第10話 地下工房
封鎖壁の突破に、二日を要した。
マティアスの書物の第七章に、手がかりがあった。土属性で均一化された岩盤に対して、水属性の浸透術を微量ずつ注入すると、内部に微細な結露が生じる。結露の凍結と融解の繰り返しが、均一だった結晶構造にわずかな不均一を作り出す。
理論は分かる。だがリーゼの属性親和は水属性が主で、土属性の壁を内側から精密に読み解くには、通常の鑑定以上の集中が必要だった。
「ユーリ。一つ頼みがあります」
「何だ」
「この壁の内部に、浸透術で弱点を作ります。そこに精密な楔を打ち込んでほしい。私が指示する位置に、指示する角度で」
「場所さえ教えてくれれば、打つのは得意だ。何センチの深さで、何度の角度か。言ってくれ」
「任せてください」
カイが駐在兵と共に周囲を警戒する中、リーゼとユーリは壁に取り組んだ。
リーゼが壁に両手を当てる。触媒を介して、水属性の浸透術を壁の内部にゆっくりと流し込む。一時間。二時間。額に汗が滲む。指先から伝わる情報が、わずかずつ変化していく。均一だった結晶構造に、髪の毛一本分の隙間が生まれ始めた。
「ここです」
壁の左下。床から30センチの高さ。浸透術による結露が、結晶構造に最初の亀裂を作り始めた地点を、指先で正確に示す。
「どのくらいの角度で打つ?」
「水平から15度上向き。深さは8センチ。それ以上打ち込むと向こう側の空洞に突き抜けます」
「了解」
ユーリが特製の合金楔を構えた。短いが極めて硬い楔だ。昨夜のうちに鍛造しておいたものだった。ハンマーを振り上げ、一打。正確無比な打撃音が坑道に響いた。楔が岩盤に八センチ沈む。寸分の狂いもない。
「もう一箇所。右上、120センチの高さ。今度は水平に。深さは6センチ」
二打目。
「最後。中央、60センチ。30度下向き。深さは10センチ」
三打目。
三本の楔が壁に突き刺さった状態で、リーゼが再び壁に手を当てた。浸透術で弱めた箇所を起点に、楔が作り出した応力が結晶構造の内部で連鎖的に広がっていく。
壁の奥で、微かな音がした。ぴし、という亀裂の音。それが枝分かれするように広がり、壁全体に網目状の罅が走る。
「下がってください」
全員が後退した。
数秒の沈黙の後、壁が崩れた。大きな破片が二つ、粉塵を巻き上げて坑道の床に転がった。土属性の変質が解けた岩盤は、想像以上にもろかった。
「見事だ」
ユーリが短く言った。カイは何も言わず、崩れた壁の向こうにランタンを差し出した。
粉塵が収まると、壁の向こうに広い空間が見えた。
「入るぞ」
カイが先頭に立ち、ランタンを掲げて進んだ。リーゼとユーリが続く。駐在兵が後方を警戒する。
空間は、予想を遥かに超えていた。
天井の高い地下室。奥行きは二十メートル以上。幅も十メートルはある。そこに、蒸留器、るつぼ、精製台が整然と並んでいた。棚には触媒素材の瓶が何十本も並び、壁際には鉱石の入った木箱が積まれている。精製台の上には使いかけの道具が残されたままだった。つい最近まで、ここで作業が行われていた証拠だ。
地下錬金工房。それも、個人の趣味のレベルではない。
「これは一人や二人の規模じゃない」
カイが低く呟いた。
「組織的に運営されている」
リーゼは手袋を外し、最も近い蒸留器に触れた。
「王都製です。銘が削られていますが、素材の組成と加工精度は王立錬金術院の工房でしか実現できないものです」
次の器具に触れる。触媒容器。大きな金属製の箱で、密閉性が高い。
「これは軍用規格の容器です。民間には流通していません。刻印は消されていますが、合金の配合比が軍の仕様書と一致しています」
「なぜ軍用の容器の配合を知っている?」
「宮廷鑑定士の仕事の一つに、軍需品の品質検査がありました。何百回と触れています」
カイの顔が険しくなった。
「王立錬金術院の器具に、軍用の容器。ここに投入されている資金と素材は、宮廷規模だ」
「ええ。個人の研究ではありません。国家プロジェクトか、少なくとも宮廷内の強力な後ろ盾がなければ、これだけの設備は揃えられません」
工房の奥を調べていくと、さらに多くのものが見つかった。
大量の触媒素材の在庫。使用済みのるつぼの内壁にこびりついた精髄灰。壁際に設置された太い金属管。ユーリが駆け寄った。
「これだ。俺が作った排出管と同じ規格だ」
管は岩盤を貫通して、地下水脈の方向へ伸びていた。管の内壁に、変性硫酸銅の残留物がべったりと付着している。
「実験の廃液を、この管から地下水脈に流している。だから街の井戸水が汚染された」
「ひどいな。分かってやっているのか」
「分かっているはずです。この管の設計は意図的です。廃液が水脈に到達するよう、角度まで計算されています」
リーゼは工房の中を一つ一つ触れて回った。器具と素材の分析から浮かび上がる全体像を、頭の中で組み立てていく。
「ここでは精髄属性の反復実験が行われていました。同じ術式を何百回も試行しています。器具の消耗パターンから見て、少なくとも半年。おそらくもっと前から」
「何を作ろうとしている?」
「それは——」
工房の最奥部に、机があった。その上に紙の束。大半は暗号化された記録だったが、一部は平文で書かれていた。実験の概要と、進捗を記録したメモらしきもの。
リーゼは紙に触れた。紙の繊維、インクの組成、筆圧の痕跡を鑑定眼で読み取る。高級な紙。宮廷で使われる品質のもの。インクは王都の専門店でしか扱っていない調合。この記録を書いた人物は、宮廷に出入りする人間だ。
平文で書かれた部分に目を通した。
実験名が記されていた。
「黄金律計画」
声に出した瞬間、自分の声が震えていることに気づいた。
「精髄属性を用いた物質変換の極限実験。等価交換の法則を超え、物質を根本から組み替える研究。その最終目標は——」
リーゼは紙から手を離し、カイを見た。
「賢者の石」
カイが振り返った。ユーリが目を見開いた。駐在兵たちが顔を見合わせた。
賢者の石。錬金術の究極にして、禁忌中の禁忌。全ての錬金術師が夢見て、誰も到達できなかったもの。等価交換を超える力。物質を自在に組み替える力。それを手にした者は、世界の理を書き換えることができる。
そんなものを、この辺境の地下で、誰かが作ろうとしている。街の飲料水を汚染し、畑を枯らし、家畜を病ませながら。
リーゼは実験記録を握りしめた。指先が白くなるほどに。
答えの一つは見つかった。だが、その答えは新たな問いを突きつけている。
なぜ辺境で。誰の命令で。そして、宮廷はこのことを知っているのか。
知っているとしたら、自分の追放は——
* * *
王都。ヴァルター伯爵の屋敷。
伯爵は書斎で報告書を読んでいた。グリュンタールの駐在所から届いた定期報告。追放された鑑定士が辺境で浄化作業を始め、住民の支持を集めている。
「あの女が、まだ鑑定を続けているのか」
資格停止のはずだ。停止された人間が勝手に鑑定を行い、しかも成果を出している。伯爵の額に汗が浮いた。あの鑑定士に触れられたら困るものが、この辺境にある。




