6-5 格子戸の扉をゆっくりと閉めた
我に返ってみれば、目の前には街路樹のある歩道が延びているダケだった。
「……あ、あれ?」
僕はただ呆然と夕暮れの歩道に独り立ち竦んで居た。
どうした、何故こんな所で立ち止まっている。いったい何をしているんだ。
あの女性も居ないのに。
「え……あの女性って、誰のことだったっけ」
目の前に何かが在ったような。誰かが直ぐ側に居たような。そんな不確かな何かが在ったのだが、周囲を見回しても人の気配なんて何処にも無かった。
おでこに手を当てて軽く頭を振ってみる。
いやいや、いったい何を勘違いしているんだろう。
一人でピアノのチャリティリサイタルを聴きに行ったその帰り道ではなかったか。何故に女性と同伴などと、そんな益体もない錯覚をしたのか。
彼女どころか知り合いの女性すら殆ど居ないというのに。
ひょっとして演奏会場に入る前に何組も見た、カップルにでもあてられて居たのだろうか。欲求不満なのか、それともやっかみなのか。だとしたらなんていじましい。
でも気持ちの上にわだかまる、この物悲しい喪失感は何なのだろう。
忘れては為らないモノを忘れてしまったような気がする。
失ってはならない大切なものだったような気がする。
だのにそれが何なのかまるで思い出せないのだ。
胸の中に感情の残滓みたいなものが在ったのだけれども、それもゆっくりと掠れて消えてゆく感触が在った。唐突に目が覚めて、つい今しがたまで見ていた夢が霧散していく様に似ていた。
もう一度頭を振って大きな溜息をひとつ。
まったくどうかしている。
生まれて初めてのリサイタルを聞き終えて、どうも酷く感傷的に為っているらしい。
いやそれよりも、やはり僕は音楽が好きなのだと身に染みた。そして大花田のグランドピアノを、あれをどうにかして残せないものかと強い感情が湧き上がっていた。あの美しい音色がスクラップというのはあまりにも哀しすぎる。
演奏前に奏者も「このピアノの最後の舞台」と少し濁したコメントを差し挟んでいたが、先行きは関係者から聞き及んでいたに違いない。だからこそより強く情感溢れる演奏になり、アンコールの時に少し涙ぐんでいたのではないか。
……穿ち過ぎだろうか。
取敢えず帰ろう。帰ってあのピアノを救える算段を考えよう。
何か、何か手は在る筈だ。
そう思ってスマホで帰りの列車の時間を確かめた。
「あ、あれ?」
スマホの画面が濡れている。またポタリと滴が落ちてきた。雨かと思った。
いや違う。僕自身が泣いているのだ。それと気付くのに少しの時間が必要だった。
何故?
理由は分からないけれど込み上げてくる何かがあって、それをどうしても鎮めることが出来ないのだ。
涙は次から次へと溢れて来た。
それを拭うのに、ただただ必死で、僕はしばらくその場から動くことが出来なかった。
季節が巡り、また春がやって来た。
日本は四季のある国と言われているけれど、ものの本に寄れば五季とも呼ばれるのだそうだ。春と夏との間にある梅雨とその前後がそれに該当するらしい。それで数えれば一節七十五日という訳だ。
はて、僕はこんな知識何処から拾ったんだろう。ググったにしても、どうして知ろうと思ったのか。
まぁいい。そんな事よりも今日は、朝っぱらからこの土地に在るナントカ云う池の脇にある神社に出向き、春の例祭とやらに参加しなければならない。会社の者が誰か、毎年必ず出席しなければならないのだそうだ。
まったく、なんでこの土地の者でもない者が顔を出さなきゃならないのか。しょうもない不文律だ。折角の休日だっていうのに。下駄さんがよく「田舎によくある厄介ごとの一つ」と愚痴をこぼしていたけれど、まさか自分がその災厄を被ることになるとは思ってもみなかった。
「まぁこの工場に勤める者が皆通る道ですよ。ボクも何回か参加しました。嫌がるよりも、話のネタが増えた程度に考えて置いた方が健全でしょう」
渡邉さんはそんなコトを言って笑っていたが、神事なんていう退屈で辛気くさい催しなんてネタにすら成らないんじゃなかろうか。
池の畔にある神社に赴くと既に結構な数の人々が集まっていて、「大花田木工所です」と手水舎の脇にある受付で社名の入った封筒を手渡した。
企業による町内会祭事献金の受け渡し目録だ。これで取敢えず出すモノは出したから、これで終わりという訳にはいかないんだろうか。いかないんだろうな、やっぱり。
神主はまだ来て居らず、法被を着た祭り役の人達が境内のアチコチをウロウロしていた。みな年寄りばかりだった。
仕事は手慣れてはいるのだろうが、よちよちふらふらと歩く様を見ていると危なっかしくてコッチが落ち着かない。
神社は拝殿が開放されていて、その奥にはご神体を祀っていると思しき祠が見えた。いやご本殿と言うべきだろうか。あの中に下駄さんが見せてもらったと言って居たご神体が在るのだろう。
「きみ、初めて見る子だね」
ぼんやりと拝殿の奥を眺めていたら、不意に声を掛けられてビックリした。振り返って見るとヨイヨイのおじいちゃんがニコニコした顔でコチラを見上げていた。
「御祭神さまを拝みたくはないかね。拝みたいだろう。うんうんそうだろう、特別に見せてあげるよ。こんな時でないと見れないものねえ」
