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寄り道ありマス  作者: 九木十郎
その5
26/35

5-3 遠い遠い別世界の話だった

 とぼとぼと暗くなった路地を歩いた。


 電柱の街灯がぽつりぽつりと灯り始めていたが、不案内な町を行くにはいささか心許ない。自分の靴音がやけに大きく聞える。相変わらず無人の路地だった。

 通りすがる影すら見かけず、正にぽつねんと孤独だけがたたずむ風景だった。


 平日の夕刻ならば買い物を済ませた主婦や、会社帰りのサラリーマンくらい居てもよさそうなものだというのに。


「こういう状況に慣れてしまったというのも何だかなぁ」


 少し前にも似たような感想を口にしたような気がする。でもあの時にはキリエさんが居たし、また彼女に着いて歩くだけ良かったから気分も楽だった。

 ちょっと前にはとらしまの猫も一緒だった。しかし今は本当に一人なのである。寂しいと感じるのは贅沢なのだろうか。


 ふと、何かが聞えた。


 気になって足を止め、耳を澄ませた。風の具合だろうか。聞えては途切れ、途切れては聞こえを繰り返している。じっと聞く内にそれはピアノの音色だということに気が付いた。


 そう言えば、初めてキリエさんと出会った夜も聞えていたっけ。


 ひょっとして、あの時と同じ人が弾いているのだろうか。


 何とはなしにかれるものがあって、ピアノの音色のする方向に足を向けた。すると何処かで見たような路地に入った。前に通った道なのだろうか。それとも似て非なるまったく別の道なのか。


 この辺りは似たような町並み家並みで、とんと区別が付かない。歩く毎にピアノの音は近付いてきて、やがて二階建ての家の前で足を止めた。二階の窓から明かりと音が漏れている。

 窓は開け放しで、半分だけ閉められたカーテンが風になびいていた。


 これは何という曲だろう。

 僕の知らない曲であるのは確かだ。クラシックだろうと見当はつくのだけれどそれ以上は分らない。

 でも、上手いなと思った。耳に染みる音階が心地よかった。ボンヤリと聞き入っていると不意に音は止み、開け放しの窓に人影が現われた。

 窓を閉めようとしたらしい。


 だが何というか、その人物はキツネのお面を被っていた。お祭りの動画や、古い日本映画の一幕などでたまに見かけるカラフルなあれだ。

 逆光だったが、髪は長いので女性であろうという見当はついた。


 お面の彼女は僕を見つけ、「あら」と小さく声をあげた。


「我が家に何か御用かしら」


「あ、いえ、すみません。ピアノの音が聞えたもので」


うるさかった?」


「違います、通りがかっただけです。でもつい聞き入っちゃって」


「そう。何だか嬉しいこと言ってくれるわね。あなたクラシックに興味があるの?それともピアノを弾いてるのかしら」


「いえ、僕はオーボエで」


「まあ、素敵ね。あなた少し時間はある?」


 少しならと答えたら「ちょっとそこで待っていてね」と言い残すと、窓が閉められ彼女の姿は消えた。そして少しの間を置いてから玄関のドアが開けられた。そして出てきた彼女から名刺を一枚手渡された。

 見ると「けだもの楽団」と書かれている。


「町の小さな楽団よ。音楽の好きな人達があつまったアマチュアの集団。実は管楽器の奏者を捜していてね。週末いつも集まって練習しているのだけれども、良かったらのぞきに来てみない?」


 時間はいつも今ぐらいで、場所は名刺に書かれている場所なのだという。正直ちょっと心が揺れた。でもしかし、この住所はこの町内のものではなかろうか。


 確かに最初の頃とは違って今は紙の地図もある。だから目的地に辿たどり着くことは出来るだろう。だが巻き込まれ気味に訪れるというのと、望んだとき望んだ場所に訪れるというのとでは雲泥の差があった。

 行ってみたいと思っても、約束の刻限に行ける保証は何処にもないのである。


「固く考えなくても結構よ。みんなただ趣味の延長で集まっているだけに過ぎないのだし。気が向いたらで構わないわ。出来ればその時、あなたのオーボエも聴かせてくれたら嬉しいわね」


 お面の向こう側に微笑む気配があって、「時間が在れば行ってみます」と返事をした。そして別れぎわに彼女は自己紹介をした。


「わたしのことは皆、おゴンさんと呼ぶわ」


 よろしく、と言いスカートの端を指先でつままむと軽く膝を折って会釈をした。随分と芝居がかっている。そんなお辞儀の仕方を現実で見たのは初めてだった。


「僕は光島です」


「そう。じゃあ、来週末会えることを期待して。またね、光島くん」


 ひょっとしてこれも、僕が望んだからこその出会いなのだろうか。


 ぼんやりとそんなことを思った。


 彼女と別れ、帰り道は少し迷ったがすぐに見たことのある道に出た。猫食堂のある通りだった。営業中らしくのれんが風にはためき、明るい磨りガラスの向こう側からはさわさわとした人の気配が漏れ聞こえてきた。


