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鑑定士は触れずにいられない 〜追放された宮廷錬金術師は、触れるだけで大地の異変を暴いてしまう〜  作者: 景都 (けいと)
禁忌の等価

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第61話 第二の遺跡

三冊目のノートは、農具倉庫の鋤の間に挟まれていた。


 リーゼが手袋を外して表紙に触れた。マティアスの直近の研究記録。リーゼの鑑定眼に関する観察データ。第三の方法の理論的基盤。宰相に渡してはならない最重要資料。


「全て無事です。改竄や複写の痕跡もない。宰相府の人間は触れていません」


「ならいい」


 ユーリが農具倉庫の扉を閉めた。


「このまま別の場所に移す。鍛冶場にも工房にも戻さない方がいい」


「どこに」


「ハンスの納屋だ。農夫の納屋は令状の対象にならん。ハンスには俺から話す」


 リーゼはノートを胸に抱えた。ユーリの判断は的確だ。カイが鍛冶場から移せと言い、ユーリが農具倉庫に移し、今度はハンスの納屋に。三段階の隠蔽。


「ユーリさん。カイさんが昨夜鍛冶場に来た理由は、これを守るため」


「ああ」


「それは、おかしい。宰相の特使なら、ノートの存在をフリードリヒに報告する方が自然です。自分の立場を守れる」


「おかしいのはあいつの性格だ。面と向かって正直に言えばいいものを、裏から回る」


「調査官のやり方です」


「面倒なやり方だ」


 リーゼは小さく笑った。ユーリが「面倒」という言葉を使うのは珍しい。あれはカイの口癖だった——いや、もう使わないと決めた言葉だ。


「ユーリさん。一つ聞いていいですか」


「何だ」


「カイさんが昨夜来たとき、何を話しましたか」


 ユーリが黙った。農具倉庫の中で、二人きり。薄暗い空間に干し草の匂いが漂っている。


「『三冊目を鍛冶場から出せ。明日の追加令状で鍛冶場も対象に入る。これは俺からの最後の情報だ。以後、接触はできない』と」


「最後の情報」


「ああ。それだけ言って去った。振り返らなかった。あいつはいつも振り返らない」


「もう一つ。ユーリさん自身は、カイさんを信じていますか」


 ユーリが鋤を壁に立てかけた。太い指で柄を握り、位置を調整している。農具の扱いも、鍛冶師は丁寧だ。


「信じるかどうかは知らん。だがあいつは、お前を裏切る人間じゃない」


「なぜ分かるんですか」


「お前のための器具を打ったのは俺だ。あいつはお前のために仮面を被った。やり方が違うだけで、やっていることは同じだ」


 リーゼはユーリの横顔を見た。鍛冶師は自分のライバルを「同じだ」と言った。嫉妬でも対抗でもなく、職人としての客観的な評価として。


「ユーリさん」


「何だ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。ノートをハンスの納屋に運ぶぞ。手伝え」


* * *


 その夜。リーゼは工房の窓から外を見ていた。


 月明かりの中、工房の向かいに人影がある。動かない。壁に寄りかかって立っている。フリードリヒの部下だ。工房が監視されている。


 マティアスが茶を差し出した。


「見張りがついたか」


「はい。昨日からです」


「宰相は本気じゃな。お前さんの鑑定眼を手に入れるまで引かんつもりじゃ」


「手に入れる」


「エルヴィラの手紙にあったじゃろう。精髄の萌芽を持つ者から能力を抽出する術式。宰相はそれを実行するつもりじゃ」


 リーゼは茶を飲んだ。苦い。いつもの配合。母の味。父が飲んでいた味。


「抽出されたら、私の鑑定眼はどうなるんですか」


「分からん。古代の記録では、抽出後に術者が生存した例はない」


 リーゼの指先が冷たくなった。


「つまり、殺される」


「殺すことが目的ではない。だが結果として死ぬ。精髄属性は術者の生命と一体化しておる。引き剥がせば、生命も損なわれる」


 窓の外の見張りが、欠伸をした。退屈そうだ。リーゼの命を狙う側の人間が、退屈している。


「逃げることもできます」


「逃げてどうする」


「逃げません。第三の方法を完成させます。宰相が抽出する前に。代償なしの制御法を見つければ、抽出する理由がなくなる」


「代償なし、ではない。代償を最小化する方法じゃ。お前さんの身体への負荷は消えん」


「消えなくても、最小化できればいい。父が見つけられなかったものを、私が見つける。そのために三つの断片がある」


 マティアスが茶を飲み干した。


「明日から、わしが直接指導する。二十年分の理論を全てお前さんに叩き込む。時間がない」


