第07話 違和感の正体
ディーターが来るまでの三日間を、リーゼは分析に費やした。
マティアスの工房の作業台に、新たに採取した土壌のサンプルと、鍛冶屋から借りた器具の破片を並べる。触媒の精製水銀粉を振りかけ、手袋を外し、一つ一つ丁寧に鑑定眼で読み取っていく。
精髄灰の結晶構造。変性硫酸銅の生成条件。術式の残留パターン。データが蓄積されるほど、一つの傾向がはっきりと浮かび上がってきた。
「随分と熱心じゃのう」
マティアスが作業台の端に座り、薬草茶を啜りながら見ていた。老人はリーゼの作業を邪魔しない。ただ、時折鋭い問いを投げる。
「精髄灰の結晶構造に、一定のパターンがあるんです」
「パターン?」
「偶発的な汚染なら、結晶構造はばらつくはずです。発生条件が毎回異なるから。でもこのサンプルは違う。全ての結晶の配列が同じ方向を向いています」
「つまり、同じ術を繰り返しているということか」
「はい。しかも回数が尋常ではありません。結晶の堆積層から推測すると、少なくとも数百回。同じ術式を、何度も何度も繰り返した痕跡です」
マティアスの杯を持つ手が、一瞬だけ止まった。すぐに茶を啜る動作に戻ったが、リーゼはその間を見逃さなかった。
「精髄属性の術は禁忌です。でもこの残留物は、単なる禁忌破りではありません。何か特定の目的を持った実験の副産物に見えます」
「……なぜ、そう思う?」
「結晶の配列に収束の傾向があります」
リーゼは磁器皿の上のサンプルを指で示した。
「これが半年前の堆積層から採取したもの。結晶の配列は粗く、不揃いです。そしてこちらが最近のもの。配列が精緻になっている。術者が試行錯誤しながら、何かに近づこうとしている」
「何に近づこうとしている?」
「それは、まだ分かりません。ただ、方向性は見えます。精髄属性の出力を、特定の物質変換に集中させようとしている。何かを作ろうとしている。あるいは、何かを変えようとしている」
マティアスは黙って茶を啜った。長い沈黙だった。工房の窓から差し込む午後の光が、棚のガラス瓶に反射して壁に小さな虹を作っていた。
「仮にそうだとして、お前さんはどうするつもりじゃ?」
「事実を明らかにします。それが私にできることですから」
「事実を明らかにした結果、何が起きるか。考えたことはあるか?」
リーゼの手が止まった。
宮廷の大広間。石の床の冷たさ。エルヴィラの逸らされた視線。宰相の穏やかな声。あの日の光景が、不意に蘇った。
前回、事実を明らかにした結果、自分はここにいる。
「……考えました」
「考えた上で?」
「考えた上で、やります」
マティアスが目を細めた。
「なぜじゃ。また追い出されるかもしれんぞ。今度はこの街からも」
「分からないことが、怖いからです。目の前に答えがあるのに、触れずにいることができない。触れて、読んで、理解する。それが私のやり方です」
「たとえ、理解した結果がお前さんを傷つけるとしても?」
「傷ついても、分からないままよりはましです」
マティアスがゆっくりと立ち上がった。あの遠い目をした笑い方をしていた。何かを懐かしむような、あるいは何かを悼むような表情。
「難儀な。本当に、難儀な性分じゃな」
「自覚はあります」
「自覚があって治らんのだから、もう手遅れじゃろうな」
マティアスが棚に歩み寄り、奥から古い書物を一冊引き出した。革の表紙が色褪せ、背表紙の金箔が剥がれかけている。精髄属性に関する学術文献だった。
「読め。精髄灰の結晶構造について、参考になる記述がある。第三章と第七章じゃ」
「……ありがとうございます。これは錬金術院の蔵書ですか?」
「さて、どこで手に入れたか、もう忘れたわい」
嘘だ。この書物の状態から見て、長年手元に置いて繰り返し読んでいたことは明らかだ。だがリーゼは追及しなかった。マティアスには、まだ訊けないことが多すぎる。
「礼を言うのは早い。読めば分かるが、碌なことは書いておらん」
* * *
その夜。
マティアスの書物を読み終えたリーゼは、作業台に戻って分析の続きをするつもりだった。書物の第七章に記された精髄灰の結晶分類法を使えば、サンプルからさらに詳しい情報が引き出せるはずだ。
工房の扉を開けた。
足が止まった。
作業台の上が、荒らされていた。
磁器皿がひっくり返されている。精製水銀粉の小瓶が床に転がり、銀色の粉が石の床一面に散乱している。分析途中の土壌標本が踏みにじられ、鍛冶屋から借りた器具の破片が壁際に散らばっていた。三日間の分析結果が、全て台無しになっている。
リーゼは息を呑んだ。
窓が一つ、開いている。内側から掛け金が外されていた。出入りに使われた形跡。マティアスは離れの自室で寝ている時間だ。リーゼが書物を読んでいた部屋は工房とは別棟で、ここの物音は聞こえない。
誰かが侵入した。サンプルを壊し、分析を妨害するために。
手袋を外し、作業台に触れた。侵入者の痕跡を読もうとする。だが手袋をした人間が触れた場合、残留する情報は極めて少ない。分かったのは、侵入者が工房内を手早く荒らしたこと。迷いのない動き。何がどこにあるかを事前に把握していた可能性があること。
リーゼの手が震えた。怒りだった。
宮廷では言葉で潰された。捏造という嘘で追放された。ここでは、物理的に潰そうとしている。手段は違うが、構造は同じだ。真実に近づく者を、排除しようとしている。
床に散らばった精製水銀粉を見つめた。高価な触媒だ。替えはもうない。
だがサンプルは壊されても、リーゼの指先は全ての分析結果を覚えている。触れた物質の情報は、指の中に残る。母の湯呑みの釉薬を今でも覚えているように。
壊しても、無駄だ。
私は、もう読んでしまった。