 今から部屋に戻って夕食を作るのも面倒だ。

 入るかどうか少し迷った後に、思い切って引き戸を開けた。「いらしゃいマセ」と妙なイントネーションの声が出迎え、大勢の猫にまじってカウンターの奥の席に座っているキリエさんが見えた。


 手招きされたので隣に座ると、彼女は僕の肩の辺りに顔を近づけ「けもの臭いです」と言われた。

 しかし猫だらけの食堂で、けもの臭いと言われても返答に困る。ラーメン屋でラーメンの匂いがすると言うのと同じなのではなかろうか。


 そもそもキリエさんに鼻は無いというのに、いったい何処で嗅いでいるのやら。


「浮気しましたね」


 そう言ってイタズラっぽく笑うが、何とはなしにまったく笑っていないようなニュアンスがあった。カツとじ定食を頼んで、黙って平らげると「ごちそうさま」と言って店を出た。

 そして出る直前に、


「来週のこの時間は空けておいて下さい」


 と耳打ちされた。

 否応なしにうなずく。有無を言わさぬ無言の圧力を感じたからだ。

 そんな訳で今週末は、物理的にも精神的にもイベント盛りだくさんの休日だったのである。




 いつも通りのいささ憂鬱ゆううつでどたばたとした一週間が過ぎていった。


 相も変わらぬ村瀬の独りよがりな物言いにイラっと来たり、安全第一と宣いながら操業第一主義の課長に腹を立てながらも大きな問題は無かったから、たぶん平穏と言って差し支えないと思う。

 トラブルが無ければそれが何よりだ。


 仕事を終えて更衣室に入ると那須山さんが着替えていた。「お前も上がりか」と特徴的な眉毛をハの字に緩めて疲れた笑みを浮かべていた。


「今週は平和だったな」


「先週がおかしかったんです」


「まあ、そうだな。それはそれとして知ってるか。村瀬のヤツ、結婚するらしいぞ」


「え、本当ですか」


「驚いたか、オレも驚いた。相手は少し前から付き合っていた専門学校の生徒らしくてな。いわゆるデキ婚らしい。式は挙げなくて籍だけ入れると言っていたな」


「いつの話なんです」


「昨日、事務所の方に村瀬が配偶者届けがどうのと相談に来て、それで皆の知るところとなった。相手はまだ未成年なのだそうだ。なので、しばらくアイツも身辺ごたごたと忙しくなるだろう」


「そう……でしょうね」


「式は挙げなくても会社としてはご祝儀を出すらしい。オレもそれに乗っかるが、お前はどうする。懐具合も厳しいだろうし、無理する必要は無いが」


 取敢とりあえず出しますと言ったら、会社とは別に社員一同という形で集金しているのでソコへ一緒に入れてもらえばいいと言われた。


「しかし二十歳そこそこで家庭を持つとはな。あいつも大変だ」


「村瀬は既に二一です」


「似たようなもんだ。光島は村瀬よりも四つ上だったよな。お前はそういうことを考えてないのか。あるいは予定とか」


「いえ、まったく全然」


「だろうな、普通はそうだよな。昨今では三十路で初婚というのも珍しくないし、かと思えば村瀬みたいなヤツも居る。人それぞれとはいえ、あいつはちと急ぎすぎだよな。

 いや、予定外と言った方が正しいのかもしれんが」


 何とも返事のしようがなくて苦笑で返した。那須山さんはくつくつと小さく笑っている。そして建て付けの悪いロッカーの扉をばしんと閉めると、「お疲れ」と言って出ていった。


「お疲れさんです」


 独りになって着替えを続け、そして程なくして僕も更衣室から出た。


 タイムカードを押して職札をひっくり返そうとすると、村瀬の職札がおもて面を向けたままなのに気が付いた。現場には居なかったから事務所にでも入り浸っているのだろうか。

 籍を入れるだの何だので、会社に提出する書類でも作っているのかも知れない。


 面倒なものだな。結婚なんて当人同士だけで片が付くと思っていたのに。しかもアイツに子供が生まれる、父親になるだなんて。


 村瀬にとってはいま目の前に在る切羽詰まった現実なのだろうけれど、僕にとっては完全に埒外らちがいの非現実。

 夢想だに出来ない、遠い遠い別世界の話だった。

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