第22話 鑑定士の朝
浄化から数日が経った。
北側のハンスの畑を皮切りに、リーゼは一区画ずつ、汚染された土地を浄化していった。毎日四時間。それがリーゼの体力の限界だった。ユーリの増幅器とマティアスの助言のおかげで、一日一区画のペースを維持できている。
全ての土地の浄化にはまだ時間がかかる。だが方法は確立された。あとは続けるだけだ。
街の畑は、少しずつ回復の兆しを見せていた。浄化が終わった区画では、ハンスが新しい種を蒔き始めている。芽が出るかどうかは、まだ分からない。
「出るさ」
ハンスはそう言った。リーゼに向かって。
「この土は、生きている。あんたが戻してくれた」
ディーターの身柄は、カイの管轄で王都に送還されることになった。護送の手配が整うまで、駐在所の留置房に拘留されている。
送還の朝。カイがリーゼのもとに来た。
「報告書は完成した。黄金律計画の証拠、資金の流れ、汚染の分析結果、ディーターの証言。全てを添えて、王都に持っていく」
「カイさんも、王都に戻るのですか」
「ああ。報告書を直接提出しなければならない。ディーターの護送にも同行する」
「握りつぶされるかもしれないのに?」
「かもしれない。だが提出しなければ、握りつぶすことすらできない」
「……それも、事実ですね」
二人の間に、しばらくの沈黙があった。駐在所の前。朝の空気が冷たい。
「宮廷から書状が来ている。あんた宛てだ」
カイが封書を差し出した。宮廷の紋章入りの蝋封。リーゼが開く。
鑑定士資格の「停止」を解除し、宮廷への復帰を打診する内容だった。
リーゼはしばらく書状を見つめた。
「戻らないのか?」
「この街には、まだやることがあります。畑の浄化が終わっていません。井戸水の汚染も、完全には取り除けていない」
「それだけか?」
「それに——宮廷に戻っても、また真実を語って追い出されるだけでしょう」
「……違いない」
カイが鼻で笑った。
「また来る」
「はい?」
「報告書の提出が終わったら、また来る。今度は——仕事じゃなく」
リーゼは視線を逸らした。
「……勝手にすれば」
口元が微かに緩んでいるのを、カイは見なかったことにした。
* * *
カイが王都に発った後、ユーリがリーゼの工房に新しい分析器具を納品した。
特注の精密天秤と、改良型の触媒増幅器の小型版。リーゼの鑑定作業に合わせて設計された、世界に一つだけの器具。
「注文の品だ。前のより精度が上がるはず」
「試してみます。……ありがとう、ユーリさん」
素直に礼を言えた。追放されたばかりの頃は、人の好意を受け取ることすらうまくできなかった。少しだけ、変わったのかもしれない。
「ああ」
ユーリの短い返事に、言葉にしない感情が滲んでいた。何を言いたいのか、リーゼの鑑定眼では読み取れない。人の心は、物質よりもずっと複雑だ。
夕方。マティアスの工房の入口に、リーゼが新しい看板を掛けた。
「鑑定士リーゼ・ヴェーバー」
マティアスが工房の奥から出てきて、看板を見上げた。
「看板を出すということは、ここに留まるということじゃな」
「はい。この街の土地は、まだ私を必要としています」
「土地だけか?」
「……土地と、人と。この工房の茶も」
マティアスが笑った。穏やかな笑い方だった。
* * *
翌朝。
リーゼは工房で新しい分析を始めていた。窓の外にはグリュンタールの穏やかな朝。山の稜線に朝日がかかり、屋根の煙突から白い煙が立ち昇っている。静かな街。だが今は、この静けさの下に何があるかを知っている。
机の上には、地下工房から回収した実験記録の一部。大半は暗号化されたままだが、その中に一枚、まだ読んでいない文書があった。
「黄金律計画 第二段階」
と記された暗号文書。第一段階は土壌浄化の基礎研究。では第二段階は何だ。
リーゼは手袋を外し、文書に触れた。
紙の繊維から読み取れる情報が、指先に流れ込んでくる。この紙の製造元、使われたインクの調合、筆圧と筆跡の癖。紙質は極めて高い。一般の市場には出回らないグレード。
リーゼの目が見開かれた。
「この紙……王立錬金術院の院長室専用紙です」
院長室でしか使われない特注の紙。現在の院長のものではない。インクの経年変化から見て、書かれたのは二十年以上前。つまり——
「現院長の……いえ、前院長の時代のもの」
リーゼの視線が、工房の奥に向いた。マティアスの居室がある方向。
前院長。二十年以上前に王立錬金術院を率いていた人物。マティアスが「若い頃、錬金術院の研究部門にいた」と語った時期と重なる。
マティアスの工房の器具に残る、第7等級に匹敵する術式の痕跡。リーゼの母と同じ配合の薬草茶。そして今、院長室専用紙。
全てが、一つの推測を指し示している。
「……マティアスさん」
リーゼは呟いた。
「あなたは一体、何者なんですか」
窓の外で、風がグリュンタールの街路樹を揺らしていた。




