『ピザデブ:拙者この三日間のために生きてたまであるでござる 正式まで冬眠するでござる……冬だけに……』


『ハゲニキ:スベっとるぞ』


『ひよりん:w でも本当に楽しかった。みんなのおかげです。まっしろさんも来てくれてありがとう。正直、フレンド申請するとき、断られるかなって思ってたんです。有名な方だし、ソロで活動してるって聞いてたから……』


真冬はチャットの文字を見つめた。


断られるかな、と思っていた。この人もこの人で、勇気を出してメッセージを送ってくれたのだ。


『まっしろさん:私も、受けるかどうか迷いました。でも受けてよかった。今日はすごく楽しかったです。ひよりんに声をかけてもらえて、嬉しかった』


送信してから、自分の打った文章を見て、これはちょっと素直すぎやしないかと思った。しかし取り消す間もなく——


『ひよりん:……………嬉しい ✨ 私もです。私も、まっしろさんと一緒に遊べて本当に嬉しかった。正式リリースしたら、もっとたくさん一緒に遊びましょうね 』


『ハゲニキ:ワイもおるで??? ワイもおるよな???』


『ピザデブ:拙者の存在も忘れないでほしいでござるよ???』


『ひよりん:もちろんw 4人で! ひだまりの苗床で! 』


真冬は、画面の中の焚き火の光を見つめた。四つのキャラクターが火を囲んで座っている。白い髪のエルフは無表情だ。ゲームの表情システムは操作しないと変わらない。でも——。


エモートコマンドを探した。表情の設定。笑顔。


白い髪のエルフが、ふわりと微笑んだ。


『ひよりん:あ、まっしろさんのキャラ笑った……! かわいい……! ✨』


かわいい、と言われて、画面の前の真冬の顔が燃えるように赤くなった。白い肌に浮かぶ赤みは、部屋の暗がりの中でも自分で感じ取れるほどだった。


——何をやっているんだ自分は。


やまびこがケージの中から「カワイイ」と鳴いた。タイミングが良すぎる。


サーバーが閉じたのは、日曜日の午後十一時五十九分だった。


最後の一分。四人は噴水広場に集まり、並んで立った。


『ひよりん:正式リリースで会いましょう。待ってます 』


『ハゲニキ:絶対来いよニキネキ! 筋肉は裏切らないし約束も裏切らんで!』


『ピザデブ:拙者は正式リリースまでに体重を3キロ増やして完全体で臨む所存でござる!(意味不明の決意)』


『まっしろさん:待ってます。また一緒に遊べるのを楽しみにしてます。……おやすみなさい、みんな』


画面が暗転した。


「接続が終了しました。クローズドβテストへのご参加ありがとうございました」


静かな画面。静かな部屋。時計の秒針と、暖房の音。


真冬はモニターの電源を落とし、暗くなった部屋の中でしばらく座っていた。


楽しかった。


本当に楽しかった。


三日間だけの庭園。三日間だけの約束。でも、あの人たちの言葉は——特に、ひよりんの言葉は——本当だと思えた。根拠はない。チャットの文字だけでは、相手の顔も声も分からない。それでも。


教えてくれてありがとうございます、と言ってくれた人。一緒に遊べて嬉しかった、と言ってくれた人。桜色の髪の、顔も知らない人。


正式リリースは来年一月下旬。あと約二ヶ月。


真冬は立ち上がり、ケージの前に行った。やまびこはもう眠っていたが、気配に気づいたのか薄く目を開けた。


「ただいま」


「オカエリ」


今度は合っている。


「ともだちが、できたかもしれない」


「トモダチ」


やまびこは言葉を繰り返して、また目を閉じた。


真冬は自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。枕に顔を埋めて、数秒間じっとしていた。


それから、スマートフォンを取り出した。


SNSを開く。ひよりんのアカウントページ。


フォローボタンに指を伸ばし——止めた。


いや、と思い直して、ボタンを押した。


通知が行くだろう。「まっしろさんにフォローされました」と。あの人はきっと驚くだろう。もしかしたら喜んでくれるかもしれない。


スマートフォンを枕元に置いて、天井を見上げた。


数分後、通知が鳴った。


『ひよりん さんがあなたをフォローしました』

『ひよりん さんからダイレクトメッセージが届きました』


メッセージを開いた。


『フォローありがとうございます!!!! めちゃくちゃ嬉しいです!!! まさかまっしろさんからフォローしてもらえるとは……! 正式リリースまでこっちでもよろしくお願いしますね ✨』


真冬は布団の中で、くしゃりと顔を歪めた。笑っているのか、泣きそうなのか、自分でもよく分からなかった。頬が熱い。白い肌が赤く染まっている。暗い部屋の中、誰にも見えないのに、無意識に布団を頭まで引き上げた。


返信を打つ。


『こちらこそよろしくお願いします。正式リリースが楽しみです』


送信してから、もう一行だけ追加した。


『ひよりんと一緒に遊ぶの、楽しかったです。また』


送信。スマートフォンを伏せる。心臓がうるさい。


やまびこのケージの方から、微かな寝息が聞こえた。暖房が静かに唸っている。十二月の夜は深く、しんと冷えている。


でも——布団の中は温かかった。


真冬は目を閉じた。瞼の裏に、焚き火を囲む四つのシルエットが浮かんだ。白い髪のエルフが笑っている。桜色の髪の少女が、その笑顔を見て微笑んでいる。


正式リリースまで、あと二ヶ月。


長い冬になりそうだ——でも、春が来るのを待つ冬は、悪くない。


真冬は自分の名前を、少しだけ好きになった。

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