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寄り道ありマス  作者: 九木十郎
その6
32/35

6-4 忽然と姿を消してしまった

 観客席は思ったよりも埋まっていて、僕と彼女は少し端よりの席に腰を下ろした。


「ピアノリサイタルは初めてです」


「実は僕もです」


 左隣の席に座ったキリエさんはワザとなのか、それとも無意識なのか。肘掛けに置いた右肘をぴたりと僕の腕にすり寄せていた。お陰で緊張して身じろぎすら出来やしない。


 開始のアナウンスがあり、照明が落とされて薄暗くなると奏者紹介が行なわれ、当人が壇上に現われて軽く一礼した。そして短い歓迎と感謝の言葉の後に演奏が始まった。名前は寡聞にして知らなかったが、パンフレットによると日本や欧州の有名なピアノコンクールで、何度も賞をもらっている奏者らしい。


 難しい事は分らない。でも綺麗な音色だということは分った。そしてこのリサイタルに来る前に、他のピアノの音色も聞いておけば良かったと少なからぬ後悔をした。そうしていれば、この大花田のグランドピアノと音の違いを感じることが出来ただろうに。


 今の僕に分るのは、中学生の時に弾いていた伴奏のピアノが実に味気ない音だったと気付けたくらいだ。きっと奏者の腕も多分にあるんだろう。それでも涼やかな音色のピアノだと思った。


 奏者の指が軽やかに白い鍵盤の上で踊る。


 スポットライトの中に照らされた輝く漆黒の筐体きょうたいが、まぶしいほどにきらびやかに見えた。音がホールに響き耳や肌をめる度に、ゾクゾクとした言い様のない感情が背筋から頭の天辺まで這い上がってきた。


 楽器の王の精緻な機構が卓越した奏者の技量によって滑らかに稼働し、スコアの上に刻まれた音楽を現実のものへと昇華してゆく。

 作曲家の意図はスコアによって奏者に伝えられ、奏者は己の感性と技量をもってピアノへと伝え、そしてピアノは己に与えられたその全能力を駆使してそれら全てに応え続ける。


 叩かれた鍵盤がダンパーを押し上げ、レペティションレバーを介してハンマーが弦を叩く。響板が音を反射増幅し、畳み掛けられ連なる音の快楽けらくが、此処ここに集った全ての者達を満ち満たすのだ。


 繰り返し繰り返し、弦は淀みなく振動を続けて絡み合った音を音楽として、聞く者の鼓膜と脳髄を震わせる。


 強く、弱く、激しく、密やかに。

 緩急静動(よど)みなく、僅かな余韻すら余さず神経を研ぎ澄まし、隅々まで心配られた音階がこの広いホールの空気をるがせてゆく。


 奏者とピアノが一体となって大きな音のうねりと波を伴い、全身を包み込み揺るがし続ける。


 使い込まれ熟成し、繊細な個性にまで昇り詰めた音色を内封した筐体。その実力を惜しみなく発揮し、ホールに詰める人々を音の快感で翻弄ほんろうする。


 これが、これこそがこの年を経た楽器の本来の姿なのだ。


 奏者とスコアと共に、聞く者の心身を震わせる。それがこの世に生まれ出た存在意義なのだ。


 世界の中心はいまステージの上に在る。


 気が付けば涙が一筋流れていた。


 いつの間に僕はこんなにも涙もろくなったのか。昔はもっとこらえ性があったような気がする。恥ずかしかったのでキリエさんに気取られないよう、そっと指先で目元をぬぐった。


 このピアノにとって最後のリサイタル。

 その寂寥せきりょう感が流れる音色以上に寂しげに聞こえた。




 全てのプログラムが終わってカーテンコールの拍手の後にホールを出ると、陽は思った以上に傾いていた。


 少しお茶でもしようかと思ったのだが市民ホール内の喫茶店は満杯で、仕方がないと外に出た。でも近くに適当な店も見当たらなかったので、術無くそのまま二人並んで駅に向った。


「よいリサイタルでした。まぁ初めて生で聞いた者の感想ですので説得力など無いのですが」


「それを言うのなら僕も一緒です」


 在り来たりな感想を口にした後、二言三言言葉を交して会話が途切れた。彼女の方が頭一つ分高いので凸凹な二人組だろう。それでも端から見たら彼氏と彼女に見られるのだろうか。

 多分そうなんだろうなと益体やくたいもない思いをもてあそんでいた。


 話の穂を思いつけなくてどうしたものかと少し焦れた。

 口下手で、異性相手に萎縮する自分が歯がゆかった。

 もう幾度いくどとなく会って知らない仲でもないというのに、自分から誘ったデート(デートだよな?)で、言いようのない気まずさを抱えながら口籠もっている。こんな不器用な自分が嫌だった。


