第19話 鑑定士の術
浄化術の準備に二日をかけた。
マティアスの書物の第十二章に記された理論を基に、リーゼは術式を設計した。鑑定眼で岩盤の「変質された部分」と「自然な部分」を精密に見分け、変質部分にだけ水属性の浄化術を集中させる。土属性の変質を溶かし、元の岩盤に戻す。
理論を実際の術式に落とし込む作業は、地道だった。紙の上に構造を書き出し、計算し、修正する。マティアスの書物を何度も読み返し、鑑定眼の精密さを活かす方法を模索した。
「前回は弱点を突いた。今回は異物を取り除く」
リーゼが術式の概要をカイとユーリに説明した。マティアスの工房の作業台に、岩盤の断面図と術式の設計図を広げている。
「鑑定眼で読んで、浄化術で戻す。やることは前回の封鎖壁突破と同じ原理ですが、規模が桁違いに大きい。壁一枚ではなく、坑道一本分です」
「体への負荷は」
「大きいです。マティアスさんにも警告されました。でもやれます」
カイがリーゼの顔を見た。しばらく目を合わせてから、言った。
「お前、前より落ち着いている」
「怖くなくなったわけではありません。でも、やることは分かっています。分からないことが怖い人間にとって、やることが分かっているのは一番の安心材料です」
「……悪くない顔だ」
ユーリが特製の工具を鍛造した。リーゼの分析結果に基づいた精密な合金の触媒増幅器。水属性の浄化術を効率的に岩盤に伝導するための金属棒。前回の封鎖壁突破で使った増幅器を改良し、出力範囲を広げた設計。一晩かけて仕上げた。
「前のやつより出力が三割増しだ。その分、制御が難しくなるが、あんたなら大丈夫だろう」
「ありがとう、ユーリさん。信じます」
「信じるも何も、作ったのは俺だ。壊れたら俺の責任だ」
「壊しませんよ」
「そう言って前回、増幅器の先端をちょっと歪ませただろう」
「……気づいていたんですか」
「鍛冶師を甘く見るな」
翌朝。晴天。三人で廃坑に向かった。カイが駐在兵を一人だけ連れている。公式には「山林の状況確認」。
封鎖された廃坑の入口。自然の山肌にしか見えない岩壁。だがリーゼの鑑定眼は、その奥に人工的な変質のパターンを読み取っている。自然な花崗岩の結晶と、土属性で書き換えられた結晶では、配列のパターンが微妙に異なる。
「始めます」
手袋を外した。ユーリの新型触媒増幅器を左手に握り、右手を岩壁に当てた。
鑑定眼を全開にする。
岩盤の内部構造が、指先を通して流れ込んでくる。自然の花崗岩。石英とフェルスパーと雲母の層が、数億年の時間をかけて形成した結晶構造。その中に、異質な領域がある。土属性の変質術で書き換えられた部分。結晶の配列が不自然に均一化され、本来の岩盤とは異なるパターンを示している。
見える。どこが自然で、どこが人工か。一粒一粒の結晶の違いが、指先を通して伝わってくる。
左手の触媒増幅器を通じて、水属性の浄化術を岩盤の内部に流し始めた。変質部分にだけ、精密に。自然な結晶には一切触れず、土属性で書き換えられた結晶構造だけを、元の状態に戻していく。
時間がかかった。一時間、二時間。額に汗が噴き出す。腕が震える。水属性の術を長時間維持するのは体力を消耗する。しかも対象が広い。坑道一本分の岩盤だ。
カイとユーリが黙って見守っていた。駐在兵が周囲を警戒している。
三時間目。岩壁の表面に、最初の変化が現れた。均一だった灰色の表面に、自然な石の斑模様が戻ってくる。花崗岩特有の、白と灰と黒のまだら模様。
「効いてる」
ユーリが呟いた。
四時間目。リーゼの視界が揺れた。体力の限界が近い。指先の感覚が薄れ始めている。だが浄化は七割ほどしか進んでいない。
「リーゼ。止めろ」
カイの声が遠くに聞こえた。
「まだです。もう少し——」
「倒れてからでは遅い。今日はここまでだ。明日また来る」
リーゼは歯を食いしばった。だが体が言うことを聞かない。増幅器を握る左手から力が抜けかけている。
「……分かりました」
手を離した。膝から崩れかけたところを、ユーリが支えた。
「無理するなって言っただろ」
「言ってません」
「言ってなかったか。じゃあ今言う。無理するな」
「……はい」
翌日、残りの三割を浄化した。二日がかりの大仕事だった。体が鉛のように重い。だが指先の感覚は戻っている。
浄化が完了すると、変質されていた岩盤が元の花崗岩に戻った。土属性の術で固められていた結合が解け、自然な岩盤に戻った部分はもろくなっている。ユーリがハンマーと鑿で坑道を掘り直した。鍛冶師の腕力と精密さで、必要な分だけ岩を崩していく。
岩が崩れ、坑道の入口が再び姿を現した。暗い穴が口を開けている。奥から精髄灰の匂いが流れてくる。
実験はまだ続いている。
「開いた」
カイがランタンを掲げた。
三人は坑道に入った。前回突破した内部の封鎖壁は、再建されていなかった。ディーターは入口を封じただけで安心していたらしい。まさか入口の封鎖を「浄化」で突破する人間がいるとは思わなかったのだろう。
地下工房に辿り着いた。
前回と同じ空間。蒸留器、るつぼ、精製台。実験が継続されていた証拠が各所に残っている。使いかけの触媒、精製途中の溶液、記録用の紙束。
だが一つ違うものがあった。
工房の中央に、一人の男が立っていた。
ディーターが振り返った。穏やかな笑顔は消えていた。驚きと、かすかな感嘆が入り混じった表情。
「……来ましたか。予想より、早い」




