1-3 目鼻が付いていなかった
店を出て、とぼとぼと夜道を歩く。
見上げた空には星が一つも見えなかった。曇っているのか、それとも周囲のネオンが眩しくて紛れてしまっているのか。それでも店を離れたら周囲はあっと言う間に真っ暗になった。
この辺りは山中の工業用地の周囲に、その従業員を目当てに興された小さな町だ。
遅くまで営業している店の回りだけはささやかな賑わいを見せているが、一歩その場を離れれば、街灯どころか信号機すらもまばらな閑散とした真性の闇夜だった。
周囲はキロ単位で真っ暗。道沿いに郊外へ向けて五分も歩けば、ビックリするくらい簡単にただっ広い田園のただ中へと踏み込むことになる。足元を照らしてくれる街灯どころか電信柱すらない。周囲はキロ単位で真っ暗だった。
人口七、八万くらいの僕の故郷の街が、やおら煌めく大都会に見えるほどの辺鄙っぷりだ。
空を見た。
やっぱり何も見えなかった。随分と雲が厚いらしい。遠くの町の明かりを反射するボンヤリとした曇り空が地面よりも幾分明るくて、それが微かに歩道と車道との区別をつけてくれていた。他は真っ黒で平面と沈黙を気取るスカした田んぼが拡がっているだけだった。
その闇の中に数キロ先にある信号機が見えた。このままこの道をひたすら歩いてドン突きにあるあの丁字路まで進むだけ。そこを右に曲がれば毎朝通勤している見慣れた道に出ることになる。
ハッキリ言って迷い様がない。
ただ一時間ほど黙々と歩く羽目になるけれど。
そもそもキロ単位で民家どころか電柱すら無いなんてどうかしてる。そのくせ遠くに見えるパチンコ店のネオンは無闇やたらとケバケバしくて、それがまるで唯一の文明社会の象徴のように見えるのが笑えた。
忘れた頃に傍らを結構なスピードでクルマが通り抜けて行った。真っ暗な道を歩く者にとっては危なっかしい存在だけれども、それでもこの漆黒の世界を切り裂くサーチライトはせめてもの文明の証だった。
後ろを振り返れば、先程逃げ出してきたこの辺り唯一の繁華街の明かりが見えた。
余りに何もなさ過ぎて味気ない風景だった。夜で周囲が見えないから尚更だ。むしろこの特徴の無さこそがこの町の特徴、などと嘯きたくもなる。けれど、こうして夜道に佇んでみれば、ココは確かにそうなのかも知れない。
やがて目的の信号機のある丁字路まで辿り着いた。
けれど僕は途方に暮れていた。出た場所がまるで見慣れぬ場所だったからだ。
右を見ても左を見ても、自分が見知った道では無い。本来なら此処は眩い位の街灯がずらりと立ち並ぶ、割と広い二車線の道路のはず。
なのに今目の前に拡がっている光景はまるで違う。電柱のオマケみたいな暗い路地灯と、古い日本家屋が建ち並ぶ微妙にうねった路地だけだった。
何処をどう見ても見慣れたあの道じゃなかった。こんなせせこましい、クルマが通り抜けるにも苦労するような道なんかじゃない。
夜だから何処かで曲がる道を間違えた?
いやいやそんな莫迦な。ただの一本道をただ真っ直ぐ歩いてきただけだ。
それに目印にしていた信号機だってただ一つだったのだし、見間違えようもない。可能性があるとすれば、ずっと歩いてきた道そのものを、最初から勘違いしていたというコトくらいだろうか。
スマホを取り出して現在地を確かめようとしたのだが、どういう訳だが充電切れをおこしていた。昼休みにフル充電して、しかも午後は殆ど使ってなかったというのに。
ひょっとしてバッテリーが弱ってるのだろうか。それとも接触の方かな。これ、まだ買ってから一年も経っていないのだけれども。何にせよ、いま役に立たなければ同じだ。
真上を見上げて信号機の下に書かれた地名に目を凝らす。しかし暗がりのせいで今ひとつハッキリ見えなかった。
此処はいったい何処なんだ?
