5-5 ピアノリサイタルに興味はないですか
おゴンさんの云う件の場所は町の外れだった。
日本家屋を改装した喫茶店で、ドアの所には「本日貸し切り」の札が掛かっていた。
呼び鈴を押すとくぐもった返事が聞こえ、出てきたのは動物の面を被った小太りの男性だった。お面には小さく丸い耳と目の周りに黒い隈取りがあった。
ひょっとしてタヌキだろうか。
「ああ、申し訳ありません。本日は貸し切りの予約が入っておりまして」
「いえ、客ではなくておゴンさんからお招きを頂いた者です」
そう言ってもらった名刺を取り出して見せた。
「おや、それではあなたが光島さん?お話は伺っていますよ」
タヌキの面を被った男性は、「どうぞ」とドアを開けて迎え入れてくれた。
「そちらの方も彼女からの紹介で?」
「いえ、わたしは啓介さんの付き添いです」
僕の後ろに控えていたキリエさんはペコリと軽く頭を垂れた。男性は「そうでしたか」と軽く頷いて、僕と共に中へと誘ってくれた。
「すいません、急に押しかけてしまって」
「いえいえ、仲間内だけの集まりですからお気兼ねなく。そちらの女性の方も」
「キリエと言います」
案内された店内はテーブルや椅子が片付けられていて、思いの外にがらんとした広さがあった。壁際にアップライトピアノが在り、数脚の椅子と大きな弦楽器のケースが置かれていた。
そして僕ら三人以外は誰も居なかった。
「他のメンバーも直に集まって来ますよ。あと、そのケースはひょっとして」
「あ、はい。僕のオーボエです。おゴンさんが聞いてみたいと仰っていたので」
「そうでしたか、そうでしたか。いや、楽しみです」
「お邪魔じゃないですか?」
「とんでもありません。大歓迎ですよ」
新たに椅子を二つ出してもらって僕とキリエさんは腰を下ろした。待つこと暫し。一人二人とドアを開けてやって来る人達は、どういう訳だかみんな動物のお面を被っていた。
三人目はおゴンさんで、「あら、いらっしゃい」と喜色を滲ませた声で僕に会釈をし、「何故あなたが此処に」と不本意そうな声でキリエさんに声を掛けた。
「啓介さんの付き添いです。不埒な輩に悪戯されないよう付いて来ました」
「アナタの方が余程にそうだと思うけれど。まぁ、いいわ。ゆっくりしてらしてね」
どうやらこの二人は旧知らしい。でも何だろ、二人の間に漂うこの奇妙な雰囲気は。何処かで似たようなシチュエーションが在ったな、と少し考えてはたと気付いた。
パーティとかで皿の上に残った最後の料理を誰が取るのか、手を出したくとも出せず、互いに様子を伺っている様に似ているのだ。
楽団は四人でワンチーム。そして楽器はアップライトピアノとコントラバス、そしてアコースティックギターが二本だ。管楽器を捜していたとおゴンさんは言っていたが、確かにこのメンバーでは弦楽器しか居ない。
練習曲はジャズとクラシック、そしてポップスだった。
四人とも上手い、というか演奏し慣れている感じだ。プロ並みと言うには憚られるだろうけれど、メリハリあるし安定していて滑らかさがあった。
「ひょっとして、捜していたのはサックスだったんじゃないですか?或いはトランペットとか」
「まぁ確かにこのメンツならジャズって感じよね」
「わたし的にはフォークを目指していたのですけどね」
「ウッドベース弾いててソレはないだろう」
「コントラバスがフォークで何が悪いんです。何度も言わせないで下さい」
「喧嘩するなよ。それよりもキミ、光島さんだったかな。良ければオーボエを聞かせてくれないか」
「おお、彼はオーボエか」
「此処で管楽器なんて初めてです」
「実は楽しみにしていたのよ」
キツネのお面にタヌキのお面、そしてアコギの二人は柴犬とハスキー犬だろうか。それぞれのお面がそれぞれ話ながら僕に演奏を求めてきた。
個人的に演奏を求められるだなんて、どれ位ぶりだろう。
持って来たスコアの中から一番演奏し慣れているものを選び、一曲演じた。おおぉ、と感心したような声と皆からの拍手を受けて「上手いな」と言われた。ただの社交辞令なのだろうけれど素直に嬉しかった。
「他にどんなものが出来る?」
柴犬のお面の人に問われて、さっき聞かせてもらったポップスなら出来ると答えた。ならば皆で合せてみようと言われて、おゴンさんと同じピアノパートを受け、五人で演奏した。
本当に久しぶりでアチコチ音がズレてしまったけれど、「悪くない合奏だった」と皆で笑った。
なんだかずっと忘れていたモノが、少しだけ戻って来たような気がした。
喫茶店の外に出ると夜風が気持ち良かった。このところ、日中は暑いほどだけれど、夜はまだ涼しい。でも今はそれが火照った頬を冷ましてくれて、悪くない気分だった。
別れ際におゴンさんが「またいらっしゃい」と言ってくれて、タヌキのお面の男性が「今度はフォークもやろう」とスコアを幾つか手渡してくれた。練習する場所が無い、と言うと「譜面に目を通すだけでも違うだろう」と半ば押し付けられるようにして受け取った。
「案内、ありがとうございます。でもただ聞いているダケで良かったのですか?」
