第02話 辺境への道
護送馬車の窓は小さく、景色を見るには不便だった。
それでもリーゼは、揺れるたびに硬い木の座席に背中をぶつけながら、ずっと外を見ていた。王都ケーニヒスブルクの石畳が、やがて整備された街道に変わり、街道は次第に細くなって、土の道になった。
護衛の衛兵は二人。どちらも無口で、リーゼに話しかけることはなかった。
初日の夕方、宿場町の小さな旅籠に着いた。衛兵の一人がリーゼに木の椀を差し出す。
「飯だ。食え」
「ありがとうございます」
「礼を言うのか。護送される罪人が」
「罪人でも、お腹は空きますので」
衛兵が一瞬きょとんとして、それから鼻で笑った。敵意のない笑い方だった。
「変わった嬢ちゃんだな」
「よく言われます」
薄いスープを啜りながら、リーゼは手袋を外して膝の上に置いた。右手の指先を見る。薬品焼けの小さな痕がいくつか。鑑定士の手だ。この指で何千もの素材に触れ、その真実を読んできた。
触れれば、分かる。それが当たり前だった。物心ついた頃から。
両親は流行病で逝った。リーゼが七つの年だった。何が起きたのか、何も分からなかった。ただ、母の使っていた陶器の湯呑みに触れたとき、指先に流れ込んできたものがあった。
粘土の産地。焼成の温度。釉薬の配合。そして、母の手が何度も触れた痕跡。
当時の自分にはそれが何なのか理解できなかった。ただ、触れると「何かが分かる」。それだけは確かだった。
その湯呑みは孤児院を出るとき割れてしまった。けれどリーゼの指先は、あの釉薬の感触を今でも覚えている。
王立錬金術院の巡回試験官がリーゼの異能に気づいたのは、十の年だった。孤児院に寄贈された金属食器を、触っただけで「これ、鋳直してる。元は別の形だった」と言い当てた。
試験官は驚いた顔をした。それから、慎重な声で訊いた。
「触媒は使ったかい?」
「触媒? 何ですか、それ」
「……使っていない、のか」
試験官の顔が青ざめたのを覚えている。
「君、名前は?」
「リーゼです」
「リーゼ。錬金術院に来る気はないか」
「ご飯は食べられますか?」
試験官が吹き出した。その笑顔が、リーゼの人生を変えた。
院での日々は充実していた。初めて鑑定術を体系的に学んだとき、教官は目を見開いてリーゼの手を見つめた。
「触媒なしで物質を読める者は、百年に一人出るかどうかだ。いいか、ヴェーバー。この力を正しく使え。真実を見抜く力は、正しく使えば人を守る。だが使い方を誤れば、お前自身を滅ぼす」
教官の言葉は、今になって骨身に沁みる。
同期の中で最も早く等級試験を突破し、首席で卒業した。二十二歳で宮廷鑑定士に任命される。平民の孤児としては異例の抜擢だった。
鑑定は「道具」だった。真実を見つけることが仕事。偽造品を見抜き、素材の品質を保証し、外交品の出自を鑑定する。求められたことをした。だから、偽物を偽物と言った。
それだけのことが、こうなった。
* * *
三日目の午後、馬車の揺れがひどくなった。
山道に差しかかったせいだと御者は言ったが、リーゼの耳は別のものを拾っていた。車軸の軋み。金属が疲労しているときの、あの独特の音。
無意識に座席から身を乗り出し、車軸に手を伸ばした。指先が冷たい鉄に触れる。
鋳鉄。不純物の混入率が高い。炭素含有量に偏りがあり、結晶粒が粗い。金属疲労が進行していて、接合部に微細な亀裂が走り始めている。
「この車軸、あと一日保ちません」
御者が手綱を引いた。幌の隙間から怪訝な顔を覗かせる。
「何だって?」
「不純物が多くて金属疲労が限界です。このまま山道に入れば折れます」
「嬢ちゃん、触っただけでそんなことが分かるのか?」
「はい」
「まさか」
「信じる信じないは自由ですが、折れてからでは遅いかと」
御者と護衛が顔を見合わせた。半信半疑の空気だったが、リーゼの声に迷いがなかったせいか、御者は次の宿場で車軸を確認することにした。
宿場の鍛冶屋が車軸を外し、表面を削った瞬間、内部の亀裂が露わになった。
「こりゃひどい。もう半日走ってたら、山道で折れてたぞ」
鍛冶屋が感心と驚きの混じった顔でリーゼを見た。御者が無言で頭を掻き、護衛の一人が「助かった」と小さく呟いた。
「なぜ分かったんだ?」
もう一人の衛兵が訊いた。
「触れれば、分かります。金属の状態は嘘をつきませんから」
「人間は嘘をつくがな」
「ええ。だから私は、物に触れる方が好きです」
衛兵が笑った。今度ははっきりと。
「変わった鑑定士だ」
「それも、よく言われます」
* * *
車軸が交換される間、宿場の外れに立って山並みを眺めた。北に向かうにつれ、稜線が高くなっていく。その向こうにシュヴァルツ山脈があるはずだ。
残りの道中、御者の態度が少し変わった。段差を丁寧に避け、急な坂では速度を落とした。護衛の衛兵も、リーゼに水を差し出すようになった。
罪人への同情ではない。車軸の件で、この女の言葉には耳を傾ける価値があると分かっただけだ。
宮廷では三年間正確な鑑定を続けても得られなかった信用が、たった一本の車軸で手に入った。皮肉な話だ。
五日目の朝。
山間の谷に、小さな街が見えた。石造りの建物が緑の斜面に寄り添うように並び、中央に小さな教会の尖塔が突き出ている。朝靄の中に煙突の煙が何本か立ち昇っていた。
「あれがグリュンタールだ」
御者が振り返った。護衛の衛兵が小さく息をついた。長い旅だった。彼らにとっても。
「嬢ちゃん」
最初の夜に木の椀を差し出してきた衛兵が、言った。
「達者でな」
「……ありがとうございます。車軸の件も」
「まだ礼を言うのか」
「事実ですから」
衛兵が苦笑した。
しかしリーゼの目は、街ではなく、街の北側に広がる畑に向いていた。
色が、違う。
馬車の中からでも分かった。周囲の山肌や南側の畑の土は黒みがかった豊かな色をしている。農作物が青々と風に揺れている。だが北側の一帯は不自然に灰色がかり、生気がない。作物はまばらで、枯れかけた苗が力なく揺れている。
リーゼの指先が、無意識に震えた。
触れてもいない。距離もある。それなのに、あの畑の土から微かな「声」が聞こえる気がした。あの大広間で、十数メートル離れた鉱石に反応したときと同じ感覚。
「それは、おかしい」
呟いた声は、馬車の音にかき消された。
この土地に、何かが起きている。