焦れて不安な気持ちとは裏腹に、信号機はまるきり素知らぬ顔で、赤だの青だのと定期的に点灯を繰り返しているばかり。
なんか腹立つ。途方に暮れて、そしてちょっと悩んだ。
どうしたものか。
道に迷ったのなら知っている道まで引き返すのが常識。
でも一時間かけて来た道を戻るのも面白く無かった。だから僕は少し迷ったあと、取敢えずこのまま、目に前にある見知らぬ路地を進むことにしたのである。
通い慣れた道のりでもふとした弾みで、曲がり角や道順を間違えるなんて事はよくあることだ。夜ならば尚更のこと。
この界隈は問答無用なまでにただっ広いけれど、決して入り組んだ町じゃない。歩いて行けばそのうち何とかなるんじゃなかろうか。
そう高を括っていたけれど、それは相当に甘い見通しだったらしい。いくら歩いても見知った風景や道筋には出会さないのだ。
平屋の民家や農家と思しき家の脇を通り、ぽつりぽつりと思い出したように立っている電信柱の横を抜けた。
たぶん、大通りに続くであろうと思しき道順を選んでいる、そのつもりだ。なのにどんなに曲がり角を覗き込んでも、出来る限り大きな道を選んで進んでみても、記憶にある風景には出会さない。
小さな川にかかった石橋を越え、古びた駐車禁止の標識を通り過ぎ、くねくねと曲がりくねった道は幾つもの枝道とつながっていた。
暗さのせいだろうか。それとも家が肩を寄せて建ち並んでいるせいだろうか。視界が遮られてまるで遠くを見渡せない。先程までの田んぼの中の一本道とはまるで違う。
これはいったいどういうコトなんだろう。
だいたいこの辺りに、こんな密集した住宅地があったかな。
記憶が正しければ団地用に宅地化の進んだ以外の土地は、田畑の中に一軒家が点在するだけのまばらな風景ではなかったか。
確かに昼と夜とでは町の表情はガラリと違う。
けれどもいま僕が迷い込んでいる、この、古い日本家屋がズラリと軒を連ねるような場所などまるで記憶にない。まるで古い映画で見る昭和の町並にでも迷い込んだような錯覚があった。
どうやら本格的に迷ったらしい。
ジワリと焦りが滲んだ。そして意地を張り、タクシーを呼ぼうとした那須山さんを振り切って店を出たことを後悔し始めてもいた。
もうアルコールもすっかり抜けてしまって正直挫けそうだ。何が悲しくて食事を奢ってもらったその帰りに、こんな遭難じみた目に遭っているのか。
そもそも自分の住んでいる町で、帰り道を見失うだなんてどういうコトなんだろう。
ヤツならもっと上手くやるのだろうな。
不意に先程の村瀬の顔が思い浮かんで思わず歯噛みした。
そもそもヤツのコミュ力なら、きっとこんな失態まず在り得ないに違いない。食事会も軽いノリで難なく終わらせている。
ひょっとするともうタクシーにでも乗って自分の部屋に帰り着き、TVでも見ながらくつろいで居たりするのかも知れない。
今この状況は僕だからこそ呼び込んでしまった失態。身から出たサビというヤツに違いなかった。
とはいえ、どうしたもんだろう。
このままどうしようも無くなったら、見知らぬ家のドアを叩いてその住民に道を聞くしかない。
まったく昔話に出てくる道に迷った旅人じゃあるまいし。
そんな事にでもなったらホントに恥さらしも良いところだ。
そもそも此処は本当に現代の日本なんだろうか。真っ当な灯りどころか通りすがるクルマすら無いなんて。
不意に何処かで「にい」と猫の鳴く声が聞こえた。
はっとして振り返れば、塀の上に一匹の猫が居てコチラを見下ろしていた。微動だにしない。街灯の仄かな灯りの下で瞬きもせず、金色の目が僕の目を覗き込んでいた。
あまりにジッとしているものだから、まるで真性リアルな猫のぬいぐるみの様にも見えた。
「なぁ。駅前の通りに出るにはどう行けば良い?知っていたら教えて欲しいんだけど」
返事が在るとは思って居なかった。でも、途端にプイとそっぽを向いて塀の向こう側に消えてしまうと少なからずガッカリした。もうちょっと愛想があっても良さそうなのに。