並んで歩くキリエさんに問いかけてみた。彼女の言う対価は先程の演奏を見学したいと、ただそれだけだったからだ。僕らが演奏している最中、ずっと店の片隅にある椅子に座ってじっと静かに見学しているだけだったからだ。
「楽しませてもらいました。あんな間近で生の演奏を聴くというのは、滅多に無い体験ですからね」
そうだろうか。付いて来たいと言った手前、気を遣った物言いをしているダケではないのか。
退屈していたのではないか、彼女を置いてけぼりにして僕たち五人が楽しんでいるだけだったのでは、と少し申し訳ない気持ちが在った。
「本当ですよ。それに初めて啓介さんの笑顔を見られただけでも、来た甲斐が在りました」
「え、初めて?」
「はい。とても良いお顔で笑うのですね。眼福でした」
「そう、ですか。そんなにイイものじゃないと思いますけど」
「演奏、お上手なのですね」
「僕はただの素人です」
謙遜ではなく心からそう思って居たし、それと同時に今まで彼女の前で笑った事も無かったのかと、少なからぬショックが在った。
確かに言われてみれば困ったり感心したりはしたけれど、楽しくて笑った事は無かったような気がする。
いやそもそも、最近僕が人前で声を上げて笑った事なんてあっただろうか?咄嗟に思い出すことも出来ないなんて、どれだけ余裕のない毎日だったんだろう。
見上げた夜空は星が非道くキレイだった。周囲に明るい光源が無いから夜空が本当に真っ黒で、散りばめられた星明かりが眩しくって、まるで目に刺さるかのようだ。
「また良い顔をしてますね」
キリエさんの声に左隣を振り返って見ると、にっと笑ういつもの顔が在った。
肩が触れ合うほどの距離だ。
「そんな緩んだ顔してました?」
「良い顔と云ったのです、言葉通りの意味ですよ。初めて会った時には生気が無く、虚ろで、死んだ魚のような目をしていました」
「随分ですね」
「タダの例えですよ。それに今は違うのですからそれで良いではありませんか」
「弄られているダケのような気がします」
「では悪い気分なのですか?」
「いや、そんなことは無いですけど」
僕が口籠もるとキリエさんも薄く笑んで黙ってしまい、しばらくの間何の会話も無く静かな夜道を並んで歩いた。
若い女性と肩を並べて歩くだなんて、最初の頃は気恥ずかしさがあったけれども今はちょっと違う。
何と言うか、ほっとする。
彼女と居ると、アレコレ気負わないで済む柔らかな気楽さが在った。
家族で散歩している感覚に近いけれど、それよりももっと熱を帯びた感情が在った。
ずっと一緒に歩いて居たいという、決して小さくない願いが在った。時間が許すのならずっとずっとこのままで、などと、青臭い中学生のような祈りをだ。
そんな自分に驚きもする。と同時に、それのドコが悪いのかと開き直る様にもだ。
成長しきれていない自分に恥じ入るよりも、今は遠くに置いて来てしまったあの頃の気持ちに浸って居たかった。
こんな気分どれ位ぶりだろう。
そう言えば、学生時代に仲の良かった連中とまるで連絡をとっていない事に気が付いた。あの頃は毎日のように顔を突き合せ、暇が在れば部屋に転がり込み莫迦話をしていたというのに。
レポートの提出期限を明日に控えて皆で集まり、ひいひい言いながら徹夜で仕上げていたのも今となっては懐かしい記憶だった。前期後期の試験の度に、目の下に隈を作って一夜漬けに明け暮れていた。
そして試験明けの打ち上げもだ。
これからどうしようか、卒業したらどうなるのか。アレコレ夢想して、叶いもしないと分っているのに、これからの「もしも」の話に花を咲かせていた。
趣味のこと、気になって居る異性のこと。些細な日々の不満も在れば、腹を抱えて笑い転げる迂闊な失敗談なども在った。
息の詰まる毎日に追われてすっかり忘れていた。今この瞬間になって、逆にその事が驚きだった。
オーボエを吹くのだってそうだ。夢中で真摯で、あれ程熱心だったというのに。
あの頃の時間が、そして隣に居て当たり前の連中がどれくらい貴重で、どれくらい日々を支えてくれていたのか。今更ながらに思い知った気分だった。
卒業して直ぐの頃まで頻繁に交していたメッセも、今はもうかなり疎遠になってしまった。
あいつらは今何をやっているのだろう。部屋に戻ったら冷やかしがてら、季節の挨拶でも打ってみるか。
「小腹が空いていませんか」
不意に声を掛けられて我に返った。確かに、数時間前にオムライスを食べたばかりだというのに、何故かちょっと胃袋の辺りが物足りない。
そうですねと応えたら「この先に知っているお店が在ります」と言われた。
そして小さなうどん屋に入った。僕は掻き揚げうどんを頼み、彼女は何故かきつねうどんと稲荷寿司、そして冷酒を頼んだ。おゴンさんのお面に触発されたのだろうか。
「うどんとお稲荷さんに冷酒ですか」
「意外と合うのですよ」
まぁ嗜好は人それぞれ。その口しかない彼女の貌に、次々に食べ物や飲み物が消えて行くのは見ていて不思議な気分だった。
見るのは初めてではないけれど、今夜はその食べる姿が妙に艶めかしかった。
そして気が付くと、ピアノリサイタルに興味はないですかと誘っていた。




