第12話 市場の日
調査中止命令。
駐在所の執務室で、カイが書状を睨んでいた。リーゼは向かいの椅子に座っている。窓の外には朝の広場。買い物籠を抱えた女たちが横切っていく。何も知らない日常の風景だった。
「内務省名義の公式命令だ。俺の権限では覆せない」
「命令に逆らえば?」
「今度は左遷じゃ済まない。職務解任、最悪は投獄もあり得る」
「……そうですか」
リーゼは窓の外を見た。広場の井戸で水を汲んでいる老婆がいた。あの水にも、微量の変性硫酸銅が含まれている。
「カイさん。あなたは調査官として命令に従えばいい」
「何?」
「私は追放された鑑定士です。宮廷に所属していません。資格は停止されていますが、命令系統からは外れている。宮廷の命令に従う義務がない」
「おい、それは——」
「追放されたことが、初めて役に立ちました」
カイが口を開きかけ、閉じた。複雑な表情だった。公式には動けない調査官と、命令の外にいる追放鑑定士。立場が逆転している。
「……勝手にしろ。だが、俺は公式には動けない。非公式に情報を渡すことはできるが、それが限界だ」
「十分です」
「十分じゃない。あんた一人でディーターに対抗できるとは思えん」
「一人ではありません。ユーリがいます。マティアスさんもいます。それに——カイさんも、非公式にとはいえ、味方です」
カイが溜息をついた。深い溜息だった。
「厄介な依頼人だ。本当に」
「お互い様です」
* * *
その日は市場の日だった。
グリュンタールでは週に二度、交易広場に近隣の村から商人が集まる。普段は静かな街が、この日だけは人であふれる。南の平野から馬車で果物を運んでくる農夫、東の山から鉱石を担いでくる採掘夫、手織りの布や陶器を並べる行商人。
「リーゼ。出かけるぞ」
ユーリが工房に顔を出した。
「出かける? どこに」
「市場だ。考え事ばかりしていると煮詰まる。たまには外の空気を吸え」
「でも、分析の途中で——」
「飯は食ったのか」
「……茶は飲みました」
「茶は飯じゃない。行くぞ」
有無を言わせない口調だった。ユーリは普段寡黙だが、こういうとき妙に押しが強い。鍛冶師の腕に引かれるように、リーゼは工房を出た。
市場は活気に満ちていた。
色とりどりの布を広げた行商人、木箱に山積みの果物、干し肉や薬草の束を並べた露店。人の声が入り混じり、どこからか焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。子供が走り回り、犬が足元をうろついている。
リーゼはいつの間にか手袋を外していた。人混みの中を歩きながら、無意識に商人の品物に手を伸ばしている。布に触れ、果物に触れ、陶器の縁をなぞる。そのたびに指先が情報を拾い上げる。癖だ。止められない。
「また触ってる」
「……すみません。癖で」
「謝るな。面白いから続けろ。その石は何だ?」
ユーリが指さしたのは、露店に並んだ色石の首飾りだった。リーゼは石に指先を当てた。
「天然のトルコ石です。産地はおそらく南方のアズール鉱山。結晶の配列が特徴的で、この地域の石にしか見られないパターンがある。加工は丁寧ですが、留め金の銅合金が少し質が悪い。不純物が多くて、数年で変色するかもしれません」
「値段は?」
「石自体は銀貨3枚分の価値があります。留め金を考えると2枚が妥当かと」
露店の商人が目を丸くした。
「嬢ちゃん、鑑定士か何かか? 仕入れ値まで当てられちゃたまらんな」
「すみません。つい」
「いやいや、大したもんだ。うちの品を全部鑑定してくれたら、飯を奢るぞ」
ユーリが横で笑っていた。口角がわずかに上がるだけの、地味な笑顔。
「楽しそうだな」
「え?」
「あんた、物に触ってるとき、一番いい顔してる。工房で難しい顔して分析してるときとは全然違う」
リーゼは言葉に詰まった。自覚がなかった。物に触れて、組成を読んで、真実を知る。それが「楽しい」という感覚に分類されるのだとしたら——確かに、楽しいのかもしれない。純粋に。追放の理由も、黄金律計画も関係なく、ただ触れて読むことが。
「ユーリさんも、金属を打っているときは同じ顔をしていますよ」
「そうか? 分からんが、まあ、そうかもしれない。好きなことをやってる人間の顔ってのは、似るもんだ」
二人で市場を歩いた。ユーリが干し肉を買い、リーゼに半分渡した。「食え」の一言で。リーゼは受け取って齧った。塩気が強い。だが空腹の体に染みた。
ユーリが別の露店で鍛冶用の砥石を品定めしている間、リーゼは隣の布商人の店先で亜麻布の端に触れていた。
「この布、織りが少し歪んでいますね。経糸のテンションが均一でない。でも染料の定着は良い。藍の鮮やかさが残っている」
「それ、触っただけで分かるのか。うちの女房が織ったやつだ。腕が悪いってのは言わんでくれ」
「いえ、染めの技術は素晴らしいです。織りの歪みは機の調整で直せます」
布商人が頭を掻きながら笑った。リーゼは無意識に笑い返していた。
広場の角を曲がったとき、リーゼの足が止まった。
人混みの中に、見覚えのある姿があった。
穏やかな笑顔の旅商人。上質な外套に、革の手袋。領主館の方向へ歩いていく。すれ違う人々に会釈し、にこやかに言葉を交わしている。この街に溶け込んだ善良な旅商人の姿。
ディーター。
リーゼが無意識にディーターの近くを通り過ぎた瞬間、鑑定眼が反応した。
触れていない。三メートル以上離れている。それなのに、あの男の周囲に精髄灰の残留が「見えた」。衣服に染み付いた高濃度の精髄灰が、空気中に微量の粒子を放散している。受動感知が発動するほどの濃度。地下工房に日常的に出入りしている証拠。
リーゼの手が震えた。市場の喧騒が、一瞬遠くなった。
「どうした」
ユーリが声をかけた。リーゼの顔色の変化に気づいたらしい。
「……あの人です」
声を絞り出した。
「あの旅商人。あの人の周囲に、精髄灰の残留がある。触れなくても分かるほどの濃度で」
ユーリの目が鋭くなった。職人の目だ。
「ディーターか」
「はい。この人が、地下工房に関わっている人間です」