そう思うと同時に、猫に何を期待しているのだと苦笑した。迷い過ぎて抜け出せる目処もなく、ちょっと疲れてきているのかも知れなかった。
何処かに自分の見知った目印は見当たらないものかと、微かな希望にすがりつつ足を進めた。でも見えるのは、曲がり角を越える都度に出現する電信柱と、それにしがみつくしょぼくれた街灯ばかりだった。
幾つもの落胆を数え、それでも隣接する家の軒先や塀の隙間から、遠くにチラホラと見え隠れするあのパチンコ店のネオンが見える。それを目印に歩き続けた。
かなり遠回りになるけれど、パチンコ店にたどり着ければその界隈は見知った道だ。
そしてあの信号機のある丁字路から素直に引き返せば良かったなと、今更ながらの後悔があった。そうすれば少なくとも、こんな先行きの見えない迷子にならずには済んだものを。そんな愚かな自分に腹が立った。
そんなやり場の無い苦い憤りを噛みしめていると、ふと、何かが聞えたような気がして足を止めた。
しんとした夜気の中から耳の奥をくすぐる音がする。
じっとして耳を澄ましてみると、それは途切れがちなピアノの音だと分った。遠くから響いてくるからなのか、それとも風向きのせいなのか。音節が切れ切れで、何を弾いているのか判然としない。
だがそれでもちょっとだけホッとした。真っ暗な中、延々と路地を歩く自分の足音しか聞えなくて些か物寂しかったからだ。
生のピアノの音色なんて久方ぶりだ。そう言えば最近は音楽すらろくに聞いていない。
デジタル音源ばかりだが、それでも学生の頃は本棚の片隅で埃を被っている円盤媒体のものも頻繁に再生させていた。
クラシックやジャズは言わずもなが。ロックやポップスすらご無沙汰で、日常的に耳にするのは切り出し機の切断音や様々な工作機械の騒音、そして現場に出て来ては喚くいつもご機嫌ナナメな課長の怒鳴り声くらいのものだった。
こんな夜中にピアノの練習か。周囲の住民から苦情は出ないのだろうかなどと、他人事ながら心配になった。以前、部屋で吹いていたオーボエを「ウルサイ、へたくそ」と罵られたからだ。
ドアをがんがんと叩かれて何事かと開けたら隣の部屋の住人が立っていて、開口一番に噛み付かれた。
何というかブルドッグによく似た顔つきの男性だった。背は僕よりも頭一つ分低かったものの口角泡飛ばし目の色を変えて鼻息荒く、正に怒髪天をつくといった形相だった。
しかも至近距離だったので顔に唾がかかった。
男性はひとしきり吠えた後、こんな夜中に騒音迷惑だもう二度とするな、今日は許してやるが今度やったら警察呼ぶぞ、と捨て台詞を残して去って行った。
ハッキリ言って圧倒された。
窓も閉め切っていたし時間だって二〇時より前だった。深夜と言うにはほど遠かろう。
ご家庭で普通に見るTVのニュースやドラマよりは大きいかも知れないが、いまのブルドッグな人が複数人と部屋呑みで騒いでいるよりは余程に静かだと断言できた。
そんな時は大抵零時過ぎても笑い声が絶えない。
耳栓しないと寝付けないし。壁とか意味も無くドンされるし。
そして聞きたくない人には、クラシックですらただの騒音だと思い知らされたのだ。
夜陰の奥から聞えて来る微かなピアノの音色は繊細な演奏だった。
フレーズが断続的にしか聞えないけれど綺麗な音だと思った。弾いているのは誰なのか。いったいどの家なのだろうと音に釣られて、特徴の無い小さな四つ角に踏み込んだ。
その刹那である。
「そちら側には入らない方が良いですよ」
不意に真後ろから声を掛けられて、思わず飛び上がりそうになった。
ほんの一瞬前まで誰の気配も無かったからだ。しかも声はほぼ耳元で近いにも程がある。パーソナルスペースなんてガン無視、あと一歩離れていても何も問題無いだろうに。
「道にでも迷ったのですか」
「あ、はい。この辺りは来たことがなくて」
返事をしながら振り返り、そして今度は絶句した。
僕の背後に立っていたのは背の高い女性だった。
だがしかし、その顔には目鼻が付いていなかったのである。