何も言って居ないのに勝手に決め込んで、コッチに来なさいと強引に招かれた後、拝殿に上がった。きっと自分達が奉っている神様を見せたくて仕方がないに違いない。
二礼二拍一礼の後に何かムニャムニャ言って、祠の観音開き格子戸を開けて見せてくれた。
「あ、あれ?」
ご神体が思って居たのと全然違っていたのだ。
てっきり木彫りか石造りの像的なものかと思って居たのに、祠の中には極彩色の絵がかかっていて、其処には様々な動物や異形と思しき人じゃ無い何某か、よく分らないモノ達が無数に描かれていたのである。
「春の礼祭の間にしかこうしてご開帳されないんだよ。普段は木箱に入れて、この奥の保管庫に安置されているんだ。でないと直ぐに痛んでしまうからね。
うん?ああ違うよ、曼荼羅は仏教や密教のものだね。此処では化身の写し絵と呼ばれているよ」
何でもこの町に古くから住む、土地神やモノノケ、人に化ける動物たち、彼らの祭典の様子を描いたものなのだとか。
日本は八百万の神々といって、トイレにまで神性がある。動物は勿論、妖怪とか呼ばれる者たちも元を辿れば他の土地の神様だったのかもしれない。そんな具合に説明してくれた。
つまり、あやかしや神さまの境界なんてあやふや、ひいては野生の獣もまた然り。そういう事らしい。
「真ん中に描かれてるのっぺらぼうの女性が見えるかい。おかっぱの子だよ。コレが縁呑みさまだ」
「縁呑み?」
「この町は大昔、飢饉や疫病などで村を捨てた人達が集まって作った村、隠れ里がその発祥と言われているんだ。体裁が悪いから大っぴらにはなっていないけどね。
此処で浮世からの縁を切った人達を、丸ごと全部受け容れて下さった方だよ。縁を丸ごと呑み込むから縁呑みさま。苦しい俗世との縁を切る方でもあるから、縁切り、あるいは切り縁さまとも呼ばれているね」
「へ、へぇ」
きりえん、きりえんか。何処かで聞いたような……
小首を傾げてみたがちょっと思い当たらなかった。
よく見てみると、絵には実に様々なモノが描かれていた。
どんぶり飯を抱えて箸で食べてる大きな猫とか、犬や狸が着物を着て琵琶や三味線を弾いたりしていた。木琴を叩いている女性の姿の狐も居る。
足元には町を俯瞰したと思しき見取り図もあって、真ん中に高くそびえる塔の上にはとらしまの猫も居た。
随分と賑やかな写し絵だ。
「この塔の上の猫は見回り猫だ。町に迷い込んできた者を縁呑みさまの元へ案内する役目だよ。その一方この猫が迷い人を招いているのだ、という話もある。だったら見回りというより招き猫だね」
なるほど、それぞれ子細に説明してもらうと意外に面白い。
でもただ一つ、その中で異彩を放つものがあった。宙に白い円盤が浮かんでいて、四角い土偶のような人形が光りに包まれて吸い上げられている絵だ。いや舞い降りている最中かも知れない。
まるでUFOから降り立つ宇宙人のロボットの様にも見える。
「コレは何を描いているんでしょう」
「ん~、ああこれか。何だろうね、宇宙人に連れ去られるロボットかも知れないね。あぶだくしょんとかいうヤツだ」
「そんな訳ないでしょう」
「ははは。一九世紀の常陸国に虚船、UFOが流れ着いて宇宙人みたいな人が乗っていたという絵と記録も残って居るくらいだからねぇ。あながち間違いじゃないのかも知れないよ。
案外行き場が無くなって空からやって来たヒトが、この町に住み着いちゃったのかも知れないなぁ」
「この絵をご神体として祀っていらっしゃる方が、そんなこと仰って良いんですか」
「縁呑みさまは大らかな方なので大丈夫だよ」
そう言ってまたかっかっか、と笑った。でもこの絵は面白いと思ったので、写真を撮って良いですかと尋ねたら「駄目だ」と断られた。残念。
でも確かに、ご神体にカメラを向けるのは失礼に当たるのかも知れない。
「去年のご神体と比べられたら困るからね」
ええと、それはどういう意味なのかな。
ひょっとして毎年違う絵を飾っているのだろうか。でもソレだと祀る意味が無くなってしまうような。それとも毎年お札を交換するような感覚なのだろうか。
でもその割にはこの絵、随分と年期の入った色合いの紙と筆跡に見えた。
ホント、どういう意味なんだろう。
重ねて尋ねてみても意味ありげに微笑むだけで、それ以上は答えてくれなかった。
「おや、この人物はキミによく似ているね」
指し示された所には洋服っぽい服装の男性が描かれていた。よく見れば黒い縦笛を吹いている。
……似ているだろうか?小さくてよく分らないけれど。
「ひょっとしてキミは楽器をしているのかな。もしかして縦笛とか」
「あ、その。オーボエという管楽器を吹きます。でも何故?」
「笛や太鼓の音は魔性や穢れを祓うと云われているからね。特に笛は重要なんだ。神事には欠かせないよ」
いや、僕の疑問の説明になっていませんけれど。
「キミが今回祭りに参加するのも偶然じゃない。何某かの縁ということだよ。いやわたしもそうではないかなと思ってキミに声を掛けたんだ」
「訳分りません」
「まぁ深く考えなくてもいいよ。年寄りの世迷い言だと思って忘れて下さい」
そう言ってよいよいのおじいちゃんはまたからからと笑い、僕の疑問を一昨日に放り出して再び格子戸の扉をゆっくりと閉めた。




