第11話 鑑定士の原点
地下工房から回収した実験記録と素材を、マティアスの工房に持ち帰った。
カイは駐在所で報告書の作成に取りかかっている。王都の上層部に送るための、黄金律計画に関する調査報告書。「握りつぶされるかもしれないが、提出しなければ握りつぶすこともできない」。あの男らしい理屈だとリーゼは思った。
ユーリは自分の鍛冶屋に戻り、地下工房から持ち出した器具の整理を手伝ってくれていた。持ち出せたのは実験記録の一部と、小型の触媒容器がいくつか。大型の器具は運び出せなかった。
リーゼは一人、作業台に向かっていた。
回収した触媒素材のサンプルに触れ、鑑定眼で一つ一つ読み取っていく。素材の産地、精製の手法、使用された術式のパターン。どれも宮廷の工房でしか扱えない品質だ。精製水銀粉の純度は99パーセントを超えており、民間の市場には出回らないグレードだった。
「随分と根を詰めておるな」
マティアスが薬草茶を二杯、作業台の端に置いた。杯から立ち昇る湯気が、ランタンの光に白く揺れている。
「地下工房の素材を分析しています。どこから調達されたのか、どの程度の規模の計画なのか、少しでも多くの情報が欲しい」
「それは調査官の仕事じゃないのか」
「カイさんは人を追います。私は物を追います。役割分担です」
「なるほど。で、物は何と言っておった?」
「王都製の素材ばかりです。軍用規格の容器、錬金術院の工房でしか作れない純度の触媒。それに精製に使われた水の鉱物組成から、王都のケーニヒスブルク地下水系の水であることも分かります。ここに投入されている予算は、辺境の小さな街とは釣り合わない規模です」
「宮廷が本気で動かしている計画、ということじゃな」
「はい」
マティアスは茶を啜りながら、しばらく黙っていた。工房の窓から差し込む午後の光が傾き始めている。
「リーゼ。賢者の石という言葉を、どう受け止めた?」
リーゼの手が止まった。
「……禁忌の結晶です。等価交換を超える唯一の物質。錬金術師なら誰もが夢見て、誰も到達できなかったもの」
「なぜ到達できなかったと思う?」
「代償が大きすぎるからです。精髄属性の極限行使は、術者の生命を蝕む。成功する前に、術者が先に壊れる」
マティアスが深く頷いた。老人の目に、遠い記憶を見るような色が浮かんだ。
「お前さんは正しい。だが、それだけではない」
「それだけでは?」
「賢者の石は、仮に完成したとして、等価交換を超える力を持つ。つまり、この世の理を歪める力じゃ。理を歪めれば、歪んだ分だけ世界のどこかにしわ寄せが来る。地下工房の汚染は、その最も分かりやすい形じゃよ」
「理を歪めた代償が、大地の汚染として現れた」
「そういうことじゃ。錬金術は自然の法則の上に成り立っておる。法則を踏み越えれば、法則が反発する。それが汚染になる。賢者の石を追い求めること自体が、世界を傷つける行為なのじゃ」
リーゼは作業台の上のサンプルを見つめた。変性硫酸銅と精髄灰の結晶が、ランタンの光を鈍く反射している。禁忌の夢の残骸。その残骸が、この街の大地を蝕んでいる。
「マティアスさん。一つ訊いてもいいですか」
「なんじゃ」
「なぜ錬金術師になったのですか」
マティアスが目を瞬いた。予想外の問いだったらしい。
「なぜ、と言われてものう。昔のことじゃ。もう忘れた」
「嘘ですね」
「嘘と言うか」
「あなたの器具には、第7等級に匹敵する術式の痕跡があります。そこまで極めた人間が、始めた理由を忘れるはずがありません」
マティアスが苦笑した。鑑定士に嘘は通じない。
「……まあ、そうじゃな。だがお前さんから先に話せ。なぜ鑑定士になった?」
「私は、分からないことが怖かったからです」
リーゼは手袋を外した指先を見つめた。薬品焼けの痕。鑑定士の指。
「幼い頃、両親を流行病で亡くしました。何が起きたのか、なぜ両親が死んだのか、何も分からなかった。七つの子供には、病も死も、ただ『分からないこと』でしかなかった」
「……そうか」
「母の湯呑みに触れたとき、初めて何かが指先に流れ込んできました。粘土の産地、釉薬の配合、母の手が触れた痕跡。理解できなかったけれど、触れることで何かが『分かる』と知った。それが始まりです」
「物に触れて、世界を読む」
「はい。錬金術院で学んで、初めて思ったんです。世界の成り立ちを理解すれば、何かを変えられるかもしれない、と。鑑定は私にとって『世界を読む』行為です。読んで、理解して、その先に答えがあると信じている」
「分からないことが怖い。だから触れて、読んで、理解しようとする」
「はい。それが私のやり方です。不器用ですが」
マティアスが薬草茶を注ぎ足した。リーゼの杯にも、自分の杯にも。
「飲みなさい。冷めておる」
リーゼが杯を受け取り、口をつけた。
手が止まった。
この薬草の配合。カモミールと月見草と、微かにセージ。三つの薬草の比率が絶妙に調整されている。胃を温め、精神を安定させ、疲労を緩和する配合。薬草学の教科書には載っていない、誰かが経験的に編み出した独自の処方。
この味を、知っている。
幼い頃、母が淹れてくれた茶と同じ味だ。寝る前に「おやすみ」と言いながら渡してくれた杯。あの温かさ。あの配合。
偶然だろうか。薬草の配合は無限にある。三種の比率がここまで一致するのは、同じ人物から配合を学んだか、あるいは——
「マティアスさん」
リーゼが顔を上げた。
「この薬草茶の配合、どこで——」
工房の扉が勢いよく開いた。
カイが駆け込んできた。息が荒い。手に一通の書状を握りしめている。
「報告書を送ろうとした矢先に、王都から返書が来た」
「返書? カイさん宛てですか?」
「俺宛てじゃない。街の駐在所長宛てだ」
カイが書状を作業台に叩きつけた。封蝋が割れ、中の紙が広がった。
「内容は『廃坑の調査を中止せよ』。王都の内務省名義の公式命令だ」
リーゼの目が見開かれた。マティアスが静かに杯を置いた。
「報告書を出す前に、中止命令が来た。つまり——」
「ああ。王都は最初から知っていた。この廃坑で何が行われているか」
薬草茶の問いは、宙に浮いたまま消えた。