「はい」


「それと、見張りの目を盗んで実験する場所が要る。ユーリの鍛冶場は使えん。別の場所を探さねば」


 リーゼは窓の外を見た。見張りの向こうに、シュヴァルツ山脈の稜線。あの山の中に、宰相が知らない場所がまだある。ベルタなら知っているかもしれない。


「ベルタさんに連絡を取ります」


「ああ。あの女なら、宰相府の人間が知らん山道を知っておる」


 窓の外の見張りが動いた。別の人間に交代している。前の見張りより体格が大きい。宰相は人数を増やしている。


 調査団がシュヴァルツ山脈の別地点に向かった。リーゼは技術顧問として同行を命じられた。


 宰相の地図に赤い印が打たれていた場所。マティアスも知らなかった。前回の谷とは別の尾根の反対側。ベルタも「この先は知らない」と首を振った。


 フリードリヒが先導し、宰相府の錬金術師が術式灯で道を照らす。カイは記録係として最後尾を歩いていた。リーゼとの距離を保っている。


 三時間の登山の後、岩壁の裏に隠された洞窟の入り口があった。人工的に掘削された通路。前回の遺跡より小さいが、構造は似ている。


「リーゼ・ヴェーバー殿。入口の鑑定を」


 フリードリヒの命令。リーゼは手袋を外し、洞窟の壁面に触れた。


 術式残留。だが前回とは違う。千年前ではない。


「この遺跡は二百年前のものです」


「二百年前?」


「壁面の術式の経年変化から推定。千年前の遺跡とは別の時代。構文のパターンも異なります。より洗練されていますが、根底の設計思想は千年前の記録と同系統」


 フリードリヒが記録を取れとカイに指示した。カイがペンを走らせる。リーゼの報告を一語一句書き留めている。


 だがリーゼは気づいていた。カイが書いている内容の一部が、リーゼの報告とわずかに異なっていることを。カイはリーゼの報告から「構文のパターンが同系統」という部分を省略し、代わりに「別系統の術式と推定」と書いている。


 宰相に渡る情報を操作している。


 洞窟の内部に入った。壁面に二百年前の文字が刻まれている。マティアスが来ていないため、リーゼが自力で読む。古代文字ではなく、現代語に近い書体。読解可能。


「『精髄属性実験報告。第十七次。対象: 高純度ルビー結晶。結果: 賢者の石の結晶化に成功。持続期間: 三ヶ月。代償: 術者の右腕に不可逆的な損傷。精髄灰の侵食が腕から肩へ進行中』」


 リーゼの声が震えなかった。事実を読み上げるだけ。だが指先の焼痕が、右腕の下で疼いた。


「続けろ」


 フリードリヒの声。


「『第十八次実験。術者交代。前任者は右腕の喪失により継続不能。新術者による実験を再開。代償の軽減法を模索するも、有効な手段なし。精髄属性の行使は術者の肉体を必ず損傷する。これは法則であり、回避不能と結論する』」


 二百年前の結論。千年前は大地が代償だった。二百年前は術者の肉体。回避不能と結論された。


 だがリーゼの父ヘルマンは、その結論に抗った。代償を回避する方法を探した。見つける前に死んだ。


「『追記。唯一の可能性。精髄の流れを外部から制御する術者——すなわち、精髄を読む力を持つ者がいれば、代償の分散が理論上可能。ただし、そのような能力を持つ者の存在は確認されていない』」


 精髄を読む力。鑑定眼。リーゼの持つ力。


 二百年前の錬金術師は、リーゼのような鑑定士の存在を仮定し、「いれば代償を分散できる」と書いた。いなかったから、諦めた。


「フリードリヒ局長。この記録は以上です」


「全てか」


「壁面に残っている記録は全てです。ただし——」


 リーゼは壁面の下部を指した。一箇所、石が新しい。最近削り取られた痕跡。


「ここも、誰かが先に来ています。記録の一部が持ち出されている。前回の遺跡と同じ手口です」


 フリードリヒの顔が強張った。「先に来ている」のが宰相自身の別動隊であることを、フリードリヒは知っているはずだ。


 カイが記録帳を閉じた。無表情のまま。


* * *


 下山中。リーゼはマティアスに報告するために内容を暗記していた。二百年前の記録。代償は術者の肉体。回避不能。だし「精髄を読む力を持つ者」がいれば分散可能。


 千年前の大地の代償。二百年前の術者の代償。二十年前の父の代償。そして今、リーゼの指先の焼痕。


 四度目。同じ過ちの四度目。


 だが四度目には、二百年前になかったものがある。鑑定眼を持つ術者。リーゼ自身。


 代償を分散する方法が、理論上は存在する。リーゼの力で。


 問題は、分散した代償が消えるのではなく、どこかに移るということだ。どこに。誰に。

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