 でも本当は話したい事が在った。取り留めのないこの場限りの雑談などではなく、あの食堂でおゴンさんと交した怪しげな話のことだ。


「何か訊きたいことは在りませんか」


「そんな風に見えますか」


「見えます。訊きたいのだけれども、訊いて良いのかどうかが分らない。戸惑って口籠もっているようにです」


「相変わらず僕の考えて居ることは見え見えなんですね」


「分かり易いですから」


「溜息しか漏れてきません」


「では今回は訊かずに済ませますか」


 物言いは軽いが何処か確かめるようなニュアンスがあった。だから少しだけ迷ってしまい、思わず素直な感情の方を優先させてしまったのだ。


「また会えます?」


「啓介さんが望むのなら会えますよ」


 その返事に思わずほっとして、次が在るのならその時でも良いかとチラリと考えた。

 でもその一方で、次というのは何時なのだろうとざわめく不安があったものだから、「今度の週末はどうでしょうか」と訊いてみたのだ。


「残念ながらそれは無理ですね」


「都合が悪いですか」


「いえ。啓介さんがいま望んでいるのが、わたしとの再会では無いからです」


「そんなコトないです。僕はもう一度、あなたに会いたいです」


 思わず咄嗟とっさに出た言葉だった。

 会ってもっとお喋りとか、食事とか、或いは今日みたいにまたリサイタルとか。

 デ、デートとか……


 もっとずっと一緒に居たいと言いたかった。これからもあなたと二人で毎日を過ごしてみたい。ちょっとヘンだけれどもどこかホッとする、あの町並みをまた並んで歩きたい。そう伝えたかった。


 でも恥ずかしくて言葉にならなかった。言いたい言葉が口の中で渦を巻き、出口を見失ってくぐもるダケだった。

 あるいは分かりやすい僕のコトだ。思って居るコトは全部筒抜けに為っているのかも知れないけれど。


「嬉しいです。でも、無理なのです。わたしの役目はわたしと縁を結び、まどったヒトをあの町に案内することですので。

 今の日常に強い未練やこだわり、やってみたい事が在るヒトは『日々のえにし』を解く事が出来ません。あくまで疲れてかすれた人、周囲へのこだわりや興味が薄まった人のみです。それがルールですから」


えにし、ルール?」


「はい。そしてそろそろ時間切れです。来週末はもうアウトですよ」


「待って下さい。まさか、それじゃあもう会えないって事ですか?」


 だがその問いかけへの直接の答えはなく、「失敗しました」と苦笑するような笑みが返ってくるだけだった。


「このデート、お受けするのではありませんでした。お陰でわたしの方に未練がつのってしまいましたから」


「僕は嫌です。キリエさんと会えなくなるのは」


「啓介さんは大丈夫ですよ。リサイタルの最中涙をこぼしたのは、曲への感動というよりも、ホールで奏でられていたピアノを惜しむ気持ちからでしょう?あのピアノを残したい、このまま失ってしまうのは心苦しいと感じたからでしょう?」


 泣いていたのを見られたと恥じ入る気持ちよりも、ピンポイントで感情を言い当てられたことの方がショックだった。


 あのピアノの事情は彼女にも伝えて居なかったというのに。


「おゴンさんの楽団でコチラ側に気持ちが大きく揺れたと思って居たのですが、よもやまさか逆方向に揺れていたとは。残念至極です。

 でも啓介さん自身にはきっと良いことなのでしょう。乾いてひび割れていた意欲や好奇心が戻って来たのですから」


「僕は何も戻って来てません」


「気付いていないだけです。でも直ぐに分りますよ」


「時間切れって何なんです、誰が決めたんですか。要は僕とキリエさんの問題でしょう?ひょっとして、もう会いたくないと言うんですか」


「いいえ、決して。むしろまた啓介さんとふと道端で出会って、アチコチのお店で食事をして暮らしていきたいと思ってますよ。巡っていないお店やメニューは、まだまだ沢山ありますからね」


「だったら、お互いが望んでいるんだったら、時間切れとかそんなの関係無いじゃないですか」


「遠い昔からの規範なのです。人の噂も七十五日。五季の一節が過ぎ、日常の理が一巡してしまう時間です。心に残ることが出来る限界と、そう言い換えた方が良いかも知れませんね」


 くらりと目眩めまいがしたような気がした。

 突然、目の前の彼女の印象がぼやけていくような錯覚があった。

 見知った文字が急に無意味な図形に見えてきて、読むことが叶わなくなる様に似ていた。


「人は別れても縁が消えて無くなる訳ではありません。途切れるのはわたしがこの糸切り歯でかみ切ったときくらいのものです。あるいは食べてしまって、お腹に納めてしまった後くらいのものです」


「なに訳の分らないこと言ってるんです。止めて下さいよ、不吉なこと言わないで下さい」


「何時か何処どこか、何某かのタイミングで再び顔を合わすことも在るでしょう。さよならバイバイよ、再び会うときまでの遠い約束、といったおもむきですね」


「縁起でもない」


「デート楽しかったです」


「待って下さい」


 だが彼女は、にっと笑ったダケだった。


「またいつかご縁はつながりますよ。それでは、ごきげんよう啓介さん。お身体を大切に」


 希薄になった彼女の印象は更に薄くなって、その姿すらもかすれ始めていた。「待って」と伸ばした手は何もつかむことはなく、ただ虚空をかいたダケだった。

 もう一度彼女の名前を呼んだ。


 だが今しがた声にしたはずの名前すらも忘れてしまって、二度目を呼ぶことは叶わなかった。


 かき消えてしまったからだ。

 ほんの一瞬前まで、確かに、確かに憶えていたはずだったのに。


「消えるな」と藻掻もがいた。

 

「行かないで」と声を荒げた。


 でも返事なんて返って来なかった。


 透けて行く寂しげな笑みが在るだけだ。


 彼女の全てが失せて行く。

 目の前からも。自分の中からも。


 淡い雲が空に霧散してゆくかのように。


 払暁ふつぎょうの闇がやがて朝日を浴びて、足元の影に身を潜めるかのように


 そしてあの女性は、忽然こつぜんと姿を消してしまったのである。

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